半世紀の契約

篠原 皐月

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第46話 美子の動揺

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「俊典君、取り敢えず落ち着いて」
「美子さん? そうは言っても!」
「いいからちょっと黙って、これで頭と服の汚れを拭いていて。ええと、あなた? つまずいたみたいだけど、怪我とかはしていない?」
「あ、はい! 私は大丈夫です。本当に申し訳ございませんでした!」
 尚も言い募ろうとした俊典を、美子は有無を言わせぬ口調でおしぼりを握らせつつ黙らせてから、ウエイトレスに向き直ってやや強引に話を変えた。そして彼女が盛大に頭を下げるのを見ながら、神妙に傍らの男性に声をかける。

「今の様な事は、今回が初めてですよね? こんな失態を繰り返す様なスタッフを、父や叔父達が贔屓にしているお店が雇用している筈ありませんし」
「勿論この様な失態は、こちらの者を含めて店の者全員、犯した事がございません。あの……、それでお父上と仰いますと、どちら様でしょうか?」
 更に懸念を浮かべつつ慎重に尋ねてきた相手に、美子は内心で(かかった)と安堵しつつ、さり気なく父と叔父の名前を口にした。

「彼の父親は倉田和典で、私の父は藤宮昌典と申します。二人は実の兄弟で、私達は従姉弟同士なんです。私は今回初めて来店したのですが、父達から『料理も雰囲気も良い』と何度か話を聞いた事があります」
 それを聞いた相手は益々恐縮しきりの態になって、再び頭を下げた。

「倉田議員と、藤宮社長のご家族の方でいらっしゃいましたか。確かにお二方にはご贔屓にして頂いております。この度の不手際、誠に申し訳ございません」
「予想外の事で思わず声を荒げてしまいましたが、父達が贔屓にしている店でこれ以上騒ぎを大きくしたりはしません。父達にこれからも気持ち良く、こちらの料理を味わって頂きたいですし」
「ありがとうございます。お二方にも、宜しくお伝え下さい」
 美子に気圧されて黙っていた俊典は、ここに至って父親の面子を潰す訳にはいかないと、これ以上余計な事は言わない事に決めた。そんな彼の様子を横目で確認して安堵した美子は、男性に向かって申し出る。

「取り敢えずここのテーブルを整え直すか、他のテーブルに移動させて頂いた上で、続きのお料理を出して頂けますか? そして食べている間に、彼の上着の大まかな汚れだけ取っておいて貰いたいのですが。流石に食事が済むまでの間に、クリーニングは無理でしょうし」
 そう提案した美子に、彼は納得した様に深く頷く。

「畏まりました。上着をお預かりします。それから後程、クリーニング代はこちらにご請求下さい。それから、本日の御飲食代はお支払いは結構ですので」
「ありがとうございます。それと、できれば厚かましいお願いを一つ、させて頂きたいのですが……」
「何でございましょう?」
 若干申し訳なさそうに言い出した美子に、男性は勿論俊典もどうしたのかと首を傾げたが、美子はささやかな提案を口にした。

「店内のお客全員に希望を聞いて、グラスワインかソフトドリンクを一杯ずつ、またはデザートの追加を提供して頂けるかしら? 必要以上にお騒がせして、不快な思いをさせてしまった事に対する、私達からのお詫びとして」
 それを聞いた相手は、快く請け負って恭しく頭を下げる。

「畏まりました。勿論そちらも当店の負担と致しますので、最後までお食事をお楽しみ下さい」
「ありがとうございます」
 そんな会話の間に、男性の目配せを受けてスタッフが手早く整えておいたらしく、すぐに別のテーブルに案内された美子達は、席に落ち着くと同時にカトラリーも揃えられ、すぐに次の料理である和牛サーロインのローストが提供された。きちんとタイミングを見計らって出されたそれを早速切り分けながら、美子が満足そうに微笑む。

「取り敢えず、支払いはせずに済みそうで良かったわ」
 しかしその呟きは些か能天気に聞こえたらしく、俊典が苛立たしげに応じる。

「当然だ。だけど美子さんは人が良過ぎるよ」
「そうでもないわよ? けっこうえげつない事をしちゃったもの」
「どう言う事?」
 小さく笑った従姉に俊典が不思議そうな顔になると、美子は苦笑しながら解説した。

