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渚のリッチな夜でした

その19

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 差し出された麦茶を、晴人はグラスの半ばまで一息に飲み干した。
 リビングに置かれたテーブルの席の一つに腰を下ろし、彼は一つ息をつく。卓上には、それまで被っていた野球帽が置かれていた。すでに全体が日焼けして色褪せた野球帽は、ふちの辺りに汗のにじみを晒していた。
「それで……」
 斜交いの席に座ったリウドルフが片手をテーブルに載せて訊ねる。
「海辺の町からこうしてわざわざ出向いて来たと言う事は、何か良からぬ事でも起きたのかね?」
「良からぬも何も……」
 晴人は日焼けした顔に忌まわしげな表情をにわかに浮かべた。
「良からぬ事しか無いんですよ、あの村は! ずっと!」
 そう断言した晴人の斜め後ろ、リウドルフと丁度ちょうど向かいの席に腰を落ち着けていた美香は、声に込められた怯えの色を察してわずかに目を見張った。
 少女の見つめる前で漁村から遠路遥々訪れた青年は目を落とし、忌まわしげに卓上を睨む。
「今日は朝から市街まで買出しに行くって嘘いて、ここまで来ました。村から連絡したんじゃ何処で誰が聞き耳を立ててるか判らないし、途中で一度、電話も掛けたんですが……」
「そうらしいね」
 答えたリウドルフは、ちらと横へ目を移す。
 二人の客人を迎えたテーブルのかたわらでは、客人を迎えるに当たりタンクトップとスパッツを急ぎ着たアレグラが、空惚そらとぼけた顔で視線を宙に泳がせていた。
 晴人は顔を再び上げてリウドルフを見つめた。
「でもやっぱりじかにこうしてお話しするのが一番だと思って! 電話口から言ったんじゃ信じて貰えないんじゃないかと思って、それで……!」
「まあ待て待て」
 何やら気炎を揚げようとした相手を、リウドルフは片手を上げて制した。
「何を曲解して期待しているのかは知らんが、こっちはしがない高校教師だよ? 何か問題が起きているなら、地元の駐在さんにでも話してみたらどうだね?」
「駐在なんて真っ先に『あいつ』に丸め込まれてるみたいだし、多分どうにも出来ませんよ」
 晴人は苦々しげに顔を大きくしかめた。
 しかる後、彼は斜交いの席に座る、如何にも頼りなげな貧相な男を見つめる。
「それに貴方は浜辺で『あいつら』を、村の一人を取り押さえたんでしょう?」
「いいや、行き倒れていた御老人を助けただけだ」
「『あいつら』がそんなタマかよ!」
 リウドルフが素気無く答えた直後、椅子から腰を浮かせて晴人は声を張り上げた。
 乱暴な、と評すには怯えの色の強い物言いであった。さながら裏路地に追い込まれた逃亡者の行く手に不意に影が差した時のように、この時の青年の双眸に立ち昇っていたのは紛れも無い恐慌の片鱗であった。
 後ろで美香は思わず目を見張り、リウドルフとアレグラもそれぞれに含みのある眼差しを寄せる中、晴人はおもむろに非礼を詫びる。
「すんません……」
 そして彼は緩々と椅子に座り直した。その声音や顔色には、恥ずかしさと共に幾分かの恐れがにじみ出ていた。
 晴人は卓上で両手を組んで、うつむき加減で言葉を続ける。
「……でも、あの村の奴らが暴れ出したんなら勝手に大人しくなるなんて事はまず在り得ないと思うんです……っといたら何を仕出かすやら……」
 リウドルフは小さくうなずいた。
成程なるほど。実際に村で暮らしている君なら、良くも悪くも彼らとは距離が近い訳だからな」
「そう。夜中に頻繁に、薄気味悪い声が届くんですよ」
 相手の言葉に促されてか、晴人は怯えを露わにした表情をリウドルフへ向けた。
「獣の遠吠えとも、鳥の鳴き声とも違う。勿論もちろん人の声とも思えない。そんなのが夜通しずっと聞こえる時もあって、ねえさんは、いや若狭さんは、古い建物が風できしんでるだけだから気にするなって言ってくれるんですが……」
「君はあの旅館に住み込みで働いているんだっけ?」
「ええ……」
 リウドルフの挟んだ質問に晴人はうなずいて見せた。
 返答を聞いたリウドルフは宙をちらと垣間見る。
「まあ、それなら取りえず大丈夫だろう。最悪の事態になったとしても、あの女将さんが鎮めてくれるはずだ」
「いえ、もう最悪になりつつあるんです! だからこうしてお願いに来た訳で……!」
 晴人は落ち着かない様子で反駁はんばくすると、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、リウドルフの方へと差し出した。
 リウドルフがのぞき込んだ先、スマートフォンの液晶画面には今月のカレンダーが表示されている。その一角を指して、晴人は今までよりも焦りと恐れを前面に出した口調で訴える。
「二日後が、これから二日後に大潮の日が来るんです! そしたらまた……」
