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二章

25、登校【3】

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「ほんで、あれが絲さんが大好きなおやつ。やろ?」

 蒼一郎さんが指さす先には、赤紫の点に見える花をつけた木。築地塀の外の躑躅です。

「おやつじゃないです」
「なんで? 好きやんか」
「躑躅の蜜は、飲み物なの」

 わたしはいつしか微笑んでいました。蒼一郎さんがわたしの機嫌を取ってくれているのが、伝わって来たから。

「やれやれ。手のかかるお嬢さんやで」と言いながら、肩をすくめる蒼一郎さん。その背後には、空との境目が曖昧な春の海が見えています。

 潮の匂いと、どこからか甘い花の香りが漂ってきます。

 蒼一郎さんは、ヤクザの組長さんで、黙っていると怖そうな人だけど。本当はとても優しい人なんだわ。
 わたしは、隣にしゃがむ彼を見上げました。

「そないに見つめられたら、穴が開くやんか」
「減るものではないから、いいの」
「ふーん。減らんのはええな。まぁ、俺の方は登校中やからやめといたろか」

 蒼一郎さんが思わせぶりなことをおっしゃいます。「何ですか」と、灰紫の羽織の袖を掴んでも、何が減らないのか教えてくれません。

「あら、絲さん。ごきげんよう」

 朗らかな声で呼びかけられて、わたしは顔を上げました。学友の町さんです。おでこを出して前髪を高く結い上げた庇髪ひさしがみを、なさっています。
 うちの学校にしては派手な髪型です。

「水浦さんもごきげんよう。今朝は随分と洒落た着物なのね……って、あら? ごめんなさい。人違いね」
「水浦って、あの書生のか」

 蒼一郎さんの言葉に、町さんはこくりと頷きます。人見知りをしない性質なのか、一見すると怖そうな蒼一郎さんに気後れしていないご様子。

「絲さんは早引けすることが多いから。時間が合えば、水浦さんが迎えに来ることがあるのよ。ところで貴方は?」
「三條蒼一郎。絲さんを預かっている」

 町さんは、突然目を大きく見開きました。そして、わたしの腕を掴んだの。

「なんですか? 痛いですよ」
「駄目よ、絲さん。三條っていったら極道じゃないの。遊郭に売られて、阿片漬けにされてしまうわ」

「なんでやねん」と、蒼一郎さんが明らかに不機嫌な声を出します。

「人身売買なんかせぇへんし。阿片かて、下っ端が取り引きせんように、今目ぇ光らせとうとこや。その内、阿片も入って来んようにする」

 町さんは目をすがめて、蒼一郎さんを吟味するように見据えています。
 あの、相手はヤクザの組長ですよ。
 あまり喧嘩を売るような真似はしない方が。

「わたしの予想では、絲さんは阿片漬けにされて、荒縄で縛り上げられて、水車に括りつけられて拷問されるのよ」

 びしっと蒼一郎さんを指さして、町さんは高らかに宣言しました。いえ、高らかというのは変ですけど。
 庇髪には一筋の乱れもないのに、町さんの着物の袂は風にひらめいています。

「いや、せぇへんけど。そもそも水車って……あぁ、あんたが元凶か」
「元凶? 失礼でしてよ。じゃあ、きっと蛇責めにするんだわ」

「なんでやねん」と蒼一郎さんが呆れたように呟きました。
 ひらひらと呑気そうに紋白蝶が飛んでいきます。

「なぁ、絲さん。あんたんとこのミッションスクールは、躾が厳しすぎて、お嬢さんらは何か鬱屈でも溜めこんどんのか?」
「シスターは厳しいですけど。どうしてですか?」

「なんか……縛るとか拷問とか、興味津々やん。俺はよう知らんけど、旧約聖書とかは、割といろいろ書かれとんやろ。あと魔女裁判はえげつないとか」

 思いがけない指摘に、わたしと町さんは顔を見合わせました。

――わたし達って、そういうことに興味津々なの?
――あら、絲さん。たしなみ程度よ。殿方がお酒をたしなむようなものだわ。

 本当にそうかしら? わたしは首を傾げてしまいました。
 でも、そんな嗜虐趣味の人なんてそうそういませんよね。想像や妄想の世界のことですよ、きっと。
 ええ、わたしの人生には無関係です。
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