「突然サービスの事を言われたら、大抵の人は訝しんで理由や誰からの物なのかを尋ねるでしょう? そこで名目上の提供者の倉田の名前が出るわ。わざと名乗る様に仕向けたもの」
「それで?」
「ここの客層はそれなりだし、『あんな酷い扱いを受けながら寛大にも許した上、周囲への気配りも忘れないとは』と他のお客様に感心して貰えたら恩の字よ。どこかで話題として倉田の名前を出して貰うだけでも良いし。下世話な言い方だけど、グラスワイン一杯分の金額で一票に繋がったら安いと思わない? あ、でも、店側で負担してくれるわけだから、こちらの懐は痛まないし、益々結構ね。あれ以上怒鳴りつけても周囲から眉を顰められるだけだから、あそこが引き時だと思ったの。不愉快だとは思うけど、ここは我慢してね?」
 そう言ってにっこりと微笑んだ美子を見て、俊典は呆気に取られた顔付きになった。

「計算ずくで?」
「まあね。こっちを見ている他のお客と目が合ったら、微笑んで軽く会釈しておいて頂戴」
「……分かった」
 そう説明しながら、早速サービスの提供を受けた少し離れたテーブルの客から会釈されたらしい美子が、自分の肩越しに微笑みつつ軽く会釈したのを見て、俊典も素直に頷いた。そして自嘲気味に感想を漏らす。

「本当に、美子さんには敵わないな」
「そんな事は無いわよ」
 そうして二人は何事も無かったかのように食事を再開したが、そんな二人を密かに観察していた二人組のテーブルにも、ウエイターがやって来てお伺いを立てた。

「お客様、あちらの倉田様からお騒がせしたお詫びとして、ワインかソフトドリンク、もしくはデザートの追加を承っておりますが、どれをご希望されますか?」
 手振りで美子達のテーブルを指し示したウエイターに、尋ねられた客は素知らぬふりで尋ね返す。

「ああ、さっき料理をぶちまけられた人物か。しかし倉田と言うとどちらの? ここの常連なのかな?」
「あのお客様は初めてのご来店ですが、お父様が衆議院議員の倉田和典様で、良くこちらをご利用になっておられます」
 スラスラと説明してきたウエイターに、男は如何にも感心した様に頷いてみせる。

「なるほど。さすがは代議士の家の方だと、物の道理を弁えていらっしゃるらしい。ありがとう、それではこれと同じワインを頂くよ。お前もそれで良いな?」
「ああ」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
 自分のワイングラスを指差しつつ同席の男に尋ねると、短く即答した為、ウエイターは一礼してその場から立ち去った。それと同時に、男二人が声を潜めて苦笑いする。

「白々しい物言いだな、啓介。しかしあの坊ちゃん、なかなかやるじゃないか」
「仕切ったのは彼女じゃないのか? ここから見た感じ、主に喋ってたのは彼女の方だし、何と言っても白鳥先輩の女だぞ?」
「なるほど。それもそうか」
 そこで相手を納得させた啓介は、丁度近くを通りかかったウエイトレスを、軽く片手を挙げて呼び寄せた。

「お客様、お呼びでしょうか?」
 そのウエイトレスは先程俊典に向かって失態をやらかした女性だったのだが、その彼女に向かって、彼が折り畳まれた何枚かの一万円札を指で隠す様にしながら、テーブル上を滑らせる。

「約束のチップだ。予想以上に頑張ってくれたから、上積みしてある」
「お心遣い、誠にありがとうございます」
 すると彼女はさり気なくそれを掌で握り込み、白いエプロンのポケットに滑り込ませると、何事も無かった様に店の奥に戻って行った。
 そしてコースもデザートまで進んだところで、俊典が若干言い難そうに話を切り出した。

「それで……、最初の話に戻るんだけど、実は今、付き合っている人がいるんだ」
「え? そうなの?」
「ああ。そんな状態で母に先走られて、俺としても困っていたんだけど……」
「それならその事を、きちんと照江叔母さんに言わないと」
(何だ、俊典君にちゃんとそういう人がいるなら、どうやって穏便に断ろうかと悩む必要は無かったんじゃない。それに最初にそう言ってくれれば良いのに、本当に時間の無駄だったわ)
 ちょっと脱力しつつ安堵した美子だったが、俊典は益々重苦しい空気を纏わせながら話を続ける。

