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第二部
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緑の死は衝撃的だった。誰もが脳裏に焼き付けたことだろう、彼女の死にざまを。そして忘れないだろう。警察の聴取もあり、全員が全員を疑うことになった。身の回りに人殺しがいるのかと……それでも、だ。
2―2の生徒全員には、それぞれの人生がある。例えどんなことが起きても、元通りに人生を歩もうとするはず、全員が何らかの平和を求めている。
私には、バドミントンの選抜試合があったし、それは彩月も同様だ。堀田君や佐津間君も野球部の練習や、島外での遠征もあるだろう。他の生徒も同じだ。
通夜の翌週に緊急朝礼があって、校長が弔辞を述べたのが最後だ。彼女の死から一か月が経って、誰もがあの悲劇を無かったことにしようと、無意識に感じている――美作緑は不慮の事故だと。
七月に入った。夏の暑さは、さらに増している。面影島は、一年中通して暑いが、六月から九月はサイパンやグアムのように、焦げ付く暑さが体に降り注ぐ。
さらに一学期の期末試験も、目前だ。やることは、いっぱいある。
「あちい」
彩月の些細なうめき声が、授業中に聞こえる。彼女は机に突っ伏し、頭を横にして何かを目で追っている。
「何しているの?」
私は先生に悟られないよう話しかける。今は数学の問題集を解く時間。ヒソヒソ話してもバレないだろう。
「アリさん」
彩月は教科書の一点を指し示す。白い数学の教科書をじっと目を凝らすと、小さい黒点が何やらじりじりと横断している。
「暇だから……」
大きな瞳がありを捉えていた。そこから逃げるように、歩行する。逃げても、逃げても、アリが感じる恐怖は計り知れない。
やがてアリの歩行を見飽きたのか、ぴんっと指で弾き飛ばす。その行為は、わけもない行為だった。邪魔者をよそへ追いやっただけのこと。
彩月は姿勢を正す。そして目の前にある課題に取りかかった、いや取り組んでいるように見せている。
「お前ら、授業中だぞ。話すんな」
田部先生の注意が飛ぶ。一瞬私が言われたのかと思った。
「は、はい。あ、でも先生……」
どうやら違うが、ちょっと様子がおかしい。
クラスの男子が、うろたえた声で田部先生へ何かを言おうとしている。
「どうした?」
眉尻をしかめた田部先生の目が、男子生徒二人を見つめる。
生徒は指で窓の外を示す。一体どういうつもりで、という表情が感じ取られる。仕方なしに先生は生徒のところへ移動する。
「なんだ?」
「あ、あれ、あれですよ……」糧が震えている。
窓の外にある景色を注意深く観察していた。左右に動いていた目が、ある一点を捉えて静止する。じっと目を凝らしてみていくと尋常ではないものに
気づいたようだ。強面の、頑固な田部先生の顔が凍り付いている。
私は、彼の視線の動きを追って、どこで目が静止したのか見ていた。
何を見た?
自分の席が、左の窓側の列なのが幸いし、先生が描いた目の軌跡を追うことができた。いつもの慣れ親しんだ校庭、そこに体育の授業で生徒が走っている。違う。そこじゃない。求めているのは、そんなありふれた『モノ』じゃない。
その先は道路を挟んで浜辺と海。どこかに異変があるならば……
左右に視界が揺れる。
黄色味がかった砂浜……
濃淡のどこまでも続く蒼い海……
海をゆらゆらと陸へと向けて揺れる波……
ゆらゆら?
海面をうごめくのは風に乗せられた波、だと思っていた。
完全にその美しい日常を表した島の風景に、合わない『ソレ』があった。
白い糸に、絡まった深紅のまだら模様の糸が一本絡まっている……
麦わら帽子、うつぶせの体。服装は、白かった。薄いスカート―――――首にかけられた、茶色い……ネックレス?
多分、でも、まさか、そうなのか?
