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去年のリッチな夜でした
その7
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同時刻、安木邦男は自室にて、スマートフォンから届く声に耳を傾けていた。
オールバックに整えた髪にはぽつぽつと白いものが目立ち始めていたが、眼光の鋭さは未だ衰えを知らぬようであった。
安木は既に額に刻まれている何本かの皺を更に深くして、電話口に話し掛ける。
「……ええ。だから、その辺りの事情は前にも話したでしょう? あらァ確か、藤村ン組の若頭に言ったんだったか……」
部屋の広さは十畳程もあるだろうか。
長方形の広々とした室内に、朗々とした低い声が響いた。部屋の中央には黒檀のテーブルが置かれ、来客用と思しき皮張りのソファーがその周りに配されている。窓から差し込む日差しが、高級感溢れるそれらの調度品に艷やかな光沢を与えていた。
その部屋の奥、重厚そうな黒檀の机を前に置いて、安木は電話向こうの相手へと訴える。
「兎も角、人間たって所詮は動物の一種でしかねェんですから、自分の縄張り汚されりゃァ、そりゃァ腹ァ立てんのが自然てもんでしょうがァ。よもや、あんたも今更、道徳だの法律だのォ持ち出したりゃァせんでしょうなァ?」
喉に微妙に突っ掛かる独特の響きを含んだ低い声で、安木は尚も語り掛ける。諭すように、と言うよりはむしろ、後ろ手に刃物を隠したままじわじわと躙り寄って行くように、その語気には剣呑な響きが見え隠れしていた。
そんな彼の背後の壁には、一個のレリーフが掲げられていた。
刺々しい菱形を並べて円を形作った中に、荒々しい書体で一文字『旭』と彫り込まれた、実に威圧的なレリーフであった。
「オォ・ヤァ・ジィ~……!」
安木は唸るように、唐突に声を荒げた。
「んな、何遍も言わせんといて下せェよォ。たかが薄汚ねェ野良犬の五匹や六匹、こっちの縄張りで消えたからって、すぐにそっちへ網が掛かる(※警察の取り締まりを受ける)ってんでもねェでしょうにィ。こんなつまんねェ事で一々小言ォ貰ってちゃァ、きちんと会費納めてる甲斐もありゃしませんぜェ?」
そう言って、安木はスマートフォンを握る手に力を込めた。
「……まさか知らねェたァ仰らんでしょうなァ? うちらが既にどんだけの額を御納めしてんのかァ? 何なら今から帳簿ォ持って来て読み上げましょうかァ? あんたが先月娘に買ってやったあのブガッティ、あれの一割ぐれェはうちの稼ぎで成り立ってんだからなァ」
徐々に低くなる声に付随して、安木の目元も険しくなって行く。
「生憎、うちらはそこらの三一みてえに、つまんねェ特殊詐欺頼みの仕事でコソコソ稼いでんじゃァねェんだ。ギブアンドテイクなんぞァ何処の組織でも基本中の基本でしょうがァ? 人並み以上にやる事やってるからにゃァ、こっちの筋も多少は通させて貰いますぜェ」
窓の外を鳥が横切ったのか、床の日溜りに小さな影が過ぎった。
それから少しして、安木は通話を切った。
「……ったく、警察なんぞにビビり腐りやがって。これだから歳は取りたかねェんだ……」
安木は液晶画面の消えたスマートフォンを睨みつつ、黒檀の机の前で吐き捨てたのだった。
そのすぐ後、部屋の扉をノックする乾いた音が室内に響いた。
「入れェ」
椅子の背凭れに寄り掛かった安木が甚だ不機嫌に答えて間も無く、真向かいに設えられた扉が開き、スーツ姿の男が部屋に入って来る。
「失礼します」
