孤島に浮かぶ真実

戸笠耕一

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第一部

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 小さな小型客船だ。桟橋の前に、一人男の人が立っている。

「はーい、切符拝見」

 船員とおぼしきその中年の男性の脂ぎった顔が渋い表情をする。だけど、遅れたのは私たちだから仕方がない。でも、時間には間に合っているはず。

 桟橋を渡り船に乗り込む。ようやく一息できる。

「はあ! 間に合った……」

 せっかく急いで化粧をしたのに走ったせいでファンデーションが崩れてしまう。汗と香水の匂いが混じって漂ってくる。

 ぼおっという警笛が私たちの頭上に響き渡る。形を持たないもやもやした巨大生物がうめき声をあげているようだ。

 桟橋が外され、船は碇を上げる。出発の準備は整い、ゆっくりと港から離れていった。

 船が港を出てから約十二時間が経過していた。ずいぶん長く乗っているものだと思ったが、それでもまだ半分なのだ。目的地の島まで遠大な距離がある。本を読んで暇をつぶそうにも、ご飯を食べようにも、確実に時間を持て余していた。

 読んでいた本を閉じ、大広間を出た。この船に個別の部屋はなく、皆一緒の部屋に押し込められた。人は少なく、私と母の二人を含め三組しかいない。老夫婦と中年の男の人が一人。それですべてだった。

 私たちに与えられたのは、薄い茶色い毛布と白い枕。部屋は蛍光灯が照らしていたが、何本か切れていて、ところどころ暗い。床はオレンジのカーペットが敷き詰めてあったが、硬く、一部めくれている。

 何も変哲もない大広間だった。気分転換のため、私は外に出て夜空でも堪能しようと思った。都会から離れた景色は澄み切っているに違いない。

 大広間を出て甲板に向かう。床はギシギシと音がして船全体の質を物語っている。歩いている途中、なぜ自分が都心を離れて大海原にいることになったのか振り返りたくなった。

 面影島。私たち三人が向かう島であり、これから住むことになるすみかになる場所。

 そこが私と母の行くべき場所だった。

 私たちは観光でその島を訪れるわけではなく、居住するために向かう。きっかけは気分やで、子供じみた、少々神経質な変わり者の父・雅人の突飛な発言から端を発する。

 両親のそのときのやり取りはつぶさに思い出せる。

『どうして?』

 母のあきれた顔。渋くゆがんでめっきり年を取っている。そして、苦しまぎれようやく出た言葉だった。

 黙り切った様子に、父は猛然と説明を開始する。必死さが妻の心を動かせると思ったのだろう。話は回りくどく要点をつかむのに時間がかかる内容だった。

『反対です』

 母はきっぱりと話を断ち切る。それが一番正しい判断に違いなかった。

『どうして?』

 父のおとぼけ顔は、母がなぜ否定する理由を察したものだった。よく困った母の顔を見て、小ばかにする。男とはこういうものかと私は何気なく思う。

『いい加減にして!』

 怒りが部屋中をこだました。部屋に置いてある家具などが、ぶるりと震えるのを私は確認した。やがて部屋は落ち着きを取り戻すが、気まずい奇妙な緊張が唯一残っていた。

『すまない……あー、悪かったよ。つまりその―』

『明美のことも考えて。あなたの1つの馬鹿な発言がどれだけ迷惑をかけているのか、かけてきたのか。この子は、去年必死に勉強して入りたい高校に入ったのに……なぜまた突然そんなことを!』

 父のくどくどしそうな話を遮り、必要なことだけを的確に伝えた。日頃は優しく見守りながらも、いざというときは毅然と振る舞う姿。まさに理想の母親がそこに存在していた。

 母は母という役を真剣に演じていた。そのさまは役に忠実で素敵だと思う。私もいずれは彼女のようになるのだろうか?