私の思考が、初めてぐらついた。そして、思いたくもない答えを出していた。
「せ、先生……」
最初に気づいた生徒が、判断を仰ごうとしている。
――遅い。
「明美?」
私の体は、席にはなかった。教室を飛び出し、廊下を突き抜ける。そして階段を下る。聞こえてくるのは、自分のタタタッという足音だけ。
自分がどうして駆け出しているのか、はっきりとした理由を持たずにいた。だが窓の外の、海辺にあった、その何かは、私を駆り立てる要素を持ち合わせていた。
だから走らなければいけなかった……
校庭に出た、そこから海まで本当ならわずかな距離だ。でも、今日は遠くに感じる。
こんなにも校庭は広かった?
一瞬迷いが生じた。
「星河!」
背後から私の名前を呼ぶ声がする。田部先生の声だ。追われている、と感じた。いやそうじゃない。これは、一刻の猶予もないことだ。
「待て!」
校舎に沿って、私は駆ける。
正門は閉まっているし、飛び越えられない高さだ。
なら校舎の右端にある小さい門を通っていくしか、ない。
門はグングン目の前に近づいてくる。
そこを抜ければ、浜辺、海へは一直線だ。
門は越えた。後は、ひたすら走る、海に浮かぶ異物に向かって……
道路は幸いにして、車がいない。
よかった……
浜辺への向かう階段を下りる。あとは、広大に広がる海が待っているばかり。どうしよう?
迷っている暇はない。海の、少し入った、浜部からそう遠くないところ。行かなければ。
私は靴と靴下を脱ぎ捨てた。砂が熱を持っているのを、素足から感じる。
海へ向かう。波が触れた。少し冷たかった。
スカートが、シャツが、濡れていき服越しに海水の冷たさを知る。
私は、陸地から数メートル先に、『ソレ』を見出した。着衣での水泳は、普段より面倒ではあったが、難なくたどり着いた。
重たい横棒のような『ソレ』は、両手両足と顔を海中に沈め、背中だけを海面から出していた。
『ソレ』の正体は分かった。顔を確認したいが、陸に持っていってからでないと難しい。
誰、誰!?
心がざわめいている。自分の中の予想が違っていてほしいと願っていた。
私はそのままでは流れていくばかりの『ソレ』を浜辺へと引っ張っていく。浜辺の向こうから、人が何人か来ている。
重い。誰か手伝いが欲しい。浜辺にたどり着くのに海に入るときよりも、数倍の時間を要した。
波に、呑まれながら、押し合い圧し合いの水泳。
やっと、着いた。駆け付けた先生たちに、私は介抱される。けれど自分のことなんかよりも……
私は横たわった『ソレ』を見たい。よろよろとへたれ込んでいる場合じゃなかった。
顔を……
見た。そこには、予想した人物の顔が眼下に映し出されていた。
砂で汚れた顔。でも浅岡瑠璃の顔だと判別がつくのに時間はかからなかった。私があげた木製のネックレスが意味もなく『ソレ』の首に引っかかっていた。
素直な瑠璃に似合うと思ってあげたネックレスだった。救い難き現実だった。
『ソレ』を浅岡瑠璃だと、思えなかった。彼女の体は普段学校で見ていたときの一・五倍に膨れ上がって、不格好だった。もはや知っている顔でない。
瑠璃の形をした『ソレ』は単なる『ソレ』という名称に過ぎなかった。
虚ろな、ただの、空っぽな人の型を持った何かに成り下がっていた。そこには魂がない。先生たちが必死に手遅れな人工呼吸を施しているが、もはや蘇生不能だろう。
現実はひどく無情で、淡い側面を見せてくる。その日が、いつか来ると思っていた、私にとっては、今日だ。
浅岡瑠璃は死んだ。私が、両手で包み込みキスを交わした少女は、この世から消え去った。
どこにも、いないんだ。この世のどこを探しても、そう思ったら、涙が出てきた。ぽろぽろとこぼれた涙。誰かに知られたくはない。悔しがって地団駄を踏むのも、ごめんだ――でも――でも――涙だけは、こらえきれない。
誰にも悟られないだろう。この海水で濡れ切った姿で涙を流しても。
悲しい、という言葉は、遺憾に満ちた状況下で、何の意味を持つことだろう?
