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その日コウは今月の給金分の三枚を受け取り、お城の裏の森へ向かっていた。
一枚は手元に取っておいて、どうしても空腹が我慢できなくなった時に街で食料を買うために使う。
残りも寝床である物置においておけば便利だけど、また誰かに取られはたまらないから面倒だけど隠すのだ。
滅多に人が来ないような奥の奥で、小さな麻袋に入れた給金を木の根元に埋める。
土は固くて冷たくて、コウのあかぎれのある指先からは少し赤が滲んだ。土をはらって、かじかんだ手の平にはぁと息を当てる。
上下に厚手のウールを着ているけれど、外套なんて持っていないから足元や指先の末端から冷え、やがて体の芯まで凍ってしまいそうになる。
寒さから奥歯がガチガチと音を立て始めたので、早く工場へ帰った方がいいだろう。
目印として石で幹に傷をつけて立ち上がった時、コウはようやく後ろに人の気配を感じた。
え……
驚きに口がぽかんと空いてしまう。
こんな場所に人がやってくるはずない、そう思い込んでいた。これまで誰かの気配も感じなかった。だから思ったより近い距離に人がいることに声もでない。
コウの後ろに立っていた男二人は不遜に笑うだけで、何一つ言葉を発しない。コウがいつ気付くのかと、ずっと無防備な背中をニヤニヤとして見て待っていたのだ。
お城勤めであることがすぐにわかる服装。紺色の上下にベルトを締めて足元は長いブーツを履いている。コウや工員たちが着ている服とはまったく違う質のいいものだ。
背中がぞくりとした。
コウは悪いことが起こる予感がして、目を見開いたまま、抜けそうになる腰を立て直し慌てて走った。
お城勤めの男の目当てが金でないことはすぐにわかった。たかが小硬貨二枚欲しさにこんな場所まで来るはずがない。仮にそうであっても、目的がそれだけならばコウが去った後に掘り返せばいいだけだ。
だったら目的は他にある。
それが何であるかはわからない。
でも、怖い……
コウは必至に走っていた。その後にはコウを追いかける二人の男がいる。
本気を出せばすぐに追いつくことができるくせに、彼等は何度か後ろを振り返り距離をはかっているコウの必死の形相を楽しむように、じわじわと追い詰めていた。
たまに幹に手をかけながら、デコボコの地面に足を取られないように走る。山の斜面は徐々にきつくなっていく。コウは意識せずに町ではなく崖の突端を目指すように昇っていた。
彼らの中の一人は、最近コウの姿を見かけては笑ってくる蝙蝠だ。話しをしたことなと当然なく、接近すしてくる様子もなかった。
まえと違う……!……怖い!
ただ逃げるしかなかった。
もうどれくらい走っただろう。
コウの感覚では十分は走っている。この先にあるのは神域とされる断崖絶壁だ。
彼の住む城下町は山の中腹に広がっている。
城の正面は見晴らしがよく、眼下には木々と田園と工場、家々が見える。城の後ろは手入れのされていない森が広がっていて、その先は崖だ。
森を抜ければ落差が数百メートルの崖があり、その下から向こうは足元よりしたに雲海が広がる景色があると言われている。
崖には落下防止の策は何一つされておらず、ここから先は神の場所だといる印である石積みが対になって置かれて、朱色の縄が張られていると聞いている。
一説には昔の王族が念をこめた特別な結界だとも言われているが、結界のことも神域のことも、コウは詳しく知らない。
崖の下の神域は、この国と同じ位の大きさがあり、周囲を崖で囲まれた深い谷の部分をさしている。
崖から下には常に雲がたちこめ、下に何があるのかまったく見えない。
そこには一体なにがあるのか?
