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俺と彼女の、未来をかけた戦い
草飼の本心
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遊園地を出た俺は、駅に向かうことなくフラフラと歩道を歩き続けていた。
何時間歩いただろう。
時間の感覚がなくなっている。空はすでに真っ暗。このまま太陽が昇らなければ俺は時間に取り残されることができるかもしれない、記憶の中で生きることができるかもしれない、なんてバカなことまで考え始めた。
「あー、つら」
さすがに疲れて、目の前にあった公園に足を踏み入れる。ボール遊び禁止! 騒ぐの禁止! と書かれた寂れた公園だ。ブランコと滑り台の塗装は剥がれかけている。ワイファイくらい飛ばさないと子供たちはこんなとこに集まってこないぞ。
この公園は、これから否応なしに忘れ去られていくだけの、俺と吉良坂さんの過ごしてきた時間みたいだ。
だから俺はここにたどり着いたのかもしれない。
公園の隅、点滅を繰り返す街灯に照らされている木のベンチに腰掛ける。どうすればよかったのかと考え、どうすることもできなかったと諦める。こんな身体に産まれてしまったことを、神様を恨むしかないのだろう。
「……あ」
そのとき、公園がクルマのヘッドライトに照らされた。
眩しくて思わず目を細める。
「れは……」
公園の入り口前の道路で止まったその車から、一人の女性がおりてきた。
紺色のスカートに白いエプロン。
古風なメイド服を華麗に着こなしている草飼さんが、まっすぐこちらに向かって歩いてきていた。
「お探ししておりました。負け犬――宮田下様」
「なんだよ。エロメイド」
草飼さんに悪態をついても現実は変わらないのに。
「否定しないということは、それを認めるってことでよろしいですか?」
「なに言ってる? 俺は宮田下だぞ」
俺の身体じゃ勝負に挑めないんだから、一度は勝負を挑んだ負け犬と比べたら失礼だろ。
「そうでしたね。これは失礼いたしました」
「ってかどうして俺がここにいるってわかったんだよ」
俺だってここがどこかわからないのに。
「それは、宮田下様の靴に前もってGPSをつけていたからです」
「へぇ、全然気づかなかったわ」
「驚いたりツッコんだりしてくれないのは残念ですが、設置に気づかれるようなヘマはいたしません。なんせ私は優秀ですから。設置は大得意ですから」
「それ意味わかんねぇから」
「だったら試してみますか? 私のせっち」
スカートをたくしあげようとした草飼さんを完全に無視して、俺はGPSが設置されているという靴に視線を落とす。
「でももうこのGPSも必要ないな。あんたらにかかわることがなくなるんだから」
俺は『あーした天気になーれ』の要領で靴を両足とも蹴飛ばした。どっちも靴底を上に向けて着地する。雨かよクソが。せめて晴れろ。
「さっきからなにをそんなにやさぐれているんですか?」
「明日から前を向いて生きるためだから、ほっといてくれ」
「できもしないのにですか?」
「未来は誰にもわからないだろ」
「そんなに元気がないようなら、私のおっぱい揉みますか?」
「するわけないだろ」
「だったら、私の身体を好きにする権利をあげましょう」
草飼さんが親指と人差し指で輪を作って、それを口に近づける。
「どうですか? 殿方を気持ちよくするテクニックにもスタイルには自信があります」
「だから設置もエッチもするわけないだろ」
「誰かを忘れるために他の誰かの身体で上書きをする。男女問わず多くの大人が使っている有益な手段ですよ。明日から前を向きたいんですよね?」
「俺はそんな悲しい大人になりたくない」
「後悔や虚しさを抱えずに大人になれると思っているなんて傲慢です。それらを乗り越えた気になっている大人と同じくらい」
それに私を拒むなんて世の男が黙っちゃいませんよ、と草飼さんの目が哀れみの色に変わる。
「だったら、その世の男たちとやらを満足させてやればいいだろ」
「帆乃様の身体でないとだめだと、そういうことですか」
「だから思い出させないでくれよ!」
俺は立ち上がって草飼さんを睨みつけた。
靴下を通して、踏みつけた小石の感触が伝わってくる。
「忘れることなんてできないくせに」
眉間に皺を寄せた草飼さんは表情ひとつ変えずに続ける。
「お嬢様はいま、結婚相手と、そのご家族と会食中です。この会食で正確に婚姻が決まる予定です」
そんなことわざわざ伝えにきたのかよ!
