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渚のリッチな夜でした
その29
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時を同じくして、闇の懐の奥深くで目を覚ました者達が居た。
岬の岩の奥、深い暗闇に覆われた場所での事である。
外を染め上げる満月の光に誘われてか彼らは一様に蠢き出し、暗闇の外へと、月光の満ちる場所へと向かおうとする。
いつもであれば彼らの行く手を、彼らの行ないを太い鉄格子が遮って来たのだが、それも今宵は大した妨げとはならない。
それ程までに満月の放つ光は彼らにとって魅惑的で、本能に支配された内なる力を更に呼び覚ますのだった。
外へ。
外へ。
広い所へ出なければならぬ。
月明かりに照らされる場所全てが彼らにとっての活動領域であり、取りも直さず獲物溢れる狩りの場でもあった。
何ものも彼らの衝動を抑える事は出来ない。
満月の輝く夜であれば尚更の事であった。
月下の岬にけたたましい雄叫びが相次いで上がった。
人のものとも獣のそれとも異なる、より悍ましい叫び声が。
それから少しして、美香はふと顔を上げた。
民宿の座敷での事である。
アレグラが未だノートパソコンと睨み合いを続ける向かいで、座卓に俯せになってスマートフォンを操作していた美香は不意に辺りを見回したのだった。
「……何か……」
「ん~?」
「……何か、聞こえない?」
卓を挟んで顔を上げたアレグラへ美香がそう訊ねた矢先、縁側を覆う雨戸が出し抜けに打ち鳴らされた。外から誰かが、それも大人数の何者かが雨戸に体当たりを繰り返しているのだ。
急ぎ立ち上がった美香は、同じく腰を上げたアレグラの下へと小走りに近付く。
「これは流石に風で軋んでるんじゃないよね?」
「いやあ、判んないよぉ~? いつの間にか外は台風が吹き荒れてんのかも知んない」
空惚けた返答を遣した赤毛の女を、美香は泡を食った様子で見上げた。
「それ本気で言ってる!?」
「やだなぁ、あたしはいつだって本気……」
アレグラがそう答えた時、縁側を覆う戸板が外側から打ち破られる。そのまま勢いを落とさずガラス戸も突き破られ、複数の人影が宿の座敷へと上がり込んだのであった。
荒々しい足音が蛍光灯の光の下に響いた。
それと同時に、くぐもった低い唸り声が美香とアレグラの下へ寄せられる。
「イイィ……!」
「グイイ……!」
「グイイイイイ……!」
アレグラが笑顔を収め、美香が驚きに目を見張った。
「いつかの……!」
アレグラの後ろへと周りながら、美香が呻くように呟いた。
よく似ていた。
臨海学校二日目の夕暮れ時、浜に突然乱入して来た異形の『もの』と、今夜突如として宿に押し入って来た『もの』はその風貌に類似する点が多かった。
だが、美香は慄きながらも眉を顰める。
座敷の敷居を踏み付けている数人の、恐らくは人間であろう者達は、以前目にした老人と同様の病気を患っているものと思われた。しかしその進行の度合いはより重篤であるように、素人である美香にも察せられたのだった。
皮膚が鱗状に変異する病変は最早全身の輪郭を変えてしまうまでに悪化し、菱形の鋭い棘のような鱗が彼らの体全体を覆い尽くしていた。両眼の角膜は眼球前面を覆い尽くす程に肥大して、虹彩も見えない只々黒いだけの魚眼がこちらをじっと見据えている。口元も横に伸びるようにして大型化し、下顎の左右には鰓のような器官が覗いていた。
「な~るほど、最終的にはこうなっちゃう訳ね~」
アレグラが冷ややか言った先で、庭先から侵入した異形のもの達は室内に残る二人の女との距離をじりじりと詰めて行く。
真っ黒な瞳に映るのは、ただ目の前に立つ二つの獲物の姿だけである。
夜の深い闇も並び建つ家々の壁も、『彼ら』の貪欲な眼差しと嗅覚を遮る事は叶わなかった。本能が理性の殆どを食い潰した『彼ら』の脳裏に淀むものは、食欲を除けば後は只一つ、自らの負った苦しみを少しでも和らげようとする生物的な衝動である。
『彼ら』は知っていたし、微かに憶えてもいた。
外見が別の種に変わるまでに状態が悪化した自分達を救ってくれる者。
かつて癒してくれた者。
それが即ち、人間の『女』である事を。
「イッイイイィィィ……!」
「グイイイィィィィイ……!」
「グイイイ……グイイイイ……!」
口元から唾液を締まり無く垂れ流しながら、異形のもの共は寄り添う一組の『女』へと距離を詰めて行った。
眼差しは前方に据えつつも、アレグラは後ろの美香へと呼び掛ける。
「腰に掴まって」
促されて、美香はすぐにアレグラの細い腰へと両手を回した。
直後、痺れを切らした異形の一人が座卓を飛び越えて女達へと躍り掛かる。
それに呼応するかのように、腰に美香を抱き着かせたままアレグラは畳を蹴って前方へと跳躍する。座卓の上で躍り掛かって来た異形のものと衝突する寸前、アレグラは右腕を猛然と突き出すと、相手の顔面を鷲掴みにして後ろへと押し返した。そのまま飛翔の勢いを緩める事無く、座敷を舞った赤毛の女は、後方に控えていた別の異形へと圧し掛かって二体を同時に押し倒したのであった。
間を空けずに身を起こしたアレグラは、美香を連れて破られた雨戸から外へと飛び出した。
そのすぐ後ろを異形のもの共が追う。
辺りを闇が包む中、白い満月だけが一連の推移を見下ろしていた。
民宿の庭先へと出たアレグラは、満天の星の下で蠢く歪な人影を見回して鼻息をついた。
「ま~ったく……しつっこいだけの男なんて大っ嫌いなんだけどなァ~」
嘆息交じりに呟いたアレグラの周りで、幾つもの魚眼がぎらついた輝きを月光に返した。
蝉も鳴き止み、人音も途絶えた小さな村の一角に、悍ましくも猛々しい息遣いが溢れ返る。
我欲と妄執に満ちた、飢えた肉食魚のような所作であった。
目の前に佇む赤毛の女へと、そして彼女が護る少女へと、異形のもの共は一片の容赦も覗かぬ眼光を溢れ出させながらじりじりと近付いて行った。
岬の岩の奥、深い暗闇に覆われた場所での事である。
外を染め上げる満月の光に誘われてか彼らは一様に蠢き出し、暗闇の外へと、月光の満ちる場所へと向かおうとする。
いつもであれば彼らの行く手を、彼らの行ないを太い鉄格子が遮って来たのだが、それも今宵は大した妨げとはならない。
それ程までに満月の放つ光は彼らにとって魅惑的で、本能に支配された内なる力を更に呼び覚ますのだった。
外へ。
外へ。
広い所へ出なければならぬ。
月明かりに照らされる場所全てが彼らにとっての活動領域であり、取りも直さず獲物溢れる狩りの場でもあった。
何ものも彼らの衝動を抑える事は出来ない。
満月の輝く夜であれば尚更の事であった。
月下の岬にけたたましい雄叫びが相次いで上がった。
人のものとも獣のそれとも異なる、より悍ましい叫び声が。
それから少しして、美香はふと顔を上げた。
民宿の座敷での事である。
アレグラが未だノートパソコンと睨み合いを続ける向かいで、座卓に俯せになってスマートフォンを操作していた美香は不意に辺りを見回したのだった。
「……何か……」
「ん~?」
「……何か、聞こえない?」
卓を挟んで顔を上げたアレグラへ美香がそう訊ねた矢先、縁側を覆う雨戸が出し抜けに打ち鳴らされた。外から誰かが、それも大人数の何者かが雨戸に体当たりを繰り返しているのだ。
急ぎ立ち上がった美香は、同じく腰を上げたアレグラの下へと小走りに近付く。
「これは流石に風で軋んでるんじゃないよね?」
「いやあ、判んないよぉ~? いつの間にか外は台風が吹き荒れてんのかも知んない」
空惚けた返答を遣した赤毛の女を、美香は泡を食った様子で見上げた。
「それ本気で言ってる!?」
「やだなぁ、あたしはいつだって本気……」
