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フレンチでリッチな夜でした
その20
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午後九時に近付いた頃には辺りもすっかり暗くなっていた。
南仏の田舎町は正に夜の帳に囲われ、紺色に染まった空の下で遠景を覆い隠す闇に包まれたのであった。西の空では極僅かとなった残照が微かな緋色を滲ませ、地平の奥へと既に隠れた太陽の最後の光を垣間見せていた。
家々も銘々に明かりを灯した今、道なりに点々と灯る街灯と共に瞬くそれらの仄かな光が辛うじて夕闇を照らし出している。遠くの街の灯も見えない中で、天上の空は何処までも広く澄み渡り、明星を筆頭として星がぽつぽつと顔を覗かせ始めていた。
いつ如何なる時も世界は静止などしておらず、万象は落ち着く事を知らぬかのようであった。
そして宵闇に包まれた地表もまた、静けさとは無縁であった。
人の声など途絶えて久しいが、代わりに空気を震わせるのは虫や蛙の鳴き声であり、止む事を知らぬそれらが、昼の熱気を未だ多く残す温い空気に重ね塗られる。自粛と警戒の只中に置かれた人間達を置いて、自然はただ在るようにして在り続けるのだった。
人間の放つもの以外の活気に溢れた野性の息吹満ちる郊外の夕闇を割いて、一組の足音が街灯の下に反響した。
「しっかし、こんなんで良いのか俺達ゃよォ? なァ?」
呂律の半ば回らぬ体で百目鬼がぼやきじみた声を上げた。酒が回っているのか、その頬はうっすらと赤味掛かって足元もやや覚束ない様子である。
「こちとらわざわざフランスまで足を運んだんだぜ? なのに、そこまでしてまぁだ大した成果も上がらないなんて、こんな事が在り得んのかよ? 涙がちょちょ切れちまうぜ、その内に」
その傍らを随伴するリウドルフが、そんな連れへと実に面倒臭そうに目を遣った。
「在り得るも何も、事態がそもそも進展せんのだからどうしようもなかろうが。どれだけごねた所でどうにもならん。確たる事実と言う奴はな」
「なぁんでい、凹んだ事ォ抜かしやがってぇ。それが伝説の錬金術師の言う事かってんだ、便乱坊めい」
百目鬼が唇端から酒精の匂いと共に撒き散す言葉を受けて、リウドルフは渋面を作る。
「少なくとも今のお前に、管を巻く酔っ払いに非難される謂れは無いわ」
呆れた口振りで愚痴を零した後、リウドルフは徐に辺りを見回した。
輝く太陽が地平の彼方へ沈み込んだ今、表を歩く人影は認められず、人の声もめっきり減って道に届くのは動物達の変わらぬ活動を伝える鳴き声ばかりであった。村の中心部を離れ、宿泊先の農家へ向かおうとする二人の異邦人を頭上から明星だけが見送っていた。
「けどよォ、よもやここまで何も出て来ねえたぁなぁ……」
今度は幾らか語気を弱めて、百目鬼は悔しげに言葉を吐いた。
「史書を信じる限り地域間や家族間で不和が渦巻いてるってんでもねえし、前に殺人事件なんか起きたのは六十年くらい前だってぇし、今ンなって何なんだろうなぁ、ほんと」
「さてな。過去の因縁を調べるならいっそ二百年ぐらい前まで遡ってみたらどうだ? 意外な接点が見つかるかも知れん」
リウドルフが疲れた口調で言葉を返してすぐ、百目鬼はそんな同伴者を目端から流し見た。空から細かな粒子が舞い落ちるように辺りに翳りが堆積する中で、痩せこけたその男はいよいよ頼り無さそうに夜の細道を歩き続けるのだった。
