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玲央side
しおりを挟む*玲央side**
「さて、まず先に聞かせて欲しいんだけど、小虎くんがこうなったのはいつかな?」
「昨日の夜だ。こうなったとき俺は……野暮用でいなかったが、服を脱がせようとしたらこうなったらしい」
「……うん、そうだろうね」
近くに座る男がお見通しだと目線を下げる。そんな態度に少し苛立つが、黙って話の先を促した。
「小虎くんが通院していたことを君は……えぇと、」
「玲央だ。朝日向玲央」
「うん、玲央くんは知っていたのかな?」
「知らねぇ。悪いとは思ったが、昨日こいつの荷物を漁って診察券を見つけた。ついでにアンタの書いたメモもな、随分親しげじゃねぇか、其川拓美さんよ」
「それは兄としての憤りかな? だとしたら君は随分と勝手だね、暴力を奮っていたくせに」
「あ゛?」
「本当のことだろう? 若くて血の気が多いのは結構だが、子供にはならないでくれ」
思わず舌打ちがこぼれる。
事実に苛立つ自分の幼さを非難され、悔しさに拳を握った。
そんな俺の手に小虎が触れる。視線を向けると、悲しそうにする小虎の姿があった。
小さな声で悪いと呟けば、満足そうに微笑み手に持つ絵本を読みはじめる。
「離人症性障害」
「あ?」
「自身の身に起きていることなのに、まるで傍観者のように感じる障害だよ。そしてもう一つ、解離性障害。これらが小虎くんの病名だ」
「解離……二重人格か?」
「正確には違うのだけど……まぁ、そう解釈してもいいよ」
離人症性障害、解離性障害。
普段耳にすることのない単語に胸の奥が苦しくなった。
身の置き場がないことを、遠回しに叫ばれている気分だ。
「僕が初めて小虎くんに会ったとき、彼はまるで抜け殻のようだった」
ぽつり。呟く男に視線を戻す。
どこか遠くを見つめる姿に、本意無い気持ちが溢れていくようで気分が悪い。
「そもそも、君たちのお父さんが急性アルコール中毒で亡くなったとき、連絡のつかないことを不審に思った君たちの叔父さんが家を訪れたときにはもう、小虎くんはなんの反応もしない、まるで人形のような状態に陥っていたんだ」
「アルコール中毒……」
「……そうだよ。君はそんなことも知らなかったのかい?」
「……つづけろ」
急性アルコール中毒。あんなクソッたれの死んだ理由なんぞ興味はなく、死んだというその事実だけを受け取っていた自分をまさか、今になって恥じることになるとは思わなかった。
そもそも、小虎が殴られていたことさえ俺は、いや、その可能性には多分……。
「……君たちの叔父さんとね、僕は知り合いだったこともあって小虎くんの治療を任されたんだ。一応これでも小虎くんのような子を多く担当してきたからね。ゆっくりと時間をかけて小虎くんの傷を癒すつもりだったけれど、君が小虎くんを引き取るとそちらのおじい様から連絡があり、それを小虎くんに告げた次の日……驚いたことに、小虎くんは君がよく知る普通の人間になっていたんだ」
「……」
「それほど君という存在が小虎くんの中では大きいんだろうね。僕は正直安心したよ。小虎くんの傷はもちろんゆっくり治していくものだけど、君がいるのなら回復は早いだろうってね」
また握りしめた拳が、爪が皮膚に食い込むのが分かった。
口の中が乾いて歯を食いしばる。背けそうになる視線を、男から外すものか。
「――だけどその日、小虎くんの体に薬を塗るため服を脱いでもらったとき、今のような小虎くんが現れた」
抑えつける感情の波が、なにかを蝕んでいく音が聞こえる。
「……幼児退行、だね。幼児退行した小虎くんは泣き叫んで何度も何度もお兄ちゃんに助けを求めていたよ。かと思えば体を丸めてごめんなさい、ごめんなさいと謝ってもいた……置いていかないで、ともね」
「……っ」
「そんな小虎くんに真摯に接した成果なのか、小虎くんは僕をお兄ちゃんと呼んで慕ってくれるようになった。そして小虎くんが君とお母様の二人と離ればなれになり、お父様と過ごす惨たらしい生活を打ち明けてくれたのも、ちょうどそのときだった」
惨たらしい生活。分かり切っていたはずの現実に目の前が真っ暗になるみたいに動揺を隠せない。
男は物悲しい視線を小虎に向けていた。つられるようにして俺も小虎へ視線を向ける。
見た目に反する幼児退行した中身は、今どんな風に俺を見ているのだろうか。
「……お酒のせいなのか、それとも元々そういう性格なのか僕には分からないけれど、小虎くんが教えてくれた生活は……およそ人間のそれじゃない。蹴る、殴るは当然のこと。外傷は残っていなかったけれど刃物で切り付けられたこともあるらしい。大声で怒鳴るようなことはしなかったけれど、徹底的な人格否定。お前が悪いのだという精神的暴力。中学校には通えていたそうだけど、食事はまともに取らせてもらえず、当時の平均体重をかなり下回るほど痩せていた。休日は……首輪をつけられ、犬のような扱いをされて……なにより悲惨なのは……」
