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第一章:出会いの日、8月1日

民宿

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 一ヶ月ほど浄土ヶ浜に滞在したいが、まだ宿が決まっていない逢坂部が、この民宿に連れて来られたのは、ごく自然な成り行きだったのかもしれない。
 彼女の母方の実家で経営しているという民宿は、一階に厨房と家族の居住スペースがあり、二階は全て客室になっている、一日で最大五組しか泊まれない規模の小さな民宿だった。

「昔は、この地域にももっと多くの民宿があったんです。でも、時代の流れとともに、その殆どは淘汰されてしまいました。宿泊施設としての役割は、より大きな観光ホテルなどに、取って代わられてしまったんですよ」と寂し気な声で彼女が説明を加える。「ここも常連の顧客がいるんでなんとか続けられていますが、あと何年できるかは微妙でしょうね」

 彼女の祖母だという人物に挨拶をして、促されるままに宿泊の手続きを済ませると、「それでは、部屋に案内しますね」と告げて階段を登り始めた彼女のあとに続いた。

「この民宿は君の実家だと言っていたね? じゃあ、今君はここで寝泊りをしているのかい?」と木目の壁に目を向けながら訊ねてみる。
「そうですね。夏休みを利用して、母の実家に帰省中なのさ。八月の中旬くらいまで、ここの一階に滞在する予定です。両親は、私用があるとかで来られないので、私一人だけの悠々自適なホームステイライフです」

 良いでしょう? と言って彼女は笑った。

「逢坂部さんと同じで、毎日ゆっくり過ごせます」
「なるほど、そうなのか。話は変わるけど君は……」
「十九歳です」と告げながら、彼女は勢いよく振り返った。「女の子に年齢を訊こうとしたでしょう?」

 十九歳なら失礼には当たらないだろう? と思いながら逢坂部は答えた。

「その通りだ。よくわかったね」
「私、案外と感が鋭いもので。ちなみに、短大二年生ですよ。それから、母方の実家こそ宮古ですが、私の家があるのは盛岡市なんです」
「盛岡か……。じゃあ、ここからそこそこ遠いんだな」
「ええ。ところで逢坂部さんは、いつ頃まで宮古に滞在している予定なんですか?」
「今のところ、一ヶ月くらいの予定かな。君と同じく基本的に暇人なんで、具体的な日程は決めてないけどな」と皮肉めいた口調で言ってみる。
「随分と長い期間いるのですね。仕事――」

 皆まで言わせる必要もないだろうと考え、彼女の発言は途中で遮った。

「仕事なら数ヶ月前に辞めたんだ。だから今は自由の身。あるのは暇と僅かばかりの退職金だけさ」
「すいません、そうでしたか……。気障りなことを言わせてしまいましたね」
「なあに、構わないよ。仕事なら、また探せば良いだけだしな」

 確かにその通りだ。その通りなのだけれど、同時に、そこまで簡単な話でもないな、とも彼は思う。だが、彼女は俺が送ってきた人生の過程など何も知らない。だから、これ以上は何も言うまい。別に、哀れみの言葉をかけて欲しいわけでもないのだし。
 そうですよね、と納得したように彼女は頷いた。

「ところで逢坂部さんこそ、今、何歳なんですか?」
「二十五歳だ」
「え!?」

 驚いたリアクションの後に言葉は続かなかったが、彼女の顔には『嘘でしょ』と書いてあるようだった。

「失礼だな君は……。まあ俺も多少老けているという自覚はあるけどな。いったい何歳くらいだと思ってたんだ?」
「ええっと。三十路、手前かと」
「本当に失礼だ」

 二人で顔を見合わせると、大声で笑った。
『そうか。家があるのは盛岡か』と彼は内心で呟いた。逢坂部は父親の都合で、盛岡市に住んでいた時期があった。今でこそ生活の拠点はさいたま市や実家のある浦和だが、盛岡は、第二の故郷と呼んで差し支えない場所だ。こうして思うと、俺が旅行の行き先に岩手県の景勝地、浄土ヶ浜を選択したのは、むしろ必然だったのかもしれないな。
 二階の一番奥にある客室まで進み、「ここですよ」と言って彼女は立ち止まる。引き戸を開けてパチっと電気を点けると、淡いオレンジ色の光が室内に落ちた。
 そこは十畳ほどのシンプルな和室で、くつろいだ雰囲気があった。木製のテーブルと座椅子が中央に置かれ、壁は淡い乳白色。壁際には背の高い観葉植物の鉢が一つと、テレビが置いてある。
 もちろん浄土ヶ浜のような景観でこそないが、窓からは美しい海と港が一望できた。彼は窓を開け放つと、明滅を繰り返す船の灯りと、夕暮れの色がどんどん深くなっていく海をしばし眺めた。