性格悪いな!
胸が張り裂けそうだよ!
「そうか。それはよかったな」
「はい。これで吉良坂家は安泰です」
「で、どうしてそれをわざわざ俺に伝える?」
「別に、他意はありません」
「ならもう帰れよ。最悪な気分だ」
俺は崩れ落ちるようにベンチに座り直し、膝の上の握り拳を見つめた。帰れと言ったのに、視界の上の方に映っている草飼さんの足は一向に消えない。
「……俺になにかしてほしいのかよ?」
「さぁ、どうでしょうね?」
「婚約を破談にしたいなら自分でなんとかすればいいだろ? 優秀なメイドさん」
「私は婚約を破談にしたいとは一言も言っておりませんが」
「ほんと、性格悪いなお前」
「誉め言葉として受け取っておきます」
ただ、と草飼さんが続ける。
「もし今回の婚姻をどうにかして破談にできたとしても、どうせまた次の婚姻が決まるだけです。意味がありません。同じことの繰り返し。しかも今回の件は帆乃お嬢様が納得されていることですから、そもそも破談にする理由もありません」
「あんたはそれでいいのかよ? さっきからあんた自身は納得いってないみたいに話してるけど」
「私は吉良坂家に仕えるメイドです。吉良坂家としての決定に従います」
「都合のいい解釈だな」
「メイドができるのは身の回りのお世話だけです。ご主人様の決断を見守り、尊重し、いってらっしゃいませと、見送るだけの弱い存在です」
それに……と、意味ありげに呟いてから、草飼さんは冷笑を俺に向けた。
「こんなところでうじうじグタグダしてる男より、お金持ちでイケメンて将来有望な男と結婚した方が、絶対に帆乃お嬢様は幸せになる。しかも次男ですので婿養子になってくれる」
「誰も対抗馬が俺だとは言ってないんだが」
「私はただ事実を述べているだけです」
「じゃあこのままでいいだろ。吉良坂さんもこれを受け入れている」
「受け入れると望んでいるは違いますけどね」
「それは単なる屁理屈だ。そもそも俺にはなにもできない。相手は申し分ないスペックで、なにより子供をちゃんと産める。文句のつけようがないだろ」
そう。
俺が入り込む余地がない。
なにもかも負けている。
「そうですね。あなたと春中由隆様ではなにもかもが違います」
ああ、春中由隆っていうのか、相手の名前。
ムカつくくらい爽やかな名前だな。
「ですが、負けているからといって諦めるのですか?」
「諦めるもなにも……俺は世の中のすべての男に、男としての能力が劣ってるんだ」
――好きな人と結婚して、子供は二人、男の子と女の子。休日に家族と出かけたり、毎日夕飯を一緒に食べたり、そんな普通の幸せに、私はすごく憧れている。
吉良坂さんは子供と旦那さんと幸せに暮らしたいと言った。
それは本当の願いのように思えた。
それが叶えられない俺は、きっと吉良坂さんの相手として適さない。
「男としての能力……ですか。たしかにいまのあなたは男ではないですからね。どんな男を見ても興奮してしまう私が興奮していないのがその証拠です」
「だろ? つまりそういうことだ」
「なんですかいまの返しは? 本当に幻滅しました」
眼を鋭くした草飼さんは、そんな自分をなだめるようにふぅーっと息を吐き出すと、俺の隣に座った。
「これは、とある女の子の昔話なのですが」
その声には、有無を言わさぬ威圧感があった。
口を挟むな、いいから聞けと、強制されているように感じた。
何時間歩いただろう。
時間の感覚がなくなっている。空はすでに真っ暗。このまま太陽が昇らなければ俺は時間に取り残されることができるかもしれない、記憶の中で生きることができるかもしれない、なんてバカなことまで考え始めた。
「あー、つら」
