αは僕を好きにならない

宇井

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いつもの飲み会

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 理人の勤務先である会社は、十五年前に都心から臨海地区へと大掛かりな本社移転をしている。
 その敷地にあるのは巨大工場と本社ビル、そして企業資料館。総務所属の理人はその小さな規模の資料館を担当している。
 館長は総務部長が兼任し、担当の正社員は理人を含めて二人。常駐する契約社員は一人。大学生や主婦のバイト達も交えて運営している。
 入館無料の資料館は子供向けのつくりになっていて、色調は全体的に明るい。平日は学校の社会見学、休日は親子連れが多く訪れている。
 会議室としても使えるシアターは、新人研修や外部にも貸し出すほど充実した機器が揃っているのだが、使い方がわからないと言われる度に、理人が設営と調整に走り立ち会う事が多い。
 事務系総合職として入社時から総務に配属されている理人は、入社二年目からそこの担当とされ、三年目の今も経験のない事態にぶつかっては勉強の日々だ。
 普段は本社にいる時間の方が断然多いが、総務と資料館を行き来しながら業務をこなし、往復だけで疲れる日もある。
 それでも自分は営業には向いていないと感じていただけあって、事務職の内定にありつけたのは奇跡だと思いこの仕事を大事にしている。

 しかしその運命の日は、本社ではなくオフィス街にある支社が会議会場となり、理人は久しぶりに都心へ向かう電車に乗り、ビルのひしめく場所へ来ていた。
 会議では本筋の話が早々にまとまった事もあり、話の流れは所属する資料館へと移っていた。
 入館者が増えているのは嬉しいことだが、最近では予約なしにバスの団体がやってくることもあり、旅行社との対応、駐車場の確保や何やら、煩わしい事態も増えている。
 それに加え、グループ会社と共催する子供絵画コンクールや特別展示企画など、予定ばかりが押して頭がパンクしそうな状況だ。
 それを素直に悩みとして口にし相談する理人に、会議出席者である年長組は優しかった。
 中でもOB会の設立した団体の会長が力になってくれる事を約束してくれ、思わぬ支えを得た理人は、大きく安心して支社を去る事が出来ていた。

 今日は楓とも会うし、いい日かもしれない。

 本社へは戻らず直帰の予定だったこともあり、楓とは待ち合わせをして久しぶりに会う事になっていた。
 メールや電話はするけれど直接会うのは半年ぶりだと、待ち合わせた居酒屋での楓の第一声に教えられた。
 社会人になっても楓の印象は変わらず、目の前にいる男は相変わらず愛らしい。

 すべての席が半個室になっている店。
 与えられるスペースも四人掛けにしては狭く、もし男ばかりが入れば暑苦しくなるのが予想できる。しかし二人であれば適度な空間だ。仕事からの解放もあって理人は最初にネクタイを緩めた。
 新たな店を開拓することはなく、二人で会う時はほぼこの店が定番になっている。
 学生から社会人までが気軽に使える店は常に賑やかなのがいい。お酒に弱いわけではないが、軽く飲んで沢山食べる、これが二人の決まったスタイルだ。
 同じ高校と大学を卒業して、それぞれの会社に入社して二人共転職もせずやってこられている。
 楓の勤めるアパレルメーカーは女の園で、男性社員は全体の数パーセントしかいないらしく、楓にはそれが合っているらしい。女の園にある男部署は、理人と同じ裏方と言われる事務方仕事。
 楓の能力は対男性にだけ威力を発揮し、学生時代と同じく女性からはお友達もしくは弟認定しかされない。職場に多少の不満があっても、一生ここで働くのだろうと楓は言っているし、理人もその方がいいだろうと答えてきている。
 お互いきっちりしたスーツ姿で仕事の愚痴をこぼし合う事にも違和感がなくなっている。年齢だけを少し重ね、中身はまったく進化していないというのが若干残念だと笑い合う。
 楓の場合はスーツでなく、オフィスカジュアルが許されているのに、頑なにスーツを貫いている。聞けば毎朝の服装に悩むのが嫌だと言う。

「確かに楓は服の趣味があんまりだもんなあ」
「悪かったね。だからスーツは制服って割り切った方がいいんだよ」
「高校の制服だって結局卒業まで大きいままだったよな?」
「それを持ち出すのはもう禁止」

