世界が色付くまで

篠原 皐月

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第65話 彼女の仕事

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 浩一同様、口の中で清人に対する悪口雑言を呟きながらタクシーの後部座席に収まっていた恭子は、暫くして静かに停車したタクシーの運転手から、目的地の住所で有る事を告げられた。
 礼を述べて運賃を払い、降りて目の前にそびえ立つ高層マンションを見上げる。

「ここ、よね?」
 低層階には各種店舗、事業所などが入っており、その上層が住人の居住スペースになっている事を見て取った恭子は、案内板で集合マンション用の出入り口を探して歩き出した。

「ええと、住所はここの十八階……、住居スペースの入り口はあそこよね。あら?」
 そこで何気なく通り過ぎかけてから、恭子は足を止めて商業スペースに入居している店舗や団体の一覧が書かれているプレートを凝視した。

「偶然? ここの三階に入ってる【葛西クリニック】って……、先生の先輩の葛西さんのとか?」
 しかし首を傾げて考え込んだのは一瞬で、頭を切り替えて再び目的地に向かって歩き出す。
「とにかく、行ってみましょう」
 自分自身に言い聞かせつつ恭子は足を進め、首尾良くエントランスに入って部屋番号のボタンを押した。

「はい、……ああ川島さん、お待ちしてました」
「あの……、葛西さん、ですよね?」
 名乗る前に自分の名前を口にした事、加えて聞き覚えのある声に、若干躊躇いながら恭子は確認を入れた。するとスピーカー越しに笑い声が伝わってくる。

「ええ、そうです。あいつ、俺の名前を伝えていなかったんですか?」
「はい」
「そうか……、まあ、そんな所で立ち話もなんですから、どうぞ入って下さい」
「失礼します」
 そうして恭子は目の前で静かに開いた自動ドアの向こうに足を踏み入れ、迷うこと無く正面のエレベーターに乗り込んだ。
 そして無事に清人から指定された部屋に辿り着き、葛西に招き入れられた恭子は、ソファーに落ち着いてからここの家主に問いかけた。

「それで、先生からは至急の用件で、こちらの部屋に出向く様に指示を受けたのですが、どういったご用件がおありですか?」
 それを聞いた葛西は含み笑いをしつつ、足と掌を組みながら答える。

「用件……、用件、ね。まあ、確かに有るかな? 近頃面白い事が無くて、暇で暇でしょうがなくてね」
「……それは大変ですね」
 何となく続く言葉の予想がついた恭子だったが、半眼になりつつ義務的に尋ねた。すると予想に違わない台詞が返ってくる。

「そう清人に愚痴ったら、『先輩が暇を持て余していると、ろくな事考えないし、傍迷惑な事をやりかねませんから、暇つぶし要員を送ります』と言われてね」
「先生に危険人物認定されるなんて、よっぽどですね」
 失礼なのは承知の上でそう述べたが、その返答が気に入ったらしく葛西が破顔する。

「自分でもそう思うよ。だから君を一晩五十万で借り受けたんだ。朝まで俺を楽しませてくれ」
「…………」
(ああ、なるほど……。そう言う事か。良く分かったわ)
 唐突に言われた内容に、恭子は思わず口を閉ざした。しかし頭の中では冷静に考えを巡らす。

(先生と同系統の人間……。十分稼ぎはある。加えて女好きする容姿だから、普通に考えて、女を切らした事は無い筈……)

「うん? 五十万じゃ不満かな?」
 表情を消して黙り込んでいる恭子を、葛西は面白そうに見やった。すると恭子は、その顔にうっすらと笑みを浮かべながら問い返す。

「いえ、具体的にどういう方法で楽しみたいのかの、ご希望はおありですか?」
「特には無い。全面的に君に任せる」
「そうですか……」
 そして恭子は静かに立ち上がり、二人の間にあったローテーブルを回り込んで、葛西の目の前に立った。そして相変わらず微笑みながら葛西を見下ろす。

「今夜のお相手が、葛西さんで良かったです」
「おや、それはどうしてかな?」
「先生と真澄さんの披露宴で面識がありましたし、《にんげんがっき》を頂いた時に少しお話しして、どういう方なのか幾らかは把握できているつもりですから」
「それはそれは」
「ですから……」
 そこで恭子の視線から何かを察したらしい葛西は、組んでいた足を外し、両腕を広げた。するとその膝の上に恭子が横座りになりながら、両手を葛西の首の後ろに回す。そして軽くしなだれかかりながら、その耳元に顔を寄せて小声で囁いた。

「朝まで……、存分に楽しんで頂けると思いますわ。私、引き出しは結構多い方なんです」
「それは良かった。宜しく頼むよ」
「お任せ下さい」
 恭子の方に顔を向けず、正面の壁を見るとも無しに眺めながら皮肉げな笑みを浮かべた葛西は、そこで何かの合図の様に彼女の腰に手を回し、軽く引き寄せた。

