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第一章:出会いの日、8月1日

景勝地 浄土ヶ浜

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 二人が最初に向かったのは、浄土ヶ浜の海水浴場。
 季節は八月。時刻は昼下がり。澄み渡った空のもと広がる砂浜には、多くの海水浴客の姿が窺える。色とりどりのビーチパラソルが乱立し、レジャーシートの上に寝転がる人の姿も散見された。
 溜め込んだエネルギーを発散するかの如く照り付ける太陽に目を細め、水着を持ってくるべきだったかな、と逢坂部は軽く後悔をしていた。

「こっちです。足元があまり良くないんで、気をつけてくんろ」

 靴の中に侵入してくる砂の熱さに顔を歪めながら海水浴場を抜け、続いて、砂利と岩が多い場所を進んでいった。岩がゴツゴツとしていて歩きにくいが、スニーカーを履いている彼女は、慣れた足取りで軽快に渡り歩いていく。
 やがて波打ち際まで辿り着くと、そこで一旦彼女は足を止め、目の前の岩を指差した。

「これは鷹岩。島の頂き部分が、三羽の鷹のように見えることから、こう呼ばれています。この岩の左下から海水が流入してくることで、浄土ヶ浜の水は常に循環されて、綺麗に保たれているんだとか」

 隣の岩に指先を移すと、なおも説明を続ける。

烏帽子えぼし岩です。他の岩は白いのに、この岩だけ黒いでしょう? 名前の通り烏帽子のように見えることから、そう呼ばれてるんです」
「詳しいんだな」と褒めてみると、「まあ、地元民ですから」と彼女は、幼子のようにあどけなく笑った。

 ほんのりと上気した顔で説明を続ける少女を見ながら、逢坂部は思った。ポロシャツとチノパン姿の俺と、白いワンピースを着た少女とが、肩を並べて佇んでいる姿を見て、周りの人たちは恋人同士だとでも思うのだろうか、と。
 そう見えたとしたなら、存外に悪い気分ではない。
 つい先日、数年寄り添った恋人と別れたばかりだというのに、随分と現金なものだな、と辟易しながらも。
 甘美な妄想はさておき、確かに美しい景観だ。波の穏やかな静かな海。群青の海に林立する真っ白な岩。岩の頂きに群生する常緑樹。『さながら極楽浄土の如し』とは、よく言ったものだ。思い出したようにカメラを向け、撮影を繰り返している彼に、彼女は提案した。

「撮影が目的なのであれば、もっとオススメの絶景スポットがあるのさ。行ってみますか?」
「そうなのかい? ぜひ、お願いするよ」と彼が答えると、彼女はにんまりと笑った。「かしこまりました」

 今来た海水浴場を戻り、足場の悪い岩肌の地形を抜け、展望台へと至る道を上り始める。「結構、しんどいんで、けっぱれ(頑張れ)」という少女の声に励まされながら、坂道を上って行く。
 上っている途中で、少女は意図的にコースを逸れる。 下草をかき分けて、立ち木の間をぬうようにして進んでいく。生えている草はそれなりに丈があって歩きにくい。「ここは入っても大丈夫な場所なのか?」と不安そうに声を上げると、「あ」と彼女が振り返った。

「大丈夫ですよ。へーき、へーき。獣道みたいなもんですが、ちゃんと歩けますから。それに、上に行ったら驚きますよー。展望台の上から見る景色とは、一風違ったものをおがめますから」
「本当だろうな」
「取って置きの場所があるのさ」

 彼女は口元に指を添え、悪戯っ子のように口角を歪めた。
 深まっていく不安を飲み干して、彼は黙って従うことに決めた。

 足場の良くない土の上を歩き続けること数分。辿り着いた場所から見える景観は、それまでの苦労も吹き飛ぶほどの絶景だった。足の痛みも忘れて逢坂部は感嘆の声を上げると、夢中でシャッターを切った。この暑さは耐えがたいが、今日の天候が良かったことを素直に感謝しよう。
 視界の端に見える展望台より海に近いこの場所は、林の中に不思議と開けた空間を保っており、景勝地の全景を容易に見渡すことが出来る。
 眼下に広がるのはエメラルドグリーンに輝く水面。白い砂浜。白い岩肌。海は穏やかながらも時折立つ白波が、景観に彩りを添える。下から見る景色とは、また一味も二味も違うものだった。

「凄い……」

 安っぽい台詞だとは感じてしまうが、他に思いつく褒め言葉が無かった。
「気に入って頂けましたか?」という彼女の声に、彼は無心で頷いた。「ああ、最高だ」

「うるはしの、海のビロード昆布らは、寂光じゃっこうのはまに、敷かれひかりぬ」
「なんだい、それは?」

 彼女が脈絡なく詠んだ唄に、逢坂部は不思議そうな表情を浮かべる。

「1917年にこの地を訪れた宮沢賢治が、昆布の干場として使われた礫浜の風景を詠んだと言われる歌よ」
「へえ、よく知っているね」
「ええ。でもね、『浄土ヶ浜』の地名をわざわざ『寂光のはま』に言い換えてあるのは、当時の賢治がすでに法華経に熱中していて、家の宗派であった浄土真宗に対して激しく反撥はんぱつしていたことによる、とも言われてるのよ」
「家の宗派に対する皮肉が籠められているのか。そんな風に解釈すると、なんだか複雑な心境にもなるね」
「そうですね。でも結局、家のことも確かに大事かもしれないけれど、一番大切なことは『自分の心の持ち様なんだ』って言われてるような気がしませんか? 私もそうですが……逢坂部さんも色々と大変なことがあるでしょう? 生きていく上では」
「まあ、それはね」