 いい大人のくせに、ぷくっと頬を膨らます楓。こんな風にふるまうのは理人の前だけだろうが、やっぱりかわいいと笑ってしまう。
 高校時代、成長の願掛けのように大きなサイズを着ていた楓だったが、劇的に背が伸びる事はなく、卒業までブレザーに着られていた格好に終わった。
 楓はそれをみっともないとは今でも思っておらず、早々に成長を止まってしまった自分の体に対して嘆いていた。
 あれから何年もたっているのに、楓は変わらない。

「僕が楓だったら速攻でカジュアルにするけどな。家でジャケット脱ぐとほっとするし」
「オーダーにすると体が楽っていうけど、どうだろうね」
「スーツにお金かけるのもな」

 届いたビールで乾杯もなく口を潤おすと、楓は出し抜けに切り出した。

「ねえ……あのさ……自分の持つ特性が弱くなってきているかもしれないって、最近思うんだ」
「それって、具体的には?」
「痴漢もナンパもなくなってるんだ」
「それがある方が異常なんだけど……でも、その状態がこれからも続いてくれたら安心だな」
「だといいんだけど」

 稀に言い寄る男がいてもあしらう術も会得したと笑っている。それが本当なのかはともかく、もう近くに理人がいなくても何とかなっているようだ。これもひとつの成長だろうか。

「それにしてもさ、これまでに付き合っても良さそうな人、一人くらいいたんじゃないか? もてる割に恋人いない歴がまだ更新されてるって、それは流石にもったいないだろ。真面目そうな奴を適当に見繕っておけばいいのに」
「うん、でも、もし好きになれなかったらって思うとね……」

 気持ちが伴わない付き合いは嫌だと、楓はその考えを変えていない。

「まったく、楓ってやっぱり潔癖だな」
「潔癖じゃないよ。覚えてる? 僕はもう男に抱かれたし、抱いた事」

 ムッとした後にさらりと楓は言うが、理人が始めてこの報告を聞いた時はかなり驚いたものだ。
 大学を卒業してすぐ、楓は後腐れのなさそうな男を選びセックスに誘っていたのだ。その一晩で抱いて抱かれての両方を経験している。

『思う気持ちがなくても勃った。気持ちいいけど疲れたな。でもようやく、人から聞いていた肌が合う合わないの意味が少しわかった』

 恥ずかしがりながらもそんな報告をしてくる楓に対し、理人は別の思いを抱えたものだ。
 童貞と処女消失の相手となった男とトラブルだけは起こしてくれるなよと。それと、女性を抱いてみるという選択肢はなかったのかと。
 楓とその男とのいざこざに首をつっこむ事態になるのは勘弁してもらいたかっただけに、その当時の理人の緊張感はかなりのものだった。
 しかしトラブルは発生しなかった。
 理人にまた迷惑を掛け、始末をつけさせないよう楓なりに考えた上での人選と行動は正解だったのだろう。その後も平穏に過ごすことができたのは幸いだった。
 それにしてもこの楓が思い切ったものだと、今でも感心してしまう。
  色々すっとばして、セックスとは……

「あの時の楓の告白は本当に驚いた。意外と度胸があるのわかったし」
「でしょ。だから潔癖なのは理人の方。小学生の時からの初恋をこじらせてるなんて、そっち方が希少だから」
「……こじらせてはない」

 ぶすりとし声が細くなると、楓は強気に出る。

「ずっと好きな人がいる。でも性別も名前も住んでいる場所も年齢も、全部が秘密。西さんじゃないのなら、誰だか全然想像つかないよ。本当に理人って頑固だね」
 楓は理人の親が経営するインテリア会社の男性社員の名を出す。しかし、それは当然まったくの誤解だ。
 でも西は理人が特別に思っている一人で、悩みや愚痴はこれまでに何度も聞いてもらっている。
 学生時代に辛かった事も、蓮への恋心も、あとは、親との上手くいかない関係までも知られている人だ。だから蓮とは違った意味で好きだし、頼りにもしている。でもそれは断じて恋ではない。
 そこは間違えないでくれと説明する。
 楓にも親との関係はうっすらと伝わっているだろう。ただ蓮だけの事はいまだに頑なに秘密にしている。
 それほど理人は楓に対して用心してきたのだ。