頭髪を角刈りに整えた、体格の良い男であった。
歳は五十を超えた辺りであろうか。部屋の主と来客との面差しには、大した年齢の開きは認められなかった。
そんな相手の姿を確認するなり、安木も俄かに表情を和らげる。
「……おォ、三郎ォ。久し振りだなァ、おい」
挨拶を遣された男は、全体的に四角い顔に笑みを浮かべて見せた。
「うっす。ご無沙汰っす、ヤッさん」
「何だァ? 少し早ェんじゃねェか? 相変わらず時間にゃ厳しい野郎だ。まァ、座って座って」
それまでとは打って変わって楽しそうに促しながら、安木は机の席から腰を上げた。
そして安木は壁際に置かれた戸棚よりウイスキーの瓶とグラスを取り出すと、部屋の中央に配された黒檀のテーブルへと近付いて行く。テーブルを囲うソファーの一つに、来客の男は既に腰を下ろしていた。
「まずァお茶って柄でもねェだろ。俺とお前の仲じゃァ尚更」
「悪いっすね。ついでで立ち寄っただけだってのに気ィ遣わせちまって」
角刈りの男は、ソファーに尻を沈めたまま一礼した。
その向かい側の席に腰を落ち着け、安木はテーブルに置いた二つのグラスにウイスキーを注いで行く。
「そっちも、あっちこっち飛び回って大変みてェだなァ。いざやってみると難しいもんだろォ、『経営者』様って身分も?」
安木の向かいで、角刈りの男は苦笑した。
「ええ、全く仰る通りで。俺ァ元々渉外ばっか回されてましたけど、今じゃ日がな一日、方々へ頭下げに駆けずり回ってますわ」
「そォんな事言ってェ、実際は下げさせる側なんじゃねェのォ? 昔ァよく貸元(※賭博場の経営者)ン所へ切り取り(※取り立て)に行っちゃァ、クンロク(※脅迫紛いの説教)入れてたじゃんよォ。傍で聞いてて実はブルってたんだよ、俺ェ」
安木はそう冷やかすと、来客の手元へと酒の注がれたグラスを押し遣った。
焦げ茶色の液体の表面に、外から差し込む光が僅かに反射した。
程無く、黒檀のテーブルの上で、二つのグラスが人知れず打ち鳴らされたのであった。
酒杯をぐいと呷った後、安木は相対する男を改めて視界に収める。
「……そっかそっか、あの中村三郎もいよいよ『フィクサー』(※政財界に人脈を持つ、所謂『顔が利く』人物)の仲間入りか。座布団(※組織内の地位)抜かれる日も近ェかな……」
言われて、当の中村は困ったように肩を竦めた。
「またまた。『フィクサー』ったって、俺なんか三一もいい所ですよ。ヤッさんのが余っ程羽振りがいいじゃないすか。『薬局』の経営がいよいよ軌道に乗り出したみたいで」
「まァ、そこァ否定はしねェよ、うん」
半ば惚けた面持ちで、安木は答えた。
一方で、中村はふと表情を素に戻す。
「……で、その後の塩梅はどうです? 役に立ってますか、『あいつ』?」
問われた安木は、向かいの席でグラスへ新たに酒を注ぐ。
「そりゃァ、おめェ、御覧の通りとしか言えんわなァ。いや、事実として充分過ぎる程役立ってるよ、『あいつ』ァ。兎にも角にも器用なもんだから、あれやこれやと任せられるんでなァ」
特に誇張するでもなく述懐した相手の前で、中村はばつの悪そうな面持ちを浮かべる。
「そう言って頂けると斡旋した側としても助かりますが、変に気を許さねえ方がいいすよ、あの中国人。少し話したぐらいじゃ、何考えてんのか、さっぱり判んねえ。無責任なようですが、俺もヤッさんの組ぐらいしか預けられる先が思い浮かばなかったもんで」
「何だ、俺に厄介払いしやがったってのか、この野郎」
「元々大陸で厄介払いされて来た奴ですがね」
