世界が色付くまで

篠原 皐月

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第64話 転機

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 ガラスケースの中に整然と並べられた品々が、それぞれ存在感を示す様に煌めき、または色鮮やかな色彩を誇っている店内で、浩一は結構珍しい、一人で来店した男性客として、密かに店内の従業員の視線を集めていた。対する浩一はそんな好奇心旺盛な視線など物ともせず、幾らか吟味した後で自分の要望を伝える。それを受けて女性従業員が手配を進め、簡単なやり取りの後、浩一が差し出された書類にサインを済ませると、彼女は深々と頭を下げて説明を加えた。

「それでは、確かにご要望は承りました。三週間ほどお時間を頂きます。お引き渡しが可能になりましたら連絡を差し上げますので、少々お待ち下さい」
「宜しくお願いします」
「お買い上げ、ありがとうございました」
 見送りに出入り口まで出て、頭を下げてきた従業員に軽く会釈し、浩一は次の目的地に向かって歩き出した。

「さて、これからが少々厄介だな」
 つい先程までは本心からの笑顔を浮かべていた浩一だったが、そう呟くなり瞬時に顔付きを改め、鞄を握り締める手に無意識に力を込めながら、無言で歩き続けた。
 そして宝飾店を出てから四十分後。待ち受けていた料亭の一室で、約束の時間から五分が経過した所で、招待客が浩一の前に姿を現した。

「やあ、柏木。待たせたな」
「いえ、五分位何でもないです。それより、先輩のお手を煩わせて申し訳ありません」
「それは一向に構わんがな」
 立ち上がって出迎えた浩一に、大学時代の先輩である小出和彦は苦笑いで応えつつ、時間を無駄にはしないとばかりに、早速同伴してきた人物を紹介してきた。

「それで……、柏木、こちらはグラーディンス日本支社長の、リチャード・カーマイケル氏だ」
 そうして件の人物に体を向け、今度は浩一を紹介する。

〔リック、こちらが学生時代の後輩で、柏木産業に勤務している、コウイチ・カシワギです。あなたに紹介してくれと煩いので。ついでにこいつに美味い飯を奢らせようと、付き合って貰いました〕
〔相変わらずだな、カズ〕
〔こいついい家のボンボンですからね。それなりに舌が肥えてますから、安心して下さい〕
〔やれやれ、私まで相当食い意地が張った男だと、思われるじゃないか〕
 下手をすると自分が美味いタダ飯にありつく為だけに引っ張り出したとも取れる発言に、五十前後の栗色の髪の男性は、目元に皺を寄せて失笑した。
 浩一も小出の皮肉混じりの物言いには慣れていた上、裏で相当便宜を図って貰った事は何も言わずとも分かっていた為、右手を差し出しながらにこやかに挨拶をする。

〔初めまして、Mr.カーマイケル。お会い出来て嬉しいです〕
〔リックと呼んでくれて構わないよ? ええと……、コゥチ? カゥチ?〕
 僅かに戸惑いながら呟いたリチャードに、浩一が微笑みながら提案した。

〔コゥ、で構いません。英語圏の方には、そう呼んで貰っています〕
〔それは良かった。私だけがヒアリング能力に問題があると思われたく無いからね〕
〔それでは座りましょうか〕
 会話の流れを見て小出が二人を促し、三人は席に着いた。そして日本酒も飲めるとのリチャードの申し出により、料理と一緒に冷酒を運んでもらい、和やかに世間話をしつつ味わっていると、料理も中盤に差し掛かった所で、リチャードが真顔で向かい側に座る浩一に問いを発する。

〔それで? 確かにここの懐石料理は味も見た目も一級品だが、コゥはこの店を売り込む為に、私を引っ張り出した訳では無いのだろう?〕
 その問い掛けに、笑顔で会話していた浩一は瞬時に顔付きを改め、密かに気合いを入れて相手を見返した。

〔はい。商談をしたいと思ってはいますが、買って頂きたいのはこの店ではありません〕
〔それでは何かな? 君が勤務している柏木産業は、あらゆる物品やサービス、情報をやり取りする所だと思っていたのだが……。生憎と私の所で取り扱っているのは、会社や人材なんだ〕
〔ええ、承知しています。ですから、私を買って欲しいんです〕
〔は?〕
 サラッと自分を売り込んできた浩一に、リチャードは虚を衝かれて唖然とし、小出は驚きで一瞬固まってから、盛大に文句を口にした。

「おい! 柏木! 今日そんな話をするつもりだったのか? 聞いて無いぞ!?」
 さすがに騙し討ちに近い形になってしまった事実に、浩一は素直に詫びを入れた。

「すみません、正直に言ったら、引き合わせて貰う前に色々言われるかと思いましたので……」
「当たり前だろ! お前、一体何を考えて」
〔コゥ? 君は柏木産業の社長の息子だと聞いていたんだが?〕
〔その通りです〕
 小出の台詞を遮り、注意深くリチャードが尋ねてきた為、浩一は神妙に頷いた。それを見た彼が、益々怪訝な顔をする。

〔親がトップを務める会社に入社して、順調にキャリアを積んでいたのに、その会社を辞めると? ひょっとしてこれは、ジャパニーズ・ジョークなのかい?〕
〔勤務初年度の年俸を百万ドル要求した場合、ジョークかと言って欲しかったですね。……ああ、でもこれならアメリカン・ジョークで、ジャパニーズ・ジョークなら、年俸は十万ドルと言うべきでしょうか?〕
 そんな事を平然と笑顔で言ってのけた浩一に、小出は片手で額を押さえながら呻いた。

