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渚のリッチな夜でした

その32

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 参道を挟んで燃え盛る篝火かがりびに照らされて、漆黒のむくろが神域の管理者を睨み据えている。
 髑髏どくろ眼窩がんかに灯る蒼白い光より放たれる眼差しを受けて、だが、沼津は取り乱す事は無かった。深紅のほうの袖を翻し、彼は手にした短刀の切っ先を、本来の姿を現したリウドルフへぴたりと据えた。
ついに正体を現したか、化生!!」
 対するリウドルフも鳥居を背にしたまま微動だにせず、敵意を露わにする宮司ぐうじへと言葉を返す。
「化生? そう言って人を公然と指差せるだけの確たる違いが、そちらにあるのか? 大辺度おおべど神社宮司ぐうじ沼津幸三、いや沼津ぬまづ信吉しんきち殿」
 リウドルフの持ち出した名に沼津は顔を歪めた。
 直後、リウドルフのかたわらに眩い光の輪が発生し、間も無くその内側から複数の人影が浮かび上がる。
 闇色の衣をまとい緋色に輝く髪をなびかせたアレグラと、それに付き従う美香、及び切り離された木々の根によって雁字搦めに縛られた異形のもの共の姿が、参道の横に現れたのだった。
 転移による光が収まった頃、鳥居の頂より下りた司もまた列の後方に陣取った。
 篝火かがりびの向こうに居並ぶ面々を確認した後、沼津は闖入者達の足元に転がる異形のもの共に気付いて目を見張った。
「彼らをどうしたのだ!?」
「どうもこうも、単純に正当防衛を行なった結果だよ」
 一同の先頭に立ったリウドルフが、眼窩がんかに灯った蒼白い光を揺らめかせて答えた。
「満月の夜は彼らも特に血に狂うらしい。あんたが重症者を『隔離』しておいた岬の牢獄から、彼らは自力で抜け出したのだ。それだけの真似が出来る程に、彼らは身も心も人間離れしてしまった。おぞましい血の呪いに村全体を巻き込んだ、これは全てあんたが招いた事態だ、宮司ぐうじ殿」
 沼津は炎によって更に赤みが増した顔を、後ろに控える佳奈恵へと向ける。
「どういう事だ!? 宿の食事に薬を混ぜるようにと……!」
「いいえ」
 佳奈恵はうつむき加減で首を小さく左右に振った。
「お父様、いえお義父とうさん、今更そんな真似をしたって何の意味も無い事です。何事にも終わりは巡って来るんです、きっと……」
「何を馬鹿な! 奴らは……!」
 沼津が更に何事を喚こうとした時、佳奈恵はそれまで両手で胸元に掲げていた大杯を不意に傾けたのだった。
 血を溶かした御神酒おみきが彼女の足元へと零れ落ちて行く。
 その有様を認めて沼津は目を見張った。
 同じく彼女の方へと視線を据えたリウドルフは、眼窩がんかに灯った蒼白い光をかすかに震わせる。
「……若狭佳奈恵さん。若狭瑞希さん。若狭瞳さんと名乗っていた時期もあったようだが、いずれにせよ戸籍上の名前など貴女あなたには何の意味も持たないのだろう。本当の名を憶えているのは今や貴女あなた一人なのだから」
 炎の灯りに白装束をうっすらと朱に染め上げた佳奈恵は、再びうつむいた。
 リウドルフはそんな佳奈恵と沼津とを見据え、更に言葉を続ける。
「しかし、貴女あなた方も中々に上手く立ち回ったようだ。いくら人の往来に乏しい小さな村の中の事とは言え、戸籍上の年齢が在り得ない程加算されればいずれは否応無しに人目を惹き始める。その前に形だけの葬儀を執り行い、実体の伴わない死亡届を自治体へ収めた後、死者の子や孫、親戚を装いながらこの小さな村での生活を波立たせぬよう、区切り無く続けられるよう取り計らって来た訳だからな」
「ど、どういう事……?」
 リウドルフの斜め後ろから美香が困惑した声を漏らした。
 火影に照らされる村人達はその体の半ば以上を陰に覆わせており、各々の表情はうかがい知れない。一つ確かな事実は、夜の境内に集まった彼らは神域に踏み込んだ余所者達へ、友好的とは到底評せぬ眼差しを送り続けていると言う事のみであった。
 無数の視線が交わる中、だが物怖じする様子ものぞかせずにリウドルフは説明する。
「隣町ではこの村の事を知らない内に人が増えたり減ったりする不気味な場所などと呼んでいるようだが、実際にはこの村の人口は増えても減ってもいない。役所や警察の記録をあさってみたが、少なくともこの半世紀の間は常に同じ数の住民が暮らしている事になっている。不気味な程にぴったりとな」
 背中越しに美香へそこまで答えると、リウドルフは挑発的な眼差しを沼津へと送った。