 ──心の持ち様か。

 なかなか痛いところを突かれたな、と逢坂部は思った。
 数ヶ月前に自分が仕事を辞めた経緯を辿っていくと、自身の弱さや未熟さが絡んでいることは否定できない。
 無論、他の部分に要因を見出すことも出来る。
 心の病のこと。
 事故の事。
 それらに伴う職場の人間関係と、心情の変化。
 だがそれでも、最終的に思考が行き着く最大の部分は、自身の過失からくる心神喪失によるものだ。結局のところ、誰しも自分が置かれている現状を受け入れ、向き合っていく他ないのだ。

 彼女が言う通り、”心の持ち様”でしかない。辛い過去を思い出して、少しだけ心が沈んだ。

「辛いこともあると思いますが、負けちゃダメですよ」
「え?」内心を見透かしたような彼女の台詞に、彼の口から息とも声ともつかぬ音がもれる。
「たくさん苦労をしてきたんですよね?」
「いや、だから」
「もしかして、家族ともあまり上手くいっていないとか?」

 どうしてそれを、と迂闊にも言いかけて、慌てて彼は口を噤んだ。

「いったい君は、何の話をしているんだい……?」
「これからも、たくさん苦労すると思います。辛いこともあると思います。でもきっと、逢坂部さんなら大丈夫ですよ」

 顔を向けると、彼女はこちらを真っ直ぐ見据えていた。真摯な瞳が向けられていることに、彼の戸惑いが益々濃く深くなる。
 すると彼女は「うふふ」と照れくさそうに笑い、そっと瞳を伏せた。

「人生というものは、良いことばかりは続きません。時には波風も立ちますし、人との付き合いもそうです。周囲に居るのは味方ばかりじゃありません。ネガティブな囁き声も、聞こえてくることでしょう。それでも頑張って、前を向いて生きていくしかないんですよ」

 伝えたいのは、そういう事です、と言って彼女は破顔した。

「益々意味がわからないよ」

 誤魔化すように、逃げるように彼は告げたが、彼女の指摘にその胸中は、小波のように揺れていた。

「なんてね。冗談ですよ」と彼女の眉の端が下がる。「カマをかけてみただけでしたが、あながち間違ってもいなかったようですね? だって、眉間に酷いしわが寄ってますもん。それは、思い悩んでる人の仕草です」
「え?」再び間抜けな声を漏らしながら、逢坂部は顔に手を触れた。俺はそんなに酷い顔をしていたんだろうか? 「すまんね。渋い表情を作ってしまうのは、俺の癖みたいなものなんだ」
「その癖。気をつけた方がいいですよ。笑顔、笑顔」

 彼女は笑いながら顔を背けると、水平線の向こう側を見通すように視線を向けた。
 長めの髪が、突然吹いた風に舞う。風に飛ばされないよう麦藁帽子むぎわらぼうしを片手で押さえた彼女の横顔が、シルエットとなって青い空に浮かび上がる。綺麗な二重瞼では決してないものの、力強い光を宿している瞳だ、と彼は思った。
 細く通った鼻筋。
 季節はずれの雪を連想させる白い肌に、整った輪郭線。そこに収まる綺麗な瞳。
 こうして眺めてみると、彼女はなかなかの美人かもしれない。途端に走り出した鼓動を宥めつつ、逢坂部はこっそりと彼女の横顔をファインダーに納めた。
 直後に彼女がこちらを向いたので、慌てたように視線を逸らした。動揺した顔を悟られるのが恥ずかしくて、気まずそうに再びカメラを覗きこむ。

「逢坂部さん」
 不意に声を掛けられ、彼の心臓が大きく跳ねた。「な、なんだい?」
「私に──恋をしてはいけませんよ」

 思わずはっと息を呑んだ。と考えてしまったことすらも、お見通しなのだろうか? そうじゃないとするならば、彼女が何を言わんとしているのか、全く理解できなかった。

「それは、どういう――意味だい?」
「私たちは、一夏の恋を謳歌する存在。たとえどんなに惹かれあっても、行く末には必ず別れが訪れます。だから、私たちは惹かれ合うべきではないのです。これは――警告ですよ」

 突然なにを言い出すんだ? と逢坂部は呆気に取られた。その口ぶりが真剣じゃなかったら、一笑に付したいところだった。一方、呆然としている彼の様子を見て取ると、彼女はくすくすと笑った。

「うふふふ、冗談ですってば」

 不意に湧き上がりそうになった感情すら見透かされたように感じると、彼はただ頷くことしかできなかった。ああ、そうだな──と。


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