殺意の二重奏

木立 花音

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第五章「持たざるものたち」

【嫌悪の対象でしかなかった】

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 戸部千沙にとって、姉の千歳は嫌悪の象徴でしかなかった。
 別に、千歳が性格の悪い人間だったわけではない。むしろ逆だ。姉は完璧だった。誰にでも優しく、スタイルも良く、勤勉で努力家。眩しいほどに輝く存在だった。
 かつて千沙はその輝きに憧れ、姉の口調を真似し、勉学やスポーツに励んだ。姉のようになりたいと願い、姉と一緒にさまざまな習い事に打ち込んだ。幸い両親は教育熱心だったから、そんな環境は整っていた。だが、どれも空回りに終わる。多才で何事もそつなくこなす千歳に比べ、千沙は飽きっぽく、才能にも恵まれていなかった。人に対して優しく振る舞おうとしても、根が小心者ゆえについ意地を張ってしまう。 
 自分が惨めで情けない存在に思えてきて、だからこそ、千沙は姉を嫌うしかなかったのだ。 
 書道でも、ピアノでも、ダンスでも、何をやっても姉が上だった。努力を重ねても姉に追いつけない千沙に、母はいつも決まり文句のようにこう言った。「まあ、千沙だから仕方ないわね」と。
 その言葉には失望と侮蔑、憐れみ、そして乾いた諦めが混じっていた。それを聞くたび千沙の心は鋭く抉られた。何をしても無意味だと突きつけられている気がしたのだ。  
 今思えば信じがたいが、かつて千沙は姉のことが心から好きだった。「姉のようになりたい」と純粋に願っていた。もし「私は私」と割り切れていたなら、こんな風に姉を嫌わずに済んだのかもしれない。だが、その「もし」は永遠に叶わない仮定でしかなかった。  
「千沙は絵が上手だね」と褒めてくれたのは父だった。
「そうかな」と千沙は自分の絵をじっと見つめた。「そうだよ」と父は優しく笑い、頭を撫でてくれた。その瞬間だけは、心が温かくなった。  
「私も絵を描いてみようかな」
 その、姉の何気ない一言が、新たな不幸の幕開けとなる。  
 千歳と千沙は、姉妹にしては似ていなかった。
 千歳は陽光のような美人だった。輝く笑顔は誰もを惹きつけ、いつも温かな光を放っている。気さくで親しみやすく、まるで誰とでも旧友のように語り合える。同級生や後輩は彼女を慕い、告白の手紙は絶えず届いた。心の底では、愛されることに慣れながらも、その重みをそっと恐れていた。
 対して、千沙は静かな影のようだった。顔立ちは整っているが特徴に乏しく、記憶に残りにくい。内向的で、言葉を飲み込む癖があり、姉の輝きの傍らでいつも一歩退いていた。人目から逃れるように生きながら、心の奥では姉の光に憧れ、届かない自分を噛みしめていた。
「お姉ちゃんのほうが可愛い」と同級生に言われたことがあった。千沙はうっかりその言葉を千歳に伝えてしまった。
「お姉ちゃんはずるい」と拗ねる千沙を、千歳はぎゅっと抱きしめた。「ごめんね。でも、千沙には私にない魅力がちゃんとあるよ」と申し訳なさそうに笑って言ったのだ。  
 千歳は千沙にいろんなことを教えてくれた。可愛い服をたくさん買ってくれたりもした。でも、その優しさが逆に千沙を惨めにさせた。姉が優しければ優しいほど、自分の劣等感がむき出しになるようだった。  
 天才、神童――大人たちが姉に惜しみない賛辞を贈る。そのたび千歳は謙遜した。
「私は運がいいだけだよ」と。
 運がいいだけで、そんなに勝てるものなのか。千沙には理解できない。
 運をつかむためにどんな努力をすればいいのか。千沙にはまるで見当もつかなかった。
 千沙が中学二年生のとき、彼女は入沢龍人と出会った。
 彼は千歳の高校の同級生で、受験勉強のために千歳が家に招いたのだ。長身でがっしりした体格、くっきりした目鼻立ちの美形。姉の友人なのだから、頭も良いに違いない。こんな友だちがいる姉が羨ましい、と千沙は妬んだ。きっと二人は特別な絆で結ばれているのだろう、と。  
 千沙の胸に、憧れに似た淡い感情が芽生えた。
 けれど、その想いはすぐに心の奥に押し込めた。姉の友人にこんな気持ちを抱くのは分不相応だと悟ったからだ。二人があまりにもお似合いだったから、嫉妬よりも諦めが先に立った。私には高望みなど許されない、と。  
 やがて千沙は高校生になり、大学進学で家を出た千歳とは別々の道を歩み始めた。  
 八月の猛暑が肌を焦がすある日、夏季休暇中の千歳が龍人を連れて実家に泊まりに来た。千歳が食材の買い出しに出かけると、家には千沙と龍人だけが残された。リビングのソファで千沙がテレビを眺めていると、彼が隣に腰を下ろし、さらりと言った。  
「いつも俺のこと見てるよね?」  
 否定はできなかった。これまで何度か龍人が家に来たが、千沙の視線は彼を追っていたから。  
「すみません」と千沙は咄嗟に謝った。「不快だったなら、ごめんなさい」  
「いや、謝ってほしいわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして……?」
「なんで俺のこと見るのかなって。俺ってそんなに格好いい?」
「……はい」と千沙は素直に答えた。それは偽らざる本心だった。
「そうなんだ」