失われた命を再び注ぎ込むことは、私には到底できない……
「大丈夫?」
保健室。私は先生に連れられてここに到着した。白、という一字がぴったしのこの場は、傷ついたを休ませ、体力を養わせる抱擁力を持っていた。
海に浸かってしまった服を隠れて脱いだ。一先ず毛布に包まる。少し寒い。体がブル、ブル、と震える。
肌から磯の香りがして、たまったものじゃない。ヌメヌメした髪に砂利が混じる。髪はすっかり塩分が含んだ水を背負い込んでいる。
扉のさびた蝶番が音を鳴らす。誰か来た。
彩月だ。険しい顔立ちだった。
「授業の方はどうなった?」
「分かんないけど、多分自習よ。それに浜辺は警察でいっぱい」
「え、授業やっていたら、いいの?」
「別に、いいわよ。友達を介抱していましたって言っておく」
「そう」
「はい、弁当。どうせだからここで食べた方がいいと思って」
「ありがとう」
「ってか、明美さ体洗ってきたら? 臭いわよ?」
「そうね、ワカメ臭いわね?」
「――うん、まあ」
私は彩月に案内されて、体育館周辺にあるシャワー室に向かった。保健室に、断りを入れてのことだ。
シャワー室は白いタイルで敷き詰められ、カーテンで外と内とを区分している。
ノズルを手に取り、お湯を出す。最初は水で冷たいが、すぐにお湯に切り替わる。
天井に明かりに照らされ光を帯びたお湯が放射状に体へと降り注ぐ。
何だか精錬されていっているようだ。髪にこびり付いた砂利や臭いといった汚れが取れていく。
ただシャワーを浴びるのではなく、しっかり毛先まで。欲を言えばシャンプーとか、いる。
洗い終わった私は、困ったことに着替えのことを忘れていた。あの制服じゃだめだ。せっかく温まった体が、海中に引き戻された思いをする。
「明美~」
「はーい?」
「着替え、体操着を持ってきといた。あとタオル!」
助かった。ああ、と安堵のため息をつきたくなった。
「ねえ……」
私はカーテンを開いた。彼女がどこにいるか探すつもりだった。
「う、わおっ!」
目の前に、彩月の小顔がパッと表れた。私はびっくりして一歩引く。
「あの、もう出るから」
「はい、タオル」
「ありがとう」
タオルを受け取り、髪の毛を中心に、しっかりふき取る。長めの髪だと先まで拭くのが、厄介だった。
気づくと彩月は、じらーっと笑いながら私を眺めていた。その瞳には、いやらしい感情が潜んでいるみたいだ。
「なに?」
「えー何でもない」
何でもない顔だと思えず「見ないでよ」とだけ言った。
「見てないって」
にやけ顔。私は、もういいやと思って無視した。
「ヴィーナスのいいお姿、見れちゃった」
はい、やっぱりね。
「もっと気の利いたお世辞、言えないの?」
彩月はクスクスするばかり。それにこういうときは、不謹慎だ。
体操着に着替えて、保健室に戻って私はお昼に取った。一緒に彩月も食べてくれた。彼女のこういう時の、優しさはすごい励みになる。
私にはできないことだ。友達として一歩人の心に踏み込むことができ、的確に心をつかみ取る。反面、彩月は激情型だ。何かちょっとしたことで火が付く。
「明美は頑張ったんだよ」
ぽろっと涙がこぼれていた。
「いいの……」
私は言葉をつなぐことができない。
「泣いてもいい。私は知らないから、そんなの」
もう何も言えなかった。感情を手のひらから零れ落ちないよう、コントロールしていきた。ついさっきまで、私は冷静に対処できるようにしたかった。
でも今日は無理だ。今少し手のひらから気持ちの雫が滴るのを見届けていよう。一応ご飯に涙が入らないことに注意しながら。
食べ終わって、教室に帰って午後の授業に参加した。一人だけ体操着なのも、不思議な光景だった。今までにこんな経験したことがない。
ずぶぬれになったセーラー服は、使えない可能性があるので替える必要があるだろう。