止めろ。それ以上聞きたくない。次の言葉を聞きたくない。
頭の隅で叫ぶ自分を押し殺し、強く、強く拳を握る。
「小虎くんは、躾と称され……父親の気分次第で、体に熱湯をかけられていたんだ。特に背中は本当にひどくて……発見当時、彼の背中は皮膚が爛れて、肉が見えるほど損傷していた」
せり上がる言葉を飲み込んだはずなのに、口からは堪えきれずに息が漏れた。
「語ればキリがないけれど、小虎くんの生活は本当に酷いものだった。唯一救いがあるとすれば、背中以外には外傷が残らなかったことだけど……そんなもの、本当は救いにもなりゃしない」
「……」
「君たちの叔父さんが小虎くんを発見したとき、彼は父親の死体の前でなにを食べていたと思う? 自分の胃液が沁み込んだ畳だ。嘔吐物じゃないっ、嘔吐するものさえ食べることもできずに、彼は……っ」
「……っ」
ついに目を瞑ってしまった。男の激情に触れ、言葉の真実に恐れ、ついに目を瞑ってしまった。
「理不尽な理由で殴られ、血を吐いたって許してもらうこともなく、気を失ったって延々と続く暴力の恐ろしさが君に分かるか? 体を放棄して、永遠にも似た苦痛から逃げる小虎くんの苦しみが、君に分かるのかっ!」
「……」
「小虎くんに暴力をふるっていた君が今さら兄貴面だなんて……本当に、笑えるよ」
俯くことだけは絶対にしたくない。
この男の言葉は切り捨てることのできない過去ではあっても、いくら否定されようとも、俺が頭を下げて許しを乞うのはただ一人。
けれど、そのたった一人すら見ることが恐ろしいなんて、本当に都合の良い罪悪感だと自分でも笑えてくる。
「……幼児退行した小虎くんが過ごしてきた日常を僕に打ち明け、僕をお兄ちゃんだと認識した彼はまた元に戻った。けれど、背中を人前に晒すとふたたび幼児退行したんだ。多分、一番傷の深い背中は小虎くんにとって最も恐怖が色濃く残っているのだろうね。
十六歳の小虎くんはね、そうなることを教えるとちゃんと理解したよ。なんだかひどく困った笑顔を浮かべて、迷惑かけてすみませんってね……」
「……」
「そんなこと、謝って欲しかったんじゃないだ……僕は、小虎くんにそんなことを言わせたかったんじゃない」
我慢しかできない弟。自分を犠牲にする弟。
据え付けられた恐怖心と精神操作の奥底で笑うクソッたれの声が聞こえてくる。
そんなクソッたれを睨みつけながら、小虎を殴っていたのはお前だと指をさす自分自身が、背中に貼りついている。
「……すまない、君を責める資格が僕にはないことも分かってる。それでも、僕は信じたかったんだ。
十六歳の小虎くんが嬉しそうに君と暮らせることを語る笑顔を信じたかった。現実は残酷で、また暴力をふるわれたけど君との関係を修復したいと頑張る姿勢を信じたかった。君が少しだけ小虎くんに歩み寄ったことを信じたかった。不安だらけのくせに、甘えたがりのくせに、泣き虫のくせに、君との生活を楽しんで、ここに来なくなった君たち兄弟のことを、信じたかったんだっ」
唸る男の言葉が正面から突き刺さる。これ以上の痛みを、小虎は知っている。
「……小虎くんはね、幼児退行することを知ってから気持ちのコントロールができるようになったんだよ。背中を見られても、幼児退行する機会が減ったんだ。ついにはならなくも成った。でも今、ここにいる小虎くんが真実だ。君はまた、小虎くんを傷つけた。そうじゃなきゃ、この小虎くんがいるわけがないんだ……」
怨みがましい拒絶の瞳が俺を睨む。これ以上の撥無(はつむ)を、小虎は知っている。
「小虎くんにとって、お兄ちゃんという存在がどれだけ大切で大事なものか……誰より君が理解してくれ。そうじゃなきゃ、僕はきっと、君を怨んでも怨みきれない」
明瞭な嫌忌に息が詰まる。これ以上の厭悪(えんお)を、小虎は知っている。
「……其川、さん。アンタの言いたいことも、俺が聞かなきゃいけねぇことも分かった。俺とこいつに必要で、足りなかったことも分かった。それに気づかせてくれたこと、素直に感謝します。ただ一つ、これだけは言わせてください」
なのにこの馬鹿は知らない。そしてそれ以上に俺は知らない。
互いに知ることのなかった五年という月日がどれほど重く、無情なものかを。
けどそれ以前に、俺はお前に教えてやらなきゃいけないことがある。
「今も、これからも、この馬鹿な弟と、こんな最低な俺を信じてください。こんな俺たちのことを、アンタは信じろ」
お前が思う以上に自分が、そしてその兄貴が馬鹿だってことを、他の誰よりお前に教えてやる、小虎。
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