「随分遅いな……」
 仕事に一区切りつけて何気なく時刻を確認した浩一は、既に日付が変わっている事に気が付いて、無意識に眉を寄せた。恭子が帰ってくれば一言挨拶があると思ったからだったが、案の定リビングにも彼女の部屋にもその姿は無く、まだ帰宅していない事実に今度は懸念が深まる。
 どんな仕事を言いつけられたのか分からない為、連絡を取ったら邪魔になるかもと躊躇した浩一だったが、一応彼女の携帯にメールを入れてみた。しかしお茶を淹れてそれを飲み終わっても梨の礫で、浩一の機嫌は益々悪化していく。そこでふと彼は、恭子が出がけに破り取って行ったメモ用紙の事を思い出した。

「そう言えば、あれが有ったな……」
 そう呟きながら立ち上がり、まっすぐ電話の所に歩み寄った浩一は、その横に置いてあるメモ用紙の束を取り上げた。そして筆記用具を入れてある引き出しを漁り、鉛筆が見当たらない為シャープペンシルを取り出す。そして芯を出した浩一は、それを斜めにしてメモ用紙の中央部を軽く擦り、上に重なっていた用紙に書いた時の筆圧で残った跡を、微かに浮かび上がらせた。

「この住所……、見覚えがあるんだが、何処だったか……」
 メモ用紙を凝視して浩一は真剣に考え込んでしまったが、それは長くは続かなかった。ふと思いついた浩一が慌てて自分のスマホを取り上げ、その中の住所録を確認すると、《葛西芳文》の項目にあった住所と、メモに記載された番地が一致する。

「やっぱり、先輩のクリニックが入っているマンションの住所だな。そこの上層階に住んでいると、聞いた記憶があるし。だが……」
 ここで恭子の行き先が判明したのも束の間、浩一は益々顔付きを険しくして、電話をかけ始めた。しかし葛西の自宅も携帯も反応は無く、小さく舌打ちして通話を終わらせてから、浩一は深夜にも係わらず、続けて清人の携帯に電話をかけた。

「浩一……、お前、もう一時を回っているのに、何を電話してくるんだ」
 そう文句を言っている割には呼び出し音は殆ど聞こえ無かった事と、眠そうな感じは全くしない声音に、浩一は恐らく自分からの電話を待っていた様に感じた。それに益々怒りを覚えながら、それでも可能な限り平静を装いつつ、清人に問いかける。

「清人、ちょっと聞きたい事が有るんだが」
「何だ? わざわざこんな時間にかけてくるんだから、重要な話なんだろうな?」
「お前、十時頃、恭子さんに仕事を言いつけたよな?」
「ああ、いつも通りな。それが?」
「仕事先は、葛西先輩の所だよな?」
「ああ、そうだが。どうしてそれを知ってる? 連絡した時は、お前はまだ帰ってないと彼女が言ってたが」
「彼女が書き取った住所の記載が、メモ用紙に残ってた」
「それはそれは」
 淡々と自分の問いに応じる清人に、浩一は段々いたぶられている気持ちになってきたが、何とか堪えながら質問を続けた。

「それで……、何の様で彼女を先輩の所に行かせたんだ? まだ戻って来てないんだが」
 浩一がそう口にすると、電話の向こうから清人の小さな口笛の音が聞こえた。
「……流石だな。この時間まで帰って来ないって事は、あの性格が捻くれまくっている先輩に、相当気に入られたって事だ」
 すっかり自分を棚に上げ、クスクスと笑い出した清人に、浩一は押し殺した声で恫喝した。

「そんな事はどうでも良い。さっさと理由を説明しろ」
「何の事は無い。葛西先輩から『暇で暇で仕方が無いから、暇潰し要員を送れ』とゴリ押しされたから、彼女を一晩五十万で貸し出しただけだ」
「何ふざけた事を、言ってるんだお前はっ!!」
 しれっとした口調でとんでもない事を口にした清人に、浩一は我を忘れて怒鳴り付けた。しかし清人は浩一の怒りなどどこ吹く風で、平然と言い返す。

「ちょっとバタバタしてたんで連絡した時に詳細は省いたが、あいつには先輩からちゃんと説明しただろうし、納得ずくで『暇潰し』するだろ? 第一、無理強いするとかは先輩が興醒めする事確実だろうし、双方宜しくやってるさ」
「貴様……」
 ここで浩一が歯軋りをして唸ったが、清人は若干気分を害した様に文句を口にする。

「なんだ? 俺に文句を言うのは筋違いだと思うが。お前が彼女の《仕事》に口出しする権利はないし、現に今までだってしてこなかっただろう? 第一、こんな危険性が皆無の上、方法は全面的に彼女に任せると先輩が言ってた、頗る楽でぼろ儲けな仕事、あいつが断る筈が」
「とっととくたばれ!! このろくでなしがっ!!」
 ダラダラと続く清人のセリフを絶叫で遮った浩一は、そのままの勢いで手にしていたスマホをリビングの壁めがけて投げつけた。
 一直線に飛んで行ったそれは、ドゴッ!と重量感のある不吉な音を立てて壁に激突し、そのまま床に落ちて再度派手な衝突音を室内に響かせる。その一部始終を血走った眼で見届けた浩一は、乱れた息を何とか整えながら乱暴にソファーに腰かけ、その背もたれに体を預けながら、天井を見上げる様にして、静かに目を閉じた。
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