安木が冷やかすように指摘すると、テーブルを挟んだ先で中村は溜息を漏らした。
その中村のグラスに酒を注ぎ足しつつ、安木は落ち着いた口調で告げる。
「まあ、そう肩肘ばっか張んなって。俺ァ昔っから、使える奴にゃ別け隔てァしねェんだ。たとえ相手が『黑手党』の流れ者だからって、きちんと働いてる間ァ四方同席(※無礼講)ぐれェ認めるさ。それが食客に対する礼儀ってもんだからなァ」
「ええ。勿論、そこは俺も良く知ってます……」
中村は酒盃を傾けつつ、些か歯切れ悪く相槌を打った。
相変わらず、図太いんだか鈍いんだか判んない人だ。
この場合、それが果たして吉と出るか、凶と出るか。
中村がそんな懸念を抱いて酒を呑み下した時、その横手から扉をノックする音が再び部屋の空気を震わせた。
「入れェ」
中村の向かいで安木がぞんざいに促してすぐ、外へと通ずる扉が開かれ、髪にメッシュを入れた若い男が部屋の敷居越しに呼び掛ける。
「社長。御取込み中失礼します」
「おォ、どォしたァ?」
「はい。『あいつ』が、『チェン』の奴がまた、『仕込み』が終わったんで確認に来てくれって言ってます」
相手の方へと顔を向けた安木は、そこで口先を僅かに尖らせた。
他方、テーブルを隔てた先では、中村が静かに両目を細める。
その中村の方へと首を巡らせて、安木は何処か愉快げな面持ちを浮かべた。
「噂をすりゃァ、だな。どォする? おめェも見とくか、『あいつ』の仕事振りを?」
「ええ」
中村は、今度は神妙な表情で頷いた。
「元々、その積もりで立ち寄ったもんで」
「そうか。なら話ァ早ェ。特別にうちの『企業秘密』って奴を拝ませてやんよ」
言って、安木はソファーから立ち上がる。
少し遅れて、中村もまた腰を上げたのだった。
そうして、二人の男はささやかな酒宴の席を後にする。
窓から差し込む春の日差しも、この場に堆積する翳りを払拭する事だけは叶わぬようであった。
オールバックに整えた髪にはぽつぽつと白いものが目立ち始めていたが、眼光の鋭さは未だ衰えを知らぬようであった。
安木は既に額に刻まれている何本かの皺を更に深くして、電話口に話し掛ける。
「……ええ。だから、その辺りの事情は前にも話したでしょう? あらァ確か、藤村ン組の若頭に言ったんだったか……」
部屋の広さは十畳程もあるだろうか。
長方形の広々とした室内に、朗々とした低い声が響いた。部屋の中央には黒檀のテーブルが置かれ、来客用と思しき皮張りのソファーがその周りに配されている。窓から差し込む日差しが、高級感溢れるそれらの調度品に艷やかな光沢を与えていた。
その部屋の奥、重厚そうな黒檀の机を前に置いて、安木は電話向こうの相手へと訴える。
「兎も角、人間たって所詮は動物の一種でしかねェんですから、自分の縄張り汚されりゃァ、そりゃァ腹ァ立てんのが自然てもんでしょうがァ。よもや、あんたも今更、道徳だの法律だのォ持ち出したりゃァせんでしょうなァ?」
喉に微妙に突っ掛かる独特の響きを含んだ低い声で、安木は尚も語り掛ける。諭すように、と言うよりはむしろ、後ろ手に刃物を隠したままじわじわと躙り寄って行くように、その語気には剣呑な響きが見え隠れしていた。
そんな彼の背後の壁には、一個のレリーフが掲げられていた。
刺々しい菱形を並べて円を形作った中に、荒々しい書体で一文字『旭』と彫り込まれた、実に威圧的なレリーフであった。
「オォ・ヤァ・ジィ~……!」
安木は唸るように、唐突に声を荒げた。
