12 / 74
第2章 さまよう心
1 失った記憶
しおりを挟む
「ファンローゼ、お庭にいるのかしら?」
庭の花壇に咲く花に水をあげていたファンローゼは手をとめた。
振り返ると、六十代前後の婦人が玄関口に立っている。
自分の名を呼びかけたのは彼女だ。
「お庭にいたのね。お使いを頼んでもいいかしら」
「はい、アレナおばさま」
にこやかな笑みを浮かべ、ファンローゼは返事をする。
ふわりと吹く柔らかな風にのって、甘い花の香りがただよう。
真っ白な家の壁に映える色とりどりに咲く花。
この家の住人は花好きだということがうかがえる。
「玄関に飾るお花をお願いしようと思って」
これだけ庭に花が咲いているにもかかわらず、ファンローゼにわざわざ花を買いに行かせるにはどうやら理由があるようだ。
アレナ夫人はファンローゼにいつもよりも多めの代金を手渡し、にこりと微笑んだ。
「あの、多すぎます……」
「たまには好きなものを買ってきなさい」
「いえ、私は何も……」
「いいのよ。あなただって年頃の女の子、欲しいものの一つや二つあるでしょう?」
「私はもうじゅうぶんすぎるくらい、よくしていただいています。見ず知らずの私をこの家に置いてくださって」
「あなたみたいな娘なら、いつまでもいて欲しいくらいよ。大歓迎だわ。いいえ、あなたはもう、うちの娘のようなものなのだから遠慮してはだめ。でもそうね、もう少し私たちに甘えてくれたら嬉しいのだけれどね」
アレナ夫妻には残念ながら子どもに恵まれなかった。それもあってか、ファンローゼのことを可愛がってくれた。
ファンローゼは複雑な笑みを浮かべた。
アレナ夫人の気持ちがとても嬉しかった。と同時に心苦しくもある。
いったい、自分は誰なのだろう。
三年前、ラーナリア河の縁で倒れていた自分を、釣りにやってきたアレナ夫人の夫マーティンに助けられ、病院に連れて行かれた。
奇跡的にも崖から飛び出した木枝に引っかかったのと、降り積もった雪の上に落ちたため、大きな怪我もなかったという。
そして、そのままこの家にお世話になっているのだ。
なぜ自分は川縁で倒れていたのか。
自分に何が起きたのか。
自分はいったい何者なのか。
そう、自分には過去の記憶がなかった。
何があって記憶を失ったのだろう。
思い出そうとするたび、頭がずきりと痛んだ。
まるでそれ以上思い出すことを拒否するかのように。
覚えているのは、ファンローゼという名前だけ。
所持していたものは、胸に忍ばせていた一冊の本のみ。
夫妻はとても優しく、得たいのしれない自分を本当の娘のように可愛がってくれた。
けれど、自分が何者かも分からないのが不安だった。
自分のせいで夫婦に迷惑をかけるのではないかと恐れている。
「そうそう、今日は少しくらい帰りが遅くなってもかまわないわよ」
アレナはうふふ、と少女のように笑い家へと戻っていった。
アレナの様子に首を傾げつつも、ファンローゼは花を売る店へ向かった。
そこは、夫婦の自宅から十五分ほど歩いた街の大通りに面した一角にある。
「やあ、こんにちはファンローゼ。アレナさんのお使いだね。今日はどの花にする?」
店の奥から出てきた青年は笑顔を浮かべファンローゼを迎えた。
もう何度もお使いを頼まれ、店員とも顔なじみだ。
「何を選んだらよいのかしら」
店内を見渡すファンローゼに、青年は純白の薔薇を差し出した。
「この薔薇はどう? 今日入荷したんだ」
「まあ、真っ白な薔薇。素敵」
「レトランジェという名前の薔薇なんだ。可愛らしくて清楚で品のいい薔薇でしょう? 君のイメージにぴったり。名前の由来は異邦人っていって」
「異邦人……」
見知らぬ人。
別の国から来た人。
まるで……。
ふっと、寂しげに笑うファンローゼに、青年は慌てた様子を見せる。
「ごめん。僕、そんなつもりは……」
「いいえ。気になさらないでください。では、その白い薔薇、レトランジェを買うわ」
「ありがとうございます」
青年はにこりと笑い、白い薔薇を包み始めた。
青年の名はクレイ。
何度かこの花屋に買い物をするたび、クレイとは親しくなった。
すらりとした長身の青年である。
金髪に碧眼。端整な甘い顔だちは女性の目をひく。
事実、彼を目当てにこの花屋に訪れる女性客も多い。
彼は生粋のエティカリア人だ。