眼差しはそのままに、百目鬼は薄く開いた唇から緩やかに言葉を吐き出す。
「……最初っから気になってたんだがよぉ」
「ん?」
「お前さん、何か隠し事してやしねえか?」
問われたリウドルフは目元を僅かに細めた。
路面を蹴る乾いた足音が数秒の沈黙に差し挟まれる。
「……さーて、『隠し事』と言うのは一体どの『隠し事』を指しているのやら」
ややあってリウドルフが大小様々の星々が瞬き始めた頭上の空を見上げると、百目鬼は大袈裟に顔を顰めて前を向いた。
「あーあ、つくづく嫌な野郎だね、全く……」
拗ねたような声が紺色の空へと吐き出された。
建ち並ぶ家々の間を伸びる車道の路肩を進む二人の前方で、残照の最後の一欠片が西の果てへ吸い込まれて行った。
昼と言う時の最後の一片が夜の闇に呑まれる瞬間を瞳に収めた後、百目鬼は前方を見据えたまま口を開く。
「……『あの人』を連れて来なかった事も『それ』と関係してんのかよ?」
「それは考え過ぎ、だな。偶には二人それぞれに羽を伸ばしてみたくなる時もある。それだけの事だ。確かに話がこの国に絡むとなると、あいつも色々と思い返す事も出て来るのは事実だろうが……」
同じ方角へと顔を向けたリウドルフが目を細めると、消えた残照に代わって西の地平に顔を覗かせ始めた星々の放つ煌めきが、義眼の表に微かに撥ね返った。
朝方の海原のような穏やかな口調で告げた相手を、百目鬼は再び目尻から眺め遣った。
「何だかんだ言って、お前さんも結構甘えよな、『あの人』に関しちゃ」
「そんな事は無い。あいつだってもう充分過ぎる程様々な事を学んでいる。俺が今更あれこれと世話を焼いてやる必要も無い。生み出した者としての責任は残っているにせよ」
リウドルフが肩を竦めて一笑した時、二人の横をパトカーが通り過ぎた。
得体の知れない事件の渦中に置かれた村で、警察は今も巡回を続けている。昼夜を問わず警官達は不測の事態に備え、田舎町の随所で目を光らせているのである。
そうした中、夜間の外出は控えるようにと全住民に通知が行き届いている中で、それでも夜道を平然と歩く二人の男を車内の警官達も不審に思った筈であるが、パトカーは結局そのまま夜の車道を走り去って行った。
或いは昼間起きた一悶着から、あのおかしな二人組にはもう近寄るなとの御達しがシモーヌの口から周囲へ発せられているのかも知れなかった。
目の前を遠ざかる警察車両を見送ってリウドルフは鼻息をついた。
「……しかし、そこまで居心地が良い訳でもないが、あいつも偶にはこういう所で外の空気を吸った方が良いだろうに」
その独白を耳にするなり、百目鬼は傍らで含みのある笑みを浮かべて見せる。
「おおっと、地が出たな。どれだけ時が経っても親子は親子って奴か」
「誰が親子……」
リウドルフが苦笑交じりに反駁しようとした時の事であった。
二人の前方で闇が蠢いた。
暗闇が、翳りが、路上の端から不意に盛り上がり、何らかの形を成そうとする。
他に通り掛かる者も見当たらぬ夜の路地の一角、路肩に立ち止まった両者の五メートル程先での事であった。
「……な、何だ、ありゃ?」
百目鬼が揺らいだ声を歯垣の外へと漏らした。
「酒が目に回ったのか? 何か変なもんが見えんだけどよ……」
「ああ……」
珍しく困惑した声を上げた百目鬼の隣で、リウドルフも俄かに目を見開いた。
「あれは……」
押し殺した声で呟いた彼の義眼に蒼白い光が灯る。
