幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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渚のリッチな夜でした

その28

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 そして今、若狭佳奈恵は鏡台に映る己の姿を黙して見つめていた。
 全体に癖の掛かった髪を今は後ろへと束ね、彼女はその身を白装束で覆っていた。
 化粧台が置かれただけの小さな部屋で、佳奈恵は正座の姿勢を保ったまま、鏡に映る己の素顔を凝視していたのであった。
 静かであった。
 辺りは、ただ静かであった。
 四方を囲う壁の向こうから伝わって来るのは、かすかな潮騒のみである。
 どれだけの時が過ぎ去った末の事であろうか、鏡台の横手にしつらえられた引き戸が、静かに開かれた。そこから室内へと入って来たのは、衣冠単いかんひとえまとった沼津幸三であった。
 黒い冠を頭に載せ、深紅のほうに袖を通し、紫色の奴袴ぬばかまを履いた粛然たる装いとたがわず、沼津は佳奈恵へと厳かに声を掛ける。
「そろそろお時間ですが、御仕度の方はよろしいですか?」
「……はい」
 鏡台を見据えたまま、佳奈恵は答えた。
「ならば参りましょう。皆さんも待ち侘びております」
 沼津の言葉に、佳奈恵は目を伏せてうなずく。
「判りました。お父様……」
 次いで、彼女は腰を上げた。
 その瞳に宿す光を、濡れた氷のように冷たく保ったまま。
 かすかな潮騒に引かれるように、白装束をまとった女将は部屋を後にした。

 同じ頃、美香は宿の座敷で座卓に寄り掛かっていた。
 華やかな夕餉ゆうげから、三時間程も過ぎただろうか。
 当然と言えば当然の成り行きではあるが、卓上に並んだ数々の料理はすでに下げられ、先の宴の影も形も残ってはいない。賑やかな宴は終わったのだ。
 部屋着のまま座卓にうつぶせになった美香は、ふと息をつく。
 向かいに座ったアレグラは、飽くまでいつも通りにノートパソコンを開いてせわしなく両手を動かしていた。
 静かであった。
 辺りは、ただ静かであった。
 縁側のガラス戸は雨戸で覆われ、そこを透かして入り込むかすかな潮騒だけが、座敷の空気を揺らしていた。
 しかるに、そんな静けさこそが、美香の胸中にわだかまる孤立感をより大きなものへ変えて行くのだった。
『酔い覚ましに、ちょいと海岸を散歩して来る』
『でしたら、私もお付き合いしましょう。楽しい酒だったので、酔いが回るのに気付かなくて』
 夕食の後片付けが済んだ後、リウドルフと司はそう言い残して宿を後にし、少し前からは佳奈恵と晴人も廊下の奥へと姿を消した。
 何やら完全に取り残されたていで、美香は途端にがらりとした座敷で暇を待て余していたのであった。
「美香ッチさあ、何ならもう寝ちゃいなよ。その方が良いかも知んない」
「うん……」
 アレグラがパソコンを見据えつつも遣した提案に、美香も一応はうなずいた。
「……でも」
 しかし、美香は妙な胸騒ぎを抱えて言葉を濁した先の宴の席で司が述べた言葉ではないが、今夜は何か、こちらを落ち着かせない空気が夜半を過ぎて尚漂っているように美香には感じられたのであった。
 まだ『何か』が、これから『何か』が起こりそうな気がする。
 座卓にうつぶせに寄り掛かったまま、美香はぼんやりとした不安を抱えていた。

 同じ頃、リウドルフと司は共に入り江の一角にて身を潜めていた。
 明かりの消えた村の家並みを遠く前方に望む、岬に程近い位置での事である。大粒の星々がひしめき合うようにして輝く星空の下、二人が見下ろす先には星明りとは別の光が闇を照らしていた。
 入り江から伸びる参道の中程、石畳を挟むようにして置かれた二つの小さな篝火かがりびが夜の境内を赤く照らしていた。
 そして、火の粉の飛び散る炎の周囲を無数の人影が取り囲む。朱色の光に浮かぶ火影ほかげは微妙な屈曲によってか、いずれも人の輪郭を崩して絶えずゆらゆらと蠢き続けるのだった。
「始まったようだな……」
 ぽつりとリウドルフが呟いた。
「これも血の成せる業でしょうかね」
 かたわらで司が冷めた口調で言った。
 それから彼はおもむろに顔を持ち上げる。
