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俺と彼女の、未来をかけた戦い

帆乃お嬢様

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 吉良坂さんからぎゅってされたのは何度目だろう。

 俺がぎゅってしたのはさっきぶりの二度目だが、二人して正面を向いて抱きしめ合ったのは初めてな気がする。

 これまでとは一線を画しているこの抱擁は暖かくて、気持ちよくて、柔らかくて、寂しい。

 吉良坂さんは俺の胸に必死で顔を押しつけている。

 どんどん強くなる包容力に俺も負けじと答えた。

 離したくなんかなかった。

「おいおい抱き合ってるよあのカップル」
「こんな公衆の面前で……」

 周囲から聞こえてくるざわめきも次第に気ならなくなる。

 俺たちは二人きりだ。

 一生懸命、記憶を、思い出を、二人を、分かち合っている。

 この温度を、感触を、気持ちを決して忘れないように。

 じりじりと燃える線香花火を抱きしめているかのようだ。

 吉良坂さんの目に宿っていた決意の寂しさが、いまは彼女の心臓の鼓動に混じって俺の身体に流れ込んでくる。

「ぎゅってするだけでいいのか? なんでも言うことを聞く男だぞ」

 俺は終わりの予感を吹き飛ばしてくれる回答を求めてそう問いかけていた。

 彼女の決意が変わらないとどこかでわかっていながら、彼女の決意を揺らがせたかった。

「大丈夫です。これで私は、充分満足しました」

 なんで過去形なんだ。

 まだ互いに離さない。

 それから一時間たったような気もするし、一分しかたっていないような気もする。

 このまま時間の感覚を忘れてしまえたら、なんて考え始める。

 永遠に取り残されたい。

 富士山が噴火して、火山灰に埋もれて二人で化石になりたい。

 地球に隕石が衝突して地球の歴史が終わってもいい。

 この時間が二人の最後なのは嫌だけど、最期になるのは嫌じゃない。

「吉良坂さん。俺は」
「あの!」

 だけど、世界は一個人の願いだけで終わってくれない。

 ひとりの無様な男の祈りなんか聞いてくれない。

 吉良坂さんと抱き合っているこの瞬間が最期じゃないせいで、これから先俺の人生はどうあがいても最悪の中でもがき続けるだけだ。

「あの、やっぱり最後にもうひとつだけ、お願いがあります」
「だから、なんでも聞くって言ってるだろ」
「じゃあ、吉良坂さんじゃなくて、帆乃って、呼んでもらえますか?」

 そんなのこれからいつだってできそうなのに。

 きっとできないんだろうな。

「いいぞ。帆乃」
「はい。銀くん」
「帆乃」
「銀くん」
「帆乃」
「銀くん……ありがとうございます」
「俺も、吉良坂帆乃という女の子に出会えてよかった」
「はい。私は吉良坂帆乃のすべてを、あなたの中に置いていきました」

 ――だから、これが最後の命令です。

 吉良坂さんの吐いた息が、俺の胸の中央に当たった。

 聞きたくないと身体中が叫んでいる。

 もっともっと強く抱きしめたその瞬間、胸のあたりがじんわりと湿った。

「金輪際、これからの私に近づくことを、話しかけることを禁じます」

 喋り終えると同時に、俺の身体を吉良坂さんが強く押す。

 絶対に離すもんかと思っていた彼女の温もりは、その一押しだけで俺の腕の中からするりと滑り落ちた。

 気がつけばあたりは真っ暗で、いつの間にか夜を迎えていた。

「これは、絶対です」

 重なり合った二つの影はもう見えない。

 俺がなにかを言おうとしているのを感じ取ったからか、吉良坂さんが悲しそうに笑いながら、さらに一歩後ろに下がった。

「最後に私の名前を呼んでくれたのが、あなたでよかった」

 そんな彼女の後ろには、彼女に仕えるメイドである草飼さんが立っていた。

「では、行きましょうか。〝帆乃お嬢様〟」
「ええ。草飼」

 二人が俺に背を向けて去って行く。

 入場門をくぐって遊園地の外へ出て行ってしまったら、俺は独りになってしまう。

「あ……ま………」

 なのに引き止められなかった。

 見送ることしかできなかった。

 湿っている胸元を触って、そこをぎゅっと握りしめると、ようやく俺の目から涙が零れ落ちた。


 *****


 車の助手席に乗り込んでから、私はずっとシートベルトをぎゅっと握りしめていた。

「帆乃様。これでよかったのですか?」

 ハンドルを握って前を向いたまま、草飼が尋ねてくる。

「ええ。私はもう大丈夫」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 今日の思い出だけで満足だ。

 充分すぎるくらい素敵で幸せで甘美な経験ができたから、これから先ずっと死んだように生きるのだとしても、大丈夫。

「私はもう、お嬢様として生きることにしたから」

 私は草飼に笑顔を向けた。

「そうですか。では参りましょう。帆乃お嬢様。春中はるなか様がお待ちです」

 草飼は顔色一つ変えずに、前を向いたままアクセルを踏んで、車の速度を少しずつ上げていく。

 今日これから私は、おじい様が決めた結婚相手と会うことになっている。

 私と、おじい様と、私の結婚相手の春中財閥の御曹司の春中由隆ゆたか様と、そのご両親。

 五人での会食だ。

 由隆様は二十一歳の現役大学生で成績優秀、スポーツ万能、アメリカへの留学経験もある。

 そんな相手と結婚できるなんて恵まれている以外のなにもでもない。

 彼と結婚した私は、彼の子供を産んで幸せに暮らすのだろうか。

 宮田下くんのことを、いい思い出と名づけてしまうのだろうか。

「私は……大丈夫だから」

 草飼に聞こえないくらいの小さな声で呟いて目を閉じる。

 今日のデートの余韻を思い出していると、目頭が熱くなった。

 ――でも大丈夫。

 大丈夫。

 私はもう、大丈夫だから。
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