世界が色付くまで

篠原 皐月

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第84話 清香の動揺 

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「……ただいま」
 その日、恭子がマンションに帰り着くと、室内はこれまで通り無人だったが、急に一人きりである実感が湧き上がってきた。

(本当に、居なくなったんだわ)
思わずそんな事を考えてから軽く首を振り、ショルダーバッグを放り出す様にソファーに置いて、その横に乱暴に腰を下ろした。

(何を今更、もう先週から……、それにここに来る前は、ずっと一人で過ごしてきたじゃない)
 いつもとは異なり、夕飯の支度もせずそのままぼんやりと壁を見詰めていた恭子が我に返ると、いつの間にか九時近くになっていた。掛け時計でそれを確認した恭子は、そこで表情を消して緩慢な動きでバッグから携帯電話を取り出す。そしてある人物に、電話をかけ始めた。

「はい、もしもし、恭子さん?」 
「今晩は、清香ちゃん。今、話をしても大丈夫かしら?」
「はい、自分の部屋ですから大丈夫ですよ? 夕食も食べ終わりましたし」
「それなら良かったわ」
 恭子が電話をかけた相手の清香は、小笠原邸で与えられた自室で一人のんびりしている所だった。久しぶりに恭子からかかってきた電話に機嫌良く応じると、電話越しに何気ない口調で頼み事をされる。

「清香ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど、聞いて貰えるかしら?」
「はい、何ですか? 何でも遠慮なく言ってみて下さい」
 即座に応じた清香だったが、その即答っぷりに恭子は思わず心配になったらしく、苦言を呈してくる。

「清香ちゃん、そんなに安請け合いして大丈夫なの? もしとんでもない事を頼まれたりしたら困るわよ? もう少し考えてから、返答した方が良いんじゃないかしら?」
 しかし恭子のそんな懸念を、清香は笑い飛ばした。

「そんな~。確かに他の人に対してなら、もう少し慎重になりますけど、恭子さんだったら大丈夫ですよ。それに恭子さんから頼み事なんて、ひょっとしたら初めてかも。頼って貰って、ちょっと嬉しいです。だから本当にどんなつまらない事でも、言ってみて下さい!」
 そう言い切った清香に、電話の向こうから微かに苦笑する気配が伝わって来てから、恭子が静かに申し出た。

「それなら、遠慮なく言わせて貰うけど……」
「はい」
「私を罵倒してくれない?」
「……はい?」
 同じ台詞を二回繰り返した清香だったが、それを発した時の心情とアクセントには、はっきりとした差があった。何か聞き間違ったかと清香が絶句していると、その困惑度が容易に想像できたのか、恭子が説明を加えてくる。

「だから、私は自分本位で人でなしで情け容赦ない最低女だから、ありとあらゆる罵詈雑言を尽くして、罵って欲しいんだけど?」
「あの……、恭子、さん?」
 恐る恐る口を挟んだ清香だったが、恭子が有無を言わせぬ口調で迫る。

「どんなつまらない事でも、やってくれるのよね? 別に軽装備で雪山登山してくれってお願いしている訳じゃ無いし」
「はぁ……」
(ど、どうしよう……、確かに何でも言ってみて下さいって言っちゃったし。でもそんな恭子さんを貶す事を言うなんて……)
 生真面目に考えて狼狽した清香だったが、それなりに付き合いのあった恭子からは一歩も引かない気迫を感じ取り、ある覚悟を決めて口を開いた。

「あの……、じゃあ一応言ってみますけど、本当に良いんですか?」
「勿論よ。こちらからお願いしているんだから。ちょっと力一杯罵られたい気分なのよね」
「えっと……、それじゃあ、言わせて頂きます」
「どうぞ」
 そこで清香は呼吸を整え、一気に言い切った。

「恭子さんは美人で頭が良くて、でもそんな事を鼻にかけて他人を馬鹿にする様な事も無くて、真澄さんとは別の意味で、私の憧れの人です」
「清香ちゃん?」
 あまりにも予想外の台詞を聞かされて、恭子が訝しげな声を出したが、再び息を吸い込んだ清香はそんな事にはお構いなしに、再度一息に言い切る。

「あの問題有り過ぎるお兄ちゃんの下で、文句を言いつつも何年も働いている事だけでも、賞賛できるのに」
「何を言っているわけ?」
 今度の恭子の口調には、怒りが含まれているのをはっきりと感じ取る事が出来たが、清香はそれは聞かなかった事にして、尚も主張を続けた。