昔、翼を持つ者は崖の下に降りたとうとした。
しかし何度挑戦しても下から吹き上げる風に邪魔をされ、制御を失い下へ行くことができない。それどころか元の場所にも戻ることができなかった。
神域に踏み出したら最期、強い圧力で押し返され、別の流れに乗せられ、上空に渦をまく輪に入れられると、命が尽きるまでただ旋回し続けることになる。
元が何であったかわからぬ命が消える寸前の屍が、骨と皮になった姿をさらし幾つも不気味に飛んでいた恐ろしい光景は、歴史画として城の深くに眠っている。
四方が崖であるから、陸路での入る術がないと言われている。
つまり、誰もその谷に足を踏み入ることはできないのだ。
城の裏、そのがけ下は禁足地。
ごくたまに霧の切れまから見えるのは、こんもりと茂る木々の緑のみ。天上からは年中日の光が差し、決して雪も雨も降らぬ地。
人々はそこに人知を超えるものを想像し畏れる。
コウもその話を知っていた。人との関わりが少なくても、知らず知らずのうちに耳に入っていたのだ。
神域だから、お城の管理下だから。守り神である凶暴な獣いるから。どの話もコウにとっては怖い話だ。
しかし今の恐怖は、それを越えていた。
ただただ、追われるという恐怖から逃れたかった。
「おい、この先はやばいだろう。王族所有の禁足地だ」
「あんな迷信なんてあるわけないだろ。だから見張りだってたっていないんだろ。ジジイどもがうるさく言ってるだけだ」
「まあ、そうだな。しかしあの細い体に俺達のもんが入るかねえ?」
「ばか、入れるんだよ」
「お前鬼畜だな」
「むしゃくしゃしてる所に姿を見せる方が悪い。殺しはしないさ、長くいたぶるんだ。使い物にならなくなったら崖から落とせばいい。都合のいい場所に自分から向かってるじゃないか」
コウの後ろでそんな声がする。
殺しはしない、その言葉の意味しかコウにはわからなかった。
目を付けられてしまったのが最後、自分は死ぬ寸前までこの男たちに痛めつけられる。
コウより体が大きくで健康で、仕事もあって家族もあるのに、何の罪もないコウに、彼等はそんな罰を与えると言うのだ。
コウは今までどんなに辛くても死を選ぼうとは思わなった。痛いのは嫌いだ。そんなのは工場で浴びる油の熱だけで充分だ。だけど、この時初めて自分の死を強く意識した。
ドクドクと限界まで打っている心臓が熱く、口には血の味を感じている。靴はどこかへ飛んでいき、素足の裏の皮膚は剥けていた。
苦しい。だけど彼らに捕まるわけにはいかない。
辺りには大きな石がごろごろとし始め木の数が減る。その代わりのように背丈以上の丈夫な草が行くてを阻むように生えている。もう神域が近づいているのだ。
コウは半分が土に埋まっている石に一度足をとられたが、かろうじて転ばなかった。それがよほどそれが面白かったのか、見たか今の、ダッセーと笑い声がする。
そこからは足が折れてもいいほどに土を蹴り上げる。
手足が切れてもげてもいい、内臓がよじれて血を流してもいい、目玉が潰れてもいい。
やだやだ……絶対に捕まりたくない……!
揺れる視界に木と木を繋ぐように下がる朱色の紐が見え、それを目標に走る。
体が小さく器用に動けるコウは、腰を少し落として右へ左へと姿を隠すように進み、紐をくぐる。
と、その先は突然拓けた。
「おいっ、あいつ、どこへ消えた」
「うっ、結界のせいで先へ進めないぞ」
「おーい、どこだ。汚い蝙蝠、どこいった!」
後ろで奴らがコウを呼ぶ。
でもコウにはもう何も聞こえていない。自分が澄んだ静寂の中に土足で踏み入った気分に場違いにも一瞬高揚し、それでも足を止めずに進む。
やはりここは神域なんだ……特別な場所なんだ……
目の前には突然何もないぽっかりとした光景が広がる。
噂通り、目の前も崖下もまっしろ。
神域の真上の空だけには雲がかかっていない。鳥も飛んでいない。
太陽からの光が幾筋も崖の下へと降り注ぐ光景は、いくら目が焼かれるように痛くとも、瞬きを忘れるほど強烈だった。
白くて、綺麗……
