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第1章 忍び寄る黒い影
10 運命は二人を切り裂いた
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その声が聞こえたのは、まだ夜が明けきらない早朝のことだった。
ひそひそと会話を交わす声に気づき、目覚めたファンローゼはゆっくりと身を起こす。すでにコンツェットは目を覚ましていて、どこか緊張した面持ちだった。
口を開きかけようとしたファンローゼに、コンツェットは黙ってという仕草で唇に人差し指をあてる。
かすかに聞こえてくる男たちの声。それも数名。
マイヤーの声も聞こえた。
コンツェットはベッドから起き上がると、足音を殺して扉の方へと近づいて行く。
こんな朝方にマイヤーは誰と喋っているのか。
客人だろうか。
それとも自分たちと同じく、道に迷った人が訊ねてきたのか。
そんなわけがない。
不安が胸を駆け巡る。
嫌な予感に心が落ち着かなかった。
まるで、亡命する日の嵐の夜の時の不安。
列車でスヴェリア国へ向かう途中、もうじき国境を越えるというときに抱いたものと同じ。
「服に着替えて」
低く言い放つコンツェットの言葉に、なぜとは聞き返さなかった。
何よりコンツェットの深刻な表情が、これは危機的状況だということを告げていた。
ファンローゼは手早く服に着替え、乾かしてもらったコートを羽織ると枕元に置いた父の本をコートのポケットに押し込んだ。
着替え終えたコンツェットに手を引かれ、窓際へと移動する。と同時に、階段を上ってくる荒々しい複数の足音。
「行くよ」
コンツェットは窓を開け放った。
一気に吹雪が部屋に流れ込み、ファンローゼはぶるっと身を震わせた。
「飛び降りる」
窓の下をのぞき込んでファンローゼは息を飲んだ。
かなりの高さに躊躇して足をすくませる。
「怖いだろうけれど」
「大丈夫……私、やるわ」
足音は階段を上りきり、まっすぐこちらの部屋へ向かってくる。
部屋の前でとまった。
間違いなく部屋の外にいる人物は、自分たちにとって、危険な存在であろうことは確かだ。
飛び降りることを恐れてはいけない。
逃げ道はここしかないのだから。
「この部屋だな」
「そうです。そうです」
おそらく、エスツェリア軍のものと思われる男の声と、マイヤーの声。
コンツェットはファンローゼの手を引き、窓枠によじ登る。
同時に、部屋の扉が開け放たれ、黒い軍服を着た男たちが現れた。
「いくよ!」
コンツェットの声とともに、ファンローゼも窓から身を躍らせた。
ためらいはなかった。
地面には深い雪が積もっていて、二階から落ちた衝撃を受け止めてくれた。ファンローゼを抱え、転がるように落ちたコンツェットは、立ち上がり駆け出した。
幸運なことに、外で待ち伏せしているエスツェリア軍はいなかった。
「待て! がきども」
二階から男たちが声を荒らげ叫んでいる。
「ここにいることがばれたのね」
息をはずませて言うファンローゼに、コンツェットは違うと否定する。
「通告されたんだ」
「通告?」
誰が? と聞くまでもない。
自分たちに親切に接してくれたあの夫婦が、敵軍に通告した。
たった十六、七の少年と少女が越境しようとすれば、何かあると考えるのは当然だ。
家に留まりなさいと親切な振りをして執拗に言ったのも、軍に知らせるための時間稼ぎだった。
密告によって報酬を得ようというさもしい考えだ。
コンツェットは悔しげに奥歯を嚙んだ。
容易に人を信じてはいけない。
騙された方が悪い。
二人はまだ、夜が明けきらない暗闇の道なき道を早歩きで歩いた。
何度も転びそうになるファンローゼを、コンツェットは支えた。
手足が枝葉に触れ、擦り傷だらけになっても、ファンローゼは泣き言一つこぼさず無言でコンツェットについていった。
ひたすら前へ前へと走った。
エスツェリア軍から逃れるために。
「もうすぐだ。もうすぐ国境を越えられる」
もうすぐという言葉を、まるで呪文のようにコンツェットは何度も繰り返した。しかし、自分たちを軍に引き渡そうとしたあの夫婦が、本当の近道を教えるであろうか。
この時、なぜ教えてもらった近道が嘘であったと気づけなかったのか。