詳しい事情は知らないが、大学を休学し、三年ほど前にエティカリアから、このスヴェリアのフリュイの町にやってきたという。
彼もエティカリアの危機的状況から逃れてきたのかもしれない。
クレイに限らず、このスヴェリアにはそういう人たちが大勢いた。
作ってもらった花束の代金を支払い、立ち去ろうとするファンローゼに、すかさずクレイは声をかける。
「ファンローゼ、時間ある? 僕、もう少ししたら仕事が終わるんだ。えっと、よかったら食事にでもどうかな?」
そこでようやく、ファンローゼはアレナおばさんの意味ありげな笑いの理由を理解する。
だが、今日は他にも用事がある。
「私、お買い物が」
せっかくアレナおばさんからお小遣いをいただいたのだから、それで新しいマフラーと手袋を買おうと思っていた。
もうじき、このスヴェリアにも厳しい冬がやってくる。
雪が降り始めるのも近い。
それに備えて、ありがたくお小遣いを使わせてもらおうと思ったのだ。
「なら、僕もつき合うよ」
半ば強引に言い切られ、断る理由もなくファンローゼは食事の誘いに応じることにした。
庭の花壇に咲く花に水をあげていたファンローゼは手をとめた。
振り返ると、六十代前後の婦人が玄関口に立っている。
自分の名を呼びかけたのは彼女だ。
「お庭にいたのね。お使いを頼んでもいいかしら」
「はい、アレナおばさま」
にこやかな笑みを浮かべ、ファンローゼは返事をする。
ふわりと吹く柔らかな風にのって、甘い花の香りがただよう。
真っ白な家の壁に映える色とりどりに咲く花。
この家の住人は花好きだということがうかがえる。
「玄関に飾るお花をお願いしようと思って」
これだけ庭に花が咲いているにもかかわらず、ファンローゼにわざわざ花を買いに行かせるにはどうやら理由があるようだ。
アレナ夫人はファンローゼにいつもよりも多めの代金を手渡し、にこりと微笑んだ。
「あの、多すぎます……」
「たまには好きなものを買ってきなさい」
「いえ、私は何も……」
「いいのよ。あなただって年頃の女の子、欲しいものの一つや二つあるでしょう?」
「私はもうじゅうぶんすぎるくらい、よくしていただいています。見ず知らずの私をこの家に置いてくださって」
「あなたみたいな娘なら、いつまでもいて欲しいくらいよ。大歓迎だわ。いいえ、あなたはもう、うちの娘のようなものなのだから遠慮してはだめ。でもそうね、もう少し私たちに甘えてくれたら嬉しいのだけれどね」
アレナ夫妻には残念ながら子どもに恵まれなかった。それもあってか、ファンローゼのことを可愛がってくれた。
ファンローゼは複雑な笑みを浮かべた。
アレナ夫人の気持ちがとても嬉しかった。と同時に心苦しくもある。
いったい、自分は誰なのだろう。
三年前、ラーナリア河の縁で倒れていた自分を、釣りにやってきたアレナ夫人の夫マーティンに助けられ、病院に連れて行かれた。
奇跡的にも崖から飛び出した木枝に引っかかったのと、降り積もった雪の上に落ちたため、大きな怪我もなかったという。
そして、そのままこの家にお世話になっているのだ。
なぜ自分は川縁で倒れていたのか。
自分に何が起きたのか。
自分はいったい何者なのか。
そう、自分には過去の記憶がなかった。
何があって記憶を失ったのだろう。
思い出そうとするたび、頭がずきりと痛んだ。
まるでそれ以上思い出すことを拒否するかのように。
覚えているのは、ファンローゼという名前だけ。
所持していたものは、胸に忍ばせていた一冊の本のみ。
夫妻はとても優しく、得たいのしれない自分を本当の娘のように可愛がってくれた。
けれど、自分が何者かも分からないのが不安だった。
自分のせいで夫婦に迷惑をかけるのではないかと恐れている。
「そうそう、今日は少しくらい帰りが遅くなってもかまわないわよ」
アレナはうふふ、と少女のように笑い家へと戻っていった。
アレナの様子に首を傾げつつも、ファンローゼは花を売る店へ向かった。
そこは、夫婦の自宅から十五分ほど歩いた街の大通りに面した一角にある。
「やあ、こんにちはファンローゼ。アレナさんのお使いだね。今日はどの花にする?」
店の奥から出てきた青年は笑顔を浮かべファンローゼを迎えた。
もう何度もお使いを頼まれ、店員とも顔なじみだ。
「何を選んだらよいのかしら」
店内を見渡すファンローゼに、青年は純白の薔薇を差し出した。
