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フレンチでリッチな夜でした

その21

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                *

 そうだ。
 やはりこの森には『何か』が居る。
 ガエタンは肩に掛けた猟銃を握り締めつつ、緊迫した面持ちを浮かべた。
 彼の前方を二匹の猟犬が草むらに鼻を近付けつつ歩いて行く。周囲は鳥のさえずりが時折届く以外、実に静かなものであった。
 昼時の森には梢の隙間から届く光が点々と辺りに散らばり、朗らかと呼んで差し支えない空気が満ちていた。今にもその辺りの木陰から鹿の親子連れが姿を覗かせそうな程に。
 しかるにガエタンは全身から緊張をほどかない。
 熟練の猟師である彼は、森が如何に容易たやすくその相貌を変化させるかを実体験として知っていたからである。
 大抵の肉食獣は夜を主な行動時間とする。だからこそ昼日中にその巣穴を見付け出し、速やかに駆除する事が肝要なのである。
 だが、全ての猛獣が昼日中に寝けているとは限らない。いつ何時牙を剥き出しにした野獣が木立の奥から姿を現すか、それは誰にも判らないのだ。
 森に分け入る際に決して忘れてはならぬ事が一つある。ここはそもそも人間にとっての『異界』であり、そこを棲み処とする『もの』共の領域なのである。
 そして今、壮年の猟師は草むらを慎重に踏み締めながら、猟犬達と共に森の奥へと歩を進めた。
 明るく差し込む光にも軽やかに流れる風にも、決して気を緩ませてはならない。まして、今度の獲物は正体を未だ掴ませぬ謎めいた獣である。今この瞬間も何処からこちらを密かに見張っているか判ったものではないのだ。
 ガエタンはそこで奥歯を噛み締めた。
 彼を含め熟練の猟師達がこれ程長い期間に渡って付近の森を捜索しても、相手の足取りすらまともに掴む事は叶わない。
 屈辱的な展開ではあるが、揺るがせに出来ない事実でもある。敵は悪魔のように知恵の回る狼か、それとも魔女が姿を変えたかのような老獪な熊であろうか。
 いずれにせよ獰猛さと狡猾さを併せ持つ猛獣程厄介な相手はいない。森を生活の一部として来た自分達を嘲るように、人々を戯れに牙に掛ける『獣』は今日も姿を見せなかった。
 ガエタンの前を歩く二頭の猟犬は今も草むらに鼻をひくつかせている。主人と同様、熟練と評して良い聡明な猟犬は、だが獲物のにおいを未だ嗅ぎ付けられずにいた。
 決してこの二頭の、そして自分の要領が悪い訳ではない。
 かつて猟師仲間全員で森を捜索した事も幾度いくどかあったが、誰一人として何の痕跡も辿れなかったのである。森の中で被害者が出る度、猟師達はそれぞれに犬を連れて追跡に当たろうと試みたのだが、殺害現場の臭いを嗅がせた途端、何処の家も自慢の種としている勇敢な犬達は突如として訳も無く怯え出し、例外無くすくみ上がってしまうのだった。
 ガエタンにとっても、これは初めて出くわす事態だった。
 しかし同時に、犬達の怯える様子は一つの事実を示唆してもいる。この森の何処かに、真に恐るべき『獣』は確かに存在するのだと。
 だからこそ、ガエタンは山裾に広がる森へ今日も足を踏み入れた。たった一人で、忠勇なる猟犬達だけを連れて壮年の猟師は薄暗い木立の奥へと進んだのであった。
 大勢で動けばそれだけ相手に気取られる確率も上がる。故に多少の危険を冒す事になろうと、彼はえて単独で獣を追跡する事に決めたのである。
 数を頼んでの山狩りも結局何の成果も上げられなかった。
 となれば、最後の頼みとなるのは磨き上げた己の勘だけなのだ。
 そうしてガエタンが肩に掛けた銃へ今一度手を振れた時の事であった。
 足音は無かった。
 気配も無かった。
 なのに、彼には直感的に察せられたのである。
 いくつもの場数を踏んだ彼だからこそすぐに悟る事が出来た。
 自分の後ろに『何か』が居る。
 壮年の猟師のうなじを冷たい汗が流れ落ちた。
 後ろを取られた!
 いつからだ?
 いつからこちらの後を付けて来た?
 一体いつから!?
 ガエタンは唾を飲み下した。
 常に気を緩めぬよう警戒して来た筈なのに。
 それだけは絶対に起こってはならぬよう、絶えず気を配って来た筈なのに。
 心中密かに恐れて来た事がついに現実となってしまった。
 たまらずかさず、ガエタンは銃を構えるなり後ろを振り返る。咄嗟とっさの反応であるにもかかわらず、壮年の猟師は正に熟練の身のこなしで素早く腰を引き、銃口を己の眼差しの先へとぴたりと据えて身構えた。
 だが得体の知れぬ気配の主、背後にあった筈の『獣』の姿は実際には何処にも無かったのであった。
 狼どころか野鼠の一匹すらも、彼の背後には姿を現していなかったのである。
 何処までも続く木立が冷めた様相すら晒して、狼狽する猟師を環視する。梢の隙間から差し込む日の光は草むらの上に投網のような日溜りを作り、風が木々の枝先を騒がせた。
 呆然とした気色を一瞬覗かせたガエタンの耳元に、犬達の漏らす怯えた声が届いた。勇猛にして優秀な二匹の猟犬が、今は路頭に迷う子犬のような意気消沈した鳴き声を断続的に漏らしている。
 はっとした表情を浮かべて、ガエタンは元の方向へと体を向け直した。
 腰で銃を構え、体を半回転させた猟師のすぐ目の前に果たして『それ』は居た。
 淀んだ闇の塊。
 周囲の光を際限無く吸い込むかのような黒々とした体表が、緑の景色の中に焼け付くようにして現れている。
 漆黒の体毛で全身を覆った一匹の『獣』であった。
 ガエタンは息を呑む事すら忘れて、目の前に立つ『それ』を力無く見上げた。
 大きかった。
 ただ大きかった。
 人の身長を優に凌ぐ巨体が、森の只中にそびえ立っている。熟練の猟師がこれまで目にして来たどの熊よりも大きな体躯が、今も眼差しをさえぎって立ち塞がっていたのであった。
 一対の赤い瞳がこちらをじっと見下ろしている。
 感情と呼べるものを一切覗かせない、れど明確な敵意と威圧をみなぎらせた、それは異様にして異形の眼差しであった。
 自分の体が空洞になったかのような錯覚を壮年の猟師は抱いた。
 その足元では二匹の猟犬が、か細い声をしきりと漏らしている。
 そして二本の脚で大地に立つ巨大な『獣』は、最早容易に身動きの取れぬ獲物をただじっと見下ろしていた。
 呻き声を上げる事も叶わぬまま、ガエタンは銃を持った手を震わせた。
 怯えた猟師の瞳に木々の梢が映り込む。
 銃声はついに上がる事は無かった。
 山裾の森はその日も変わらず、差し込む木漏れ日に深緑の色彩を浮かばせていた。
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