私は授業のことなど頭に入らず、考え事に耽ってばかりいた。
瑠璃のことは、もういい……でも頭から離れない。
彼女は自殺したんだ、きっと、かわいそうに……もういい、やめよう。私はネガティブな気持ちにはせるのを、止めることに努めた。
もう考えたくないのだ。それに泣きたくもない。
2―2の生徒全員には、それぞれの人生がある。例えどんなことが起きても、元通りに人生を歩もうとするはず、全員が何らかの平和を求めている。
私には、バドミントンの選抜試合があったし、それは彩月も同様だ。堀田君や佐津間君も野球部の練習や、島外での遠征もあるだろう。他の生徒も同じだ。
通夜の翌週に緊急朝礼があって、校長が弔辞を述べたのが最後だ。彼女の死から一か月が経って、誰もがあの悲劇を無かったことにしようと、無意識に感じている――美作緑は不慮の事故だと。
七月に入った。夏の暑さは、さらに増している。面影島は、一年中通して暑いが、六月から九月はサイパンやグアムのように、焦げ付く暑さが体に降り注ぐ。
さらに一学期の期末試験も、目前だ。やることは、いっぱいある。
「あちい」
彩月の些細なうめき声が、授業中に聞こえる。彼女は机に突っ伏し、頭を横にして何かを目で追っている。
「何しているの?」
私は先生に悟られないよう話しかける。今は数学の問題集を解く時間。ヒソヒソ話してもバレないだろう。
「アリさん」
彩月は教科書の一点を指し示す。白い数学の教科書をじっと目を凝らすと、小さい黒点が何やらじりじりと横断している。
「暇だから……」
大きな瞳がありを捉えていた。そこから逃げるように、歩行する。逃げても、逃げても、アリが感じる恐怖は計り知れない。
やがてアリの歩行を見飽きたのか、ぴんっと指で弾き飛ばす。その行為は、わけもない行為だった。邪魔者をよそへ追いやっただけのこと。
彩月は姿勢を正す。そして目の前にある課題に取りかかった、いや取り組んでいるように見せている。
「お前ら、授業中だぞ。話すんな」
田部先生の注意が飛ぶ。一瞬私が言われたのかと思った。
「は、はい。あ、でも先生……」
どうやら違うが、ちょっと様子がおかしい。
クラスの男子が、うろたえた声で田部先生へ何かを言おうとしている。
「どうした?」
眉尻をしかめた田部先生の目が、男子生徒二人を見つめる。
生徒は指で窓の外を示す。一体どういうつもりで、という表情が感じ取られる。仕方なしに先生は生徒のところへ移動する。
「なんだ?」
「あ、あれ、あれですよ……」糧が震えている。
窓の外にある景色を注意深く観察していた。左右に動いていた目が、ある一点を捉えて静止する。じっと目を凝らしてみていくと尋常ではないものに
気づいたようだ。強面の、頑固な田部先生の顔が凍り付いている。
私は、彼の視線の動きを追って、どこで目が静止したのか見ていた。
何を見た?
自分の席が、左の窓側の列なのが幸いし、先生が描いた目の軌跡を追うことができた。いつもの慣れ親しんだ校庭、そこに体育の授業で生徒が走っている。違う。そこじゃない。求めているのは、そんなありふれた『モノ』じゃない。
その先は道路を挟んで浜辺と海。どこかに異変があるならば……
左右に視界が揺れる。
黄色味がかった砂浜……
濃淡のどこまでも続く蒼い海……
海をゆらゆらと陸へと向けて揺れる波……
ゆらゆら?
海面をうごめくのは風に乗せられた波、だと思っていた。
完全にその美しい日常を表した島の風景に、合わない『ソレ』があった。
白い糸に、絡まった深紅のまだら模様の糸が一本絡まっている……
麦わら帽子、うつぶせの体。服装は、白かった。薄いスカート―――――首にかけられた、茶色い……ネックレス?
多分、でも、まさか、そうなのか?