「んな、何遍も言わせんといて下せェよォ。たかが薄汚ねェ野良犬の五匹や六匹、こっちの縄張りで消えたからって、すぐにそっちへ網が掛かる(※警察の取り締まりを受ける)ってんでもねェでしょうにィ。こんなつまんねェ事で一々小言ォ貰ってちゃァ、きちんと会費納めてる甲斐もありゃしませんぜェ?」
そう言って、安木はスマートフォンを握る手に力を込めた。
「……まさか知らねェたァ仰らんでしょうなァ? うちらが既にどんだけの額を御納めしてんのかァ? 何なら今から帳簿ォ持って来て読み上げましょうかァ? あんたが先月娘に買ってやったあのブガッティ、あれの一割ぐれェはうちの稼ぎで成り立ってんだからなァ」
徐々に低くなる声に付随して、安木の目元も険しくなって行く。
「生憎、うちらはそこらの三一みてえに、つまんねェ特殊詐欺頼みの仕事でコソコソ稼いでんじゃァねェんだ。ギブアンドテイクなんぞァ何処の組織でも基本中の基本でしょうがァ? 人並み以上にやる事やってるからにゃァ、こっちの筋も多少は通させて貰いますぜェ」
窓の外を鳥が横切ったのか、床の日溜りに小さな影が過ぎった。
それから少しして、安木は通話を切った。
「……ったく、警察なんぞにビビり腐りやがって。これだから歳は取りたかねェんだ……」
安木は液晶画面の消えたスマートフォンを睨みつつ、黒檀の机の前で吐き捨てたのだった。
そのすぐ後、部屋の扉をノックする乾いた音が室内に響いた。
「入れェ」
椅子の背凭れに寄り掛かった安木が甚だ不機嫌に答えて間も無く、真向かいに設えられた扉が開き、スーツ姿の男が部屋に入って来る。
「失礼します」
頭髪を角刈りに整えた、体格の良い男であった。
歳は五十を超えた辺りであろうか。部屋の主と来客との面差しには、大した年齢の開きは認められなかった。
そんな相手の姿を確認するなり、安木も俄かに表情を和らげる。
「……おォ、三郎ォ。久し振りだなァ、おい」
挨拶を遣された男は、全体的に四角い顔に笑みを浮かべて見せた。
「うっす。ご無沙汰っす、ヤッさん」
「何だァ? 少し早ェんじゃねェか? 相変わらず時間にゃ厳しい野郎だ。まァ、座って座って」
それまでとは打って変わって楽しそうに促しながら、安木は机の席から腰を上げた。
そして安木は壁際に置かれた戸棚よりウイスキーの瓶とグラスを取り出すと、部屋の中央に配された黒檀のテーブルへと近付いて行く。テーブルを囲うソファーの一つに、来客の男は既に腰を下ろしていた。
「まずァお茶って柄でもねェだろ。俺とお前の仲じゃァ尚更」
「悪いっすね。ついでで立ち寄っただけだってのに気ィ遣わせちまって」
角刈りの男は、ソファーに尻を沈めたまま一礼した。
その向かい側の席に腰を落ち着け、安木はテーブルに置いた二つのグラスにウイスキーを注いで行く。
「そっちも、あっちこっち飛び回って大変みてェだなァ。いざやってみると難しいもんだろォ、『経営者』様って身分も?」
安木の向かいで、角刈りの男は苦笑した。
「ええ、全く仰る通りで。俺ァ元々渉外ばっか回されてましたけど、今じゃ日がな一日、方々へ頭下げに駆けずり回ってますわ」
「そォんな事言ってェ、実際は下げさせる側なんじゃねェのォ? 昔ァよく貸元(※賭博場の経営者)ン所へ切り取り(※取り立て)に行っちゃァ、クンロク(※脅迫紛いの説教)入れてたじゃんよォ。傍で聞いてて実はブルってたんだよ、俺ェ」
安木はそう冷やかすと、来客の手元へと酒の注がれたグラスを押し遣った。
焦げ茶色の液体の表面に、外から差し込む光が僅かに反射した。
程無く、黒檀のテーブルの上で、二つのグラスが人知れず打ち鳴らされたのであった。
