世界が色付くまで

篠原 皐月

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第85話 女王来訪 

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 清香が真澄に相談して安堵の溜め息を吐いていた頃、彼女とは対照的に恭子は、ソファーとコーヒーテーブルの隙間にペタリと座り込んで、テーブルに突っ伏してむせび泣いていた。

「……ふぅっ、な……、なんでっ、……ちゃんと、せめ、て、……く、くれないの、よぉっ……」
 先程までは固定電話の呼び出し音も無視して泣き喚いていた恭子だったが、次第に涙が収まってきた為、手の甲でゴシゴシと顔を擦りながら、ゆっくりと頭を上げる。

「さやか、ちゃん、って……、とき、どきっ……、すごく、むしん、けいっ……、なんだ、……からっ!」
 腹立ち紛れにそう吐き捨てると、続けて自然にある言葉が恭子の口をついて出た。
「も、もうやだっ! あの人達とこれ以上、かかわりあうのっ……!」
 そう口に出した瞬間、恭子の頭の中である考えが天啓の如く閃く。

「もう、ここを出て行こう。……うん、そうよね。もっと早く、そうするべきだったのよ。先生に激怒される事確実だけど、一生かかっても少しずつ借金は送金するし、結婚して今は真澄さんに纏わり付いてるから、そうそう追いかけても来ない筈よ。そうと決まれば……」
 勢い良く立ち上がった恭子だったが、その途端向かい側のソファーの更に向こうに設置してある、リビングボードの惨状を認め、瞬時に現実に引き戻された。

「その前に、この割れたガラスを片付けないと。修理代、絶対借金に上乗せされるわよね……」
 そう呟いてがっくりとうなだれた恭子の顔からは、完全に涙が消え去っていた。
 それから結構手間がかかったものの、掃除と後片付けを済ませた恭子は、深夜に近い時間にもかかわらず、自室で荷造りを始めた。

「ええと、後から荷物を送って貰えそうもないから、必要最低限だけ纏めて持って行きましょうか」
 方針を立てるのは早かったが、これまで何回かしてきた引っ越しとは異なり、恭子はクローゼットや棚を引っ掻き回し、頭を悩ませる事になった。

「このお皿は箱の中が空き過ぎだから、箱は捨てて中身だけ衣類で包んで持って行く事にして……。このプリザーブドフラワーは、潰れない様に最後に。それから真澄さんに買って貰ったこのドレスと靴は、せっかくだから持って行く事にして、このアロマポットは……」
 何気なく手にしたアロマポットが浩一から贈られた物だった事を思い出した恭子は、それを持ち上げたまま一瞬固まったが、すぐに自分に言い聞かせる様に呟いた。

「……気に入ってるし、持って行こう」
 それからは機械的に、持ち出す必要性のある物をより分けにかかる。
「あとは着替えと、小物と貴重品、それから……」
 そうして床の上に纏めた物の山を眺めた恭子は、引っ張り出したスーツケースと見比べて途方に暮れた。

「どう考えても、これに入り切らないわよね……。こんなに多くなるなんて、予想外だったわ」
 思わず困惑した声を出した恭子だったが、『悩んでもどうしようも無い事については悩まない』をモットーにしている為、その荷物を放置してさっさと寝る支度を始める。

「明日、開店と同時に入って、一回り大きいスーツケースを買ってこないと」
 そんな決意の言葉を呟きながら、恭子はベッドに潜り込んだ。そしていつもの習慣で一人にも係わらず「おやすみなさい」と口にして寝ようとしたが、何故かこの日は自然に涙が溢れてきて、翌朝恭子は寝不足の状態で、朝から忙しく動き回る事になった。

 翌日は平日であり、恭子は幾分迷いながら真弓に電話をかけ、体調不良の為今日は休むと嘘をついた。真弓は疑いもせずに「お大事に」と言って了承してくれた為、流石に恭子の良心が痛む。
 加えてこれから失踪する身としては、無断で退職する事にもなる為、後で必ずお詫びの手紙を書こうと心に決めた。

「さてと、これで入れ忘れはないわね。戸締りも大丈夫だし、元栓も閉めたし。あ、そうそう! 忘れるところだったわ」
 最寄り駅に隣接した複合ビルの店に開店と同時に入った恭子は、首尾良く望む大きさのスーツケースを購入し、戻るなり手早く準備しておいた荷物を詰めた。そして細々した物はショルダーバッグに纏めて室内を見回して歩いていた時、リビングボードの上に置かれていたパンジーの鉢植えに気が付く。

「ここに置いて行ったら、枯れちゃうかもしれないものね。あの先生が水をあげてくれるとは思えないし、黙って出て行く手前頼めないし」
 そして恭子は台所からストックしてあるビニール袋を持ってきて、その鉢植えを下に置かれていた水受け用の皿ごとその中に入れた。そしてそれを上から覗き込みながら、恭子が満足そうに呟く。

「よし、これで大丈夫。一緒に行こうね?」
 そしてビニール袋を左手に提げ、右手でスーツケースを引っ張って玄関に向かおうとしたところで、恭子は進行方向から聞こえてきた物音に気が付いた。それは明らかに誰かが玄関からリビングに向かって歩いてくる足音であり、その意味を察した恭子は瞬時に顔を強張らせる。

(え? 何? 何で中から開けてないのに、入って来るわけ? まさか泥棒?)
 咄嗟に反応できず、緊張のあまりその場に棒立ちになった恭子は、勢い良く開けられたドアの向こうから現れた人物の姿に、一気に脱力した。

「こんにちは、恭子さん。今日はお仕事は休み?」
「あ、はい……、真澄さん、いらっしゃい」
 朗らかに声をかけてきた真澄に、恭子はまだ動揺しながらも、何とか笑顔らしきものを顔に浮かべながら応対した。

(いきなり何? 確かにここの持ち主の先生は合鍵を持っているから、真澄さんがそれを借りてくれば、断り無しに入って来る事は可能でしょうけど)
 真澄がここに現れた理由について、恭子が必死に考えを巡らせていると、そんな彼女の心情などお構いなしに、真澄がのんびりとした口調で尋ねてくる。

「あら、今からでかけるの?」
「は、はあ……。まあ、そんな所です」
「いいわねえ……、独り身って。私なんか始終夫が纏わり付いて来る上に、子供が一気に二人もできちゃったから、なかなか心休まる暇が無くて」
「……お察しします」
 ため息混じりに、しみじみとそんな事を言われてしまった恭子は、思わず頭を下げた。するとそこで真澄が、にこやかに依頼してくる。

「と、いう訳で、お茶を淹れてくれないかしら?」
「少々お待ち下さい」
 思わず習い性で頭を下げ、荷物を放置してキッチンに入った恭子は、お茶の準備をしながら我に返った。

(ちょっと待って。何が『と、いう訳で』なの? 普通出かける支度を済ませている人間に出くわしたら、遠慮して引き下がるものじゃないの? それ以前に、何普通にお茶を淹れてるのよ、私!?)
 しかしお湯が沸きかけ、急須に茶葉を入れてしまった後にこれを放置する事はできず、恭子は自分に言い聞かせながら要求された通りにお茶を淹れる。

(これはあれよ。決して不特定多数の人間に対して、下僕根性が染みついている訳じゃ無くて、単に真澄さんの女王様気質に無意識に従ってしまっただけなんだから!)
 そんな弁解じみた事を考えながら、恭子はお茶を手早く注いだ茶碗を、リビングに運んで行った。

「お待たせしました」
「ありがとう。頂くわ」
 悠然と頷いて茶碗に手を伸ばした真澄を、恭子は黙って見下ろした。そして真澄が黙ってお茶を飲んでいる為、次にどうすれば良いのか全く分からなかった恭子は、控え目に声をかける。

「あの……、真澄さん?」
「何?」
「今日は、どういうご用件でこちらにいらしたんですか?」
 その問いに真澄は顔を上げ、多少面白がっている様に笑いかけてきた。

「聞きたい?」
「はい、できれば」
「じゃあ、私も恭子さんに聞きたい事があるから、まずそこに座って」
「……はぁ、失礼します」
(やっぱり女王様だわ……)
 口調は丁寧ながらも、何となく逆らう事を許さない空気を醸し出す相手に、恭子は小さく溜め息を吐いた。
 一方の真澄は、恭子が自分の向かい側に座るやいなや、さらりと核心に触れてきた。

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