「からくり自体は至極単純なものだった。何処かの家が訃報を出しても、必ずその前後に他所の土地から遣って来た親類縁者なる者がこの村に移住届を提出している。差し引きゼロとなるように常に工作が施されて来たんだ。隣町や自治体にも不審に思う者はいるのだろうが、誰一人想像もしていないだろう。よもや七十年以上昔から、同じ人間達が同じ姿形のまま同じ土地で暮らし続けているなどとは」
 リウドルフは、そこまで告げた所で小首を傾げて見せた。
「……いや、厳密には『同じ姿形』とは言えないか。見ての通り、『恵比寿エビス』の毒は確実に住人を蝕んでいるのだから」
 篝火かがりびから大き目の火の粉が音を立てて爆ぜた。
 リウドルフは真向かいに置かれた桐の箱へと、骨化した右手を向けた。
「折角の祭りだ。ここいらで『神様』にも御出まし頂こうではないか」
 石の敷かれた参道を挟んで燃える篝火かがりびの中心、小さな祭壇の上に鎮座する神体へと、リウドルフは掴み掛かるように右手を広げる。
Sesam öfゼザミ・オfne dichフネ・ディヒ……!」
 黒い髑髏どくろ眼窩がんかに宿った蒼白い光が、一際強い輝きを放った。
 次の瞬間、桐の箱の前面を閉ざしていた蓋が独りでに開き、篝火かがりびの灯りを受けて中身が露わとなる。
「あれは……」
 リウドルフの後ろからその様子をのぞいていた美香は眉根を寄せていた。
 小振りな箱に収められていたのは、干乾びた人の木乃伊ミイラであった。遠目からでは詳細は今一つ掴めなかったが、大きさからして下半身を失っているものと思われる。両の眼球も朽ちて久しいようで、ただ黒いだけの眼窩がんかが宙を虚ろに見上げていた。
「何をする!? めんか!!」
 突然の事に沼津が血相を変えて神体へと駆け寄った。宮司ぐうじたる彼からすれば冒涜もはなはだしい暴挙であったろうが、対するリウドルフは外気に晒され剥き出しとなった神体を、その腕に抱いた沼津共々冷ややかに見つめたのだった。
「それがこの村の崇める本当の『神』か。およそ二百年前、そこの浜に流れ着いた『寄り神』であり全ての元凶とも言える代物。禍津日まがつひ宿す『恵比寿エビス』様だな」
「何が元凶だ! これこそ我々に大いなる恵みをもたらしてくれたまことの神ぞ!」
「いいや宮司ぐうじ殿、少なくともあんたは知っているはずだ。あんたの家には代々受け継がれて来たはずだ。かつて、その神にいたずらに触れた者達がどんな末路を辿ったのかが」
 激昂する沼津へと、リウドルフは眼窩がんかに揺れる蒼白い光を据えた。
「江戸時代にけるこの地域の古文書を調べる中で、いくつかの興味深い記述を発見した。寛政かんせい九年の末から翌年三月までの間に、この院須磨いんすま村から実に四十人近い数の死者が出たとの報告が、当時の郡奉行こおりぶぎょうが家老へ宛てた書簡の中に記されていた。流行病はやりやまいによるものとの説明が為されていたが、領内の他の地域からはそんな報告は上がっていない。問題なのは、その出来事があんたの神社が最後に『神体』を取り換えた以後に集中していると言う点だ」
 沼津の口元に食い縛った歯がのぞいた。
 リウドルフは飽くまでも淡々と説明を続ける。
「推測の域を出ないが、この神社にはより詳しい記録が残されているのではないのかね? 即ち、かつて『神体』に触れた者、あるいは骨噛み(※近親者の遺骨を食べる風習)に近い真似をした者達が、ことごとく正気を失って死んで行ったと言う記録が。そしてその中で只一人、例外的に生き延びた者が在ったと言う記述が」
 そこで、リウドルフは眼窩がんかに灯った蒼白い光を、宮司ぐうじかたわらに今もたたずむ一人の女へと向けたのであった。その女、白装束をまとった佳奈恵は、目元を険しいものへ変え、ただ己の足元を見つめていた。
 闇色の衣を揺らめかせ、リウドルフは言葉を続ける。
貴女あなた方もあるいは察しているかも知れないが、その寄り神にはおびただしい数の『細菌』が付着している。深海の奥底、それこそ彼岸の地に息づいていたであろう原初の『細菌』だ。その菌はみだりに触れた者に例外無く牙を剥くが、それに打ち克てる者に対しては並外れた『長寿』と言う恩恵を与える。その恩恵を、決して老いぬ体を自然な形で得られた唯一の人物が、『貴女あなた』と言う訳だ」
 居並ぶアレグラや司が特段の反応をのぞかせなかった中で、美香一人だけが、驚愕の面持ちを浮かべていた。
 そして彼女は、前方に今もたたずむ民宿の女将を恐る恐る凝視する。
 白装束をまとった佳奈恵は、いや、佳奈恵と名乗っていた女性は寂しげに、しくははかなげに己の足元を見つめていた。
 篝火かがりびから、また大きな火の粉が飛び散った。
 参道の後ろから伝わる潮騒が、幾重にも及ぶ時の連なりを示すように穏やかに反響した。
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