 両者の前方、丁度ちょうど神社の拝殿はいでんの真上に位置するように、輝ける満月が昇っていた。数多の星々と共に夜の海辺を俯瞰ふかんする月は、神域で密かに行なわれる夜の秘儀を二人の潜入者共々静かに見下ろしていた。
「月齢は取り分け海の生き物には強い影響を与える……先祖返りをしつつある彼らにも同じ法則が当てまるのではないでしょうか? 血がうずくのだと」
「珊瑚を始めとする海洋生物が満月の夜を選んで産卵するようにか? あれは大潮の日の方が色々と都合が良いからだろうし、おかの魚に同じ事が言えるかどうかは判らん」
 司の遣した推測に、リウドルフは釈然としない面持ちを浮かべた。
 しかる後、およそ一拍の間を空けてから彼は眼下の情景を改めて眺め遣る。
「それに、懸命に命を繋ごうとする海の生き物程生産的な真似をしている訳でもない」
「そうですね。少なくとも感動は出来ません」
 リウドルフがつまらなそうに言うと、司もすっぱりと切り捨てた。
 それから両者は境内の様子をじっと見守る。
 特段の合図が出た訳でもなかった。
 だが、篝火かがりびの周囲に集まった人影がにわかに活気付くのが二人の位置からでも確認出来た。
 参道の奥、拝殿はいでんの内より、儀式を執り行う者が姿を現したのである。
 黒い冠と深紅のほうまとった宮司ぐうじ、沼津幸三であった。
 両手に桐の箱を抱え、落ち着いた、れど淀み無い足取りで集まった人々の下に向かう彼の後ろには白装束を着た女が付き従っていた。
 若狭佳奈恵であった。
 何処か悲しげな、はかなげな面持ちをたたえた、それが『彼女』であった。
 その姿を認めた時、離れて見下ろすリウドルフもまた眉間をわずかに歪めていたのであった。
 隣では司がやはり冷ややかに場を評する。
「乙姫様の登場か……」
 次いで、彼は宮司ぐうじの抱える桐の箱へ鋭い眼差しを寄せる。
「そして、あれが御神体……」
 相手の呟きに促されるようにして同じ方向へと視線をずらした後、リウドルフはかたわらで身を屈めるお目付け役を睥睨する。
「……要するに俺にこれを見せたくて、臨海学校の行く先をわざわざこの地域に変更したのか?」
「御想像にお任せしますよ」
 微笑すらたたえて司は言ってのけた。
 それでも、彼は丸眼鏡の奥でおもむろに目を細める。
「いずれにしても、これもまたあなたの研究に役立つのではないですか? 例の『不死の霊薬エリクスィア』完成の一助として」
「そんなもの、ただの幻だ。水平線を追うのと一緒だな」
「しかし、漕ぎ続けていればいずれは何処かの岸辺に辿り着く。努力と成果とは元来そういうものでしょう?」
 穏やかに、だが粘り強く食い下がる司へと、リウドルフは首を横に振って見せた。
「くたびれ果てて自分が彼岸に流れ着くだけさ。不確かなものを追い求める内に確かなものを次々と失くして行く。それが、それだけがこの世の真理だ」
 言い捨てて、リウドルフは二つの篝火かがりびの間に立ち止まった宮司ぐうじを凝視する。
 正装した宮司ぐうじ、沼津が今も両手に抱える桐の箱を眺める内、リウドルフの脳裏に昼過ぎの会話が蘇った。
「それで……」
 縁側から差し込む光と共に、猛烈とも言える蝉時雨が民宿の座敷にも入り込んだ。
 座卓に置いたタブレット端末の画面を見下ろしながら、リウドルフは手にしたスマートフォンへと話し掛ける。
「……これが、気になっていた『もの』か?」
 リウドルフがのぞき込んだタブレットの液晶画面には、歪んだ円形の輪郭を持つ細菌の写真が拡大されて映り込んでいた。本来の仕事柄、こうした写真は目にする機会も多いのだが、この時遣された細菌の写真は彼がすぐに思い出せる種類の菌の形状からは掛け離れていたのであった。
『そういうこった。お前さんが送って遣した血液から発見された、所謂いわゆる「未知の細菌」て奴だな』
 電話の向こうから百目鬼誠二郎は至って軽い口調で告げた。
 リウドルフは後ろ頭をきながら冷めた口調で指摘する。
「……『世紀の大発見』て事になるのか?」
『さて、どうだろうな。細菌やウィルスの研究なんざ、それこそ星が瞬くみたいに日々更新されてるんだ。その中で一際強く輝けるかどうかは今後の研究如何だろうが……』
 スマートフォンの向こうから届く百目鬼の声には、大した興奮は篭っていなかった。
『詳細は今送った通りだ。ゲノム解析の結果から判断するに、プロテオバクテリアの一種だと思われる。まだ最低限の検証結果しか出せてないんだが、一つ、こいつァ面白い特性を有している事が判明してな……』
 かたわらでアレグラが飽きもせずノートパソコンでゲームに打ち込む最中、リウドルフは座卓の前に腰を下ろしてタブレットの画像を注視した。
 潮騒が遠くから伝わる中、彼の耳元で百目鬼の報告は続く。
『この細菌は通常活動時は外毒素を分泌するんだが、何らかの外的刺激、分けても殺菌作用のある薬剤なんぞを混ぜてやると、一転して毒素とは別の酵素を吐き出し始めやがる』
「その酵素の成分、及び効能は?」
『成分については現在分析中だが、効能に関しては例の患者の血液に反映されてると推察するのが妥当だろう』
「ああ……」
 卓上のタブレットを見下ろしたまま、リウドルフはうなずいた。
「テロメラーゼの分泌促進を始めとする細胞の活性化と、強い抗酸化作用の発生。つまりは……」
宿主しゅくしゅの「延命」だな』
 百目鬼が結んだ解説に、リウドルフは口元を一文字に結んだ。
 縁側のひさしで風鈴がか細いを奏でた。
 リウドルフは上体を弓なりに反らして座敷の天井を仰いだ。
「あー……要するにこういう事か? この何だか良く判らない細菌バクテーリアンは自分がいきがってられる間は毒素をばら撒いて宿主しゅくしゅを攻撃するが、免疫系から反撃を受けた途端にコロッと掌を返して、長寿の薬を提供する事で宿主しゅくしゅと共生しようと試みると、そういう話か?」
『実際の所、共生を試みる様子を観察するまでには至らなかったがな。何匹かのマウスに試験的に感染させてみたが、毒素にやられてことごとくが死んじまった。飽くまでシャーレの上での理論上の話だ。感染力自体は高くないようなんだが』
 百目鬼の返答を聞いて、リウドルフは姿勢を戻して鼻息をついた。
「……とんだ日和見菌だな。殺しに掛かって来といて自分は殺されたくないってか」
『ひょっとすると、こいつはミトコンドリアの原種に近い菌なのかも知れん』
 電話の向こうで百目鬼は穏やかに言った。
『だがな、パラの字、お前さん相手じゃ釈迦に説法ってもんだが、どっちがどっちへ歩み寄ってるのかは判然としないにせよ、細菌と共生関係を結べない生き物も存在しないんだぜ? 存在出来ないと言った方が正しいか。ちまたじゃ声高に除菌だの清潔志向だのとうそぶいてるが、そう抜かす人間様の体だって腸内細菌叢フローラや皮膚常在菌、口腔細菌なんかの微妙にして絶妙なバランスの上に生命活動が成り立ってるんだ。宿主しゅくしゅが死ぬまで、いや死んだ後でも活動を続けて増殖し、地中や水中に潜むなり空気中に拡散するなりして平然と他所へ移って行くのが細菌だ。他者の生も死も管轄出来る唯一の存在とすら呼べるのかも知れん』
 相手の弁をリウドルフも静かに聞いていた。
『この菌の場合、そうした特性が極端に表れているとも言えるなぁ。真核生物と互助関係を結ぶ前の、あるいは結び始めた頃の古い種であるかも判らん』
 百目鬼の遣したしんみりとした言葉の後、リウドルフは緩やかに口を開いた。
「……話を少し戻すが、もし仮に、この細菌に対する『免疫』を先天的に備えた人間がいたとすれば、どうなると思う?」
 数秒の間が、距離を隔てた両者の間に置かれた。
 昼日中の蝉時雨が宿の座敷を埋め尽くす。
 縁側の向こうでは、晴人が庭の木々へ水を撒き始めた所であった。降り注ぐ日差しは益々ますます強くなり、表を照らす光は万象を貫くようですらあった。
 ややあって、答えは返って来た。
『不老不死の獲得』
 端的な回答を遣した後、電話口の向こうで百目鬼は鼻先で笑ったようだった。
『……夢物語の類だがな』
「どうかな……」
 一笑に付した相手とは対照的に、リウドルフは堅い面持ちを保っていた。
 それからリウドルフは、ここにいない宿の主の姿を思い浮かべた。
 ひさしにぶら下げられた風鈴が、また細い音を立てた。
 そして今、リウドルフは、前方で繰り広げられようとする光景を凝視する。
 篝火かがりびに群がる無数の人影。
 それらの前に毅然と立つ、一人の宮司ぐうじ
 そのかたわらに付き従う一人の女。
 炎に半身を照らされた佳奈恵の面持ちは何処か空虚で、うつむき加減の目元からは意志の光がすでに零れ落ちたかのようであった。
 宵闇の奥から伝わる潮騒だけが辺りを包む中、闇の秘儀は正に開始されようとしていた。
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