 彼は少し考え込むように黙り、やがて口を開いた。「千歳が家だとどんな感じか教えてよ」
「お姉ちゃんのことですか?」
「うん。俺、千歳の話が聞きたいんだ」
 千沙は一瞬迷ったが、断る理由はないと思い昔の思い出話をした。最近の姉のことはわからないから、絵画教室に通ったことや、自分の絵が姉に及ばなかったことなど、子供の頃の話を。  
 その日、千沙は龍人と連絡先を交換した。それから時折メッセージをやり取りするようになり、やがて姉の目を盗んで密会を重ねるようになった。だが、彼が千歳の恋人だと自覚するたび、千沙の心に暗い影が落ちた。やはり姉には敵わないのだ、とどうしても思ってしまう。  
 その影を振り払うように、千沙は龍人と身体を重ねた。
 最初は痛みしかなかったが、行為が始まると快楽がそれを塗り潰した。自分の上で気持ちよさそうに喘ぐ龍人を見ても、不快ではなかった。それどころか、愛おしささえ覚えた。  
 彼が千歳の恋人だとわかっていたから、深入りしないよう自制していたつもりだった。だが、関係を重ねるうち、千沙は龍人に執着し始めた。姉が知らない彼の一面を自分だけが知っている――その優越感が、麻薬のように千沙を絡め取った。  
 こっそり逢瀬を重ねる日々が、何年か続いた。
 デート中、彼の元に別の女性からの電話がかかってくることもあった。彼が千沙や千歳以外とも関係を持っていると悟った。それでも千歳は気づかない――いや、二股、あるいはそれ以上の関係を黙認しているようでもあった。  
 おかしな二人、と千沙は思う。
 龍人が本気でないのはわかっていた。それでも千沙は満たされていた。愛があるかどうかは問題ではなかった。姉に向けられるはずの関心を自分が奪えている――その思いだけで、千沙の心は満ち足りていた。私は姉を超えたのだ、と。  
 千沙が高校三年生のとき、彼女の人生が一変する。  
 学校から帰宅すると、和室の座卓に母が突っ伏して死んでいた。  
「あ……あぁ……」
 声にならない呻きが漏れた。何が起きたのか、頭が理解を拒んだ。  
 姉と比べられ、蔑ろにされてきたと感じたこともあった。それでも母は、劣等感に苛まれる千沙の本質を見抜いてくれる数少ない理解者だった。その母を失った衝撃は、崖から突き落とされたような感覚だった。  
 そのとき、父が帰宅してくれたのは幸運だった。そうでなければ、千沙は途方に暮れていただろう。  
 こうして父との二人暮らしが始まった。なぜ父が千歳の親権を取らなかったのか不思議だったが、詮索する気力はなかった。  
 父が千歳の親権を求めなかった理由が明らかになったのは、母の三回忌の日だった。  
 大学二年生になり、千沙と龍人の関係は途絶えていた。久しぶりに実家に戻った日、物置で衝撃的なものを発見する。それは、母の遺書の一部と、亜ヒ酸が入った小瓶だった。  
 遺書を読み、千沙は言葉を失った。そこには、父と千歳に血の繋がりがないこと、そして千歳の本当の父親が入沢祥吾ではないかという推測が綴られていた。  
 自分と姉が似ていないのは、必然だったのだ。  
「なら、龍人と姉は結婚なんてできない!」 千沙は激しく憤った。  
 母の小説を出版社に紹介したのが入沢祥吾だった。彼は母の才能に目を付け、スランプに陥った時期に母と合作したらしい。アイデア出しや執筆の一部を母が担い、その事実を隠して出版されたのが『愛憎の旋律』だった。盗作疑惑が浮上するのは当然だった。  
 その縁がきっかけで、二人は男女の関係に発展したと遺書には記されていた。  
 だが、千沙には一つ腑に落ちないことがあった。  
 母が執筆の一部に関わっていたなら、彼女の作品と入沢祥吾の作品に似た部分があるはずだ。それは一行や二行ではないだろう。なのに、母の出版歴はわずか二冊で、いずれもほとんど売れていない。そんなマイナーな作品との類似に、告発者はなぜ気付いたのか――。  
 どれだけ考えても、答えは見つからなかった。  
 母は愚かだった、と千沙は思う。不用意な関係を持ったばかりか、父に浮気を勘づかれ、離婚に至ったのだろうから。  
 千沙は遺書と毒の瓶を密かに持ち出した。そして、千歳、龍人、蓮音の三人を前にして訴えた。「あなたと姉は結婚できない」と龍人に告げた。  
 だが、龍人は取り合わなかった。「そこに書かれているのは状況証拠だけだ。俺と千歳が腹違いの兄妹だと証明するには不十分だ」と。  
 兄妹であることを証明する方法はいくつかある。一般的なのはDNA鑑定による判定だ。口腔内から細胞を採取し、DNAを抽出する。腹違いの兄弟姉妹であっても、共通の親から遺伝子を受け継いでいるため、遺伝子マーカーの一致を確認できる。これで兄妹であるとわかる。
 ただし、一卵性双生児以外では、DNAは完全に同一ではない。異母兄妹の場合、共有するDNAは約25%とされる。これは全兄弟の約50%に比べると低い。そのため、鑑定結果は「異母兄妹である可能性が高い」という確率論になるのが普通だ。異性間の場合、Y染色体での比較ができないためさらに複雑さが増す。
 龍人が言う通り、可能性の域を出ないのだ。
 それから一ヶ月後、二人は――口約束ながら――婚約に踏み切った。
「信じられない」と千沙は呟いた。  

   * * *
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