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一章

一節 徳村芽衣は子ども嫌い(2)

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「……せんせい、さようなら!」

 声のした方に視線を向けると、ランドセルを背負った女の子が、母親と一緒に教室を出ていくところだった。

 時計を見ると、十七時を指している。
 勤めを終えた保護者が子どもを引き取りに現れる頃だ。他の子どもたちも、玩具の片付けと、帰宅の準備をはじめている。

 カーテンを閉めようと窓際に立つと、先ほどの親子が児童館から出ていく姿が見えた。女の子は母親に一生懸命に話しかけ、ぴょんぴょん飛び跳ねている。母親は、勤め人らしく小奇麗なスーツに身を包んで……。
 幸せそうな親子だ。世界の中心にいるかのよう。あれこそ自分の理想の現在だったはずなのに。

 自分はどこで間違ったのかなぁ、なんて虚しく考えることがある。
 特に今年に入ってから、さんざんな出来事ばかり。

「いつかは正社員に推薦してあげるから」なんて口約束を信じて、七年勤めた会社から、雇用止めを言い渡された。

 三年付き合った彼氏からは、一方的に別れを告げられ音信不通。

 五年仮住まいをしたアパートに雷が落ち家電が全滅。修理のため退去を言い渡され……。

 生活に困って実家に戻れば、残念感丸出しの母親の視線と、近所のおばさま方のデリカシーのないおせっかい。

「芽衣ちゃん、帰ってきたんだって? お仕事うまくいかなかったのねぇ」

「結婚は? えっ、してない? あらあら、まぁまぁ。うちの子の友達で、誰かいい人、いないかしら。おばちゃん聞いてみようか」

 にっこり笑って「余計なお世話です」と答えたら、母親が赤鬼みたいな顔をして家を出ていけと叫びだしたから、あれから毒を吐くのは自重している。

 保護者と問題を起こさないようにと園長から口をすっぱく言われていたが、結局トラブルになってしまったのは六月に入ってすぐ。どんよりと曇った、重苦しい日のことだった。

「だから、うちの子は、盗っていないと言っているんです」

 男は、頭ふたつ分くらい高いところからわたしを見下ろし、ぎょろりとした目を血走らせて、そう言った。

 身の丈は百八十センチはあろうかという長身に、不機嫌なオーラを纏ったその男は、COCORONに通う小学二年生、矢澤やざわ悠馬の保護者だ。
 矢澤家は父子家庭らしく、いつも十八時前後に息子を迎えにやってくる。

 大男は、彫りの深い目鼻立ちに、黒く太い眉。浅黒い肌をしていて、髪形はきっちり刈り上げたベリーショート。
 ただでさえ近寄りがたい鬼瓦みたいな顔で、今日にいたっては頬に傷まで作っているから、恐ろしいことこの上ない。
 危ない職業の人なんじゃないだろうかと疑っては悪いが、一般的なサラリーマンでないことは間違いないだろう。

 今や、普通の人だと思っていた相手が突然キレて、犯罪者になる時代だ。
 へたに対立して自身に危害が及んだら「やられ損」。塾長の言うように保護者に媚びへつらい機嫌をとっておくのが吉というのもわかる。

 けれども、わたしは負けず嫌い。どうにも向かってくるものには張り合ってしまう性質で。

「ですから! お子さんが犯人とは言ってません。矢澤さんのお宅でも、注意してみていてくださいと言ってるんです」

 負けてなるものか、と気持ち爪先立ちして睨み上げ、声を張り上げた。

 今日起こった出来事は盗難事件、というと大げさだが、COCORONに通うメイトの一人が「持ち物がなくなった」と訴えたのだ。学校で優秀作品として表彰された帆船模型らしく、家に持ち帰る途中、友人に披露し、少し目を離した隙に物が消えていたという。

 正直なところ、その子どもは「悠馬が盗んだのかもしれない」と主張していた。作品を皆に見せた時、悠馬だけが面白くなさそうに睨んでいたから、と……。

 けれどわたしだってその場で見たわけではないので、いくらなんでも犯人を決め付けるようなことはしない。子どもたち全員の保護者に事情を説明し、お子さんに変わった様子があれば教えてほしい、と伝えたのだが……。

 鬼瓦は、悠馬から「自分が犯人扱いされた」と聞いたのだろう。一度は帰りかけたものの、すぐに足音荒く戻ってきて、今日の当直であるわたしに詰め寄り、クレームをつけているというわけだ。

 男は眉間に血管を浮き上がらせ、今にも襲いかからんばかりの形相で言った。

「うちの悠馬を、疑っているんですよね。証拠はあるんですか」

 証拠を出せ、ときたか……。
 痴漢の言い逃れをするオッサンでもあるまいに。
 こちらの血管も切れそうだったが、大の男に暴れられたら、力ではかなわない。

「ですから……悠馬くんだけを犯人扱いしたりしていません。保護者の方全員に同じことをご説明しました」

「うちの子だけ、盗んだのか、と問い詰められたと。傷ついた、と言っています」

「はぁ?」

 思わず下あごが出てしまった。
 傷ついたはずの当のご本人は、親父の後ろで何食わぬ顔をして、退屈そうに大あくびをしているのだ。
 このクソガキが、そんなことで傷つくタマか。

「だいたい、あなた、徳村先生、ですよね」

「そうですけど、何か」

「普段から、何をしてもうちの子ばかり怒られると、子どもから聞いています。子どもを預かる立場で贔屓をするなんて、良くないんじゃないですか。え?」

 これか。これがモンスターペアレンツというやつか。
 子どもが悪事を働いても叱らない。うちの子はいい子、うちの子に限って悪いことなんてするはずがない。教師が叱れば虐待で、反作用はすべて外部要因のせい。

 こういうモンスター様方が、世の中を駄目にしていかれるんですね。あぁ、日本の未来に希望はない。
 ですがとりいそぎ、お気に召さないのであれば、退塾されてはいかがでしょうか。遠慮せず今すぐに。

 クビになったって構うもんか。倍にして言い返そうと喉に力が入ったその時、

「まぁまぁまぁ。何かうちの職員の言動に失礼があったようで、申し訳ありません」

 愛想笑いを貼りつけた塾長が両手を擦り合わせながら間に入り、わたしは不完全燃焼のまま、舞台袖にひっこめと命じられたのだった。
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