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接触 2
しおりを挟む「……え?」
「おい、玲央っ」
一体なにが起きているのだろうか。俺の視界には焦ったようにあとをついてくる隆二さんの姿と、呆然とこちらを見ている人々の姿。腰辺りをがっちり押さえたなにかが、ひどく温かい。
あぁ、俺。兄に抱えられてるんだ。
「玲央、どこに連れていく気だ」
「あ? 返しに行くんだよ。ゴミ箱に」
「は? お前……やめろ、仁さんに殴り飛ばされるぞ」
「上等」
兄と隆二さんの会話が聞こえる。俺はどんな表情をしていいのか分からず隆二さんを見ると、彼は困ったように微笑んでくれた。それを見てしまえば、なんだか急に嬉しくなって俺も微笑んでしまう。そう、嬉しい、嬉しいのだ。
兄がこんなに話しているのを、俺は初めて聞いているのだから。家にいれば罵声しか飛ばしてこない兄が、友人だろう隆二さんと会話を交えている。それはなんだか俺の知らない兄の姿を見ているようで、堪らなく嬉しい。
「……ははっ、おい小虎、お前抱えられてんのに笑ってんなよ。変なやつ」
そんな俺がおかしかったのか、隆二さんがあの無邪気な笑みでそう言った。
なにか間違ったことをしたような気分になって落ち込むと、急に視界が大きくブレた。
「あ? 笑ってねぇじゃん」
「……」
気が付いたときには兄の顔。今のセリフから考えるに、どうやら兄は俺の笑顔を見ようとしたらしい。なんで?
「玲央の顔が怖いんだろ」
「は? ぬかせ」
さきほどまで険悪なムードの中心であった二人が、今は嘘のように親しげに話している。
きっと、それは互いに心を許しているからなのだろう。……俺と雄樹も、こんな感じなんだろうか。
「……あ」
雄樹、そうだ雄樹。あいつ玲央のこと嫌いって言ってたじゃん。そうだよダメだ。雄樹と兄を会せたら、きっとまずい。
慌てて止めようと体を揺するが、場所はすでにエレベーターの中だった。瞬間移動でもしてしまったのだろうかと疑うが、そんなはずはないと冷や汗を浮かばせる。
やばい、やばい、やばい。
しかし無情にもB4のランプは点灯し、エレベーターはカシストの出入り口へ道を開いた。
「いらっしゃ……」
客が来たかと思った仁さんが挨拶をするが、それが最後までつづくことはなかった。
俺は脇に抱えられたままで、店内のほうには尻を向ける形になっていたのでその表情まではうかがえない。
「……おいおい、隆二。いつでも来いとは言ったが、厄介事を持って来いとは言ってねぇぞ? 一言も、なぁ?」
「すみません仁さん、ちょっと……説明し辛いんですけど……」
「……ったく」
仁さんと隆二さんの声が聞こえる。俺の視界では今まさにエレベーターが閉じられていくところだった。
「トラちゃんっ!」
「……雄樹?」
兄に逆らうこともできずに抱えられていれば、一際大きな叫び声。聞き違えるはずもない、友人の声だった。
「てめぇ、トラを離せ」
「はっ、ほんとにいやがった。相変わらずうっせー子犬だな、てめぇは」
「あぁ゛? ふざけたことぬかしてんじゃねぇよ。トラを返せ」
やはり、だ。雄樹はいつぞやのように兄に喧嘩を売っている。友達として恰好いいとは思うが、正直、相手を見て喧嘩を売れ、雄樹。
ふと、俺はさきほどまで全身を覆っていた不安が消えていることに気がついて困惑した。
なんだろ、今の状況が思わしくないことは分かる。分かっているんだけど……そう、なんか。なんか、嬉しい。
だって、そうだろ? 俺の居場所であるカシストに、優しい隆二さんと、いつもは見られない兄がいるんだ。
雄樹と仁さん、兄貴と隆二さん。その四人が、ここ、カシストにいる。
それって多分……すごいことなんだ。
なぜか緩みそうな口元に疑問を覚えていれば、俺の体には痛みが走る。そっと目を開ければ、どうやら床に落とされてしまったらしい。見上げてみれば、俺のほうなど見もしない兄の姿。
「勘違いすんな、これを返しに来ただけだ。バイトしようがなんでもいいけどな、俺の視界に入れんじゃねぇよこんなゴミ」
「あぁ゛!?」
急にまとう空気が変わった。そう思う俺には怒りをあらわにする雄樹の声がなんだか遠くて……。
それよりも、こちらを見もしない兄の姿が悲しくて、辛い。
「行くぞ、隆二」
「……あぁ」
踵を返し、エレベーターのほうへ行ってしまう。あぁ、もう行ってしまうのか。
なぁ、次はいつ帰ってくる? なぁ、いつになったら俺の飯、食ってくれる? なぁ、なんで……なんで俺のこと、殴るの?