二人の見つめる先で『それ』は蠢き続けた。絶えず輪郭を揺らめかせ、まるで影から湧き出る黒い泉のように全体を波打たせながら。
「おい、ふざけるなよ……」
リウドルフの眉間に深い皺が刻まれた。
「……本当に『蘇った』と言うのか? 今頃になって……」
彼が苦々しげに呟いた刹那、路面に盛り上がった闇の塊は出し抜けに動きを覗かせた。
路面を滑るように、或いは本当に滑っているのか、不定形の闇の塊は車道を素早く横切ると民家の庭へと潜り込む。実体の掴めぬ外見からは想像し難い速度で、黒い塊は庭の芝の上を駆け抜けた。
「待て!」
リウドルフも透かさず後を追った。路面を一蹴りした細身の体躯は放り上げられた葦の如く軽々と宙を舞い、民家の屋根へ飛び乗った。そして屋根から屋根へと飛び移りながら、リウドルフは下方に広がる庭を、芝生を泳ぐようにして突き進む黒い塊をきつく睨み据えた。
『意志』を持って動く『影』の塊。
そう評する以外に形容しようの無い代物が、現に宵闇の中を蠢いている。
西の空に浮かぶ半月が人知れず行なわれる追跡の様子を見下ろしていた。
しかし四軒目の家の屋根へと飛び移った所で、リウドルフは表情を歪ませた。
彼の前方に最早民家は無く、一面の畑が何処までも広がっていた。住宅の建ち並ぶ区画を抜けて村の輪郭近く、田畑の広く見渡せる外周に彼は出たのであった。
昼の内に収穫を終えたラベンダーの畑が、残された緑色の葉を月明かりに晒している。付近を流れる用水路の軽やかな音は日の落ちた今も空気を揺らして、蛙や虫の声に彩りを添えるのだった。
そして右手に広がる向日葵の畑へと、黒い塊は速度を上げて突進した。
屋根の縁からそれを見下ろして、リウドルフは舌打ちの音を漏らした。
果たして彼の予想通り、闇の塊は畑の中へと姿を晦ませ、そこで一切の足跡を絶ったのであった。
宵闇に包まれた広大な畑からはそれ以降、何の物音も動きも露わになる事は無かった。
夜風が遠くで麦穂をざわめかせた。
屋根から降りたリウドルフが悔しげな面持ちを田園の方に向けていると、遅れて百目鬼が駆け寄って来た。家々を迂回してリウドルフの下まで辿り着いた百目鬼は、息を乱しながらも先行者へと問う。
「ど、どうなった?……何処行った? 『あれ』は……?」
肩を大きく上下させる百目鬼の横で、リウドルフは険しい眼差しを夜の畑へと注いだ。
「駄目だな。何処か遠くまで逃げおおせたか、こちらの視界にはもう見当たらない」
リウドルフは義眼の表に蒼白い光を立ち昇らせつつ、実に不満げに答えた。
百目鬼は頬を伝い落ちる汗を拭いながら、目の前に広がる夜の畑を眺めた。
道の端に立った二人の前に宵闇を吸い込んだ田園は何処までも広がる。以前と変わらぬ虫の声、蛙の声、そして吹き抜ける風の音が、佇む一組の影法師へ向けて何の変哲も無い夜の風情を伝え続けた。
用水路のせせらぎが闇の奥から辺りに拡散した。
「何だったんだ、今の?」
呼吸を整え、姿勢も正した百目鬼は困惑した顔を宵の懐へと向けた。
「見間違い、ってんじゃねえよな?」
言いながら、彼は傍らに立つ細身の影へと目を移す。
「……今さっき、確かに『何か』が居たんだよな?」
「ああ……」
百目鬼の遣した言葉にリウドルフは頷いた。
いつになく険悪な面持ちを、この時彼は湛えていたのだった。
それは或いは『悔恨』に近い表情であったやも知れぬ。
不安げに佇む百目鬼の横で、リウドルフは農村部に広がる深い闇を暫し睨み据えた。
西の空で半月が煌々と輝く。夜の闇がいよいよ深く辺りを塗り潰して行く中で、月と星だけが眼下の全てを俯瞰していたのであった。
