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みんなの「本当」

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「……ッカ、チッカってば!」
「……え、瑞希、なに大きな声出してるの? 塚本先生に怒られるよ」
「ホームルーム、とっくに終わってますけど」

 気が付けば、みんな席を立ってそれぞれの放課後を過ごしていた。

「なんか最近ずっと変。いっつもボーっとしちゃってさ。しかもこの前の模試、学年八位だったでしょ。ついに澤野陥落! って学校中が大騒ぎだよ。まあ、あたしからすれば一位も八位も同じようなもんだけどね」

 それは全然違うだろう、とツッコんでやるのも面倒くさくて、私は曖昧に笑った。物足りなそうな瑞希の表情には気付かないフリをした。

「じゃあ行こうか。今日も張り切ってお勉強しなきゃ。次の試験で取り返さないと卒業生代表が危ういからね。このままじゃ瑞希に負けちゃう」

 今回の模試で瑞希は二十八位という大躍進を遂げた。もう私が教える必要なんてないと思うのだけれど、瑞希は頑として聞き入れない。
 そういえば、私が瑞希に勉強を教える条件は恋愛指南だったっけ。……いまとなっては、もう必要ないのだけれど。

「遥くん、本当に文芸部辞めちゃうのかな」

 いまの私にとって、遥は遠くからその姿を見るだけの存在。でも、私がチーだなんて嘘をつかなければ、もともとこうなっていたはずだ。
 だから、これが私たちの「本当」なんだ。

「あ! 最悪、スマホ教室に忘れてきたー。ちょっと取ってくるから先に行ってて」

 瑞希は部室の少し手前でそう言うと、Uターンして行ってしまった。
 珍しい。瑞希はいつも肌身離さずスマホを持ち歩いているのに。
 部室に入ると、いつものように桐原先輩が本を読んでいる。
 その手にあるのがクリスティの『そして誰もいなくなった』なのは、なんとも皮肉だ。

「いらっしゃい。……なんだか元気ないね」

 私はそれに答えず、腰を下ろした。教科書とノートを出そうとして、カバンの中身を床にぶちまけてしまう。ああもう。
 しゃがみこんで伸ばした手に、別の手が重ねられた。先輩が私の隣にいた。二人の間の空気が、わずかに熱をはらむ。

「僕が千佳ちゃんを好きになった理由はね、君が嘘つきだからだよ」

 先輩の言葉に息をのんだ。

「なんで、知って……」
「僕のリサーチ能力を舐めてもらっちゃ困るね」

 薄い唇を歪めて、ふふっと笑いを漏らした。

「僕はね、綺麗なだけのものはつまらないって思うんだ。少しくらい汚れていたほうがいいんだよ。それは、足掻いて生きた証だから」
「……でも、それを汚いって思う人もいるじゃないですか」

 遥が、私をそう思ったように。

「僕なら、君がついた嘘もなにもかも、丸ごと全部受け入れてあげるよ」

 冷たさを感じさせる目に優しさをたたえて、私を見た。

「遥くんには負けるけどね、僕だってそう悪くはない、と思うんだけど」

 頬に触れた指先はひやりと冷たくて、ほてった肌に心地よい。
 誰かに触れられるのは嫌い。
 なのに、心のどこかが「誰か」を求めてる。
 先輩の顔が近付く。鼻先が触れそうなほどの距離に、頬の冷たい感触に、絡めとるような視線に、私の心がゆっくりと麻痺していく。

「嘘つきな千佳ちゃん。君なら自分の気持ちに嘘をつくことなんて簡単でしょ? そうやってごまかしていれば、そのうち嘘が本当になるかもしれないよ」

 そう――そうか。私はどうしようもない嘘つきだ。だったら一生嘘に溺れて生きていけばいい。「本当」に目を閉じて、耳をふさいで、息を止めて、深い海の底に沈んでいけばいい。
 縮まっていく先輩との距離に、私は瞼を下ろした。

――わたし、はるかのこと、だいすきなの。

 チーの声がした。
 嘘なんかひとつも混じっていない、自分の心をそのまま言葉にした声が。
 その瞬間、私は思い切り顔をそらして身を引いた。唇がくうを切った先輩が前のめりに倒れこむ。

「ご、ごめんなさい」
「いたた……ひどいなぁ」
「――あっ、遥くん、ちょ、ちょっと待って!」

 瑞希の声がして振り返ると、部室の入口に遥がいた。
 床に座ったままの桐原先輩と私、そして散乱しっぱなしの教科書やノートを見て、さっと顔色が変わった。

「部長、千佳になにしてんですか?」
「あれ、『関係ない』んじゃないの?」
「いいから答えろよ」

 遥が先輩の胸元をつかんで強引に立ち上がらせた。吉田さんたちの一件があったときのことを思い出して、慌てて立ち上がる。

「は、遥。なんでもないの。ただちょっと転んじゃっただけっていうか」
「千佳は黙ってろよ」
「話も聞かないなんて遥くんも余裕がないなぁ。それじゃあ大切なもの、守れないよ」

 遥の目に怒りが走った。振り上げられた拳に息をのむ。

「だめーっ!」

 そう叫んだのは瑞希だった。遥に飛びついてしがみつく。

「遥くん、だめ! 違うんだってば、全部、違うの!」

 瑞希の必死さに毒気を抜かれたのか、遥が先輩から手を離した。

「――書けって言われた退部届、持ってきましたから。今度こそちゃんと辞めさせてくださいよ」

 先輩は小さくため息をついた。

「本当にいいのかな?」
「――お世話になりました」

 出ていくとき、遥はちらりと私を見た。世界に色を着けてくれるその目が、悲しげに歪んでいるように見えた。
 しんとした部室で、先輩は困ったように窓の外を見ていた。
 瑞希は、私と、遥が去った方向、交互に視線をやっている。
 私は、床に散らばった教科書を拾い上げ、