私の思考が、初めてぐらついた。そして、思いたくもない答えを出していた。
「せ、先生……」
最初に気づいた生徒が、判断を仰ごうとしている。
――遅い。
「明美?」
私の体は、席にはなかった。教室を飛び出し、廊下を突き抜ける。そして階段を下る。聞こえてくるのは、自分のタタタッという足音だけ。
自分がどうして駆け出しているのか、はっきりとした理由を持たずにいた。だが窓の外の、海辺にあった、その何かは、私を駆り立てる要素を持ち合わせていた。
だから走らなければいけなかった……
校庭に出た、そこから海まで本当ならわずかな距離だ。でも、今日は遠くに感じる。
こんなにも校庭は広かった?
一瞬迷いが生じた。
「星河!」
背後から私の名前を呼ぶ声がする。田部先生の声だ。追われている、と感じた。いやそうじゃない。これは、一刻の猶予もないことだ。
「待て!」
校舎に沿って、私は駆ける。
正門は閉まっているし、飛び越えられない高さだ。
なら校舎の右端にある小さい門を通っていくしか、ない。
門はグングン目の前に近づいてくる。
そこを抜ければ、浜辺、海へは一直線だ。
門は越えた。後は、ひたすら走る、海に浮かぶ異物に向かって……
道路は幸いにして、車がいない。
よかった……
浜辺への向かう階段を下りる。あとは、広大に広がる海が待っているばかり。どうしよう?
迷っている暇はない。海の、少し入った、浜部からそう遠くないところ。行かなければ。
私は靴と靴下を脱ぎ捨てた。砂が熱を持っているのを、素足から感じる。
海へ向かう。波が触れた。少し冷たかった。
スカートが、シャツが、濡れていき服越しに海水の冷たさを知る。
私は、陸地から数メートル先に、『ソレ』を見出した。着衣での水泳は、普段より面倒ではあったが、難なくたどり着いた。
重たい横棒のような『ソレ』は、両手両足と顔を海中に沈め、背中だけを海面から出していた。
『ソレ』の正体は分かった。顔を確認したいが、陸に持っていってからでないと難しい。
誰、誰!?
心がざわめいている。自分の中の予想が違っていてほしいと願っていた。
私はそのままでは流れていくばかりの『ソレ』を浜辺へと引っ張っていく。浜辺の向こうから、人が何人か来ている。
重い。誰か手伝いが欲しい。浜辺にたどり着くのに海に入るときよりも、数倍の時間を要した。
波に、呑まれながら、押し合い圧し合いの水泳。
やっと、着いた。駆け付けた先生たちに、私は介抱される。けれど自分のことなんかよりも……
私は横たわった『ソレ』を見たい。よろよろとへたれ込んでいる場合じゃなかった。
顔を……
見た。そこには、予想した人物の顔が眼下に映し出されていた。
砂で汚れた顔。でも浅岡瑠璃の顔だと判別がつくのに時間はかからなかった。私があげた木製のネックレスが意味もなく『ソレ』の首に引っかかっていた。
素直な瑠璃に似合うと思ってあげたネックレスだった。救い難き現実だった。
『ソレ』を浅岡瑠璃だと、思えなかった。彼女の体は普段学校で見ていたときの一・五倍に膨れ上がって、不格好だった。もはや知っている顔でない。
瑠璃の形をした『ソレ』は単なる『ソレ』という名称に過ぎなかった。
虚ろな、ただの、空っぽな人の型を持った何かに成り下がっていた。そこには魂がない。先生たちが必死に手遅れな人工呼吸を施しているが、もはや蘇生不能だろう。
現実はひどく無情で、淡い側面を見せてくる。その日が、いつか来ると思っていた、私にとっては、今日だ。
浅岡瑠璃は死んだ。私が、両手で包み込みキスを交わした少女は、この世から消え去った。
どこにも、いないんだ。この世のどこを探しても、そう思ったら、涙が出てきた。ぽろぽろとこぼれた涙。誰かに知られたくはない。悔しがって地団駄を踏むのも、ごめんだ――でも――でも――涙だけは、こらえきれない。
誰にも悟られないだろう。この海水で濡れ切った姿で涙を流しても。
悲しい、という言葉は、遺憾に満ちた状況下で、何の意味を持つことだろう?
