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第4章 燔祭

前夜祭 5

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騒ぎにひと時、境内は静まっていた。

「さぁ皆の衆!今宵は、唄い踊り、飲み明かそうぞ!」

境内の中央へと進み出た森部がそう発すると、すぐに喧騒が戻ってくる。

森部は、古参の幹部を連れて拝殿に入り、内側から鍵をかけると、さらに外側からも鍵をかけさせた。

巨体の警官と、七十近い猟銃を肩にかけた教団構成員の二人が拝殿の前に座り込む。外の鍵の番と、警護のようだ。

……社殿への侵入は無理か……ひょうは、手勢二人を連れ、神子を追って、人目を避けながら境内まで侵入していた。烏衆らは、拝殿を囲む茂みに身を隠し動向を窺っている。社殿全体を見渡すと、電磁結界を組み込んだ高い塀と堀で囲まれ、侵入できる場所はこの拝殿の入り口のみであることにすぐ気づく。夜闇に紛れて神子を奪取する事は、もはや不可能であると、兵は悟った。

警官と老人の話し声が聞こえてくる。兵は、聞き耳を立てる。

「須賀のやつ、間抜けな面だったなあ。自分で連れてきて、返せだもんな、バカなやつよ。逃げようと思えば逃げれたものを……なんで戻ってきたんだろーなぁ?」巨躯の警官は、酒を呷る。

隣に座る、猟銃を担いだ老人が、警官の空いた盃に、なみなみと酒を注ぎ足しながら、語り始めた。

「そ~こぉ~がぁ、森部様のすんごぉいところよ。須賀は、この郷から逃げられぇん。御子神様も戻ってくると。最初からお見通しじゃったからのぉ」

興奮気味に酒を酌み交わす。二人とも既に、酩酊している。

「知っているか?森部様はなぁ。これで須賀家をつぶすおつもりだ」

「へ?確かにあそこの子供は、御子神さまだけだが……須賀の家と何かあるんかぇ?」

知りたいか、と言わんばかりの笑みを老人が浮かべる。

「これは郷でも一部の古い家のもんしか知らん」

老人は語る。

森部の伝承によると、彼らは、縄文末期の頃、この地にあるという、秘宝を求めてやって来た物部の一族だったという。

ここには、今ではミシャクジと呼ばれる、おそらく原始的な自然信仰をもつ現地人らが居たが、融合しながら、新たなる唯一神、生贄を求める洩矢神を信ずる民として、この地を治めて来た。

ところが飛鳥時代、丁未の乱で破れ、この地を頼って落ち延びてきた物部の一族があった。

祖を同じくしながら、森部らが信奉する洩矢神と、その一族が持ち込んだ神、のちに『建御名方神』と呼ばれるようになる神は、相争う事となる。

結局、建御名方神側によって森部らは屈服させられ、今日の諏訪大社の二重構造へと続いている。

もっとも、初期の頃は、同じ物部同士との事で和睦し、森部らの信仰も守られた。

だが、時代も下り、特に森部らが守って来た洩矢信仰の生贄、人身御供は忌み嫌われ、仏教がこの地にも広まってくると、森部らはいよいよ窮地に立たされる。

「この諏訪にも、いわゆる宗教改革の波が押し寄せて来たわけだ。仏教勢力がこの地に入ってきて、我ら古の神への信仰は槍玉に挙げられた。建御名方神側にも穏健派、改革派とあったが、改革派の急先鋒に、あの須賀家の祖先がいたってわけだ」

この地域も時代の流れには逆らえない。須賀の一族は、早くから神仏習合を進め、古からの風習を封じ、形を変えるなどして、彼らの信仰のその一変でも後世へ伝えようとした。後の諏訪氏を排出したのも須賀家であるともいわれ、諏訪大社の礎を築いていった。だが、その流れに徹底的に抗ったのが森部である。