「この薔薇はどう? 今日入荷したんだ」
「まあ、真っ白な薔薇。素敵」
「レトランジェという名前の薔薇なんだ。可愛らしくて清楚で品のいい薔薇でしょう? 君のイメージにぴったり。名前の由来は異邦人っていって」
「異邦人……」
見知らぬ人。
別の国から来た人。
まるで……。
ふっと、寂しげに笑うファンローゼに、青年は慌てた様子を見せる。
「ごめん。僕、そんなつもりは……」
「いいえ。気になさらないでください。では、その白い薔薇、レトランジェを買うわ」
「ありがとうございます」
青年はにこりと笑い、白い薔薇を包み始めた。
青年の名はクレイ。
何度かこの花屋に買い物をするたび、クレイとは親しくなった。
すらりとした長身の青年である。
金髪に碧眼。端整な甘い顔だちは女性の目をひく。
事実、彼を目当てにこの花屋に訪れる女性客も多い。
彼は生粋のエティカリア人だ。
詳しい事情は知らないが、大学を休学し、三年ほど前にエティカリアから、このスヴェリアのフリュイの町にやってきたという。
彼もエティカリアの危機的状況から逃れてきたのかもしれない。
クレイに限らず、このスヴェリアにはそういう人たちが大勢いた。
作ってもらった花束の代金を支払い、立ち去ろうとするファンローゼに、すかさずクレイは声をかける。
「ファンローゼ、時間ある? 僕、もう少ししたら仕事が終わるんだ。えっと、よかったら食事にでもどうかな?」
そこでようやく、ファンローゼはアレナおばさんの意味ありげな笑いの理由を理解する。
だが、今日は他にも用事がある。
「私、お買い物が」
せっかくアレナおばさんからお小遣いをいただいたのだから、それで新しいマフラーと手袋を買おうと思っていた。
もうじき、このスヴェリアにも厳しい冬がやってくる。
雪が降り始めるのも近い。
それに備えて、ありがたくお小遣いを使わせてもらおうと思ったのだ。
「なら、僕もつき合うよ」
半ば強引に言い切られ、断る理由もなくファンローゼは食事の誘いに応じることにした。
10
あなたにおすすめの小説
元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?
3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。
相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。
あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。
それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。
だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。
その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。
その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。
だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】探さないでください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
私は、貴方と共にした一夜を後悔した事はない。
貴方は私に尊いこの子を与えてくれた。
あの一夜を境に、私の環境は正反対に変わってしまった。
冷たく厳しい人々の中から、温かく優しい人々の中へ私は飛び込んだ。
複雑で高級な物に囲まれる暮らしから、質素で簡素な物に囲まれる暮らしへ移ろいだ。
無関心で疎遠な沢山の親族を捨てて、誰よりも私を必要としてくれる尊いこの子だけを選んだ。
風の噂で貴方が私を探しているという話を聞く。
だけど、誰も私が貴方が探している人物とは思わないはず。
今、私は幸せを感じている。
貴方が側にいなくても、私はこの子と生きていける。
だから、、、
もう、、、
私を、、、
探さないでください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる