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渚のリッチな夜でした
その33
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満月が、中天に差し掛かった。
実際には大した間は生じていなかったのだろうが、美香にとっては永劫とも言えるまでの長い緘黙の後、リウドルフは再び声を発する。
「……察するに、貴女は成人を迎えた辺りで肉体の成長が止まったのだろう。その後の貴女がどういう暮らしを送ったのか、周りからどう扱われたのかは知らないが、江戸後期以降の記録に大した話題が上らなかった以上、貴女は生まれ育った村を一度出たようだな」
参道を挟んで焚かれた二つの篝火の向こうで、佳奈恵は小さく頷いた。
「……あちこちの、本当に様々な土地を巡りました。色々な人と出会い、別れ、また移り住んで……」
依然として目を伏せたまま細い言葉を紡ぐ佳奈恵を、美香は険しい面持ちで見つめたのだった。
掛けるべき言葉もぶつけるべき疑問も俄かに浮かばぬ少女の前で、闇色の衣を纏った漆黒の躯は眼差しと相違せぬ揺るぎ無い声を相手に送る。
「だが、いずれの土地にも長く留まる事は叶わなかった。違うかね? 貴女の身に宿る細菌は貴女自身に害を及ぼす事は決して無いが、近しい者、近しくなった者達の命なら見境無く、容赦無く次々と奪って行った筈だ。感染力自体は強くないにせよ、濃厚接触を日々繰り返していれば伝染のリスクはどうしても上がる」
そこまで言うと、リウドルフは言葉の勢いをやや落とした。
「……貴女もこれまでの人生、所帯を持つ機会が幾度もあった筈だ。その時々の伴侶との間に子を儲けた事も一度や二度ではなかっただろう。しかし、その殆どを幼い内に亡くした筈だ。粘膜同士の接触、取り分け母乳などは格好の感染経路になる。胎内にいる間は母親の抗体によって護られていても、肝心の免疫体質を受け継がない限り、出産した途端に細菌は牙を剥いて幼子へ襲い掛かる。伴侶もまた然りだ。どうした所で不老の貴女より先に逝くのは避けられない事態だが……」
俯き加減の佳奈恵の顔を、その時濃い翳りが覆うのを美香は認めたような気がした。
闇色の衣の裾を揺らし、リウドルフは言葉を続ける。
「そんな貴女に転機が訪れたのが今から七十余年前だった。日本各地に大きな爪痕を残した戦災を見て貴女は久し振りに、本当に久し振りに生まれ故郷の院須磨村へ戻って来た。幸いにして郷里の漁村に被害は出ておらず、戦後の人手不足からか貴女自身も温かく迎えられたようだ。そこで貴女は戦地から戻った一人の青年と出会った」
リウドルフはそこで言葉を区切ると、佳奈恵の隣に立つ神主へと目を移した。
「それがあんたの息子、復員して来たばかりの沼津辰人さんであった訳だ。そうだよな、お義父さんよ?」
神体を抱えて立つ沼津は、俄かに湧き上がった怒りと苛立ちとを血走った眼差し込めて相対する黒い躯へと注いだ。
他方、リウドルフは髑髏の面持ちを一切変化させずに、眼窩に灯った蒼白い光をゆらゆらと波打たせた。
「それぞれ故郷に身を落ち着ける事が出来た安心感もあったのか、二人の男女はやがて結ばれた。戦後の復興を象徴するかのような息子夫婦の細やかな歩みを、あんたも始めの内は温かく見守っていた筈だ。だが、暫くする内にあんたは気付いたんだろう、この人の持つ『不死性』に。そして思い起こした。神社の記録に記された『人物』の事を。遠い昔、『人魚の肉』を口にして只一人生き延びた村人がいたと言う記述を」
リウドルフの放つ言葉は、そこで鋭さを帯び始める。
「その後あんたにどんな魔が差したのか、色々と察する事は出来るがわざわざ知りたいとも思わない。兎も角、あんたは次第に一つの『妄想』に駆られて行った。たとえ自分達は『恵比須』の毒に耐えられなくとも、『適合者』である彼女の『血肉』を啜れば同様の効果を得られるのではないかとの歪んだ『妄想』に」