さすがに疲れて、目の前にあった公園に足を踏み入れる。ボール遊び禁止! 騒ぐの禁止! と書かれた寂れた公園だ。ブランコと滑り台の塗装は剥がれかけている。ワイファイくらい飛ばさないと子供たちはこんなとこに集まってこないぞ。
この公園は、これから否応なしに忘れ去られていくだけの、俺と吉良坂さんの過ごしてきた時間みたいだ。
だから俺はここにたどり着いたのかもしれない。
公園の隅、点滅を繰り返す街灯に照らされている木のベンチに腰掛ける。どうすればよかったのかと考え、どうすることもできなかったと諦める。こんな身体に産まれてしまったことを、神様を恨むしかないのだろう。
「……あ」
そのとき、公園がクルマのヘッドライトに照らされた。
眩しくて思わず目を細める。
「れは……」
公園の入り口前の道路で止まったその車から、一人の女性がおりてきた。
紺色のスカートに白いエプロン。
古風なメイド服を華麗に着こなしている草飼さんが、まっすぐこちらに向かって歩いてきていた。
「お探ししておりました。負け犬――宮田下様」
「なんだよ。エロメイド」
草飼さんに悪態をついても現実は変わらないのに。
「否定しないということは、それを認めるってことでよろしいですか?」
「なに言ってる? 俺は宮田下だぞ」
俺の身体じゃ勝負に挑めないんだから、一度は勝負を挑んだ負け犬と比べたら失礼だろ。
「そうでしたね。これは失礼いたしました」
「ってかどうして俺がここにいるってわかったんだよ」
俺だってここがどこかわからないのに。
「それは、宮田下様の靴に前もってGPSをつけていたからです」
「へぇ、全然気づかなかったわ」
「驚いたりツッコんだりしてくれないのは残念ですが、設置に気づかれるようなヘマはいたしません。なんせ私は優秀ですから。設置は大得意ですから」
「それ意味わかんねぇから」
「だったら試してみますか? 私のせっち」
スカートをたくしあげようとした草飼さんを完全に無視して、俺はGPSが設置されているという靴に視線を落とす。
「でももうこのGPSも必要ないな。あんたらにかかわることがなくなるんだから」
俺は『あーした天気になーれ』の要領で靴を両足とも蹴飛ばした。どっちも靴底を上に向けて着地する。雨かよクソが。せめて晴れろ。
「さっきからなにをそんなにやさぐれているんですか?」
「明日から前を向いて生きるためだから、ほっといてくれ」
「できもしないのにですか?」
「未来は誰にもわからないだろ」
「そんなに元気がないようなら、私のおっぱい揉みますか?」
「するわけないだろ」
「だったら、私の身体を好きにする権利をあげましょう」
草飼さんが親指と人差し指で輪を作って、それを口に近づける。
「どうですか? 殿方を気持ちよくするテクニックにもスタイルには自信があります」
「だから設置もエッチもするわけないだろ」
「誰かを忘れるために他の誰かの身体で上書きをする。男女問わず多くの大人が使っている有益な手段ですよ。明日から前を向きたいんですよね?」
「俺はそんな悲しい大人になりたくない」
「後悔や虚しさを抱えずに大人になれると思っているなんて傲慢です。それらを乗り越えた気になっている大人と同じくらい」
それに私を拒むなんて世の男が黙っちゃいませんよ、と草飼さんの目が哀れみの色に変わる。
「だったら、その世の男たちとやらを満足させてやればいいだろ」
「帆乃様の身体でないとだめだと、そういうことですか」
「だから思い出させないでくれよ!」
俺は立ち上がって草飼さんを睨みつけた。
靴下を通して、踏みつけた小石の感触が伝わってくる。
「忘れることなんてできないくせに」
眉間に皺を寄せた草飼さんは表情ひとつ変えずに続ける。
「お嬢様はいま、結婚相手と、そのご家族と会食中です。この会食で正確に婚姻が決まる予定です」
そんなことわざわざ伝えにきたのかよ!
