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第一部
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暖かい春の訪れを感じる。ふわりと体に吹きそそぐ生ぬるい風と雀の鳴き声。昨日は早めに寝たつもりなのに、私はすっかり寝過ごしていた。そのせいで、朝はゆとりのないバタバタした始まりになってしまう。
寝坊をしたのは、母も同様だ。起こしたのは私だった。私の名前は星川明美。星の川と書き、明るいに美しい。キラキラした感じの名前だが、そんなことはない。
「あら、大変」
母は寝ぼけ眼に娘の私を見るなりベッドから飛び起きる。夫人のお支度は、あわただしいものになるに違いない。
だが悠長に構えている時間はない。今は九時ちょうど。
ガランとしたキッチン。そこに生活をしていた名残はない。隅に置かれたパンが二きれ残っている。この家で最後に食べるささやかな朝食だ。
袋からパンを一きれ出し、冷蔵庫に残っていたジャムを付ける。あとは空っぽになる。
「これでジャムはお終い。朝のごみで出しちゃうわ。今日は不燃ごみだから」
「そう、じゃお願い」
私は、歯を急いで磨きゴミを指定場所に捨てる。後は戻って身支度を整えるばかりだ。家に戻ると、二階の自室に用意していた荷物を取りに向かう。
すっかり荷物が運び出されて、リュックに些細な物ばかりがあるだけだ。もうここにも生活を営んだ名残はない。
自宅は荻窪の駅周辺の閑静な住宅街の一角にあるが、今日までの話だ。この家とお別れ。それも永遠に。
新たな場所に引っ越すことになったのだ。決めたのは父だ。職業は小説家、いわゆる変わった部類の仕事をしている。性格も気まぐれ、かつ、大胆。おまけに、多分頑固。決めたことはひっくり返さない性分だった。
父はここにはいない。すでに新たな住まいにいる。頭に思いついた新作を書くにはここじゃだめですぐに行かないとだとか。
三度目の引っ越し。もう慣れた。私にとって転居はもう当たり前のことだった。どれも父の創作活動の一環という名のもと、行われた。実質はただの気まぐれ。
私は荷物を下に運び、母の様子を確かめる。よかった。化粧は無事に終えて、ちゃんと貴婦人になっている。お気に入りの三面鏡はないのに、ばっちりだ。私も、いずれはあんな風にならないといけない気がした。
「パンあるわよ?」
「えぇ、食べるわ」母は少し迷っていたが、急いでパンを食べることにした。
行動のすべてが三倍速に感じた。おかげで起きてから三十分もかからずに家を出発することが出来た。
ただ時間は、ない。
何か不測の事態が起こったら、アウト。
地下鉄の荻窪駅に到着した私たちは、ただ丸ノ内線の電車が来るのを待つ。やがて、ゴオーッと音を立てやってきた。扉が開くとともに私たちは急いで飛び乗る。
「何分で着くのかしら?」
「竹芝まで五十分ってところ」
「え? 間に合わないわよ?」母の顔が驚きに満ちる。
「移動時間は、走って行くしかなさそう」
「それで間に合う?」
「た、ぶ、ん」
もし仮に船に乗れないと、かなり厄介になる。まず船は出発して、戻ってくるのが一週間後なのだ。つまり家なしの状態が一週間続くことになってしまう。
それは困る。
船の出発時間は十一時。電車を一本でも逃したら、家なし一週間。
電車を一度乗り換えて、まず向かう先は新橋だ。そこからゆりかもめに乗る。問題はいかに移動を短縮できるかだ。
ついてからが勝負だ。
扉が開く――飛び出す――まずは周りを見渡し、最適な出口を探し見つけた。駆け出す。
地下鉄の階段を息継ぎする間もなく、駆けあがり地上に出る、出た。新橋には、言ったことがある。赤い広場があるはずだ、あった!