酒杯をぐいと呷った後、安木は相対する男を改めて視界に収める。
「……そっかそっか、あの中村三郎もいよいよ『フィクサー』(※政財界に人脈を持つ、所謂『顔が利く』人物)の仲間入りか。座布団(※組織内の地位)抜かれる日も近ェかな……」
言われて、当の中村は困ったように肩を竦めた。
「またまた。『フィクサー』ったって、俺なんか三一もいい所ですよ。ヤッさんのが余っ程羽振りがいいじゃないすか。『薬局』の経営がいよいよ軌道に乗り出したみたいで」
「まァ、そこァ否定はしねェよ、うん」
半ば惚けた面持ちで、安木は答えた。
一方で、中村はふと表情を素に戻す。
「……で、その後の塩梅はどうです? 役に立ってますか、『あいつ』?」
問われた安木は、向かいの席でグラスへ新たに酒を注ぐ。
「そりゃァ、おめェ、御覧の通りとしか言えんわなァ。いや、事実として充分過ぎる程役立ってるよ、『あいつ』ァ。兎にも角にも器用なもんだから、あれやこれやと任せられるんでなァ」
特に誇張するでもなく述懐した相手の前で、中村はばつの悪そうな面持ちを浮かべる。
「そう言って頂けると斡旋した側としても助かりますが、変に気を許さねえ方がいいすよ、あの中国人。少し話したぐらいじゃ、何考えてんのか、さっぱり判んねえ。無責任なようですが、俺もヤッさんの組ぐらいしか預けられる先が思い浮かばなかったもんで」
「何だ、俺に厄介払いしやがったってのか、この野郎」
「元々大陸で厄介払いされて来た奴ですがね」
安木が冷やかすように指摘すると、テーブルを挟んだ先で中村は溜息を漏らした。
その中村のグラスに酒を注ぎ足しつつ、安木は落ち着いた口調で告げる。
「まあ、そう肩肘ばっか張んなって。俺ァ昔っから、使える奴にゃ別け隔てァしねェんだ。たとえ相手が『黑手党』の流れ者だからって、きちんと働いてる間ァ四方同席(※無礼講)ぐれェ認めるさ。それが食客に対する礼儀ってもんだからなァ」
「ええ。勿論、そこは俺も良く知ってます……」
中村は酒盃を傾けつつ、些か歯切れ悪く相槌を打った。
相変わらず、図太いんだか鈍いんだか判んない人だ。
この場合、それが果たして吉と出るか、凶と出るか。
中村がそんな懸念を抱いて酒を呑み下した時、その横手から扉をノックする音が再び部屋の空気を震わせた。
「入れェ」
中村の向かいで安木がぞんざいに促してすぐ、外へと通ずる扉が開かれ、髪にメッシュを入れた若い男が部屋の敷居越しに呼び掛ける。
「社長。御取込み中失礼します」
「おォ、どォしたァ?」
「はい。『あいつ』が、『チェン』の奴がまた、『仕込み』が終わったんで確認に来てくれって言ってます」
相手の方へと顔を向けた安木は、そこで口先を僅かに尖らせた。
他方、テーブルを隔てた先では、中村が静かに両目を細める。
その中村の方へと首を巡らせて、安木は何処か愉快げな面持ちを浮かべた。
「噂をすりゃァ、だな。どォする? おめェも見とくか、『あいつ』の仕事振りを?」
「ええ」
中村は、今度は神妙な表情で頷いた。
「元々、その積もりで立ち寄ったもんで」
「そうか。なら話ァ早ェ。特別にうちの『企業秘密』って奴を拝ませてやんよ」
言って、安木はソファーから立ち上がる。
少し遅れて、中村もまた腰を上げたのだった。
そうして、二人の男はささやかな酒宴の席を後にする。
窓から差し込む春の日差しも、この場に堆積する翳りを払拭する事だけは叶わぬようであった。
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