性格悪いな!
胸が張り裂けそうだよ!
「そうか。それはよかったな」
「はい。これで吉良坂家は安泰です」
「で、どうしてそれをわざわざ俺に伝える?」
「別に、他意はありません」
「ならもう帰れよ。最悪な気分だ」
俺は崩れ落ちるようにベンチに座り直し、膝の上の握り拳を見つめた。帰れと言ったのに、視界の上の方に映っている草飼さんの足は一向に消えない。
「……俺になにかしてほしいのかよ?」
「さぁ、どうでしょうね?」
「婚約を破談にしたいなら自分でなんとかすればいいだろ? 優秀なメイドさん」
「私は婚約を破談にしたいとは一言も言っておりませんが」
「ほんと、性格悪いなお前」
「誉め言葉として受け取っておきます」
ただ、と草飼さんが続ける。
「もし今回の婚姻をどうにかして破談にできたとしても、どうせまた次の婚姻が決まるだけです。意味がありません。同じことの繰り返し。しかも今回の件は帆乃お嬢様が納得されていることですから、そもそも破談にする理由もありません」
「あんたはそれでいいのかよ? さっきからあんた自身は納得いってないみたいに話してるけど」
「私は吉良坂家に仕えるメイドです。吉良坂家としての決定に従います」
「都合のいい解釈だな」
「メイドができるのは身の回りのお世話だけです。ご主人様の決断を見守り、尊重し、いってらっしゃいませと、見送るだけの弱い存在です」
それに……と、意味ありげに呟いてから、草飼さんは冷笑を俺に向けた。
「こんなところでうじうじグタグダしてる男より、お金持ちでイケメンて将来有望な男と結婚した方が、絶対に帆乃お嬢様は幸せになる。しかも次男ですので婿養子になってくれる」
「誰も対抗馬が俺だとは言ってないんだが」
「私はただ事実を述べているだけです」
「じゃあこのままでいいだろ。吉良坂さんもこれを受け入れている」
「受け入れると望んでいるは違いますけどね」
「それは単なる屁理屈だ。そもそも俺にはなにもできない。相手は申し分ないスペックで、なにより子供をちゃんと産める。文句のつけようがないだろ」
そう。
俺が入り込む余地がない。
なにもかも負けている。
「そうですね。あなたと春中由隆様ではなにもかもが違います」
ああ、春中由隆っていうのか、相手の名前。
ムカつくくらい爽やかな名前だな。
「ですが、負けているからといって諦めるのですか?」
「諦めるもなにも……俺は世の中のすべての男に、男としての能力が劣ってるんだ」
――好きな人と結婚して、子供は二人、男の子と女の子。休日に家族と出かけたり、毎日夕飯を一緒に食べたり、そんな普通の幸せに、私はすごく憧れている。
吉良坂さんは子供と旦那さんと幸せに暮らしたいと言った。
それは本当の願いのように思えた。
それが叶えられない俺は、きっと吉良坂さんの相手として適さない。
「男としての能力……ですか。たしかにいまのあなたは男ではないですからね。どんな男を見ても興奮してしまう私が興奮していないのがその証拠です」
「だろ? つまりそういうことだ」
「なんですかいまの返しは? 本当に幻滅しました」
眼を鋭くした草飼さんは、そんな自分をなだめるようにふぅーっと息を吐き出すと、俺の隣に座った。
「これは、とある女の子の昔話なのですが」
その声には、有無を言わさぬ威圧感があった。
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