「『また』? 『また』、何だ?」
 特段の威圧を含まないリウドルフの問い掛けに、だが晴人はにわかに押し黙った。傷のうずきをこらえているかのように苦い表情で沈黙していた彼は、数秒の間を置いて語り出す。
「三週間ぐらい前、俺があの村で働き始めてまだ日も浅い頃だったんですけど、夕方頃、若狭さんに急にお使いを頼まれた事があったんです。どうしても急に必要な物が出て来たから、市街までひとっ走り買出しに行ってくれないか、って」
 そこまで言うと、晴人は麦茶を全部飲み干した。
「帰りが遅くなるのは仕方が無い、あまり手間取るようだったら外で泊まって来ても構わないって言われて車を飛ばしたんでけど、道が思った程混んでなくて、買物も少ない回数で済ませられて早くに帰れるようになったんです。そしたら……」
 声をわずかに揺らめかせて語る青年の瞳が、そこで大きく広がった。
「……そしたら村の近くで、道路の向こうに小さく見えたんです。町の方からは陰に入る辺りに炎の、多分焚火だったと思うんですけど、赤い光に照らされて大勢の村人が浜に集まってるのが判ったんです。遠目に見ても普通じゃない様子で、何て言うか異様な雰囲気で、車も止めてライトも消してしばらく眺めてたんですけど、そこに……」
「例の女将さんの姿が見えたのかね?」
 リウドルフが遣した言葉に、晴人はこっくりとうなずいた。
 重みのある沈黙がマンションの一室に漂った。
 リウドルフは目頭を押さえると、椅子の背凭せもたれに寄り掛かる。
 先程からかげりのある態度をずっとのぞかせる両者を、美香は不安げに見つめていた。分けても話し手の青年の晒す態度には、詳しい所の判らぬ美香もいささか気圧されたのだった。
 あの民宿の女主人と二人三脚の体で、実に慎ましやかに暮らしているように見えた青年だったが、その内には様々な想いを溜め込んでいた模様である。こうして海辺の村を遠く離れた場所にまで救いを求めて遣って来た事からも、彼の切羽詰まった様子は傍観者たる少女にもうかがえたのであった。
 晴人はやや猫背になった姿勢でうつむいたまま、ぽつぽつと言葉を紡いで行く。
「後で調べてみたら、その日は丁度ちょうど新月の大潮の夜でした。それから二週間後の大潮の日がもう間近に迫ってるんです。はっきりした事は何も言えないけど、俺、何かもう落ち着いてられなくて……」
 そこまで言うと晴人は顔を上げ、テーブルを挟んで斜交いに座るリウドルフを見つめた。すがるような食い付くような眼差しが、そこで青年の双眸からせきを切ったようにあふれ出した。
「お願いします! どうか、『あの人』を助けてやって下さい!」
 そう言って深々と頭を下げた相手を、リウドルフは静かに見下ろした。
 外から届く蝉の声が西日の差し始めた室内に染み渡る。
 近くの道路を走る車の音が次第に遠ざかって行った。
 リウドルフは目尻の辺りをくと、やおら息をついた。
「まあこれも『渡りに船』と言う奴だ。いや『乗り掛かった船』か。いずれにせよ、俺の本業は医者でね。こんな風に助けを請われて無下にあしらう理由は無いが……」
「じゃあ……」
 顔を上げて目を輝かせた晴人へ、しかしリウドルフは険しい面持ちを向ける。
「ただ本当に助けられるかどうかは、こちらも今の所保証しかねる。未だ腑に落ちない点がいくつかあるし、その辺りを君の説明からも補わせて貰いたいね。取り分け君とあの女性の関係については包み隠さずにだ。君自身のプライバシーにも係わる事だが、出来るかね?」
「ええ勿論もちろん……」
 晴人は椅子から腰を上げ掛けたが、俄然勢い付いた様子をのぞかせる青年をリウドルフは穏やかに見つめた。
「だが、今日は君も急ぎ村へ戻った方がいい。遅かれ早かれの話ではあるが周囲から不審に思われるだろうし、何より女将さんも心配する。こちらも出来るだけ早く出発出来るよう努力するから、恐らく明日の昼前にはそちらに着いているだろう。その間に余程まずい事が起こったなら、俺のスマホへ連絡を遣してくれればいい」
「判りました」
 晴人は快活に答えた。
 それまでとは違う、前向きの緊張に震える声であった。重しが一つ取り除けたのか、はたまた、長く留まっていた詰まり物を首尾良く押し流す事が出来たのか、青年の態度は見るからに生き生きとしたものへ変わっていた。
 眼前の相手のそうした変貌ぶりに、美香は驚くと共に、かすかなうらやましさを感じたのだった。
 晴人は勢いのまま、椅子から立ち上がって今一度頭を下げた。
「じゃあ、俺はこれで失礼します。続きは明日、あの村で」
では、また後程Also bis nachher
 リウドルフも立ち上がって一礼を返した。
「も一度荷造り始めないとね~……」
 アレグラが息をつく横で、居合わせた美香だけが一人複雑な面持ちを保っていた。
 外で子供たちのはしゃぐ声が、静かになった部屋の中を漂った。
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