「貴様! 貴様のような毛唐の怪物に何が判る! あの戦乱の最中で、この村がどれ程の困難に直面していたのかが!!」
聞く内に堪忍袋の緒が切れたのか、口角泡を飛ばして沼津は言い募った。
「神州は蹂躙され、神風も吹かず、混乱と困窮の中で妻も死んだ! それでも、それでも私は、この村の精神的な支柱とならなければならなかった! この国がいよいよ、『神国』の名に縋らなければ立ち行かなくなった頃からずっと! ずっとだ!! 途方に暮れる事すら許されなかった!! だが、そんな私達の前に『彼女』は現れてくれたんだ!!」
沼津は片腕に抱いた神体を後ろへと引き、もう片方の手に握った短刀をリウドルフへと突き付ける。
「あれは正に『天啓』だった……戦火の中では遂ぞ顕れなかった『神意』が、形を得て降りて来たようにすら感じられた……だから『彼女』へ頼んだのだ! 未だ失意から立ち直れずにいるこの村を救ってくれるようにと! かつて只一人、神の庇護を受ける事が叶ったと伝わる貴女の活力を同郷の者達に分け与えて欲しいのだと! 断じて利己的な発想から懇願したのではない!! 今に至るまでも思いは同じだ!!」
普段の紳士然とした態度をかなぐり捨てて、溜め込んだ激情を露わにした一人の男へと、しかし感情を覗かせない髑髏の顔の持ち主は冷ややかに指摘する。
「それは飽くまであんた個人の言い分だろ? 確かに終戦直後の混乱期ならそれで通ったかも知れんが、その後の神武景気に始まる高度経済成長や東京オリンピック開催と、世の中全体の空気が上向いた時期など幾らでもあった筈だ。暗い『過去』も『因習』も捨てて、前を向いて生きて行ける機会など沢山あった筈だ。なのにあんたらは、こんな陰気で危険な『夜宴』を今に至るまで続けて来た。隔離する以外に手の施しようの無い、完全に正気を失くした重症者も出始めているにも拘わらずだ。何の事は無い。一度手に入れた『御利益』は手放したくないと言う、たったそれだけの話だろうが」
痛い所を突かれてか、沼津も目元を引き攣らせて黙り込んだ。
それを確認してから、リウドルフはふと目線を持ち上げる。満天の星空は塵界の諍いなど意に介した様子も覗かせずに、ひたぶるに煌びやかに輝いていた。
篝火から大きな火の粉が闇の中へ弾け飛んだ。
「……振り返れば、過去の宮司達がこの危険極まる『恵比須』を捨てられなかったのも、似たような理由からだったのかも知れんな。信仰とは別に確然と存在する事象を、現実に顕れた『祟り神』の姿を彼らも目の当たりにしてしまった。未知の存在に対する『恐怖』と同時に、『畏敬』の念も抱いてしまった。表向き、ここで住吉三神が祀られるようになったのも同じ頃だったのかも知れん。『恵比須』の祟りを上手く抑え込めるように、いつかこれが村に幸を運んでくれる福の神となってくれるようにと祈りながら。そしてその『願い』は、あんたの代で一応の『成就』を見た訳だ」
そう評してから、リウドルフは面前に居並ぶ院須磨村の住民達を改めて見回した。二つの篝火に照らされる彼らの姿は時と共に徐々に変貌しており、人としての輪郭が歪み始めた者が目立つようになっていた。同時に潮の香とは似て非なる生臭い臭いが、境内にはいつしか立ち込め始めていたのであった。
その中で、闇色の衣を纏った漆黒の躯は飽くまでも厳然と告げる。
「だが妄想だけで現実を隙間無く塗り潰せる程、世の中は甘くもない。現に今のあんたらの姿はどうだ? 幾ら『彼女』の血肉を食らう事で免疫を獲得しても、結局は一時的な効果の域を出ていないじゃないか。不老と引き換えに『恵比須』の毒は確実にあんたらの心身を蝕んでいる。あんたらが真に行なうべきはこんな迷信以下の呪いではなく、疾病対策課への申告と病院での精密検査だな」
「それは私達が決める事だ……!」