「……に、き」
無意識だった。無意識に呼んでいた。兄貴、と。聞こえるはずもない。のに、それなのに、兄は足を止め、俺のほうを振り返る。
「……ごめ、ん……黙って、バイト、して……ごめん、なさい」
違う、こんなこと、言うつもりもなかった。媚を売ってるわけじゃない。違うんだ。でも、でもお願いだ。聞いてくれ。
「……ありが、とう」
バイト、許してくれて、ここに俺のこと送ってくれて、
「ありがと……」
多分、醜かったと思う。それくらい、ひどい笑顔を浮かべていたと思う。だけど兄は睨みもせず、ただ俺を見つめていた。それがなんだか許された気がして、俺はもっと口元を緩めてしまう。
あぁ、なんて今日は良い日なんだろう。
◇◇◇◇◇
「……」
「……」
「あのー……いい加減なにか言ってくれません?」
あのあと、兄はなにも言わず隆二さんとデスリカに戻っていった。
仁さんは床に座り込む俺をカウンター内に引きずりこみ、雄樹は怒りで仕事をボイコット。つまり、最悪な状態だった。ということである。それから早々と店じまいをして、俺と雄樹はカウンターチェアに、仁さんはカウンター越しで煙草を咥え、睨み続けている……なんていう状態が続いている。
「意味分かんない」
「え?」
「なに、ありがとうって。おかしいでしょ、トラちゃん馬鹿じゃないの」
「……うん、俺は馬鹿だな」
頬杖をついている雄樹が俺の方を見ずに言い放つ。否定することもできずに頷けば、その顔がこちらを向いた。
「なんで否定しないのさ! 言い訳もしないわけ!? ねぇ、トラちゃんだって怒る権利あるんだよ!?」
「え、怒るって……なにに?」
「んなの玲央さんに決まってんだろうがっ!」
ガンッ! 怒りにまかせて雄樹がカウンターを蹴った音が響く。それを仁さんが舌打ちで制すると、ふてくされたように雄樹が煙草を吸い出した。
「……おい、トラ。いくつか聞くが、いいな?」
「え……はい」
いいな? そう聞いてはいたが、初めから選択肢などなかった。有無を言わせない威圧感に俺は頷くことしかできない。
「お前、玲央から暴力受けてんの?」
「……いや、じゃれあい……てきな」
「ふーん? じゃれあいで、ゴミ呼ばわりか?」
「……ほら、あの人って、そういう人だし」
「へー……?」
「……」
チクチクとなにかが俺の全身を刺してくる。ドッと汗が浮かんできたのは、なにも仁さんから発せられるオーラのせいではない。
この質問で間違いを犯してしまえば、免れることのない最悪な事態がくるからだ。
「お前さ、殴られるとき自分が悪いと思うか?」
「は? いや……それはないですけど」
「……そうか」
不思議な質問に困惑する。だけど暴力を肯定した自分の言葉に、そっと拳を握った。びっしょりと、汗が浮き出ている。
「……なに言ってんの。ねぇ、トラ、自分がなに言ってるか、分かってんの?」
「雄樹?」
俺と仁さんのやり取りを見ていた雄樹がおもむろに口を開く。いつぞやの、瞳孔を開き切った双眸が俺を見つめていた。
「ねぇ、トラ、俺や不良が喧嘩するのと、玲央さんがトラを殴るのは違うんだよ? 意味が全然違うんだよ? ね、それ分かってんの? なぁ、分かってんのかよっ!」
「……ゆ……き?」
「――雄樹っ!」
壊れた玩具のような、恐ろしく表情の消え去った雄樹が俺に言ってきた。その言葉の意味を理解しようと頭を働かせるが、脳はそれを拒否している。そんな俺と雄樹を見ていた仁さんが、焦ったように声をあげる。その声により、俺の脳は言葉の意味から目を逸らした。
「止めろ雄樹、トラが困ってる」
「……」
