こうもりのねがいごと

宇井

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『そこな蝙蝠よ』

 老成した男性の穏やかな声がする。
 コウは蝙蝠ではあるけれど今は人の姿だ、その呼び掛けが自分に向けられているとは思わなかった。

『んん? そこな翼の破れた蝙蝠よ。見た目のとおり若いとみたが違うのか。もしや耄碌《もうろく》して耳が聞こえぬのか?』
「あ、僕ですか。いえ、聞こえています」

 そこまで特定されようやくコウは自分が呼ばれていると確信できて返事をした。

 それにしても……ここって……

 コウには人の姿で崖から飛び出した記憶がある。間違いない、だってそれはほんの数秒前のできごとだ。
 しかしコウが感じているのは、地面や木に叩きつけられた痛みではない。方向感のないふわふわとした感覚だ。
 まばゆい光だけで視界はゼロに近い。なのに視覚を奪われ何も見えない恐怖感は薄い。
 体は宙に飛び出し落下を感じた瞬間、まるでそのままのポーズで静止してしまった感じだ。
 蝙蝠《こうもり》と言われたが、コウの姿は人間のままだ。普通は自ら名乗るか変態しなければ属性はわからないはずだ。それでも声の主にはコウの蝙蝠姿が見えるらしい。

 えっと……体は、動く。

 左右に広げていた両手を戻し、それから足を時間をかけながら真っ直ぐに戻した。これで直立している状態になる。
 足元は何かを踏んでいる手応えがないのに、コウの体は落下せず不安定にぐらぐら揺れる。
 
『わしの作った膜の中におる故、落ちはせぬ。楽にせい』
「膜、ですか……あ、ありがとうございます……」

 膜を張れるってことは、蜘蛛《くも》……?

 自分の重さを支えられるほどの膜を作ることができる蜘蛛がいるのかと、コウは不思議に思う。
 しかしどうやら自分はつかの間助けられているらしい。
 声はコウの前から聞こえてくる。見えないけれど少し離れた場所にその人はいるのだろう。

 えっと……

 倒れてしまわないように膝を折り、腰を降ろしてようやく安定する。しかしやはり蜘蛛の糸の上に乗っている感触はなかった。
 コウの知る蜘蛛の巣は網目があり触ると絡みついてくるのだが、これはまったく別物に思える。
 もしも蜘蛛ではないのなら、実はもう既に死んでいるのかもしれない。
 となると、これは死んだ後の儀式のようなものだろうか。
 だったら自分は神様とお話しているのだろうか。
 コウは静かに混乱する。
 
『呼び止めてすまないな。名を聞いてもいいだろうか?』
「はい。名前はコウ・エルです。年は十七歳。男です。蝙蝠です。家族はいません……あ、聞かれていないことまで答えてしまいました……注意されたことがあるんです、僕は一に対して十を返す時があると……すみません」

 コウは肩をすくめる。

『いや、謝る必要はない。そうだな、コウは喋ることにあまり慣れていない。だからそうなってしまうのではないか?』
「はい、その通りです。人と、スムーズに会話ができるようになったのは、最近のことです。敬語もようやく覚えました。たまに息継ぎのタイミングがわからなくて、苦しくなります。あとは、声の出し方が人とは違うのか、夜には咽が痛くなります」
『しかし、お喋りは嫌いではないようだ。敬語も上手に使えておる』
「ありがとうございます。喋るのは、多分そうです。本当は好きなのです」

 男の言う通り、コウは最近になって敬語を覚え、あまり機会はないが使うようにしている。今では何とか形になっている、と思う。

『突然ではあるがな、コウ。その命、わしに預けてはみぬか?』
「あずける? 命というのは、取り出して人に預けることができるのですか?」
『ふむ、言い方が悪かったようだ。命というのは取り出してホイホイと誰かに渡すことはできぬ。わしが言いたいのは、この人生をもう一度やり直してみないと言う誘いだ。決して悪い話ではないぞ』
「やり直し……生まれ変わり?」