暗がりの奥で稲穂がまたざわざわと音を立てた。
午後九時に近付いた頃には辺りもすっかり暗くなっていた。
南仏の田舎町は正に夜の帳に囲われ、紺色に染まった空の下で遠景を覆い隠す闇に包まれたのであった。西の空では極僅かとなった残照が微かな緋色を滲ませ、地平の奥へと既に隠れた太陽の最後の光を垣間見せていた。
家々も銘々に明かりを灯した今、道なりに点々と灯る街灯と共に瞬くそれらの仄かな光が辛うじて夕闇を照らし出している。遠くの街の灯も見えない中で、天上の空は何処までも広く澄み渡り、明星を筆頭として星がぽつぽつと顔を覗かせ始めていた。
いつ如何なる時も世界は静止などしておらず、万象は落ち着く事を知らぬかのようであった。
そして宵闇に包まれた地表もまた、静けさとは無縁であった。
人の声など途絶えて久しいが、代わりに空気を震わせるのは虫や蛙の鳴き声であり、止む事を知らぬそれらが、昼の熱気を未だ多く残す温い空気に重ね塗られる。自粛と警戒の只中に置かれた人間達を置いて、自然はただ在るようにして在り続けるのだった。
人間の放つもの以外の活気に溢れた野性の息吹満ちる郊外の夕闇を割いて、一組の足音が街灯の下に反響した。
「しっかし、こんなんで良いのか俺達ゃよォ? なァ?」
呂律の半ば回らぬ体で百目鬼がぼやきじみた声を上げた。酒が回っているのか、その頬はうっすらと赤味掛かって足元もやや覚束ない様子である。
「こちとらわざわざフランスまで足を運んだんだぜ? なのに、そこまでしてまぁだ大した成果も上がらないなんて、こんな事が在り得んのかよ? 涙がちょちょ切れちまうぜ、その内に」
その傍らを随伴するリウドルフが、そんな連れへと実に面倒臭そうに目を遣った。
「在り得るも何も、事態がそもそも進展せんのだからどうしようもなかろうが。どれだけごねた所でどうにもならん。確たる事実と言う奴はな」
「なぁんでい、凹んだ事ォ抜かしやがってぇ。それが伝説の錬金術師の言う事かってんだ、便乱坊めい」
百目鬼が唇端から酒精の匂いと共に撒き散す言葉を受けて、リウドルフは渋面を作る。
「少なくとも今のお前に、管を巻く酔っ払いに非難される謂れは無いわ」
呆れた口振りで愚痴を零した後、リウドルフは徐に辺りを見回した。
輝く太陽が地平の彼方へ沈み込んだ今、表を歩く人影は認められず、人の声もめっきり減って道に届くのは動物達の変わらぬ活動を伝える鳴き声ばかりであった。村の中心部を離れ、宿泊先の農家へ向かおうとする二人の異邦人を頭上から明星だけが見送っていた。
「けどよォ、よもやここまで何も出て来ねえたぁなぁ……」
今度は幾らか語気を弱めて、百目鬼は悔しげに言葉を吐いた。
「史書を信じる限り地域間や家族間で不和が渦巻いてるってんでもねえし、前に殺人事件なんか起きたのは六十年くらい前だってぇし、今ンなって何なんだろうなぁ、ほんと」
「さてな。過去の因縁を調べるならいっそ二百年ぐらい前まで遡ってみたらどうだ? 意外な接点が見つかるかも知れん」
リウドルフが疲れた口調で言葉を返してすぐ、百目鬼はそんな同伴者を目端から流し見た。空から細かな粒子が舞い落ちるように辺りに翳りが堆積する中で、痩せこけたその男はいよいよ頼り無さそうに夜の細道を歩き続けるのだった。
眼差しはそのままに、百目鬼は薄く開いた唇から緩やかに言葉を吐き出す。
「……最初っから気になってたんだがよぉ」
「ん?」