リウドルフが遣した皮肉交じりの言葉を受けて、沼津は険も露わに反発した。
「私達は私達にとって最良と思える選択を採った。無理強いをした事も無ければ、過去に懲罰を加えた例も無い。村を去る者があっても引き止めはしなかった。我々は我々の共同体を護ろうとしただけだ! その事が周囲へ害を及ぼした訳でも無いのに、外部の者から今更指図を遣される謂れは無い!」
「あんたらがやらかしてるのは只の緩やかな集団自殺なんだよ! カルトの末路なんてな、これか内部抗争による自滅のどちらかだ! 今のまま病状が進めば、いずれ遠からず全住民が脳神経を破壊されて死に至る! 医療に携わる者として、こんな状況を放置しておく訳には行かん! 当の患者にどれだけ嫌われようとも、きちんとした処置を施すのが医者の務めであり信条だからな!」
そう切り返した後、リウドルフは佳奈恵へと目を移した。
「それは貴女も同じだ。何故こんな馬鹿げた行ないに参加し続けて来た? どうして周りの言うなりにその身を捧げ続けて来たんだ? 同情からか? 憐れみからか? それとも独り永く抱え続けて来た寂しさからか?」
蒼白い眼差しの先で佳奈恵は初めて顔を上げると、自分の前に居並ぶ同胞を眺め遣った。
火影に照らし出される、無数の人影。
近くて遠い、影絵のような虚ろな人影。
あたかも眼前のそれらが既に過去の情景であるかのように朧に、彼女の双眸には映り込んだ。
数秒の間、異形と化しつつある同郷の隣人達を見つめた後、佳奈恵はやおら首を横に振る。
「……何にしても一度始めた事を止める訳には行かない……私が『体』を差し出さなければ、この人達は皆死んでしまう……」
「酷な言い方になるが『結果』は同じだ。誰も貴女と同じにはなれない」
リウドルフは冷厳さすら滲ませて、篝火の向こうに佇む女を見つめた。
「貴女にとっては、誰かに寄り添う事自体が不幸を招くのかも知れない。しかし、その中で一つだけ……」
「『彼女』はここに残る事を望んでいる!!」
リウドルフの弁を遮って、沼津が吠えるように叫んだ。
抜き身の短刀を黒い躯へと突き出し、神事の監督者は飽くまでも自説を通そうとする。
「今聞いた言葉が全てだ! この人は、この村に残ってくれた! あの時からずっと! 断じて貴様のような汚らわしい化物になど惑わされるものか!」
沼津は、柵の隅に追い詰められた狼のように敵意を剥き出しにして唸りながら、佳奈恵の隣まで歩み寄ると、神体を握った手を彼女の後ろへと回し、篝火に刃の煌めく短刀を異人達へと突き付けた。
「狂信者が……!」
リウドルフが睨み据える先で、初老の宮司は病的なまでに見開いた眼を、篝火の向こうに並ぶ者達へと据えた。
「何処まで行っても、これはこの村の問題なのだ! そして『彼女』は確かにこの村の人間なのだ! この人はこれからも、この村の為に、我々の為に……!」
「もう止めろ!!」
鋭い静止の声が唐突に場に飛び込んだのはその時であった。
村人達と対峙するリウドルフらの後方、海を向こうに覗かせる鳥居の方から新たな人影が境内へと駆け込んで来る。
突然の事に美香が驚いて肩越しに振り返る。
その彼女のすぐ後ろに、大久保晴人が走り寄って来たのであった。篝火に照らされた彼の姿は昼間と変わらず、前後逆に被った野球帽の下で険しい面持ちを湛えていた。
そのまま司と美香、アレグラの横を駆け抜けた彼はリウドルフの横手で足を止め、篝火を挟んで参道の奥に佇む沼津と佳奈恵へと呼び掛ける。
「もういいだろ!? いい加減その女を解放しろ!! 一体何をやってんだよ、あんた達は!?」
闇色の衣を靡かせる漆黒の躯の隣で、青年は情緒に大きく揺れる声で前方の二人へと訴えた。
その姿を認めて、佳奈恵の瞳が俄かに大きく広がって行く。
「晴君……」
揺らいだ声を、その刹那彼女は確かに漏らしていたのだった。
両者の間で燃え続ける篝火は徐々に勢いを落として行った。
