とら×とら

篠瀬白子

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お兄ちゃん 3

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その日は朝からお父さんも不機嫌だった。
お母さんとお兄ちゃんは大きな荷物を持って、どこかへ行ってしまうのだと言う。
その日が来るまで何度も何度も嫌だと言ったけど、お母さんは泣きながらごめんね、ごめんねと俺に言った。
お兄ちゃんはなにも言ってくれなかったけど、いつもより痛いことはしなかった。

行かないで。って言ったけど、二人は行くんだって歩き出す。
行かないで。って言ったけど、お母さんはごめんねと言って前を向く。
行かないで。って言ったけど、お兄ちゃんは清々した顔で前を向く。

お兄ちゃん、って言ったとき、お兄ちゃんは一度だけ振り向いた。
でも俺の顔を見て、すごく嫌な顔をしてまた前を向いた。そして姿が見えなくなるまでずっと、二人は振り向くことも、俺を連れだすこともなかった。

お仕事から帰ってきたお父さんに俺はいらない子なの? って聞いたら違うよ。と言った。
けれどたくさんお酒を飲んだある日、お父さんはいっぱい痛い痛いをした。
泣きながら止めてって叫んだよ。謝りながら許しって叫んだよ。
でもお父さんは、笑いながら俺をたくさん殴ったよ。

お兄ちゃんはね、知らないんだ。
俺のこと殴るけど、いっつも辛そうな顔をしてるの、知らないんだ。
痛いの痛いのとんでけーってやったけど、お兄ちゃんの痛い痛いは消えないんだ。

いっつもお兄ちゃんを追いかけるけど、姿が見えなくなると待ってくれるよ。
そのとき少しだけお兄ちゃんが泣きそうになること、お兄ちゃんはね、知らないんだ。

お父さんは初めて俺を殴った日から、俺をたくさん殴ったよ。
そうしたらなんだか体がね、動かなくなったよ。
殴られても、蹴られても、痛いのに動かなくなったよ。
お父さんはそんな俺に言うんだ。お前が悪いんだよ、愛してるんだよって。

俺が悪いんだ。全部、俺が悪いんだ。
だからお兄ちゃんを呼んでもね、お兄ちゃんは迎えに来ないんだ。
置いていかれたのも、殴られるのも、蹴られるのも、お兄ちゃんが助けにきてくれないのも全部、俺が悪いんだ。

愛してると言いながら、お父さんは今日もまた、俺を殴るよ。


「に……ちゃ……」
「あ?」


ふわりふわりと体が宙に浮いてるみたい。
とっても暖かくて良い匂いがする。
俺は暖かさを求めて匂いの元に抱き着いた。するとなにかが頭を優しく撫でてくれた。


「……んふふ、にーちゃ……」


温かいなぁ。良い匂いだなぁ。
お兄ちゃんに抱き着いたら、こんな感じがするのかな?
ぐりぐりと頭を押し付ける。もっともっと、いっぱいくっつきたい。


「……くすぐってぇよ、馬鹿トラ」
「……にーひゃ?」


あれ? 幻聴かな?
お兄ちゃんの声がする。
不思議に思って目を開けると、そこには髪の色が金色になったお兄ちゃんがいた。
それにお兄ちゃん、大きくなってる。


「おにいひゃん、きゃみゅのけキラキラだよ?」
「は?」
「キラキラ!」
「……おい、寝ぼけてんのか酔っ払ってんのか、どっちだよお前」


ため息をつくお兄ちゃんに首を傾げようとしたけれど、頭の下には柔らかいものがあって動けなかった。
よくよく見ると、俺はお兄ちゃんにくっつきながら寝てしまったらしい。


「えへへ。きょうはおにいひゃん、おこりゃないあ」
「あ?」
「いっひょにねりゅと、おにいひゃんおこりゅもん」
「……」


でも止めろって言うけど、殴るけど、お兄ちゃんが起きてるときに忍び込んでも追い出されなかったから、俺はお兄ちゃんのお布団で一緒に寝たいんだ。
しばらくじっと俺を見つめていたお兄ちゃんは、恐る恐る口を開いた。


「……お前、なんでいっつも付いてくんだよ」
「? だっておにいひゃん、ないちゃあでひょ?」
「はぁ? 泣かねぇよ」
「うそはめぇっておかあしゃんゆってた。おにいひゃんおれがみえなくなりゅとないちゃあでひょ?」
「……そんな風に見えてたのかよ、俺は」


また大きなため息をついたお兄ちゃんは、こちらに向けていた体をごろんと横に倒した。
そしたら少し離れてしまい、俺はいそいそとお兄ちゃんに寄っていく。ぎゅううとしがみついても、お兄ちゃんは怒らない。


「んふふー、おにいひゃん、だいしゅきー」
「……」


いつものお兄ちゃんよりすっごく大きくて、髪の毛もキラキラだけど格好良くて、大好き。
なんだかライオンさんみたいだけど、良い匂いもして落ち着くんだ。

またこちらに体を倒してきたお兄ちゃんが、俺の耳をふにふに触ってきた。


「どこら辺が好きなんだよ」
「んー?」
「俺のどこら辺が好きなんだよ、おら言ってみろ」


ちょっとだけ怖い目をしながらそう言うお兄ちゃんが、耳をふにふにしたまま聞いてくる。
俺はそんなお兄ちゃんに満面な笑みを浮かべた。


「かっこいいとこりょ!」
「……見た目かよ」
「えへへへへ」


笑う俺にお兄ちゃんはため息をつきながら、少しだけ強く耳をふにふにしてきた。
痛いよって言うと、優しく撫でられる。


「あちょね、やしゃしいの。おれのこちょ、ちゃんろまってくれりゅの。いじめりゃれるちょまもっちぇくれりゅの」
「……」
「いたいいたいはこわいけろ、おにいひゃんのひょうがいたいいたいかおしゅるの」
「……」
「おとうしゃんちょはちがって、おれのこちょ、たたいてもわらわにゃいの」
「は?」
「あちょね、あちょね」
「おい待て」