「……海が綺麗だ」

 窓からは、こもっていた空気と入れ替わりに、ひんやりとした潮風が吹き込んでくる。

「案外と、悪くない部屋でしょう?」と伺いを立てるように言った彼女に、逢坂部は首肯した。
「ああ、悪くない物件だ」
「立地条件も、築年数も、散々の評価ですけどね」
「ははは、そんな事はないさ。港とは言え海が見えるのは最高だし、何よりも宿泊費が手ごろなのは助かる。本当に、願ったり叶ったりだよ」
「そうですか。なら、案内して良かったです」

 それでは、ゆっくりしていってくださいね。そう言葉を残すと、彼女は部屋を出て行った。
 引き戸が閉まる音を確認した後、逢坂部は畳の上に寝転がって天井を見上げる。い草の香りを感じながら……昔、盛岡に住んでいた頃の記憶に思いを馳せた。

 高崎美奈子たかさきみなこ
 中学時代、逢坂部が密かに想いを寄せていた同級生の名前だ。逢坂部が盛岡に住んでいたのは中学時代の三年間のみ。また、卒業を間近に控えた二月に引っ越しによる転校をしたため、冬休みが開けたあと、ろくに話す機会もなく彼女と別れてしまった。
 中学時代、彼は写真部に所属していた。彼が通っていた中学では、文化部の中でもより地味な印象が強い部で、運動が苦手な生徒や、内申書のために、とりあえず席だけは置いておきたい。そんな生徒らの吹き溜まりになることも往々にしてある。そんな感じの部活だった。逢坂部はどちらかというと後者の側だ。
 今でこそ写真は趣味だが、当時はまったく興味がなかった。初めてカメラに触ったのも、写真部に入ってから、というくらいには。どうせまた転校するのだし、と常々斜に構えていた彼は、積極的にクラスメイトと交流することもなかったし、部活動に打ち込むつもりもなかったから。
 美奈子と初めて会ったのは、入部してすぐの顔合わせの時。一年生の時彼女とは別クラスだったため、もし、写真部に入っていなければ、接点がないまま三年間を終えていたのではなかろうか。そう思えるほどに、彼女もまた存在感の薄い生徒だった。背中まで伸ばされた艶のある髪。整った目鼻立ち。手足は細くて身長も高めとスタイルもいい。比較的恵まれた容姿を持ちながら、必要に迫られなければ決して発言しない、大人しいを通り越してネクラと呼んで差し支えないその言動が、彼女、高崎美奈子の評価を地に落としていた。
 そんな彼女だが、カメラを被写体に向けているときだけは違った。普段、澱んで見える瞳は輝き、カメラの使い方、撮影のコツなどを訊ねると、熱を帯びたように語り続けた。美奈子の隠された一面に気付いていた生徒は、学校内でも逢坂部しかいなかったのではなかろうか?
 二人は、自然と一緒にいる時間が多くなり、次第に彼も惹かれていった。
 今思えば、恋に落ちるのも必然だった。

 ──二十五歳にもなって、再び岩手を訪れるとはな。

 運命は偶然を装いつつも、しっかりと一つの線で繋がっているのかもしれない。
 美奈子は今、どうしているのだろう? ふと、そんなことを考えるが、よもや自分のように、人生に行き詰っていることもあるまい。無口な彼女ではあったが、容姿はむしろ良かった。世の男共が放っておくはずもない。
 自嘲気味に笑うことで、彼は思考を打ち切った。
 瞼を閉じる。
 慌てて直ぐに跳ね起きる。
 荷物を詰め込んだバッグから一冊の本を取り出すと、木製テーブルの上に広げた。
 忘れて眠ってしまうところだった、と彼は思った。折角遠方まで来たのだから、この日々の出来事を日記に残しておこうと考えていたのだ。
 今日は――埼玉を出ると盛岡市を経由して、宮古市に入った。浄土ヶ浜のバス亭の待合室で、不思議な雰囲気を持つ少女と出会った。彼女の名は――

 そこまで書いたところでペンが止まる。「しまった、彼女の名前を訊くのを忘れていた」

 彼は自分の迂闊を恥じた。
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