「何度も言うけど、西さんじゃない」
「わかったよ。この手の話しになると、うつむいて声が小さくなるんだよね理人は。僕はこの年になっても可愛いって言われるけど、本当に可愛いのは理人の方だと常々思ってたんだ。世の中の人間は目も判断も曇ってる」
「ばぁか。そんな事を言われても嬉しくない。可愛いのはそっちだろうが。嫌味かよ」

 楓は自分の愛らしさを棚に上げて、たまにこうしてからかってくるのだから、理人で遊んでいるようにしか見えない。
 僕と楓なんて比べてるまでもない。だから楓にそう表現されると心がささくれ立つ。
 理人は残り少ないビールを一気にあおり、話題を戻す。

「まあ、いくら気を付けてるっていっても何があるかわからないし、困った事があったら相談して、いつでもいいから」
「ありがとう。こんな話ができるのは理人だけだよ」
「僕もそう」

 ……僕達は同じΩだ。

 何気ない一瞬の視線で意味を交える事はできるようになっている。あの春以来、お互いその単語を口に出したことはないけれど。


 追加の注文はせず、黙って駅まで歩いた。
 駅のホームでは理人が楓の正面を隠し守るように斜め前に立つ。高校時代からずっと続けてきたそれは、もはや理人の身に染みついた癖になっている。
 それに気付いた途端、肩にかけた鞄がずっしり食い込んでくるようだった。
 弱いくせに、なにをやってんだか。
 今でも自然にこんな形をとってしまう自分を理人は冷やかしたくなる。強くなれなかったくせに、今だって弱いままのくせにと。
 背は楓よりほんの少し、二センチだけ高くなったが、それも楓に言わせれば誤差の範囲だろう。
 身体的な共通点は、身長とΩ性だけか……
 そうしているうちに、生ぬるい風と共に滑り込んできた電車に乗り込む。
 朝のような混雑さはないが、扉付近で壁になっている人達の間を体を斜めにしながら進むと、そこには滅多に顔を合わせない人の姿があった。

 えっ……蓮、さん?

 その時理人は奥の閉じた扉の近くに立っていたスーツ姿の比賀蓮、理人が恋心を募らせている、初恋の人を見つけたのだ。
 この場にいるのが理人一人だったら、幸運で済ませられる所だった。
 蓮と外で、まして通勤電車で一緒になる事なんて、これまででなかった。いくらお隣とはいえ、お互い社会人になった今は滅多に姿を見ることはないからだ。
 ドクンと心臓が跳ね、慌てて横を向き視界から蓮を追い出す。
 心臓に悪い。
 電車が動き出すのに、中途半端な場所で立ち止まってしまった理人を後ろから楓が促す。

「ねえ、奥の方が空いてる、行こう」
「うん……」

 楓にそう背中を押され人の間を抜けると、確実に蓮の場所に近付いてしまう。そうなると視界に入る確率も高い。近くにいるのに無視するのも不自然だ。
 でも、このまま知らないふり、しよう。
 そう決めて顔の角度を戻した時だった。
 願いと裏腹に蓮は理人を認め、それとわかるように口角を上へ微動させ、理人の連れである楓にも小さく目礼した。

「理人……知り合い?」

 楓のヒソヒソ声に頷くと、蓮の方からこちらにやってきてしまう。
 体が触れ合いそうなほどに近い距離で見下ろされ、理人はどこを見ていいかわからなくなった。

「理人、久しぶり」
「あの、蓮さん、こんばんは。仕事帰り、だよね」
「うん、そうだよ。理人もお疲れ。それにしても、偶然だな。どれくらいぶりだ?」

 蓮は微笑む。心を平常に戻そうとするのに、息遣いさえわかる位置からする蓮の声が、理人から余裕を奪う。

「それは、えっと、即答できないくらい、ぶりだよ」
「確かにそうだな。それにしても、どうも理人のスーツ姿には慣れないな。お前は大きくなったよ」
「親戚のおじさんと同じようなこと言わないで。前はしょっちゅう会えてたし、スーツ姿なんて何度も見せた。年だってそんなに違わないんだからさ」

 小さく笑う蓮からは疲れを感じない。背筋も伸びているその姿も仕事帰りとは思えないほどだ。
 本当に偶然だ。この時間に、この車両。
 隣には……楓。
 こうして蓮とまともに喋るのは、楓との再会である半年より遠い。でも理人は複雑だった。当然、隣に楓がいるからだ。
 背中が何かの予感のようにゾクリとする。落ち着かせるように腕を擦るが、嫌な予感までは消えてくれなかった。
 マズイとはわかっていても、今さらどうしようもないけれど、理人は焦っていた。