急に体を起こしたお兄ちゃんを見上げると、その目はさっきよりすごく怖くてびっくりする。
思わず体を丸めた俺に気づいたお兄ちゃんは、少し困ったような顔をした。


「……おい小虎……お前、あのクソッたれに、親父に…………殴られてたのか」
「……しょーだよ?」
「…………」


俺の言葉を聞いた瞬間、お兄ちゃんはすごく痛い痛い顔をした。
だからそんなお兄ちゃんに手を伸ばし、胸のところをそっと撫でる。


「いたいいたいの、ちょんれけー」
「……っ」
「だいじょうびゅ、おにいひゃん。いたいいたいのちょんれったれひょ?」
「……っ!」


笑う俺に顔を俯かせたお兄ちゃんは、すごい力で俺を抱きしめてきた。
痛いよって言ったけど、お兄ちゃんはずっとずっと、俺を抱きしめていた。


朝、目を覚ますとお兄ちゃんがいなかった。
寂しくて膝を抱えると、扉が開いてそこからお兄ちゃんが現れた。


「やっと起きた「お兄ちゃんっ!」……」


ぎゅうう。しがみつく俺にため息をついたお兄ちゃんは、俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でてから抱き上げた。
すごく高くて嬉しくて、お兄ちゃんにもっとくっつこうとすると、すぐ下ろされる。


「んな顔すんな。飯食え」
「……はぁい」


ぶすーっとしながらテーブルに並んだ目玉焼きを食べる。


「お兄ちゃん、これしょっぱいよ?」
「あぁ? 文句言うなら食わせねぇぞ」
「やだ!」
「じゃあ食え」
「うー……」


すごくしょっぱかったけれど、なんとか食べ終えると着替えて来いと言われた。
でもお洋服の場所が分からずキョロキョロしていると、洗い物を終えたお兄ちゃんが俺の手を引きながら部屋に連れていく。適当に出されたお洋服に無事着替え終わると、どこかに電話していたお兄ちゃんが出かけるぞ、と言った。

お外に出るとタクシーが止まっており、そこに乗れと言うお兄ちゃんの言葉に従う。
お兄ちゃんがおじさんになにかを告げると、タクシーは動き出した。

しばらく走りつづけたタクシーは、大きな病院の前に止まる。
先に降ろされた俺はキョロキョロ辺りを見回していたが、すぐやって来たお兄ちゃんのあとを追って歩き出す。

色んな人がお兄ちゃんを見て驚いてたり、顔を真っ赤にしていたりしたけれど、お兄ちゃんはそんなもの気にしてないみたいに歩いていた。たまに俺のほうに振り返り、居るかどうか確認してるみたいなのが、すごく嬉しい。


「朝日向小虎さーん、どうぞー」
「おら、行くぞ」


ソファーの並んだ場所でしばらく待っていると、お兄ちゃんが立ち上がる。
お兄ちゃんのあとをついていくと、そこには――、


「拓美お兄ちゃん!」


俺の大好きな拓美お兄ちゃんがいた。


「小虎くん……? 君……」
「拓美お兄ちゃん! 見て、お兄ちゃんとお出かけなの!」
「……そう、お兄ちゃんとお出かけなんだ。良かったね?」
「うん!」


拓美お兄ちゃんに近寄り、いつものように白衣を握ると、後ろからグイッと引っ張られた。
びっくりしてバランスを崩す。転ぶと思ったけれど、お兄ちゃんが俺を支えてくれていた。


「……君が小虎くんのお兄さん、だね?」
「あぁ。それよりアンタ、これ、どういうことか分かってんだろ?」
「……話せば長い。あと二時間、すまないが待っててくれるかい? 下に食堂があるし、庭を散策していてもいいよ」
「分かった。庭にいる」


行くぞ。というお兄ちゃんの言葉にしぶしぶ白衣から手を離すと、拓美お兄ちゃんは笑顔でまたあとでね、と手を振ってくれた。
お兄ちゃんと二人、途中で買ってもらったジュースを飲みながら庭のベンチに腰掛ける。
お兄ちゃんは怖い顔をして煙草を吸っていたけど、俺が悲しい顔をするたび頭を撫でてくれた。

しばらくして、拓美お兄ちゃんがやって来た。


「待たせて悪かったね。部屋を用意したから、そっちに移動しようか」
「拓美お兄ちゃん、今日はお薬飲まない?」
「ん? うん。小虎くんはもう健康だから、お薬飲まないよ。代わりに飴をあげる」
「ほんと? じゃあ大丈夫!」


にっこり笑う拓美お兄ちゃんが頭を撫でてくる。嬉しくて抱き着こうとすると、また後ろから引っ張られた。
さっきより怖い顔をしたお兄ちゃんが拓美お兄ちゃんを睨んでいたけれど、俺は分からずに首を傾げた。

それから拓美お兄ちゃんについていき、どこかの部屋につくなり絵本と飴を渡された。
俺は嬉しくて近くの椅子に座り、そっと絵本を開く。
そんな俺の隣に座ったお兄ちゃんと俺の前には、拓美お兄ちゃんがお茶を置いてくれた。

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