「結局、大社からも見限られ、山へと籠り独自に信仰を追求した。それを危険と見做した須賀の一族は、以来、ずぅっと、我らを監視して来たのだ。森部殿はな、そのお陰で、散々苦渋を舐めてこられた、我らの無念を晴らそうとなさっているのだ」

「はあ……そんな古い話を未だにひきずってるのか?」今度は、警官が老人の盃を満たす。

老人は、口元をニヤつかせ盃を口に運ぶ。

社殿の奥が、騒がしくなっていた。「御子神」の門出を祝う宴が催されているのだとか。

老人は再び口を開く。

「ご先祖からの血がそうさせるんだろうな。明治の廃仏毀釈で森部様が復権され、須賀家が力を失うと、今度は須賀が嫌われ役になっていった。だが、縁とは奇妙なものでなぁ。散々、反目し合いながらも両家は、長い年月の間、持ちつ持たれつでやってきた。この郷を拓いた頃は、そりゃ仲の良かったもんさ……」

「ほぅ。それがどうして、こんなことに?」

「きっかけは、先代須賀の御内儀だ……」「はぁ?」

「あの、慎吾の母親だよ。この教団の初期の頃の会員だったんだが、えれぇ別嬪で、しかも霊能力もあったようでの。森部様もご執心でなぁ……ところが、それに悩んだ彼女は、須賀の先代に相談するようになってな……あろう事かそのうち二人はくっついてしまった……それからだ、森部殿が変わられたのは」

「クックック!結局、女か」警官は、品の無い笑いを漏らし、盃を空ける。

「しっ!声が大きい。この話、教団でもタブーなんじゃ。ここだけの話にしてくれ」老人は、あたりを見回し、肩をすくめる。

「誰も聞いてやしねぇよ」

「……あれは試練じゃったんじゃ。あの後、森部殿は本当に変わられた。今やあのお方こそ、神の言葉を授かる預言者……皆そう信じておる」

「なるほどなぁ~~わしは新参者じゃけ、知らんかったが。面白い話を聞けた。ありがとうよ、爺さん」

「これは、言ってみりゃ戦じゃ。森部と運命を共にして来た我らのな。そこに供えるのは、宿敵、須賀の末裔……こんな『大祭』を迎える日が来るとは」老人は盃をしみじみと覗き込んでいる。

「戦か……」警官の瞳の中に、仄暗い篝火の光が映り込む。老人は、突然変わった空気に盃を傾けかけた手を止めざるを得なかった。

「あの戦場の血の匂い……思い出すだけで滾るわ」

警官は、不意に腰の大型ナイフを取り出すと、拝殿の階段に突き立てる。老人は、思わず飛び退く。洗い残った血痕が生々しい。

「さっき、こいつで猪を三頭ばかりヤッた。だがこいつは飢えてやがる。……人の血の味を覚えているんだ」

猟銃の男は、背筋が凍りつくのを感じていた。

「ワシはもともと傭兵でなぁ。あの中東の戦争から帰国後、何とかこの仕事についたが、ワシの身体に染み付いた血の匂いは消えねぇ……この郷の駐在になったのはたまたまだったが、俺は御子神に縋った。けんど、あの子のちからでもワシを癒すことはできんかった……いや、むしろこの郷へ来て、日に日にワシの血を求める衝動は昂っていた……」

警官は、一升瓶に残った酒を飲み干すと、腕で口を拭う。

「そんな時だ、森部様が声をかけてくださったのは……血に飢えたワシは、ひたすら生贄の獣を捌いてきた。それがどんだけワシを救ったか……」

警官は立ち上がると、徐にナイフを引き抜く。

「この郷はいい郷だ。血の匂いで満ちている……」

月光に輝く刃が、老人を照らす。

「……クックック……この時のために、ワシはここに呼ばれたのじゃのう」

月影に聳える警官の巨躯に老人は、神々しささえ感じずにはいられない。固まった手から盃が滑り落ちる。

「……おめぇ……死神か……」

宴はまだまだ続く。その頭上を宵闇に紛れ、一機の航空機が飛び去っていったのに気づくものは誰もいない。
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