「お前さん、何か隠し事してやしねえか?」
問われたリウドルフは目元を僅かに細めた。
路面を蹴る乾いた足音が数秒の沈黙に差し挟まれる。
「……さーて、『隠し事』と言うのは一体どの『隠し事』を指しているのやら」
ややあってリウドルフが大小様々の星々が瞬き始めた頭上の空を見上げると、百目鬼は大袈裟に顔を顰めて前を向いた。
「あーあ、つくづく嫌な野郎だね、全く……」
拗ねたような声が紺色の空へと吐き出された。
建ち並ぶ家々の間を伸びる車道の路肩を進む二人の前方で、残照の最後の一欠片が西の果てへ吸い込まれて行った。
昼と言う時の最後の一片が夜の闇に呑まれる瞬間を瞳に収めた後、百目鬼は前方を見据えたまま口を開く。
「……『あの人』を連れて来なかった事も『それ』と関係してんのかよ?」
「それは考え過ぎ、だな。偶には二人それぞれに羽を伸ばしてみたくなる時もある。それだけの事だ。確かに話がこの国に絡むとなると、あいつも色々と思い返す事も出て来るのは事実だろうが……」
同じ方角へと顔を向けたリウドルフが目を細めると、消えた残照に代わって西の地平に顔を覗かせ始めた星々の放つ煌めきが、義眼の表に微かに撥ね返った。
朝方の海原のような穏やかな口調で告げた相手を、百目鬼は再び目尻から眺め遣った。
「何だかんだ言って、お前さんも結構甘えよな、『あの人』に関しちゃ」
「そんな事は無い。あいつだってもう充分過ぎる程様々な事を学んでいる。俺が今更あれこれと世話を焼いてやる必要も無い。生み出した者としての責任は残っているにせよ」
リウドルフが肩を竦めて一笑した時、二人の横をパトカーが通り過ぎた。
得体の知れない事件の渦中に置かれた村で、警察は今も巡回を続けている。昼夜を問わず警官達は不測の事態に備え、田舎町の随所で目を光らせているのである。
そうした中、夜間の外出は控えるようにと全住民に通知が行き届いている中で、それでも夜道を平然と歩く二人の男を車内の警官達も不審に思った筈であるが、パトカーは結局そのまま夜の車道を走り去って行った。
或いは昼間起きた一悶着から、あのおかしな二人組にはもう近寄るなとの御達しがシモーヌの口から周囲へ発せられているのかも知れなかった。
目の前を遠ざかる警察車両を見送ってリウドルフは鼻息をついた。
「……しかし、そこまで居心地が良い訳でもないが、あいつも偶にはこういう所で外の空気を吸った方が良いだろうに」
その独白を耳にするなり、百目鬼は傍らで含みのある笑みを浮かべて見せる。
「おおっと、地が出たな。どれだけ時が経っても親子は親子って奴か」
「誰が親子……」
リウドルフが苦笑交じりに反駁しようとした時の事であった。
二人の前方で闇が蠢いた。
暗闇が、翳りが、路上の端から不意に盛り上がり、何らかの形を成そうとする。
他に通り掛かる者も見当たらぬ夜の路地の一角、路肩に立ち止まった両者の五メートル程先での事であった。
「……な、何だ、ありゃ?」
百目鬼が揺らいだ声を歯垣の外へと漏らした。
「酒が目に回ったのか? 何か変なもんが見えんだけどよ……」
「ああ……」
珍しく困惑した声を上げた百目鬼の隣で、リウドルフも俄かに目を見開いた。
「あれは……」
押し殺した声で呟いた彼の義眼に蒼白い光が灯る。
二人の見つめる先で『それ』は蠢き続けた。絶えず輪郭を揺らめかせ、まるで影から湧き出る黒い泉のように全体を波打たせながら。
「おい、ふざけるなよ……」
リウドルフの眉間に深い皺が刻まれた。