さらに、訓練された大人の男の足にかなうわけがないということも。
けれど、気づいた時には何もかも遅かった。
目の前には断崖絶壁。
その下に流れるラーナリア河の濁流。
前に進むべき道はない。
二人で幸せになろうと誓った。けれど、それは夢となって消えるのか。
振り返ると軍の男たちが間近に迫り、瞬く間に周りを囲まれた。
無残にも、運命は二人を引き裂いた。
ひそひそと会話を交わす声に気づき、目覚めたファンローゼはゆっくりと身を起こす。すでにコンツェットは目を覚ましていて、どこか緊張した面持ちだった。
口を開きかけようとしたファンローゼに、コンツェットは黙ってという仕草で唇に人差し指をあてる。
かすかに聞こえてくる男たちの声。それも数名。
マイヤーの声も聞こえた。
コンツェットはベッドから起き上がると、足音を殺して扉の方へと近づいて行く。
こんな朝方にマイヤーは誰と喋っているのか。
客人だろうか。
それとも自分たちと同じく、道に迷った人が訊ねてきたのか。
そんなわけがない。
不安が胸を駆け巡る。
嫌な予感に心が落ち着かなかった。
まるで、亡命する日の嵐の夜の時の不安。
列車でスヴェリア国へ向かう途中、もうじき国境を越えるというときに抱いたものと同じ。
「服に着替えて」
低く言い放つコンツェットの言葉に、なぜとは聞き返さなかった。
何よりコンツェットの深刻な表情が、これは危機的状況だということを告げていた。
ファンローゼは手早く服に着替え、乾かしてもらったコートを羽織ると枕元に置いた父の本をコートのポケットに押し込んだ。
着替え終えたコンツェットに手を引かれ、窓際へと移動する。と同時に、階段を上ってくる荒々しい複数の足音。
「行くよ」
コンツェットは窓を開け放った。
一気に吹雪が部屋に流れ込み、ファンローゼはぶるっと身を震わせた。
「飛び降りる」
窓の下をのぞき込んでファンローゼは息を飲んだ。
かなりの高さに躊躇して足をすくませる。
「怖いだろうけれど」
「大丈夫……私、やるわ」
足音は階段を上りきり、まっすぐこちらの部屋へ向かってくる。
部屋の前でとまった。
間違いなく部屋の外にいる人物は、自分たちにとって、危険な存在であろうことは確かだ。
飛び降りることを恐れてはいけない。
逃げ道はここしかないのだから。
「この部屋だな」
「そうです。そうです」
おそらく、エスツェリア軍のものと思われる男の声と、マイヤーの声。
コンツェットはファンローゼの手を引き、窓枠によじ登る。
同時に、部屋の扉が開け放たれ、黒い軍服を着た男たちが現れた。
「いくよ!」
コンツェットの声とともに、ファンローゼも窓から身を躍らせた。
ためらいはなかった。
地面には深い雪が積もっていて、二階から落ちた衝撃を受け止めてくれた。ファンローゼを抱え、転がるように落ちたコンツェットは、立ち上がり駆け出した。
幸運なことに、外で待ち伏せしているエスツェリア軍はいなかった。
「待て! がきども」
二階から男たちが声を荒らげ叫んでいる。
「ここにいることがばれたのね」
息をはずませて言うファンローゼに、コンツェットは違うと否定する。
「通告されたんだ」
「通告?」
誰が? と聞くまでもない。
自分たちに親切に接してくれたあの夫婦が、敵軍に通告した。
たった十六、七の少年と少女が越境しようとすれば、何かあると考えるのは当然だ。
家に留まりなさいと親切な振りをして執拗に言ったのも、軍に知らせるための時間稼ぎだった。
密告によって報酬を得ようというさもしい考えだ。
コンツェットは悔しげに奥歯を嚙んだ。
容易に人を信じてはいけない。
騙された方が悪い。
二人はまだ、夜が明けきらない暗闇の道なき道を早歩きで歩いた。
何度も転びそうになるファンローゼを、コンツェットは支えた。
手足が枝葉に触れ、擦り傷だらけになっても、ファンローゼは泣き言一つこぼさず無言でコンツェットについていった。
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けれど、気づいた時には何もかも遅かった。
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