鮮やかな星空に掛かる月だけが一連の様子を静かに俯瞰していた。
実際には大した間は生じていなかったのだろうが、美香にとっては永劫とも言えるまでの長い緘黙の後、リウドルフは再び声を発する。
「……察するに、貴女は成人を迎えた辺りで肉体の成長が止まったのだろう。その後の貴女がどういう暮らしを送ったのか、周りからどう扱われたのかは知らないが、江戸後期以降の記録に大した話題が上らなかった以上、貴女は生まれ育った村を一度出たようだな」
参道を挟んで焚かれた二つの篝火の向こうで、佳奈恵は小さく頷いた。
「……あちこちの、本当に様々な土地を巡りました。色々な人と出会い、別れ、また移り住んで……」
依然として目を伏せたまま細い言葉を紡ぐ佳奈恵を、美香は険しい面持ちで見つめたのだった。
掛けるべき言葉もぶつけるべき疑問も俄かに浮かばぬ少女の前で、闇色の衣を纏った漆黒の躯は眼差しと相違せぬ揺るぎ無い声を相手に送る。
「だが、いずれの土地にも長く留まる事は叶わなかった。違うかね? 貴女の身に宿る細菌は貴女自身に害を及ぼす事は決して無いが、近しい者、近しくなった者達の命なら見境無く、容赦無く次々と奪って行った筈だ。感染力自体は強くないにせよ、濃厚接触を日々繰り返していれば伝染のリスクはどうしても上がる」
そこまで言うと、リウドルフは言葉の勢いをやや落とした。
「……貴女もこれまでの人生、所帯を持つ機会が幾度もあった筈だ。その時々の伴侶との間に子を儲けた事も一度や二度ではなかっただろう。しかし、その殆どを幼い内に亡くした筈だ。粘膜同士の接触、取り分け母乳などは格好の感染経路になる。胎内にいる間は母親の抗体によって護られていても、肝心の免疫体質を受け継がない限り、出産した途端に細菌は牙を剥いて幼子へ襲い掛かる。伴侶もまた然りだ。どうした所で不老の貴女より先に逝くのは避けられない事態だが……」
俯き加減の佳奈恵の顔を、その時濃い翳りが覆うのを美香は認めたような気がした。
闇色の衣の裾を揺らし、リウドルフは言葉を続ける。
「そんな貴女に転機が訪れたのが今から七十余年前だった。日本各地に大きな爪痕を残した戦災を見て貴女は久し振りに、本当に久し振りに生まれ故郷の院須磨村へ戻って来た。幸いにして郷里の漁村に被害は出ておらず、戦後の人手不足からか貴女自身も温かく迎えられたようだ。そこで貴女は戦地から戻った一人の青年と出会った」
リウドルフはそこで言葉を区切ると、佳奈恵の隣に立つ神主へと目を移した。
「それがあんたの息子、復員して来たばかりの沼津辰人さんであった訳だ。そうだよな、お義父さんよ?」
神体を抱えて立つ沼津は、俄かに湧き上がった怒りと苛立ちとを血走った眼差し込めて相対する黒い躯へと注いだ。
他方、リウドルフは髑髏の面持ちを一切変化させずに、眼窩に灯った蒼白い光をゆらゆらと波打たせた。
「それぞれ故郷に身を落ち着ける事が出来た安心感もあったのか、二人の男女はやがて結ばれた。戦後の復興を象徴するかのような息子夫婦の細やかな歩みを、あんたも始めの内は温かく見守っていた筈だ。だが、暫くする内にあんたは気付いたんだろう、この人の持つ『不死性』に。そして思い起こした。神社の記録に記された『人物』の事を。遠い昔、『人魚の肉』を口にして只一人生き延びた村人がいたと言う記述を」
リウドルフの放つ言葉は、そこで鋭さを帯び始める。
「その後あんたにどんな魔が差したのか、色々と察する事は出来るがわざわざ知りたいとも思わない。兎も角、あんたは次第に一つの『妄想』に駆られて行った。たとえ自分達は『恵比須』の毒に耐えられなくとも、『適合者』である彼女の『血肉』を啜れば同様の効果を得られるのではないかとの歪んだ『妄想』に」
「貴様! 貴様のような毛唐の怪物に何が判る! あの戦乱の最中で、この村がどれ程の困難に直面していたのかが!!」