失われた命を再び注ぎ込むことは、私には到底できない……
「大丈夫?」
保健室。私は先生に連れられてここに到着した。白、という一字がぴったしのこの場は、傷ついたを休ませ、体力を養わせる抱擁力を持っていた。
海に浸かってしまった服を隠れて脱いだ。一先ず毛布に包まる。少し寒い。体がブル、ブル、と震える。
肌から磯の香りがして、たまったものじゃない。ヌメヌメした髪に砂利が混じる。髪はすっかり塩分が含んだ水を背負い込んでいる。
扉のさびた蝶番が音を鳴らす。誰か来た。
彩月だ。険しい顔立ちだった。
「授業の方はどうなった?」
「分かんないけど、多分自習よ。それに浜辺は警察でいっぱい」
「え、授業やっていたら、いいの?」
「別に、いいわよ。友達を介抱していましたって言っておく」
「そう」
「はい、弁当。どうせだからここで食べた方がいいと思って」
「ありがとう」
「ってか、明美さ体洗ってきたら? 臭いわよ?」
「そうね、ワカメ臭いわね?」
「――うん、まあ」
私は彩月に案内されて、体育館周辺にあるシャワー室に向かった。保健室に、断りを入れてのことだ。
シャワー室は白いタイルで敷き詰められ、カーテンで外と内とを区分している。
ノズルを手に取り、お湯を出す。最初は水で冷たいが、すぐにお湯に切り替わる。
天井に明かりに照らされ光を帯びたお湯が放射状に体へと降り注ぐ。
何だか精錬されていっているようだ。髪にこびり付いた砂利や臭いといった汚れが取れていく。
ただシャワーを浴びるのではなく、しっかり毛先まで。欲を言えばシャンプーとか、いる。
洗い終わった私は、困ったことに着替えのことを忘れていた。あの制服じゃだめだ。せっかく温まった体が、海中に引き戻された思いをする。
「明美~」
「はーい?」
「着替え、体操着を持ってきといた。あとタオル!」
助かった。ああ、と安堵のため息をつきたくなった。
「ねえ……」
私はカーテンを開いた。彼女がどこにいるか探すつもりだった。
「う、わおっ!」
目の前に、彩月の小顔がパッと表れた。私はびっくりして一歩引く。
「あの、もう出るから」
「はい、タオル」
「ありがとう」
タオルを受け取り、髪の毛を中心に、しっかりふき取る。長めの髪だと先まで拭くのが、厄介だった。
気づくと彩月は、じらーっと笑いながら私を眺めていた。その瞳には、いやらしい感情が潜んでいるみたいだ。
「なに?」
「えー何でもない」
何でもない顔だと思えず「見ないでよ」とだけ言った。
「見てないって」
にやけ顔。私は、もういいやと思って無視した。
「ヴィーナスのいいお姿、見れちゃった」
はい、やっぱりね。
「もっと気の利いたお世辞、言えないの?」
彩月はクスクスするばかり。それにこういうときは、不謹慎だ。
体操着に着替えて、保健室に戻って私はお昼に取った。一緒に彩月も食べてくれた。彼女のこういう時の、優しさはすごい励みになる。
私にはできないことだ。友達として一歩人の心に踏み込むことができ、的確に心をつかみ取る。反面、彩月は激情型だ。何かちょっとしたことで火が付く。
「明美は頑張ったんだよ」
ぽろっと涙がこぼれていた。
「いいの……」
私は言葉をつなぐことができない。
「泣いてもいい。私は知らないから、そんなの」
もう何も言えなかった。感情を手のひらから零れ落ちないよう、コントロールしていきた。ついさっきまで、私は冷静に対処できるようにしたかった。
でも今日は無理だ。今少し手のひらから気持ちの雫が滴るのを見届けていよう。一応ご飯に涙が入らないことに注意しながら。
食べ終わって、教室に帰って午後の授業に参加した。一人だけ体操着なのも、不思議な光景だった。今までにこんな経験したことがない。
ずぶぬれになったセーラー服は、使えない可能性があるので替える必要があるだろう。
私は授業のことなど頭に入らず、考え事に耽ってばかりいた。
瑠璃のことは、もういい……でも頭から離れない。
彼女は自殺したんだ、きっと、かわいそうに……もういい、やめよう。私はネガティブな気持ちにはせるのを、止めることに努めた。
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