「それが……、父さんや母さんに言っても、快く賛成して貰えないと思って。寧ろ『そんな相手じゃなくて、美子さんにしなさい』って益々強硬な態度に出られたり、彼女に嫌がらせしたりする可能性があると思ったから、はっきり言い出せなかったんだ」
 それを聞いた美子が、困惑して眉根を寄せながら考え込む。

「和典叔父さんも照江叔母さんも、そんなに頭の硬い人じゃないと思うけど……。まさかひょっとして、人妻とか?」
 そんな可能性を美子が口にした為、俊典は慌てて否定してきた。

「まさか!? 彼女は独身で未婚だよ! 未亡人でも無いし!!」
「ごめんなさい、つい。……でも、何だか複雑な事情がありそうね」
「そうなんだ。だけど彼女は本当に気立ては良いし、万事控え目だし、確かに政治家の妻としては向かないかもしれないけど、良い人なんだよ」
「そうなの」
 切々と訴えてくる彼に、美子は内心どうしたものかと困惑していると、俊典が予想外の事を言い出した。

「それで、絶対美子さんも気に入ってくれると思うから、今度一度、彼女に会って貰えないかな?」
「彼女も交えて、三人で会うって事?」
「そう。……駄目かな?」
 若干縋る様な目で見られて、美子は正直面倒事に巻き込まれたくはないと思ったものの、縁談をごり押しされるよりはマシかと、快諾する事にした。

「そんな事無いわよ? 俊典君がそこまで言う人に興味があるし、都合が付けば会ってみたいわ」
「良かった、ありがとう。近いうちに都合を擦り合せてみるよ」
(要するに、叔父さん達が渋い顔をしそうな恋人をまず私に紹介して、叔父さん達に口添えして欲しかったわけね。こんな面倒な事を頼むのに、電話で済ませるのは拙いと思ったわけか。でも叔父さん達が渋りそうな人って、気になるわね。どう考えても拙そうだったら、やっぱり悪者になるつもりで、私からも一言言ってあげないと)

 言うだけ言って、如何にも安堵した様に珈琲を飲み干している俊典を眺めながら、美子は相手に分からない様に小さく溜め息を吐いた。
 それから食事を終えた二人は、預かって貰っていた上着とコートを身に纏い、何人ものスタッフに頭を下げて見送られて店の外へ出た。そして表通りに出て歩きながら、笑顔で言葉を交わす。

「俊典君、今日はご馳走様」
「あ、いや……、今日は結局、支払いはせずに済んだから」
「そう言えばそうだったわ。じゃあ災難だった上、ご苦労様でした」
 そう言って美子が軽く頭を下げた為、俊典は苦笑しかできなかった。

「本当に、笑い話だな。頭からソースを被ったなんて、初体験だよ」
「これからも無いでしょうね。もう宝くじの売り場窓口が閉まっていて残念ね。買ったら何か当たったかもよ?」
「それはちょっと酷いな」
(良かったわ。俊典君もお店の失態は水に流してくれそうだし、お互いに気分良く帰れるわね)
 気まずい思いをして別れずに済みそうだと、美子はほっとして笑顔を振り撒いたが、そんな二人を少し離れた所から様子を窺っている一団が居た。

「啓介、翔、待たせたな」
「ああ、ご苦労様です、先輩。獲物はあそこですよ」
「馬鹿面晒して笑ってます」
 仕事帰りの秀明が、長い付き合いの後輩達に背後から声をかけると、二人は笑いながら前方を指差した。そして何気なく目をやった秀明は、仲良さ気に笑い合って歩いている男女を見て、僅かに目を細めながら囁く。

「……ブツは?」
「抜かりなく、ここに準備してありますが」
「俺にもやらせろ」
 翔が手に提げていた紙袋を指し示すと、秀明が予定外の事を言い出した為、二人は不思議そうに尋ねた。