聞く内に堪忍袋の緒が切れたのか、口角泡を飛ばして沼津は言い募った。
「神州は蹂躙され、神風も吹かず、混乱と困窮の中で妻も死んだ! それでも、それでも私は、この村の精神的な支柱とならなければならなかった! この国がいよいよ、『神国』の名に縋らなければ立ち行かなくなった頃からずっと! ずっとだ!! 途方に暮れる事すら許されなかった!! だが、そんな私達の前に『彼女』は現れてくれたんだ!!」
沼津は片腕に抱いた神体を後ろへと引き、もう片方の手に握った短刀をリウドルフへと突き付ける。
「あれは正に『天啓』だった……戦火の中では遂ぞ顕れなかった『神意』が、形を得て降りて来たようにすら感じられた……だから『彼女』へ頼んだのだ! 未だ失意から立ち直れずにいるこの村を救ってくれるようにと! かつて只一人、神の庇護を受ける事が叶ったと伝わる貴女の活力を同郷の者達に分け与えて欲しいのだと! 断じて利己的な発想から懇願したのではない!! 今に至るまでも思いは同じだ!!」
普段の紳士然とした態度をかなぐり捨てて、溜め込んだ激情を露わにした一人の男へと、しかし感情を覗かせない髑髏の顔の持ち主は冷ややかに指摘する。
「それは飽くまであんた個人の言い分だろ? 確かに終戦直後の混乱期ならそれで通ったかも知れんが、その後の神武景気に始まる高度経済成長や東京オリンピック開催と、世の中全体の空気が上向いた時期など幾らでもあった筈だ。暗い『過去』も『因習』も捨てて、前を向いて生きて行ける機会など沢山あった筈だ。なのにあんたらは、こんな陰気で危険な『夜宴』を今に至るまで続けて来た。隔離する以外に手の施しようの無い、完全に正気を失くした重症者も出始めているにも拘わらずだ。何の事は無い。一度手に入れた『御利益』は手放したくないと言う、たったそれだけの話だろうが」
痛い所を突かれてか、沼津も目元を引き攣らせて黙り込んだ。
それを確認してから、リウドルフはふと目線を持ち上げる。満天の星空は塵界の諍いなど意に介した様子も覗かせずに、ひたぶるに煌びやかに輝いていた。
篝火から大きな火の粉が闇の中へ弾け飛んだ。
「……振り返れば、過去の宮司達がこの危険極まる『恵比須』を捨てられなかったのも、似たような理由からだったのかも知れんな。信仰とは別に確然と存在する事象を、現実に顕れた『祟り神』の姿を彼らも目の当たりにしてしまった。未知の存在に対する『恐怖』と同時に、『畏敬』の念も抱いてしまった。表向き、ここで住吉三神が祀られるようになったのも同じ頃だったのかも知れん。『恵比須』の祟りを上手く抑え込めるように、いつかこれが村に幸を運んでくれる福の神となってくれるようにと祈りながら。そしてその『願い』は、あんたの代で一応の『成就』を見た訳だ」
そう評してから、リウドルフは面前に居並ぶ院須磨村の住民達を改めて見回した。二つの篝火に照らされる彼らの姿は時と共に徐々に変貌しており、人としての輪郭が歪み始めた者が目立つようになっていた。同時に潮の香とは似て非なる生臭い臭いが、境内にはいつしか立ち込め始めていたのであった。
その中で、闇色の衣を纏った漆黒の躯は飽くまでも厳然と告げる。
「だが妄想だけで現実を隙間無く塗り潰せる程、世の中は甘くもない。現に今のあんたらの姿はどうだ? 幾ら『彼女』の血肉を食らう事で免疫を獲得しても、結局は一時的な効果の域を出ていないじゃないか。不老と引き換えに『恵比須』の毒は確実にあんたらの心身を蝕んでいる。あんたらが真に行なうべきはこんな迷信以下の呪いではなく、疾病対策課への申告と病院での精密検査だな」
「それは私達が決める事だ……!」
リウドルフが遣した皮肉交じりの言葉を受けて、沼津は険も露わに反発した。
