αは僕を好きにならない

宇井

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蓮兄

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 小学生の時の理人は成績もそれなりに良く、友達は多くはないが仲良しの遊び相手はいて、学校が楽しかった。
 問題があるのは、家に帰ってから。
 病気でも一人きりでいなければならない環境は物心ついた時からで、その頃はそれさえおかしな事だとは思っていなかった。
 お腹が痛くても、怪我をしても、できるだけ我慢し治るまで待つのが当たり前だった。それでも無理だったり我慢できない時になって、ようやく親に申告するのだ。そうじゃないと、迷惑を掛けてしまうから。
 あの診断を受けてからは余計にそんな意識が強くなってしまっていた。
 母の言葉をを思い出すたびに、理人はそっと下腹に手を当て、そのあとグッと力を込め痛いほどに押していた。潰れて、消えてなくなればいいのにと。
 蓮との出会いは、理人がそんな風に自分自身を虐げていた頃だった。
 五つ年上の蓮はそのとき中学生。理人にとっては、隣の大きな家の、私立の制服を着た中学生という認識しかなかった。

 熱い夏。
 学校からの帰り道、理人は友達と別れ長いこと一人で歩いていた。
 肩に下げた水筒の中身はとっくに空っぽで、家についてからすることを順に頭に浮かべる。

 エアコンつけて、アイス食べて、あとゲームの充電……

 理人の帰宅時間に家には誰もいない。熱気のこもった部屋は外より熱く、素早くエアコンのリモコンを探し、ピッと音を立てて稼働させるのは遊びでもあった。
 ランドセルにつけた鍵で家に入るのは四年生になった理人には慣れた物だった。何しろ一年生からやっているし、それ以前から留守番には慣れている。
 地面からの熱気に空気が揺らめく中で、ようやく家が見え始める。
 理人はフライングするように、歩みを止めないままランドセルを前に回し蓋を開ける。けれど、伸びる紐の先に見慣れた鍵はついていなかった。
 やばい。

 玄関前に走りこみ、ランドセルに手を突っ込み探し、最後には中身全部をひっくり返した。途中で落としてしまったのかと来た道を戻り、道路の隅々にまで注意したが、簡単に見つけられるはずだった鍵はどこにもなかった。
 学校にあるかな……どうしよう…… 
理人は玄関先の日陰に座り込んで道路を眺めながら、親が帰って来る五時間も先の事を思ってぐったりした。

「家に入れないの?」

 そう声を掛けてきたのが蓮だった。
 一度、理人の家の前を通り過ぎたものの、やはり頭を抱えて座り込む理人の姿が気になって戻って来たのだ。
 決して敷地には入らず距離を保ったまま心配そうに理人を見る。
 指で額の汗を拭った時、華やかな顔立ちには少し不釣り合いな、男らしい眉が顔をのぞかせた。

「あの、大丈夫。親が帰って来るの、待つし」

 親切に声を掛けてくれているのに、理人はどんな態度を取って言いかわからず仏頂面になってしまう。
 人見知りという訳ではないが、年上である中学生の登場に緊張していたし、子供ながらかっこ悪い場面を見られているという思いもあった。

「うちには家政婦さんがいるから、僕が理人君を虐めたり、イタズラしたりする事はないよ、だから安心して。それより、ずっとここにいたら暑さにやられて倒れてしまう。ね、行こう」

 警戒を解くためにそう言って割と強引に手を引いた事よりも、理人の名前を知っていて、理人君と優しく呼んでくれた事に驚いていた。
 自分より大きいけれど、柔らかく大人になりきれていない手。理人は自分と繋がったその手から目が離せず、心臓がトクトクと騒ぎだす音を聞いていた。

 屋根のある門柱、凝ったアプローチ、そして外観は物語に出てくるような洋館のようだった。
 室内に通されても、理人は遠慮なくきょろきょろと見渡し、何かを傷つけたり汚してはいけないと、さっきとは打って変わって怯えるように小さくなり、蓮に笑われた。
 こんなにいっぱい絵が飾ってある家なんて、初めてだ。
 絵そのものよりも、おうとつのある額縁の派手さの方に目を引かれる。

「比賀さんのお家って、お城の中みたいで綺麗」
「ありがとう、母の趣味が存分に生かされた家だから、母が聞いたら喜ぶよ。ところで理人君、この家にいるのは全員比賀さんになるから、蓮って名前で呼んでくれていいよ」
「じゃあ、蓮さんって呼べばいいの?」
「だったら、蓮兄って呼んでくれるかな。兄二人で弟も妹いないから、理人君がそう呼んでくれたら、弟ができたみたいで嬉しいな」
「わかった。僕一人っこだし、お兄さん欲しかったんだ。今から……蓮兄って呼ぶ……」

 蓮兄、蓮兄……

 口に出す前に何度も心の中でつぶやいたと言うのに、次に口にする時には、真っ赤な顔でたどたどしく紡がれる。
 さっきまで他人だった、この優しく綺麗な顔を持つ中学生を兄と呼んでいい。
 理人は初めて胸に湧き上がる思いをどう扱えばいいかわからず、蓮の名前を唱え続けた。