「先輩?」
「面が割れない様に、今まで彼女と面識が無い、俺達に声がかかったんじゃないんですか?」
「気が変わった」
 不穏な気配を漂わせながら、紙袋の中から特殊蛍光染料が封入された防犯用のカラーボールを取り出した秀明に、啓介や翔は反論や口答えなどする気など微塵も起きず、黙って自分達もボールを手に取った。

「じゃあ、美子さん。近いうちにまた電話で連、うあっ!?」
「え? ちょっ、な、何!?」
 いきなり背中に感じた衝撃に、俊典が思わず声を挙げて背後を振り向くと同時に、彼の胸、腹、足と立て続けに何かが当たり、黒のコートが忽ち蛍光オレンジにまみれた。

「何だ、どこから? いてっ!! おい! 誰だ!?」
 振り返った美子は、七~八メートル程離れた所から三人の男性らしい人物が、次々とカラーボールを俊典目がけて投げつけているのは分かったが、唖然として咄嗟に行動できなかった。

(どうして俊典君を狙って投げてるの!? それに、はっきり識別できないけど)
 疑念を抱いた美子だったが、ここで漸く我に返って、両手を広げつつ歩道に蹲った俊典を庇う様に彼の前に立った。

「ちょっとあなた達!! 公道で悪ふざけは止めなさい!! 警察を呼ぶわよ!!」
 その美子の行動に啓介と翔は思わず小さく口笛を吹き、俊典に対して悪態を吐く。

「おいおい、女に庇われてんじゃねーぞ」
「とんだヘタレ野郎だな。どうします? ここから投げたら彼女に当たるんですが」
 そうお伺いを立てた二人に、秀明は即答した。

「もう、お前達は帰って良いぞ。すり抜けざまに当てて最後にしろ。俺が注意を逸らす」
「了解!」
「お疲れ様でした」
 即座に話が纏まった為、二人は一つずつボールを掴むと、背中を向けて逃げるどころか、美子と俊典に向かって突進してきた。

(え、何? こっちに向かって……、って、ちょっと!?)
 さらに残った一人もボールを持ち、自分に向かって振りかぶった為、当てられると思った美子は反射的に頭を庇って蹲る。

「……っ!!」
 しかし予想外に駆け寄る足音が通り過ぎても、衝撃を感じなかった為、(外した?)と美子が不思議に思ったのと同時に、背後で俊典の悲鳴が上がった。

「うわっ!!」
「俊典君!?」
 慌てて頭を上げると、駆け寄って来た二人は至近距離から俊典の頭めがけて二つのカラーボールを命中させた為、彼の頭部が悲惨な事になっていた。取り敢えず彼にバッグから取り出したハンカチを渡してから、思い出して周囲を見渡したが、当然不届き者はとっくに立ち去った後であり、美子は盛大に歯軋りする。

(もういない……、まんまと全員に逃げられたわ。だけど……、最後の一個だけ外した? 偶々?)
 そして目の前の歩道に一個炸裂したボールの残骸を見ながら、美子の頭の中にある疑念が浮かんだ。

(それに……、街頭の近くじゃ無かったし、あそこの店舗の看板や照明だと、はっきり見えない上に逆光だったから確信を持てないけど、あの男だった様な気が……)
 無意識に携帯を取り出して、相手を問い詰めようと電話をかけようとして、美子は何となくかけるのを躊躇った。

(まさかね。第一、どうして彼が、俊典君に嫌がらせをする必要があるのよ。最近はどこも物騒になってきているから、偶々ろくでも無い事をして遊んでいる連中の標的になっただけよ)
 そしてショックの余り茫然自失状態の俊典に声をかけ、タクシーを止めて座席が汚れない様にコートを脱がせてから乗り込ませた美子は、すっきりしない気持ちを抱えながら、それに同乗してその場を離れた。

「あれで俺が分からなかったか? それとも、確認するのも馬鹿らしいと?」
 襲撃の現場から一時間かからずに自宅マンションに帰り着いた秀明だったが、この間沈黙を保っていたスマホを取り出し、それを見下ろしながら薄く笑った。

「やはり……、微塵も遠慮する必要は無いらしい」
 そう呟いた秀明が、机の引き出しからUSBメモリーを取り出して目の前にかざすと、透明なカバーに覆われたその金属部分が、室内の照明を反射して不吉な輝きを見せた。
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