「……本当に『蘇った』と言うのか? 今頃になって……」
彼が苦々しげに呟いた刹那、路面に盛り上がった闇の塊は出し抜けに動きを覗かせた。
路面を滑るように、或いは本当に滑っているのか、不定形の闇の塊は車道を素早く横切ると民家の庭へと潜り込む。実体の掴めぬ外見からは想像し難い速度で、黒い塊は庭の芝の上を駆け抜けた。
「待て!」
リウドルフも透かさず後を追った。路面を一蹴りした細身の体躯は放り上げられた葦の如く軽々と宙を舞い、民家の屋根へ飛び乗った。そして屋根から屋根へと飛び移りながら、リウドルフは下方に広がる庭を、芝生を泳ぐようにして突き進む黒い塊をきつく睨み据えた。
『意志』を持って動く『影』の塊。
そう評する以外に形容しようの無い代物が、現に宵闇の中を蠢いている。
西の空に浮かぶ半月が人知れず行なわれる追跡の様子を見下ろしていた。
しかし四軒目の家の屋根へと飛び移った所で、リウドルフは表情を歪ませた。
彼の前方に最早民家は無く、一面の畑が何処までも広がっていた。住宅の建ち並ぶ区画を抜けて村の輪郭近く、田畑の広く見渡せる外周に彼は出たのであった。
昼の内に収穫を終えたラベンダーの畑が、残された緑色の葉を月明かりに晒している。付近を流れる用水路の軽やかな音は日の落ちた今も空気を揺らして、蛙や虫の声に彩りを添えるのだった。
そして右手に広がる向日葵の畑へと、黒い塊は速度を上げて突進した。
屋根の縁からそれを見下ろして、リウドルフは舌打ちの音を漏らした。
果たして彼の予想通り、闇の塊は畑の中へと姿を晦ませ、そこで一切の足跡を絶ったのであった。
宵闇に包まれた広大な畑からはそれ以降、何の物音も動きも露わになる事は無かった。
夜風が遠くで麦穂をざわめかせた。
屋根から降りたリウドルフが悔しげな面持ちを田園の方に向けていると、遅れて百目鬼が駆け寄って来た。家々を迂回してリウドルフの下まで辿り着いた百目鬼は、息を乱しながらも先行者へと問う。
「ど、どうなった?……何処行った? 『あれ』は……?」
肩を大きく上下させる百目鬼の横で、リウドルフは険しい眼差しを夜の畑へと注いだ。
「駄目だな。何処か遠くまで逃げおおせたか、こちらの視界にはもう見当たらない」
リウドルフは義眼の表に蒼白い光を立ち昇らせつつ、実に不満げに答えた。
百目鬼は頬を伝い落ちる汗を拭いながら、目の前に広がる夜の畑を眺めた。
道の端に立った二人の前に宵闇を吸い込んだ田園は何処までも広がる。以前と変わらぬ虫の声、蛙の声、そして吹き抜ける風の音が、佇む一組の影法師へ向けて何の変哲も無い夜の風情を伝え続けた。
用水路のせせらぎが闇の奥から辺りに拡散した。
「何だったんだ、今の?」
呼吸を整え、姿勢も正した百目鬼は困惑した顔を宵の懐へと向けた。
「見間違い、ってんじゃねえよな?」
言いながら、彼は傍らに立つ細身の影へと目を移す。
「……今さっき、確かに『何か』が居たんだよな?」
「ああ……」
百目鬼の遣した言葉にリウドルフは頷いた。
いつになく険悪な面持ちを、この時彼は湛えていたのだった。
それは或いは『悔恨』に近い表情であったやも知れぬ。
不安げに佇む百目鬼の横で、リウドルフは農村部に広がる深い闇を暫し睨み据えた。
西の空で半月が煌々と輝く。夜の闇がいよいよ深く辺りを塗り潰して行く中で、月と星だけが眼下の全てを俯瞰していたのであった。
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