「どんな不平不満を抱えていても、泰然と構えてお兄ちゃんを向こうに回して対等にやり合ってるのを見た時には、思わず溜め息が出ますし」
「ふざけないでよ?」
 そう言った直後に歯軋りの音まで聞こえてきた為、清香は泣きそうになったが、勇気を奮い起こして話を続けた。

「気配りも笑顔も絶やさないで交友関係も広いですし、努力家で金銭感覚もしっかりしてる上、間違っても人を不快にさせる行動なんか取らない」
「嫌がらせはいい加減にして!! 何なのさっきから黙って聞いていればベラベラと褒め言葉なんか並べて!」
 怒り心頭に発した感の怒鳴り声によって台詞を遮られた清香だったが、負けじと精一杯の声で言い返した。

「だって! 私、恭子さんを表現するのに、褒め言葉しか浮かんでこないんです! 恭子さんは皆に好かれて頼りにされてる、私の自慢の“お姉ちゃん”で」
「清香ちゃんの馬鹿ぁぁーっ!!」
「え、あ、ちょっと! 恭子さん!?」
 いきなり泣き叫ぶ声が聞こえたかと思ったら、その直後に何かが割れたりぶつかった様な衝撃音が伝わった直後、電話の向こうが静かになって、不通になった証の電子音のみしか聞こえなくなった。
 さすがに異常を感じた清香が恭子の携帯、マンションの固定電話、浩一の携帯に立て続けにかけてきたが、どれも全く繋がらずに途方に暮れる。

「ど、どうしよう、繋がらない……。絶対、恭子さん、何かいつもと違うよね? ……こ、こうなったら、困った時の真澄さん頼み!!」
 そして清香は、昔から困った時には何かと相談を持ちかけてその都度解決して貰っていた、頼りになる従姉兼義姉の携帯番号を迷わず選択した。

「真澄さぁぁん! お願い、助けてぇぇっ!!」
 かかってきた電話に応答するなり、そんな事を叫ばれた真澄は、一瞬本気で驚いた。

「清香ちゃん、どうしたの?」
「あ、あのね! 恭子さんから電話がきて、でも何か変で、悪口を言ってって言われて。でもそんな事言われてもどうしたらよいか分からなくて、逆に力一杯褒めちゃったの! そうしたら何かもの凄く怒らせちゃったみたいで、一方的に電話を切られてかけ直しても固定電話にかけても繋がらなくて、浩一さんに電話しても繋がらないし!!」
 捲し立ててくる清香が、電話の向こうで必死の形相をしているんだろうなと想像しつつ、真澄は穏やかに声をかけた。

「清香ちゃん、取り敢えずちょっとだけ落ち着いて。浩一が柏木産業を辞めて、アメリカの会社に再就職した事を知らないの?」
「はぁあ!? 退社したのは知ってましたけど、何ですかそれはっ!?」
 完全に声が裏返った清香に、真澄は夫と弟を心の中で罵った。

「……ごめんなさいね。てっきり本人か、清人から聞いているものとばかり思ってて。だから浩一の携帯は繋がらなかったのよ」
「あの、それは分かりましたけど……。まさか浩一さん、アメリカに移住とか」
「そのまさかよ」
「…………」
 驚きのあまり絶句したらしい清香に向かって、真澄は苦笑しながら言葉を継いだ。

「恭子さんに関しては、どういう状態なのか大体分かったわ。私がちゃんとフォローするから大丈夫。心配しないで?」
 いきなりそう言い切られて、清香は逆に不安になったらしく、困惑しながら確認を入れてくる。

「え、えっと……、あの……、本当にお任せちゃって大丈夫ですか?」
「勿論よ。頼りになる、お姉さんに任せなさい!」
 いつも通り自信満々に言い切ると、漸く安堵したのか、清香がほっとした様な声で礼を述べた。

「ありがとう、真澄さん。宜しくお願いします」
「詳細は、落ち着いたらきちんと説明してあげるから、ちょっと待っててくれるかしら?」
「分かりました」
「それじゃあ、おやすみなさい。気に病んだりしないで、ぐっすり寝て頂戴ね?」
「はい、そうします。おやすみなさい」
 そうして通話を終わらせた真澄は、溜め息を吐いて独り言を呟く。

「さてと。明日は色々忙しくなるわね。その前に真一と真由子の事を、今夜のうちにお母様にお願いしておかないと」
 そして明日の算段を立てる為、真澄は椅子から静かに立ち上がり、母親がいるであろう私室に向かって歩いて行った。
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