「私達は私達にとって最良と思える選択を採った。無理強いをした事も無ければ、過去に懲罰を加えた例も無い。村を去る者があっても引き止めはしなかった。我々は我々の共同体を護ろうとしただけだ! その事が周囲へ害を及ぼした訳でも無いのに、外部の者から今更指図を遣される謂れは無い!」
「あんたらがやらかしてるのは只の緩やかな集団自殺なんだよ! カルトの末路なんてな、これか内部抗争による自滅のどちらかだ! 今のまま病状が進めば、いずれ遠からず全住民が脳神経を破壊されて死に至る! 医療に携わる者として、こんな状況を放置しておく訳には行かん! 当の患者にどれだけ嫌われようとも、きちんとした処置を施すのが医者の務めであり信条だからな!」
そう切り返した後、リウドルフは佳奈恵へと目を移した。
「それは貴女も同じだ。何故こんな馬鹿げた行ないに参加し続けて来た? どうして周りの言うなりにその身を捧げ続けて来たんだ? 同情からか? 憐れみからか? それとも独り永く抱え続けて来た寂しさからか?」
蒼白い眼差しの先で佳奈恵は初めて顔を上げると、自分の前に居並ぶ同胞を眺め遣った。
火影に照らし出される、無数の人影。
近くて遠い、影絵のような虚ろな人影。
あたかも眼前のそれらが既に過去の情景であるかのように朧に、彼女の双眸には映り込んだ。
数秒の間、異形と化しつつある同郷の隣人達を見つめた後、佳奈恵はやおら首を横に振る。
「……何にしても一度始めた事を止める訳には行かない……私が『体』を差し出さなければ、この人達は皆死んでしまう……」
「酷な言い方になるが『結果』は同じだ。誰も貴女と同じにはなれない」
リウドルフは冷厳さすら滲ませて、篝火の向こうに佇む女を見つめた。
「貴女にとっては、誰かに寄り添う事自体が不幸を招くのかも知れない。しかし、その中で一つだけ……」
「『彼女』はここに残る事を望んでいる!!」
リウドルフの弁を遮って、沼津が吠えるように叫んだ。
抜き身の短刀を黒い躯へと突き出し、神事の監督者は飽くまでも自説を通そうとする。
「今聞いた言葉が全てだ! この人は、この村に残ってくれた! あの時からずっと! 断じて貴様のような汚らわしい化物になど惑わされるものか!」
沼津は、柵の隅に追い詰められた狼のように敵意を剥き出しにして唸りながら、佳奈恵の隣まで歩み寄ると、神体を握った手を彼女の後ろへと回し、篝火に刃の煌めく短刀を異人達へと突き付けた。
「狂信者が……!」
リウドルフが睨み据える先で、初老の宮司は病的なまでに見開いた眼を、篝火の向こうに並ぶ者達へと据えた。
「何処まで行っても、これはこの村の問題なのだ! そして『彼女』は確かにこの村の人間なのだ! この人はこれからも、この村の為に、我々の為に……!」
「もう止めろ!!」
鋭い静止の声が唐突に場に飛び込んだのはその時であった。
村人達と対峙するリウドルフらの後方、海を向こうに覗かせる鳥居の方から新たな人影が境内へと駆け込んで来る。
突然の事に美香が驚いて肩越しに振り返る。
その彼女のすぐ後ろに、大久保晴人が走り寄って来たのであった。篝火に照らされた彼の姿は昼間と変わらず、前後逆に被った野球帽の下で険しい面持ちを湛えていた。
そのまま司と美香、アレグラの横を駆け抜けた彼はリウドルフの横手で足を止め、篝火を挟んで参道の奥に佇む沼津と佳奈恵へと呼び掛ける。
「もういいだろ!? いい加減その女を解放しろ!! 一体何をやってんだよ、あんた達は!?」
闇色の衣を靡かせる漆黒の躯の隣で、青年は情緒に大きく揺れる声で前方の二人へと訴えた。
その姿を認めて、佳奈恵の瞳が俄かに大きく広がって行く。
「晴君……」
揺らいだ声を、その刹那彼女は確かに漏らしていたのだった。
両者の間で燃え続ける篝火は徐々に勢いを落として行った。
鮮やかな星空に掛かる月だけが一連の様子を静かに俯瞰していた。
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