『いい物件があるんだ。本当にいいところなんだ。こんな狭苦しい、息が詰まりそうな都会とはわけが違んだ。空の碧さと……なんというか、言葉で表せないものがそこにあるんだ。なあ、もう少し考えてみてくれないか?』

 苦い顔をする父は人を説得するに足るうまい言葉を見出せずにいた。ただ少々ロマンティックに酔っているのはわかっていた。父はそういう人だ。しゃべりは下手でもロマンは忘れない。

『ねえ明美ちゃんはどう思うの?』

 ふと母の顔が私のほうを向いた。彼女の目を見ていれば、何が言いたいのか大体わかったし、言葉にしたのは思っていた平凡なことだった。

 学校にはお友達もいるもの、また離れ離れになりたくないわよね、とか。わざわざ見も知らない遠いところに行って楽しいと思うの、とか。もう引っ越しはこりごりでしょ、などなど。どれも人を説得するには十分すぎることばかりだ。

 事実説得はすさまじいものだ。目は凝固し、半ば狂気を孕む。幾分と滑稽でもあり、痛々しい。些細なことでこのさまだから人の狂気などたかが知れている。

 まあそんなことはどうでもいい。

 張り詰めた母の顔を見続けるのもしんどいのでプイと目を避ける。怖い。

一つ思うことがある。島といってもどれぐらい遠いのだろうか、それが一番興味深い。

『島といっても、私どこにあるのか知らないわ。一体どこなの? どれくらいかかるの?』

 ありきたりな質問だったが、そういう基本的な情報は父から言うのが筋だろう。ところがロマンスばかりで何もないとは。さっきから島や空の碧さなど抽象的なことしか言っていない。

 常に口足らずな父。

『ああ場所は一応東京都で、南の暖かい場所だ。年中そうなんだ。実は今年の夏に行って見てきたんだが――』

 別に島の感想は聞いていない。母と同じく父の悪癖を断ち切った。

『ここからどれくらい?』

『船で片道二十六時間』

『何もそんな辺鄙なとこへ……』

 母の力なき声。

『船以外に何か交通手段は、例えば飛行機とか?』

『ない』

『だめ、絶対にだめです。そんなこと絶対に許しません』

『なぜそうな頭ごなしに否定するんだ?』

『別にあなたが一人で行けばいいわ。お金あるなら別荘として買うなりしなさいよ。そこで休みのときに行けばいいのよ』

『一理ある』

『わざわざ引っ越す必要なんてないわ。しかも島なんて』

『ずっと暖かい場所だぞ? のんびり暮らしたくないか? 三人でゆっくりしよう』

『勝手に一人で行ってなさい。私は反対ですから』

『おお、そうだ明美はどうなんだ? 住んでみたくないか? どうだ?』

 にやりと笑う父の顔。すべてはお前次第なんだという想いを醸し出している。ただその表情に私も笑い返した。多分いたずらっ子な子どもが、いたずらに成功したときの妙に勝ち誇った、周囲を見くびった笑みに近いものを浮かべていたはずだ。

 私はいったん頭の引き出しから過去の記憶を取り出して遊ぶのをやめる。

 目指す甲板に到着した。一気に視界が開ける。輝く星々が群青色の空を照らしている。都心では見られない光景だ。でもこの大海原も一応東京都のはずだ。十二時間かければ

 これほどの美しい場所に巡り合えるなら、東京も捨てたものじゃなかった。

 ゆらゆらと上下に揺れる。そのたびにザブンと波が打つ。

 私は空を見上げた、満天の星空を。そして海を見た、船が目指す先を。

 船は本当にどこに向かおうとしているのだろう。すでに日は没している。辺りは暗く、行く当てもなくさまよっている表現しても過言ではなかった。

 島流し。父と母から島の話を聞いたときに、ふっと頭の浮かんできた言葉だった。片道二十六時間。交通手段は一週間に一回の船のみ。罪人の流刑地にはお誂え向きな場所だろう。

 罪人。

 行く先が定まっていないなら私は探検者だ。見果てぬ地を目指し、ひたすら前を進む。夜の妖しさに時々酔いながら、前だけを望む。

 だけど行く先は決まっていた。都心から二十六時間。南の果て。南の地・面影島。そこが目指す終点。

 どれぐらい島に住むことになるのだろうか?

 現実的なつまらない問題が私を訪れる。まあいい。行く先が決まっていようがいまいが、夜の妖しさに酔うことができ、それは万人共通の娯楽なのだ。
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