「あの、こちらはお隣に住んでいる比賀蓮さん、こっちは高校からの友達で桐谷楓。今日はたまたま楓と飲んでたんだ。本当に、たまたま」

 二人をそれぞれ簡単に紹介した後、理人は努めて明るく一生懸命に喋った。蓮と楓の会話を成立させないために。蓮が楓を見ないように。
 楓は理人の知り合いだからといって気を抜いていないようで、軽く頭を下げただけに終わっている。でも理人は痛いほどに気がせいていた。

ただ自分と蓮が降りる駅への到着を、早くはやくと願うしかなかった。
 しかし、ことは理人の思うように動いてくれない。
 理人と蓮の降りる駅で、後ろにいた大男に押されるように楓まで一緒に降りてしまったのだ。

「楓、お前何やってんだ……」
「ごめん、押されて」

 不測の事態に愉快そうに笑っているのは蓮一人。楓は恥ずかしがり、理人だけが焦りの色を見せていた。

「いいじゃないか。家まで送っていくよ。今日は車があるんだ」

 理人と蓮の自宅は駅から徒歩十分の距離にあるが、今日は蓮の車が駅裏に駐車してあったのだ。
 数分も待てば同じホームに電車がやってくるのだから、車での移動の方がかえって時間がかかるし手間だ。
 それでも蓮はそうしたかったのだろう。
 たったの数分でも、楓に好意を持ってしまっていたから。理人にはそうとしか思えなかった。

 助手席に乗ったのは理人。けれど蓮の意識が後部座席の楓にあるのがわかった。バックミラーを見つめる視線の動きに理人が気付かないわけない。
 新たな出会いにときめく人の顔は、楓の隣にいたから何度も見てきた。だけど、どこか浮ついた様子が読み取れる蓮の横顔を、この時、理人は初めて見たのだった。
 そして困惑しながらも、蓮と同じような表情を浮かべる楓の姿も。
 二人の出す空気の間に割入ってしまい気持ちはあったけれど、自分を諌めるまでもなく、理人の体と口は固まって動かなかった。

 楓の自宅前に着いた時、降りた楓を追いかけるように蓮も外に飛び出していた。
 車内から見えたのは、スマホを取り出し連絡先を交換する二人の姿。蓮の方が積極的で、楓の方が少し押され気味。それでも二人とも笑顔だ。
 理人は一人完全に蚊帳の外だった。
 運命の番。
 そんな作り物じみた言葉が、現実として目の前にある。
 蓮と楓の姿は、惹きあうαとΩ、そのものだった。

 自分がここいることの方が不自然な気さえする。
 もしかしたら、僕は車に乗ってはいけなかったのかもしれない。理人は肩にかかるシートベルトを握り締める。
 僕は先に帰るよと、あの場面で二人に別れを告げなければいけなかったんだ。
 そうなんだ……
 ぶるぶる揺れる手を必死に握り締めて、流れてきたものを慌てて拭った。泣いている姿なんて、自分の気持ちを知らない蓮に見せるわけにはいけない。こんな場面では余計に知られてはいけない。
 楓に手を上げ車内に戻って来た蓮の顔を、理人はとても見られず、ガラスの外の闇を睨んだ。

「ねえ、蓮兄《れんにい》……」
「ん? どうした。理人にそう呼ばれるのは久しぶりだな」

 蓮が懐かしさに顔を綻ばせているのが、その音の色からわかる。
 確かにそうだ。蓮を兄と呼ぶ事を、理人は中学を卒業すると同時に止めていた。
 弟である事が嫌だったから。
 でもどうしてか、今はそう口にしていた。

「どうして……」

 どうして、蓮兄まで楓を選ぶんだ。
 どうして……どうして、僕じゃないんだ……

「……いや、なんでもない。帰ろう……」

 言える訳がない。 
 疲れたしアルコールが入って眠いと、目元をこする。早く帰ろう、そう蓮を急かす事で、自分に起こった異変を、悟られないように誤魔化した。
 子供の頃に戻ってしまったかのような理人の態度。困った弟だと言いたげに蓮は一つ笑い、何も言わずに車をスタートさせた。

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