死んでしまう前にこれほど綺麗な景色を見られてよかった。
行こう。
コウは足を踏み混んで、両手を広げて空へと駆けた。
何か大きな物へ飛び込むように、そこに受け止めてくれる何かがあるかのように。
自分を縛る何もかもから、解き放たれた気がして、深く呼吸した肺がぐっと広がる。
自分は人の姿のままで飛んでいる。翼をもたないで飛んでいる。
そして、どうしてだか泣いている。
涙の粒が頬を降りる前に、後ろへと飛んで粒が弾けていく。コウは崖から落下していた。
一枚は手元に取っておいて、どうしても空腹が我慢できなくなった時に街で食料を買うために使う。
残りも寝床である物置においておけば便利だけど、また誰かに取られはたまらないから面倒だけど隠すのだ。
滅多に人が来ないような奥の奥で、小さな麻袋に入れた給金を木の根元に埋める。
土は固くて冷たくて、コウのあかぎれのある指先からは少し赤が滲んだ。土をはらって、かじかんだ手の平にはぁと息を当てる。
上下に厚手のウールを着ているけれど、外套なんて持っていないから足元や指先の末端から冷え、やがて体の芯まで凍ってしまいそうになる。
寒さから奥歯がガチガチと音を立て始めたので、早く工場へ帰った方がいいだろう。
目印として石で幹に傷をつけて立ち上がった時、コウはようやく後ろに人の気配を感じた。
え……
驚きに口がぽかんと空いてしまう。
こんな場所に人がやってくるはずない、そう思い込んでいた。これまで誰かの気配も感じなかった。だから思ったより近い距離に人がいることに声もでない。
コウの後ろに立っていた男二人は不遜に笑うだけで、何一つ言葉を発しない。コウがいつ気付くのかと、ずっと無防備な背中をニヤニヤとして見て待っていたのだ。
お城勤めであることがすぐにわかる服装。紺色の上下にベルトを締めて足元は長いブーツを履いている。コウや工員たちが着ている服とはまったく違う質のいいものだ。
背中がぞくりとした。
コウは悪いことが起こる予感がして、目を見開いたまま、抜けそうになる腰を立て直し慌てて走った。
お城勤めの男の目当てが金でないことはすぐにわかった。たかが小硬貨二枚欲しさにこんな場所まで来るはずがない。仮にそうであっても、目的がそれだけならばコウが去った後に掘り返せばいいだけだ。
だったら目的は他にある。
それが何であるかはわからない。
でも、怖い……
コウは必至に走っていた。その後にはコウを追いかける二人の男がいる。
本気を出せばすぐに追いつくことができるくせに、彼等は何度か後ろを振り返り距離をはかっているコウの必死の形相を楽しむように、じわじわと追い詰めていた。
たまに幹に手をかけながら、デコボコの地面に足を取られないように走る。山の斜面は徐々にきつくなっていく。コウは意識せずに町ではなく崖の突端を目指すように昇っていた。
彼らの中の一人は、最近コウの姿を見かけては笑ってくる蝙蝠だ。話しをしたことなと当然なく、接近すしてくる様子もなかった。
まえと違う……!……怖い!
ただ逃げるしかなかった。
もうどれくらい走っただろう。
コウの感覚では十分は走っている。この先にあるのは神域とされる断崖絶壁だ。
彼の住む城下町は山の中腹に広がっている。
城の正面は見晴らしがよく、眼下には木々と田園と工場、家々が見える。城の後ろは手入れのされていない森が広がっていて、その先は崖だ。
森を抜ければ落差が数百メートルの崖があり、その下から向こうは足元よりしたに雲海が広がる景色があると言われている。
崖には落下防止の策は何一つされておらず、ここから先は神の場所だといる印である石積みが対になって置かれて、朱色の縄が張られていると聞いている。
一説には昔の王族が念をこめた特別な結界だとも言われているが、結界のことも神域のことも、コウは詳しく知らない。
崖の下の神域は、この国と同じ位の大きさがあり、周囲を崖で囲まれた深い谷の部分をさしている。
崖から下には常に雲がたちこめ、下に何があるのかまったく見えない。
そこには一体なにがあるのか?
