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1日目

悪夢

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緑生い茂るモスリンビークの森の中、渓流で僕は釣りをしていた。そこへ妹が駆け寄ってきて、笑いかける。随分探したんだからと言っていた。
釣り竿が揺れ、力強くそれを引き上げる。するとグリーンパーチが釣れた。これを焼いて食べようと言うと彼女も喜んだ。
唄を歌いながら焚き火を囲む。香ばしい匂いが辺りを包んだ。そこにはただ長閑な景色が広がっていた。
突如銃声が鳴り響く。妹の胸に穴が空き、青紫色の液体がこちらの顔に飛び散った。
焚き火の炎は豪炎と化し、森を焼き尽くす。辺りは焦げ臭い香りに包まれ、空は闇の帳が降りた。どこからか赤獅子の赤い吐息が森を囲む。妹はその吐息に抱擁され、焼き尽くされた。絶望に打ちひしがれる長い夜、僕はただ逃げ惑った。

◾️8番車両 自室

目を力一杯に見開く。眼前には格子柄の天井が見えた。
ガタンゴトンという音が定期的に鳴り響いている。そうだ、ここはジョーゼットの客室の中か。

少し寝てしまったようだ。……毎日のようにこんな悪夢を見る。死んだ妹の事を想起して気が重くなる。

――扉がノックされる。誰か来たようだ。

「どうぞ。」
ベッドから立ち上がり、その誰かを待つ。

「失礼致します。」
すると女が扉を開けて入ってきた。さっきの銀髪を三つ編みにした従業員だ。その水色の制服と帽子、それに立ち居振る舞いを見るにおそらく客室乗務員なのであろう。

「この度は旅客鉄道ジョーゼットにご乗車頂き誠にありがとうございます。」
扉を背にして彼女はペコリとお辞儀をする。この女は何をしに来たのだろうか?

「わざわざご挨拶ありがとうございます。……ええと、自己紹介すればよいのでしょうか?」

「ふふ、違いますよお客様。ただいまお部屋の確認をさせて頂いております。お手数ですが乗車券をお見せいただけるでしょうか?」
そう言って女は笑顔をこちらに向ける。

「ああそうなんですね、分かりました。えーっと、どこにいったかな……。」
そう言ってポケットを手で弄り始める。

田舎者の自分にはこういう鉄道の作法がわからず、たじたじとしてしまった。どうも自身に似つかわしくないこの空間に気圧されているのかもしれない。少し胸が早鐘を打っていた。
そしてその動揺がさらに激しくなる。

「あれ?財布が無い……。すみません、ポケットに入れたはずなんですが。……なんで無いんですかね?」

「いえ、私に聞かれましても……。最後に持っていた時の事は覚えていらっしゃいますか?」
女はさっきまでの穏やかな表情から少しずつあきれた表情に変わりつつあった。その薄赤い瞳がチラついて少し不気味に感じる。

「うーん……駅で緑の服を着た小さな女の子に、乗車券を見せたときには確かに持っていたんです。そう言えばあの子、僕の乗車券を物珍しそうに眺めていました。」

「はぁ、緑の服を着た女の子ですか……。確かにあなたと話しているのを駅で見かけましたが。……まさかあなたはその子が盗んだと――」
女がそう言いかけた時、突然部屋の外から女の子の泣き声が聞こえてきた。それもただの泣き声というよりは、助けを求めるような声色だった。
その声を不審に思い、彼女はこちらに会釈したあと部屋の外へと出た。
こちらも何となく気になり、同様に部屋の外に出る。

◾️8番車両 通路

泣き声のする方を見ると、そこに女の子がいた。緑色の服を着ていて……それはまさにさっき駅で会った子だった。

「えぇぇぇん!」
その泣きわめく女の子の方へ、乗務員の女は駆け寄る。

「ど、どうしたのお嬢ちゃん?怪我したの?ご両親はどこかな?」
女はその子の前にしゃがみ、声をかける。
しかし尚も女の子はえんえんと泣きじゃくる。その様子に乗務員の女は心配そうに苦笑いを浮かべた。

「お嬢ちゃん。」
こちらも女の子に声をかける。すると女の子はおもむろにこちらを見て……そしてハッとした。

「ああええと……ええと……!」
女の子は急に泣き止み、困惑した様子で走り出した。

「ちょっと、お嬢ちゃん待って!」
乗務員の女の言葉を無視して女の子は逃げ出した。思ったよりその子はすばしっこく、すぐに別の車両へと移動した。
こちらはすぐさまそれを追いかけようと走り出す。しかし同じように追いかけようとした乗務員の女とぶつかり、身体がもつれて二人とも倒れ込んだ。