仁さんの静かな声が、雄樹を制す。
雄樹は慌てたように目を向けるが、俺は俺で混乱しそうな自分を制御するので一杯だった。
「……でも、違うんです」
でも、言わなきゃいけない。勝手に停止した脳なんてほっといても、言わなきゃいけないことがある。
「確かに、兄貴は一般的な兄とはかけ離れた存在です。けど、俺には最後の家族だ。……それに、俺は自分が悪いだなんて思ってない。いつか、必ず謝らせる。それだけは決めてます」
ゆっくりと、でも確かにはっきりと、俺は雄樹と仁さんに発した。
その言葉がひどく幼稚なものでも、きっとこれ以上なんてない。
そう、俺はなにも兄の暴力を受け入れているわけではない。本当は痛いし、泣きたいし、嫌だし、辛い。けど暴力を受けることに慣れてしまったせいか、それに抵抗する術も気もなくて、いつも殴られてしまうけど。
本当は憎んでいたりもする。記憶にないお袋に苦労させた兄貴のことを。でも、だからって人殺しだと指をさすつもりはない。
「今はまだ高校生だし、バイトしかできねぇけど。いくら時間がかかるかも、正直分からないけど、でも、玲央の元から早く巣立って、一人前になる」
そのときこそ、俺は――
「玲央に、謝罪をさせるために一人前になるんです」
きっと、はじめて胸を張れるんだ。
そう言い終え、仁さんと雄樹を見れば、二人は目を丸くしたまま口も開けて固まっていた。
アホな雄樹のアホ面は毎度のことだが、仁さんのアホ面なんか初めてだから、笑いそうになってしまう。
「……トラちゃんって、馬鹿だよね」
「……本当、どこからそんな考えできんの、お前」
え?
アホ面の二人から意味の分からないことを言われ、俺までアホ面になってしまう。
なにかおかしなことでも言ったのだろうか?
「はー……ま、安心しろよ。なにもお前と玲央を引き離そうってわけじゃねぇ。ただな、お前がやばい状態だったら、まぁ、殴るくらいはしてたかもな」
「俺を!?」
「玲央を、だ!」
仁さんの言葉に思わず突っ込んでしまえば、なぜか額にデコピンを食らう。地味に痛い。
「あー……ね、トラちゃん、ごめん。俺、色々ひどいこと言った」
「うん? 安心しろ、お前はいつものことだ」
「がーん! トラちゃんひどーい!」
ケラケラ。雄樹がいつものように笑う。その姿に力が抜けて、俺はオレンジ色の頭を撫でてやる。よしよし、お前はアホだな。アホでいろ、雄樹。
「ねぇトラちゃん、俺、トラちゃんが嫌ならデリバリーやる。そしたらトラちゃん、もっと笑ってくれる?」
「ばぁか。もう平気だよ、兄貴がいたって大丈夫。殴り返すことはできないけどさ、ちゃんと自分の足でここに帰ってくる」
「……でもさっきまで抱えられてたじゃん」
「いいか、雄樹。人は失敗してこそでかくなれる。誰かが言ってた」
受け売りかよ! 雄樹の突っ込みがビシリと入るが、それでも今の俺はなんでも許せる気分だった。
きっと、安心しているのだと思う。
兄貴にバレてしまった時点で、俺はひどく殴られ、外界と遮断されると思っていた。
むしろ兄貴が俺に暴力をふるい続けていたのなら、日常的に暴力を受けていることが社会にばれ、唯一の血縁者と離ればなれになると思っていたのだ。でも、現実は違った。俺はカシストにいて、隣には雄樹がいて、それを見守ってくれる仁さんだっている。
デスリカにいけば隆二さんだっているし……兄貴だっている。
それがどんなことをも笑って許せるくらい、心地がよかった。
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