 本当にそんなことが可能なのだろうか。どうやったらそんなことが出来るのか。一度死んだら可能なのか。それは痛いのだろうか。
 痛みを想像してしまいコウの顔が歪む。
 機械から垂れる油が麻袋を焦がす音を思い出したのだ。

『すこし考えを暴走させるのは待ってもらうか。やり直しとは言ったが、コウの体も心もそのままだ。わしは神ではない故、まったく新しい体もやれぬし、だいそれた願いは叶えてやれぬ……たとえば世界征服とかな』

 自分の言った事が面白かったようで、声の主は少し笑った。

『コウはまったくこの世に未練がない訳ではあるまい。自分の置かれた環境が変わるのであれば、幾らでもやり直したい気持ちはあるのだろう』
「はい、すすんでここへ飛んだ訳じゃないです。だけど、もうこの世に未練はないから、これでようやく楽になれるとも思いました。でも、追い詰められて、どうしようもなくて、飛び込んだのは本当です」
『そうだよの。だからすくって声をかけたのだ。そうだな……コウには遠まわしの言い方をせず、そのままを伝えるのだ一番なんだろう……』

 声の主は少し笑って言う。

『コウに頼みたいのは、わしの大切な人のことだ。その人が最近わがままを言ってな、全然かわいくないのだ。彼の注文は難しい。しかしそれに合致する者をすぐに見つけてしまったのだから、これはいい意趣返しと言うもの。すぐにコウを送り込めばそれは驚くだろうて』

 楽しそうにむふむふと鼻から息を吐く。もうほとんど独り言だ。

『わしの勘に狂いはないと言い切れるのはな、この前に拾った鼠《ねずみ》の娘にいい男をあてがえることができからじゃ。わしには縁を結ぶ力まで出てきたのかもしれん。最強だな。うっほっほ』

 声の主の鼻息はコウの前髪を揺らすから思わず目を閉じた。
 こんなに勢いのある鼻息をかけられたのは初めてのことだ。声の主はかなり大きな体を持つ人に違いない。

『話がそれたな……つまり、この下で暮らすお人の世話を、コウにお願いしたいのだ』
「お世話。つまり使用人、世話係ですね」
『ああ、最初はそう思ってもらっていい。おはようからおやすみまでの世話だ。少々不愛想な所がある主と思うが、悪い人間ではない。慣れると意外とかわいい所があることに気付くだろう』
「では痛くされたりはしないのですね? 心も体も」
『いたぶって楽しむ趣味はない。どちらかといえば入れ込んでデロデロに甘やかすタイプではないかというのがわしの見立てだ』
「ん? でろでろ? とはどのようなものでしょう」

 声の主の使う言葉は難しい。その意味の片りんもつかめない。

『ふうむ、デロデロとは蜂蜜壺の中に押し込まれて、頭から足先まで蕩けさせられる意味』
「僕は蜂蜜の漬物にされるのですか」
『ああ、いや、物理的な話ではない。そうだな、コウには比喩は通じないのであったな。簡単に言うとまあ、なんだ……優しく大事にされると思っていればいい』
「優しいならいいです。優しい人が一番です。優しいは好きです」
『うむうむ、めいっぱい優しくしてもらうといい。食事も寝床も保証。緑あふれる空気の綺麗な保養地で男一人の面倒を見る。やることはたったそれだけ』
「でも、そんないい条件のお仕事なら、僕より相応しい人がいて、やりたい人も沢山いるのではないすか?」

 コウは痛む肩を撫でる。
 うまい話にすぐにのってこない自信なさげなコウに、声の主はあきれた顔をみせる。

『そのような性格では、コウはいいように使われるだけだったのではないのか。もう少し我がままに、図々しくあらねば生きにくいであろう』
「えっと……すみ、ません」

 コウは小さくなるしかない。
 図々しく、とはどうすれば身につくのだろう。普通の人は自然にそれをやってのけると言うが、やはりやり方を学ばなければ会得できない。
 自分がそれを吸収できる日が限りなく遠い気がした。
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