「ね、瑞希。今日はどの教科にするの?」

 と聞いた。「いつもどおり」にすればいい。最初からなにもなかったみたいに。

「……ちょっとチッカ。なにやってんの。追いかけなきゃだめだよ」

 私の肩をつかんだ瑞希の手を乱暴に払いのける。鼻の奥がツンとした。こみ上げてくるものを抑え込むように、冷静を装って言葉を吐く。

「これでいいの。私と遥は、本当は出会うはずじゃなかったんだから」
「だからなによ。嘘をついたからなによ。そんなの、ぶつかる前から諦める理由になんかなんないでしょ」

 胸のあたりを強く突かれた。ごまかそうとしていたのに私の心が揺さぶられてしまう。どうしようもないくらいに、揺れる。

「チッカのここはなんて言ってるの? チッカはどうしたいのよ。それがチッカの『本当』でしょ?」

 瑞希の声に涙がにじんだ。
 つられて私の視界も歪んだけれど、気付かれたくなくて、うつむいたまま床の上のものを拾い続ける。
 ふと指先に歪んだ感触が触れた。
 そこには、あるはずのないものがあった。
 私がチーについて書き綴ったあのノートが、マットレスの下に隠し続け、昨日、瑛輔くんに投げつけたあのノートが、あった。
 どうしてこんなところにあるんだろう。
 導かれるように、私はページをめくった。

『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで、あう、やくそくをした』

 これは、チーと遥の大切な約束。
 遥と私はこの約束のおかげで出会ったんだ。

『チーは怒ったとき、私なんか、と言う』
『チーは本を読むのが好き』
『チーは寂しがり屋』
『チーは優しい』
『チーは頼まれたら断れない』

 少しずつずれていった私と遥の中のチー。
 少しずつ重なり合っていった私と、遥の口から零れ落ちる『ちか』。

『チーは、遥がすき』

 最後の書き込みをそっとなぞる。
 やっぱり私はどうしようもない嘘つきだ。このノートに紛れ込ませた嘘は、世界で私一人だけの秘密。
 シャープペンシルで書かれた「チー」の下に残った「千佳」の跡。
 指先に神経を集中して、触れて、ようやく分かる、私の「本当」。

『千佳は、遥がすき』

 こぼれた涙がノートに落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
「チー」がぼやけて薄くなる。そしてかすかに「千佳」が浮かび上がる。

「チッカ、このままじゃだめ。絶対だめ」

 瑞希が私よりたくさんの涙を流して、声を震わせて、私を揺さぶる。この期に及んで私がまだ隠そうとする「本当」を揺さぶってくる。

「落ち着いて、瑞希。そんなに急かしたって千佳ちゃんを困らせるだけだよ」

 桐原先輩が瑞希の肩に手を置いた。
 だって、と鼻をすすりながら、瑞希は先輩の胸に顔を埋める。そのあまりに自然な流れは、ただの先輩と後輩だとは思えなかった。

「ごめんね、千佳ちゃん。僕らもけっこう嘘つきなんだよ」

 先輩はそう言っていたずらっぽく笑った。

「仕掛け人は瑛輔さんだよ」

 そう聞いて頭をよぎったのは、私に向かって中指を立てる女の人。

「あの夏合宿で、千佳ちゃんが、同じ名前の別人に成りすまして遥くんに近付いたこと教えてもらった。それで、なんとか千佳ちゃんの助けになってほしいって頼まれたんだ」

 あの夏合宿の裏でそんなことがあったなんて。瑛輔くんが文芸部の合宿をあの別荘でやろうと言い出したときにはもう、そのつもりだったのかな。

「びっくりしたけど、でも、どうにかしたかった。だってあたし、約束したもん。チッカの恋を応援するって」

 先輩のブレザーを涙でぐしょぐしょにしながら、瑞希が言った。私の恋を応援しながら、ちゃっかり自分の恋を叶えていたとは、図々しいというか、さすが恋愛マスターというべきか。

「そこで僕らが一芝居打ったってわけ。ライバルが現れたら遥くんも素直になるんじゃないかと思ってさ」

 桐原先輩が砂浜で突然、私に告白をしたのは、そういうことだったのか。
 全部、全部、みんなの嘘。

「でも遥くんにはそういう回りくどいやり方は効かないみたいだね。千佳ちゃんがどうしても嘘をつけないその気持ちが、一番有効だと思うよ」

 やっぱり世界は嘘であふれている。
 だけど、みんなの嘘は「本当」より優しい。
 私もこんな嘘がつけたら――違う。みんなはちゃんと「本当」を手にしているから、こんな嘘がつけるんだ。

「私、遥のこと追いかける」

 私がそう言うと、瑞希と桐原先輩がうなずいた。

「大事なのは、いまの二人の気持ちだよ。その始まりが嘘でも本当でも、どっちでもいいんじゃないかな」
「はい。あと――私が一番好きなクリスティの作品は『杉の柩』です」

 かつて答えそびれた質問にようやく答えを返すと、先輩はおかしそうに笑った。

「千佳ちゃんらしいね」
「ほらほら急がなきゃ。チッカ、走れ!」

 瑞希と先輩が私の背中を押した。それを合図に、私は走り出す。部室を出るとき、あのノートをちらりと見た。
 さよなら、チー。
 チーとカー。私たちはあのころ、二人で一人だった。
 だけどもう私は一人で生きなくちゃいけない。
 私の中のあなたの居場所はずいぶんと小さくなってしまうけど、絶対になくしたりしないから。だから――さよなら。
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