「お前な……、ここでそんなくだらん冗談を言うな。全然笑えん」
「先輩には無理でも、カーマイケル氏にはそれなりに受けたみたいですよ?」
「……勝手に言ってろ。俺はもう知らん」
 自分の横に座っている人物が、口元に手をやってクスクスと面白そうに笑っているのを見て、小出は完全に匙を投げた。すると笑みを消したリチャードが、浩一を凝視しながら話を進める。

〔なるほど。良く分かった。それでは君の要求を聞こうか。希望する職種はどこだい? 営業だとは思うが〕
〔あなたの会社で雇って頂きたいんです〕
〔……ほう? 畑違いの所に飛び込むつもりかね?〕
 就職斡旋要求ではなく、自社への就職希望だと分かったリチャードは再度驚き、小出は盛大に食ってかかった。

「お前、正気か!? それなら尚更、俺に話をしておけよ!」
「先輩に話をしたら、止められると思ったもので」
「当たり前だろうが!」
「カズ、うるさいです。他のお客の迷惑です。静かにしなさい」
「……申し訳ありません」
 吠え立てる部下にリチャードが顔を顰めて窘めると、思わず浩一がその日本語に反応した。

「お聞きしていた通り、日本語がお上手ですね」
「ありがとう」
〔それで? どうするおつもりですか? 支社長。私としては向こう見ずな後輩を諫めて、思いとどまらせたい所なのですが〕
 微笑みながら礼を述べると、リチャードは仏頂面の部下の呟きを受けて、真剣な表情で考え込んだ。しかしすぐに結論を出す。

〔それでは、コゥ。君の望みを叶える為に、こちらから提示するテーマで、幾つかのレポートを書いて貰う。それと同時進行で、社内の人事部に掛け合ってみよう〕
〔ありがとうございます。宜しくお願いします〕
〔礼を言うのはまだ早いな。それで、やはり東京支社勤務希望かな?〕
〔それには拘りません〕
「……マジかよ」
 キッパリ言い切った浩一に小出は本気で頭を抱え、リチャードの表情も真剣さを増した。

〔どうやら本気らしいな。実は四月に本社からボスが視察に来る予定だ。顔を合わせる機会を作ろう。ボスからのOKが出たら、即刻採用決定だからな。それでは勤務地が本土でも構わないね?〕
〔勿論。こちらには寧ろ好都合です〕
〔それならこちらとしても問題無い。現在の業務をこなしながら、こちらの満足する内容の物を仕上げるのはなかなか大変だと思うが、頑張ってくれたまえ〕
〔ご期待にそえる様に頑張ります〕
〔分かった。それでは連絡先を交換しておこうか。但し、それは食べ終わってからだな。せっかくの芸術品をしっかり味わいたい〕
〔和食にも造詣が深い様で、嬉しい限りです〕
 あっさりと話が纏まり、再び和やかに会話しつつ食べ進めていく二人を見て、小出は思わず愚痴を零した。

「全く……、驚かせるなよ。清人の奴からも、何も聞いて無いぞ? あいつと義理の兄弟になってから円満に過ごしてると思いきや、派手に喧嘩でもしたのか?」
「いえ、清人とは喧嘩していません」
「『清人とは』か。会社も出るとなると、察するに親父さんとか?」
「……どうとでも、解釈して下さい」
 鋭く突っ込んできた小出から目を逸らしつつ浩一が答えると、そのやり取りで何か感じる所があったのか、唐突にリチャードが口を挟んできた。

「コゥ? 日本を飛び出す気概は大変結構ですが、親兄弟に対して変な遺恨を残しては駄目ですよ? きちんと清算しなさい」
 そう言い聞かされた浩一は、苦笑する事しかできなかった。

「難しい日本語をご存じですね。今時の若者より、余程お上手です」
「それは光栄だ」
 それからは三人で市場の話などで盛り上がり、比較的楽しい一時を過ごした。

「ただいま」
「あ、浩一さん、お帰りなさい!」
 マンションに帰り着くと、何故かリビングでは恭子が慌ただしくコートを羽織り、ハンドバッグの中身を確認している所だった。
「随分バタバタしているけど、何かあったの?」
 当惑して尋ねた浩一に、恭子が忌々しげに答える。

「それが……、あのど腐れ鬼畜野郎、十分位前に電話を寄越しまして。至急やって欲しい事ができたって言うんです」
「至急って……、もう十時半過ぎてるけど……」
 反射的に腕時計で時間を確認して眉を寄せた浩一に、恭子も軽く頷きながら説明を続ける。

「『夜道を歩くのも物騒だから、タクシーを手配したからそれで行け』って言いまして。タクシー代は、後から支払ってくれるそうです。そろそろ下にタクシーが到着する時間……、ああ、もう来ちゃった!」
 そこでインターフォンの呼び出し音がなった為、恭子は慌てて壁際に走って応答した。

「……はい、川島です。すみません、今すぐ降りますので」
 タクシーの運転手に断りを入れてから、恭子は固定電話の横に置いてあるメモ帳の一番上を剥がし、それをバッグに入れながら浩一に声をかけた。

「浩一さん、帰りが何時になるか分かりませんので、先に寝ていて下さい。お風呂は、もう沸かしてありますから」
「ああ、分かった。だけどどこに?」
「電話で先生から、この住所に言ってくれと言われただけで、私も良く分からないんです。じゃあ行って来ます!」
「ああ、気をつけて」
 気が急いているらしい恭子を引き止めるのも悪いと思い、浩一は半ば呆然としながら彼女を見送ったが、その反動で思わず原因の人物に対しての悪態を吐き出した。

「全く……、あいつは何を考えてるんだ……」
 呆れた様に首を振った浩一は、結構緊張した会食の場を振り返りつつ、着替える為に自室へと向かった。
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