アレグラがそう答えた時、縁側を覆う戸板が外側から打ち破られる。そのまま勢いを落とさずガラス戸も突き破られ、複数の人影が宿の座敷へと上がり込んだのであった。
荒々しい足音が蛍光灯の光の下に響いた。
それと同時に、くぐもった低い唸り声が美香とアレグラの下へ寄せられる。
「イイィ……!」
「グイイ……!」
「グイイイイイ……!」
アレグラが笑顔を収め、美香が驚きに目を見張った。
「いつかの……!」
アレグラの後ろへと周りながら、美香が呻くように呟いた。
よく似ていた。
臨海学校二日目の夕暮れ時、浜に突然乱入して来た異形の『もの』と、今夜突如として宿に押し入って来た『もの』はその風貌に類似する点が多かった。
だが、美香は慄きながらも眉を顰める。
座敷の敷居を踏み付けている数人の、恐らくは人間であろう者達は、以前目にした老人と同様の病気を患っているものと思われた。しかしその進行の度合いはより重篤であるように、素人である美香にも察せられたのだった。
皮膚が鱗状に変異する病変は最早全身の輪郭を変えてしまうまでに悪化し、菱形の鋭い棘のような鱗が彼らの体全体を覆い尽くしていた。両眼の角膜は眼球前面を覆い尽くす程に肥大して、虹彩も見えない只々黒いだけの魚眼がこちらをじっと見据えている。口元も横に伸びるようにして大型化し、下顎の左右には鰓のような器官が覗いていた。
「な~るほど、最終的にはこうなっちゃう訳ね~」
アレグラが冷ややか言った先で、庭先から侵入した異形のもの達は室内に残る二人の女との距離をじりじりと詰めて行く。
真っ黒な瞳に映るのは、ただ目の前に立つ二つの獲物の姿だけである。
夜の深い闇も並び建つ家々の壁も、『彼ら』の貪欲な眼差しと嗅覚を遮る事は叶わなかった。本能が理性の殆どを食い潰した『彼ら』の脳裏に淀むものは、食欲を除けば後は只一つ、自らの負った苦しみを少しでも和らげようとする生物的な衝動である。
『彼ら』は知っていたし、微かに憶えてもいた。
外見が別の種に変わるまでに状態が悪化した自分達を救ってくれる者。
かつて癒してくれた者。
それが即ち、人間の『女』である事を。
「イッイイイィィィ……!」
「グイイイィィィィイ……!」
「グイイイ……グイイイイ……!」
口元から唾液を締まり無く垂れ流しながら、異形のもの共は寄り添う一組の『女』へと距離を詰めて行った。
眼差しは前方に据えつつも、アレグラは後ろの美香へと呼び掛ける。
「腰に掴まって」
促されて、美香はすぐにアレグラの細い腰へと両手を回した。
直後、痺れを切らした異形の一人が座卓を飛び越えて女達へと躍り掛かる。
それに呼応するかのように、腰に美香を抱き着かせたままアレグラは畳を蹴って前方へと跳躍する。座卓の上で躍り掛かって来た異形のものと衝突する寸前、アレグラは右腕を猛然と突き出すと、相手の顔面を鷲掴みにして後ろへと押し返した。そのまま飛翔の勢いを緩める事無く、座敷を舞った赤毛の女は、後方に控えていた別の異形へと圧し掛かって二体を同時に押し倒したのであった。
間を空けずに身を起こしたアレグラは、美香を連れて破られた雨戸から外へと飛び出した。
そのすぐ後ろを異形のもの共が追う。
辺りを闇が包む中、白い満月だけが一連の推移を見下ろしていた。
民宿の庭先へと出たアレグラは、満天の星の下で蠢く歪な人影を見回して鼻息をついた。
「ま~ったく……しつっこいだけの男なんて大っ嫌いなんだけどなァ~」
嘆息交じりに呟いたアレグラの周りで、幾つもの魚眼がぎらついた輝きを月光に返した。
蝉も鳴き止み、人音も途絶えた小さな村の一角に、悍ましくも猛々しい息遣いが溢れ返る。
我欲と妄執に満ちた、飢えた肉食魚のような所作であった。
目の前に佇む赤毛の女へと、そして彼女が護る少女へと、異形のもの共は一片の容赦も覗かぬ眼光を溢れ出させながらじりじりと近付いて行った。
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