 その夜、比賀家に数時間とはいえお世話になっていた事と、自宅の鍵の紛失に理人の母は激怒していた。
 結局その夜、鍵は理人の部屋の中で見つかったのだが、それが再び怒りに火をつけ、ヒステリックな声で怒られ、初めて手を上げられた。
 痛みより熱の強さに驚いて頬をに手をやる。これまではずっと言葉で罵られるだけだったのに、その日は母親の機嫌が悪かったのか、三度同じ場所を叩かれた。
 朝まで部屋で反省しろと家全体がしなるほどにダンッと強く扉を閉められ、理人は思わず目をつぶる。 
 何が起こったのか、何をされたのか、じわじわと数分前の記憶が蘇ってくる。母親は部屋の電気を消してしまった。それはつまり、もう付けてはいけないと言う事だ。
 真っ暗な部屋の中で膝を抱えて泣いた。
 ……助けて……蓮兄……蓮兄……
 思ったより早く涙が引いたのは、心の中で蓮の名前を呼ぶ事ができたからだ。

 隣の家は面倒そう。母親はそう零していたが、翌日お礼に訪れた時、二人の母親のお喋りは長く続いていた。
 どうやら相性がよかったらしく、それから両家に交流が生まれ、理人の比賀家への出入りが咎とがめられる事はなかった。

 蓮の母は美しく、そして割と物をはっきり言う人だった。しかし理人が苦手意識を持ったのは最初だけで、理人は蓮の母にもなつくようになった。
 蓮は三人兄弟の末っ子。理人を蓮の母親が歓迎してくれたのは、やはり三兄弟より幼く小さかったからだろう。

 父も母も忙しくて構ってくれない。母に至ってはキャリアを落とし、退職の原因となった理人の存在を疎んじていた。
 その後は父親の経営するインテリアショップの事業拡大に躍起になっていたものの、昔から母の恨み言を聞かされて育って来た。
 地名を告げるだけで、いい場所に住んでいると言われる場所に理人の家はある。この閑静な住宅地に無理をして家をかったストレスも母親にはあったのだろう。父もそれに引きずられている所がある。
 そんな愚痴は聞き飽き、理人の存在に溜息をついてくるのには、できるだけ気付かないふりをするようにしていた。
 それに加えてΩの生殖器を持っている事が判明してからは、明らかに理人を避けていた。
 泣きたくなる日はその頃から多くなった。そんな母の隣にいる父は、寡黙で子供には無関心な人だった。
 そんな親との事情もあって、欲しい物の全てがある比賀家は憧れだった。理人が欲しい愛情の大部分を補ってくれたのが、蓮の母親である美恵子と蓮の二人だった。

 隣家との垣根を失くしてしまった理人は、寂しいと言っては蓮にまとわりつき、怒られたと言っては逃げ込むという、親からすれば何とも手に負えない困った子になっていた。
 どこまでなら我儘が許されるのか。それが知りたくて、わざと乱暴な口を利く事もあったけれど、蓮は絶対に怒らなかった。

「何かあった?」
「……なんでもない。ごめんなさい」

 理人がそうなるのは寂しいからだとわかっているかのように、荒れた時には必ず頭をぽんぽんしてくれるのだった。理人のこんな甘えは中学生入学まで続いた。
 蓮がこの辺りの女子たちに王子と、呼ばれている事は知っていたが、ようやくそれに納得いった。
  顔だけで判断し男達を王子と呼ぶ感覚も、トイレまで一緒の集団行動も今まで理解できなかったが、そこだけは妙に腑に落ちたのだ。
 そこから蓮は理人にとっても王子、つまりはαとなったのだ。


 蓮は頭がいい事を知ってから、勉強も頑張るようになった。
 親に相談してみたものの、時間がなく塾への送迎ができないと言われ頼る事は諦めた。学校での勉強会と参考書での独学を続けた。出来る限りのことはした。それでも理人の実力では蓮の出身高校、大学には届かなかった。
 最初から努力で報われないレベルだとわかっていたが、挑戦してみたかったのだ。何かの間違いで合格すれば、蓮との共通がまた一つ増えるのだから。

 大学三年生になり就職の相談をした時には、今の会社を紹介された。
 蓮の友達がそこに就職していて、福利厚生が蓮の会社より充実してるらしい。もちろん理人にはコネなんてないから、受験勉強よりも必死だった。
 そうやって自力で内定をもらった時は真っ先に蓮に知らせた。一緒に喜んでくれお祝いしてくれた。
 理人が頑張ってきたのは、全部蓮に褒めてもらいたかったから。社会人になっても息苦しい家を出ない理由は、蓮の近くにいたかったからだ。
 理人はずっとそうやって生きてきた。いつか蓮の特別になりたいと、ただ願い続けていた。
 単純な理人の心は、蓮の何気ない一言や表情に左右される。
 蓮の恋する顔を目の当たりにして表情が固まる。友達である楓を見る、その愛しい者を見る目に。

 僕をこんなにも悲しくさせるのは、蓮さんと、蓮さんを誘惑した楓の存在だ……
 理人はその日の行動のすべてを後悔していた。

 二人が付き合うなんて嫌だ。楓とだけは嫌なんだ……

 体中がぎりぎりと痛む。
 ベッドの中で丸くなり、その晩一人泣いた。子供の頃さえこんな風に泣いたことはなかったというほどに。
 父か母が帰ってきた気配はあったが、構わず声を上げて泣いた。 
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