昔、翼を持つ者は崖の下に降りたとうとした。
しかし何度挑戦しても下から吹き上げる風に邪魔をされ、制御を失い下へ行くことができない。それどころか元の場所にも戻ることができなかった。
神域に踏み出したら最期、強い圧力で押し返され、別の流れに乗せられ、上空に渦をまく輪に入れられると、命が尽きるまでただ旋回し続けることになる。
元が何であったかわからぬ命が消える寸前の屍が、骨と皮になった姿をさらし幾つも不気味に飛んでいた恐ろしい光景は、歴史画として城の深くに眠っている。
四方が崖であるから、陸路での入る術がないと言われている。
つまり、誰もその谷に足を踏み入ることはできないのだ。
城の裏、そのがけ下は禁足地。
ごくたまに霧の切れまから見えるのは、こんもりと茂る木々の緑のみ。天上からは年中日の光が差し、決して雪も雨も降らぬ地。
人々はそこに人知を超えるものを想像し畏れる。
コウもその話を知っていた。人との関わりが少なくても、知らず知らずのうちに耳に入っていたのだ。
神域だから、お城の管理下だから。守り神である凶暴な獣いるから。どの話もコウにとっては怖い話だ。
しかし今の恐怖は、それを越えていた。
ただただ、追われるという恐怖から逃れたかった。
「おい、この先はやばいだろう。王族所有の禁足地だ」
「あんな迷信なんてあるわけないだろ。だから見張りだってたっていないんだろ。ジジイどもがうるさく言ってるだけだ」
「まあ、そうだな。しかしあの細い体に俺達のもんが入るかねえ?」
「ばか、入れるんだよ」
「お前鬼畜だな」
「むしゃくしゃしてる所に姿を見せる方が悪い。殺しはしないさ、長くいたぶるんだ。使い物にならなくなったら崖から落とせばいい。都合のいい場所に自分から向かってるじゃないか」
コウの後ろでそんな声がする。
殺しはしない、その言葉の意味しかコウにはわからなかった。
目を付けられてしまったのが最後、自分は死ぬ寸前までこの男たちに痛めつけられる。
コウより体が大きくで健康で、仕事もあって家族もあるのに、何の罪もないコウに、彼等はそんな罰を与えると言うのだ。
コウは今までどんなに辛くても死を選ぼうとは思わなった。痛いのは嫌いだ。そんなのは工場で浴びる油の熱だけで充分だ。だけど、この時初めて自分の死を強く意識した。
ドクドクと限界まで打っている心臓が熱く、口には血の味を感じている。靴はどこかへ飛んでいき、素足の裏の皮膚は剥けていた。
苦しい。だけど彼らに捕まるわけにはいかない。
辺りには大きな石がごろごろとし始め木の数が減る。その代わりのように背丈以上の丈夫な草が行くてを阻むように生えている。もう神域が近づいているのだ。
コウは半分が土に埋まっている石に一度足をとられたが、かろうじて転ばなかった。それがよほどそれが面白かったのか、見たか今の、ダッセーと笑い声がする。
そこからは足が折れてもいいほどに土を蹴り上げる。
手足が切れてもげてもいい、内臓がよじれて血を流してもいい、目玉が潰れてもいい。
やだやだ……絶対に捕まりたくない……!
揺れる視界に木と木を繋ぐように下がる朱色の紐が見え、それを目標に走る。
体が小さく器用に動けるコウは、腰を少し落として右へ左へと姿を隠すように進み、紐をくぐる。
と、その先は突然拓けた。
「おいっ、あいつ、どこへ消えた」
「うっ、結界のせいで先へ進めないぞ」
「おーい、どこだ。汚い蝙蝠、どこいった!」
後ろで奴らがコウを呼ぶ。
でもコウにはもう何も聞こえていない。自分が澄んだ静寂の中に土足で踏み入った気分に場違いにも一瞬高揚し、それでも足を止めずに進む。
やはりここは神域なんだ……特別な場所なんだ……
目の前には突然何もないぽっかりとした光景が広がる。
噂通り、目の前も崖下もまっしろ。
神域の真上の空だけには雲がかかっていない。鳥も飛んでいない。
太陽からの光が幾筋も崖の下へと降り注ぐ光景は、いくら目が焼かれるように痛くとも、瞬きを忘れるほど強烈だった。
白くて、綺麗……
死んでしまう前にこれほど綺麗な景色を見られてよかった。
行こう。
コウは足を踏み混んで、両手を広げて空へと駆けた。
何か大きな物へ飛び込むように、そこに受け止めてくれる何かがあるかのように。
自分を縛る何もかもから、解き放たれた気がして、深く呼吸した肺がぐっと広がる。
自分は人の姿のままで飛んでいる。翼をもたないで飛んでいる。
そして、どうしてだか泣いている。
涙の粒が頬を降りる前に、後ろへと飛んで粒が弾けていく。コウは崖から落下していた。
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