私は背後にいる母を気にしながら、駆け出す。一気に走り出さなければいけない。
改札を通過して、最後の階段。
「待って、そんなに急がないで」
「だって電車来ているわよ!」
「ええっ……」
私の言葉に、まるで最後の力を振り絞るかのように階段を上る。
電車には、何とか間に合わせる。母は、膝を押えて呼吸を整える。
「はあ、もう大変」
「大丈夫?」
母が力なくうなずいた。
「ねーえ、間に合うの?」
「あとは竹芝に七分後に着く。そこからフェリー乗り場まで徒歩一分よ」
「すごい、全部調べているのね」
こんなのスマホがあれば、簡単だ。ただ機械オンチの母には、ハイテク技術を駆使しているらしい。母の年齢からして、それはあり得ない、はずだが。
「ママ、切符あるよね?」
「え、ええ」
心配。だから聞いた。
彼女は、白い手提げかばんからガサゴソと探し、水色の紙入れを取り出す。
「ほら、あるある」
ホッとした顔を浮かべ声の調子が明るくなった。
ゆりかもめは、スッと高架化された竹芝駅に入っていく。
そこで時間を確かめる。十時四十五分。よし、行ける。
改札を通過して、半円の中央広場を横切って待合所に入った。私たちはきょろきょろと辺りを見渡す。とりあえず受付で聞いてみると、乗り口がどこか教えてくれた。
乗り口は、少し離れていて少し焦ったが、何てことはない。あれだ、白い船に黒い文字で書いてある。
寝坊をしたのは、母も同様だ。起こしたのは私だった。私の名前は星川明美。星の川と書き、明るいに美しい。キラキラした感じの名前だが、そんなことはない。
「あら、大変」
母は寝ぼけ眼に娘の私を見るなりベッドから飛び起きる。夫人のお支度は、あわただしいものになるに違いない。
だが悠長に構えている時間はない。今は九時ちょうど。
ガランとしたキッチン。そこに生活をしていた名残はない。隅に置かれたパンが二きれ残っている。この家で最後に食べるささやかな朝食だ。
袋からパンを一きれ出し、冷蔵庫に残っていたジャムを付ける。あとは空っぽになる。
「これでジャムはお終い。朝のごみで出しちゃうわ。今日は不燃ごみだから」
「そう、じゃお願い」
私は、歯を急いで磨きゴミを指定場所に捨てる。後は戻って身支度を整えるばかりだ。家に戻ると、二階の自室に用意していた荷物を取りに向かう。
すっかり荷物が運び出されて、リュックに些細な物ばかりがあるだけだ。もうここにも生活を営んだ名残はない。
自宅は荻窪の駅周辺の閑静な住宅街の一角にあるが、今日までの話だ。この家とお別れ。それも永遠に。
新たな場所に引っ越すことになったのだ。決めたのは父だ。職業は小説家、いわゆる変わった部類の仕事をしている。性格も気まぐれ、かつ、大胆。おまけに、多分頑固。決めたことはひっくり返さない性分だった。
父はここにはいない。すでに新たな住まいにいる。頭に思いついた新作を書くにはここじゃだめですぐに行かないとだとか。
三度目の引っ越し。もう慣れた。私にとって転居はもう当たり前のことだった。どれも父の創作活動の一環という名のもと、行われた。実質はただの気まぐれ。
私は荷物を下に運び、母の様子を確かめる。よかった。化粧は無事に終えて、ちゃんと貴婦人になっている。お気に入りの三面鏡はないのに、ばっちりだ。私も、いずれはあんな風にならないといけない気がした。
「パンあるわよ?」
「えぇ、食べるわ」母は少し迷っていたが、急いでパンを食べることにした。
行動のすべてが三倍速に感じた。おかげで起きてから三十分もかからずに家を出発することが出来た。
ただ時間は、ない。
何か不測の事態が起こったら、アウト。
地下鉄の荻窪駅に到着した私たちは、ただ丸ノ内線の電車が来るのを待つ。やがて、ゴオーッと音を立てやってきた。扉が開くとともに私たちは急いで飛び乗る。
「何分で着くのかしら?」
「竹芝まで五十分ってところ」
「え? 間に合わないわよ?」母の顔が驚きに満ちる。
「移動時間は、走って行くしかなさそう」
「それで間に合う?」
「た、ぶ、ん」
もし仮に船に乗れないと、かなり厄介になる。まず船は出発して、戻ってくるのが一週間後なのだ。つまり家なしの状態が一週間続くことになってしまう。
それは困る。
船の出発時間は十一時。電車を一本でも逃したら、家なし一週間。
電車を一度乗り換えて、まず向かう先は新橋だ。そこからゆりかもめに乗る。問題はいかに移動を短縮できるかだ。
ついてからが勝負だ。
扉が開く――飛び出す――まずは周りを見渡し、最適な出口を探し見つけた。駆け出す。
地下鉄の階段を息継ぎする間もなく、駆けあがり地上に出る、出た。新橋には、言ったことがある。赤い広場があるはずだ、あった!
私は背後にいる母を気にしながら、駆け出す。一気に走り出さなければいけない。
改札を通過して、最後の階段。
「待って、そんなに急がないで」
「だって電車来ているわよ!」
「ええっ……」
私の言葉に、まるで最後の力を振り絞るかのように階段を上る。
電車には、何とか間に合わせる。母は、膝を押えて呼吸を整える。
「はあ、もう大変」
「大丈夫?」
母が力なくうなずいた。
「ねーえ、間に合うの?」
「あとは竹芝に七分後に着く。そこからフェリー乗り場まで徒歩一分よ」
「すごい、全部調べているのね」
こんなのスマホがあれば、簡単だ。ただ機械オンチの母には、ハイテク技術を駆使しているらしい。母の年齢からして、それはあり得ない、はずだが。
「ママ、切符あるよね?」
「え、ええ」
心配。だから聞いた。
彼女は、白い手提げかばんからガサゴソと探し、水色の紙入れを取り出す。
「ほら、あるある」
ホッとした顔を浮かべ声の調子が明るくなった。
ゆりかもめは、スッと高架化された竹芝駅に入っていく。
そこで時間を確かめる。十時四十五分。よし、行ける。
改札を通過して、半円の中央広場を横切って待合所に入った。私たちはきょろきょろと辺りを見渡す。とりあえず受付で聞いてみると、乗り口がどこか教えてくれた。
乗り口は、少し離れていて少し焦ったが、何てことはない。あれだ、白い船に黒い文字で書いてある。
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