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二章

29、許さへん【2】

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 拘束してくる蒼一郎さんの腕から、なんとか逃れて、わたしは築地塀に体を寄せました。

 さっきまでわたしがいた空間が、ぽっかりと彼の腕の形に残っています。
 蒼一郎さんは、どこかが痛むように眉をひそめました。

「……大丈夫なんか」
「平気です。倒れたわけじゃないですから」

 あなたが怖くて膝の力が抜けたなんて、言えるはずがありません。ええ、口が裂けても。

 蒼一郎さんと出会って、さほど経っていないけれど。見た目は怖くとも優しい人なのだと思っていたの。でも本質はそうじゃないんだわ。

 この人は、わたしとは違う世界に生きる人。甘ったれた女學生なんかの側にいるべき人じゃないわ。

「ごめんなさい。わたしのことは、もういいんです」
「ええって……どういうことや。俺と歩くんが嫌やったら、俥を使つこたらええ」
「そういうことじゃないの」

 さっきまでの空恐ろしい雰囲気は、今の蒼一郎さんからは消えていました。
 
◇◇◇

 どうやって家まで戻ったんか覚えてへん。
 絲さんがうちから出ていくと聞かされて、カッとなって。けど、俺のせいで絲さんは地面に頽れてしもた。

 俺、知らん間にあの人になんかしてしもたんやろか。
 暴力はふるてへん。それは分かるけど。明らかに絲さんは俺を怖がってしもとう。

 庭を眺めながら外廊下を歩く俺の後ろを、絲さんがとぼとぼと着いてくる。

 いつまでも座敷でお客さん扱いもあかんやろと思て、絲さんの部屋も用意させたのに。
 次の休みには、絲さんと一緒に百貨店に行って、必要なもんを買おうと思とったのに。

「……あかんのか」

 俺はぽつりと呟いた。
 
 今、庭に面した座敷は、絲さんが使つこてる。俺の部屋は別にあるけど、彼女と離れがたくて一緒におるけど。
 これも迷惑なんやろか。
 そら、迷惑やな。俺は絲さんの処女を無理やりに近い形で奪ったんやから。

 濡れ縁にあぐらをかいて、ぼうっと池を眺める。もう桜には遅いし、月見にも紅葉にもまだ早い。
 池の舟に絲さんを乗せてやりたかったな。
 規則の厳しそうな寄宿舎には、そんな風情のあるもんはないやろ。

カシラ。みかじめ料を徴収してきました」

 若中わかちゅうの一人が、遠慮もなしに襖を開けた。
 今、それを持ってくるんか。時機、悪すぎやろ。

 とはいえ、こいつも仕事をこなしているだけだ。俺は重い腰を上げた。
 
 みかじめ料か。如何にもヤクザやな。
 三條組は俺の代になってから、人身売買や賭博からは手を引いた。
 うちのシマに入ってくる阿片も一掃したいのに、それはまだ完全にはできてへん。

 いずれそれぞれの組員が正業を持って、自立出来たらええと思うのは。考えが甘いんやろか。

 俺が座敷に戻ると、絲さんは畳に横になって眠っていた。
 ほら、疲れが出とるやんか。

「せめて浴衣に着がえぇや。それが出来んのやったら、着物くらい脱がな」

 残念ながら布団は敷いていない。
 俺は絲さんの袴を脱がせて……ここ最近で女袴の脱がせ方が手慣れてきた気がする……いや、そうやのうて。
 とりあえず苦しくないように長襦袢姿にさせた。

 目が覚めたらきっと絲さんは嫌うやろけど。膝枕をしてやった。
 ああ、小そうて軽い頭やな。片手で握り潰せるんとちゃうか……って、こんな物騒なことを考えるから、絲さんに嫌われるんや。

 野蛮で粗野で武骨で。俺は、お嬢さん育ちの絲さんと何一つ釣り合わへん。
 なんで、そんなことに気ぃつかんかったんやろ。
 なんで「好き」って言うてもらえただけで、この人が自分のもんになったって思たんやろ。

 今、ここにおってくれるだけでも天にも昇るくらい嬉しいのに。
 俺はほんまに欲張りや。

「ごめんな。もっと俺が絲さんに相応ふさわしかったら、送り迎えもさせてもらえたし。ここにもおってくれたのにな」
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