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瑞希の「本当」

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「ぴーちゃん、なかなか大変だったみたいだね」

 他人事だと思って大笑いする瑛輔くんをにらみつける。

「本当に大変だったんだから」

 連絡もなく門限を過ぎて、しかも膝に大げさな絆創膏を貼られて帰ってきた私を見て、ママは泣き出してしまったのだから。

「千佳ちゃん、別の高校に転校しましょう!」

 そう言い張るママをなだめるのにどれだけ時間がかかったか。
 最終的には、塚本先生からの、

「澤野さんは友達を救ってくれました。感謝してもしきれません。さすが新入生代表を務めただけありますね。これからも他の生徒の模範になってほしいと思います」

 という、これでもかと私を持ち上げる電話を受けて、ママもしぶしぶ納得してくれた。
 結局、吉田さんと相原くんは二週間、西岡さんと伊東さんは三日間の停学処分を受けた。
 盗撮した遥の写真を売ったことについては、まだその「商売」に手を付け始めたばかりで金額が少額であり販売数も多くなかったこと、買った人全員に連絡がつき、データの消去の確約が取れたこと、そしてなにより遥が大事おおごとにしてほしくないと言ったおかげで、その程度の処分で済んだ。
 相原くんと父親が遥の家にやってきて、玄関先で泣きながら土下座をし、

「やったことの責任は全部とりますから」

 と謝罪したのだという。
 相原くんが少し羨ましかった。相原くんの父親は、私のパパとは違うから。
 けっこうな騒動だったのに、パパは相変わらず私には無関心を貫いた。夜遅く帰ってきて、朝早く出ていく。この家で私が目にできるのは、いつだってパパの残像だけだ。

「んで? 肝心の遥くんとの進展は?」
「だから、それどころじゃなかったんだってば」
「じゃあさ、ここはひとつ、俺の提案に乗ってみない?」

 瑛輔くんがにやりと笑った。

「遥くんが文芸部に入ったのって、文芸部の夏合宿で部長の魔の手からぴーちゃんを守るためだったんだろ?」
「でも、それは部長の嘘で……」
「それを本当にしてやるよ。うちの別荘でやろうぜ、夏合宿。夏の海で進展しない恋なんかないからな」

 夏の海。別荘。
 体温が急に下がった気がした。子どもじみた歪な部屋が色を失っていく。
 私が口を開くより先にドアが開いて、アールグレイとアップルパイの香りがした。

「先生、お疲れさまです。ちょっと休憩しませんか? 千佳ちゃんも最近いろいろあって疲れてますし」

 ママは今日も心配そうな顔をしている。
 私が家にいるときでさえこうなのだから、家に一人でいるとき、ママは一体どんな顔をしているのだろう。

「聞きましたよ。それでもテストの結果は学年一位だったんだから立派なもんですよ。で、頑張った千佳さんへのご褒美と、もろもろお疲れさまの気分転換ってことで、千佳さんと友達を俺の別荘に招待しようかなって思ってるんですよ。海沿いで、なかなかいい場所なんですよ」

 ママの手からトレイが落ちる。がちゃん、と陶器の割れる音。
 紅茶とひしゃげたアップルパイが白いファーのラグを汚した。
 ママ、と私が呟いた瞬間、その腕が私を絡めとって縛り上げる。

「だめよ。絶対だめ。海なんてとんでもない。二度と行かせるもんですか。桜田先生もなんでそんなひどいこと。だめ。だめよ。行かせない」
「おばさん、あの、二泊くらいのちょっとした旅行のつもりで……。ほら、もちろん俺が責任を持って……」
「そんなの、なにかあったときになんの意味もないじゃない! だめ、絶対に行かせないんだから!」

 瑛輔くんは目を丸くしていた。
 ママのことは多少過保護な母親だと思っていただろうけれど、まさか二泊三日の旅行を提案されただけで、こんな拒絶反応を示すなんて想像もしていなかったはずだ。

「どうした」

 階段を上がってくる足音とともに、私が久々に聞く声がした。

「あなた!」

 パパが私の部屋の前に立って、床にぶちまけた紅茶とアップルパイ、私をきつく抱きしめるママ、呆然と立ち尽くす瑛輔くん、それぞれ順番がついているように視線を巡らせた。だけど、私にだけは番号が振られていない。素通りしていく視線に胸がきゅっとした。

「先生が、千佳ちゃんを海に連れていくって……お願い、やめさせてちょうだい。きっとまたなにかひどいことが起こるわ!」

 あの日から――チーがいなくなった日から、ママは私のことを心配し続けている。パパは私を見なくなった。私は嘘を抱えて、チーになろうとしている。
 歪んだまま、時間だけが過ぎていく。なにも変わらないのに。このままじゃ、ずっと。

――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。

――……分かるね、千佳。

「行かせてやりなさい」

 瑛輔くんから事情を聞いたパパは、あっさりと言った。
 ママが息をのむ。
 私を抱きしめる腕に力が入って、体が二つに千切れてしまいそうだった。

「いや。いやよ。ねえ、千佳ちゃんだっていやでしょう? 海なんて、行きたくないでしょう?」

 いやだ。
 誰かに触れられることも、汗をかくことも、夏も、海も、あの日を思い出すことも、チーを失った世界で生きることも、嘘をつくことも、いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。

「千佳はどうしたいんだ」

 パパの目が、ようやく私を捉えた。あの日と同じようにママに抱きしめられ、なにも言えないでいる私を見た。

――言うとおりにしなさい。分かるね、千佳。

 あのときは、私の意見なんか聞かなかったくせに。

「私は」

 唇が勝手に動いて、掠れた声がこぼれ落ちる。その動きも、音も、私のものじゃない。

「行きたい」

 ねえ、チー。もしかしてこれは、私の中にいるチーが言わせてるの?
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