「もうお客様!なにするんですか!」

「こっちのセリフですよ!……いえ、とにかくあの子の様子は少し変でしたよね?」
そう言うと女も頷く。
そして二人ともなんとか起き上がり、女の子の後を追った。


◾️4番車両 ラウンジ

広い場所に着いた。一見バーのように見える。ジョーゼットが出発してからまだあまり時間が経っていないが、そこには少しだけ人がいた。

「助けてぇええ!」
女の子が悲鳴を上げながら走る。まるでこちらが悪者かのようだ。

その悲鳴を聞いてか、誰かが後ろからこちらの首根っこを掴んだ。
振り返るとそこには大柄な男がいた。紺色の制服と帽子を羽織っていて、腰に帯刀している様子から鉄道警備員のように見えた。

「ちょっと待ってください!あの子が僕の財布を盗んだんですよ!」

「話は、後で聞く。」
男はこちらをただ力強く制止する。その細い目についた鋭い傷痕が威圧感を覚えさせた。こちらがいくら暴れようともその体格差から身動きが取れない。
……また別の方向からドタバタと足音が聞こえてくる。

「はぁ……はぁ……。」
乗務員の女がその長い銀の三つ編みを揺らして、ようやくラウンジへやってきた。
すると警備員の男は彼女の様子を察してか、こちらの身柄を彼女へ突き出した。

「カチューシャ、今日は随分と騒々しいな。代わりに怪しい奴を、捕まえたぞ。」
突き出されたこちらの顔を見るとカチューシャと呼ばれた女は呆れ返り、警備員の満足げな顔をキッと睨みつけた。その薄赤い瞳に彼は戦慄する。

「あんた誰を捕まえてるのよ!緑の服を着た女の子がこちらのお客様の財布を窃取した可能性があるの!」
乗務員の女は拳をグッと握りしめて怒り出す。その勢いに気圧されて、警備員の男は面目なさそうにこちらを解放した。……周囲の客はざわざわとこちらを見ている。

「すまん。……拙者が代わりに、その子を探してくる。」
憔悴し切った顔の警備員の男は頭を掻きながらそう言って、女の子が逃げた方へそそくさと走り出した。

あの警備員の男は……かなり訛った喋り方をしていた。彼のその東方寄りの顔立ち、恐らく外国の人間だ。年齢は30代後半くらいのように見えた。
そんな彼の様子を見送って、彼女はぜぇはぁと呼吸を整えている。

「……あのー、大丈夫ですか?」
乗務員の女の様子を気遣うと、彼女は深呼吸した。……そしてフッと息を吐く。ようやく落ち着いたようだ。

「お気遣いありがとうございます。とりあえず乗車券の確認は一旦保留に致しますね。まぁ……もう確認の必要もないかもしれませんが、一応決まりですので。」

「分かりました。」

「あの女の子が見つかるまでは、お部屋か……このラウンジで時間を潰して頂ければと。また後でお声をかけさせていただきます。」
そう言って乗務員の女はため息をつきながら、とぼとぼとラウンジを去っていった。


一人ラウンジに取り残され、ふと周囲を見渡す。人数が少ないのは幸いだが、それでも自身は注目を集めていた。こちらがその衆目を見返すと、彼らはサッと目線を逸らす。……なんとも言えぬこの疎外感に恥じらいを覚えつつも、かと言ってこの場から立ち去るのも逡巡する。どうしようかと手持ち無沙汰にしていると誰かが近寄ってきた。

「ええと……なんか騒々しいことになってたけど、大丈夫か?」
茶髪に派手なスーツを着た男が話しかけてきた。

「ああ……はい、大丈夫です。さっきの女の子に財布を盗まれてしまって、少し動揺はしていますが……。今はどうしたものかと思っているところです。あの警備員さんがその子を捕まえてくれるらしいですが。」 

「はぁ、それは災難だったな。君が警備員さんに捕まえられた時は少しびっくりしたけど。……あの女の子の方が悪者だったんだな。」
男はそう言ったあと、笑顔でこちらに手を差し出す。

「俺はアレク。良かったら一杯奢るよ。」
アレクと名乗る男は握手を求めてきた。

「ありがとうございます。僕はルキと言います。」
こちらも手を差し出し、アレクと握手を交わす。……彼は20代後半位だろうか。少し年上のように見えた。スーツは派手だが、人は良さそうだ。

二人はバーのスツール席に腰掛けた。

「いらっしゃいませ。何に致しましょうか?」
バーテンダーが話しかけてくる。

「ああ、彼……ルキに何かオススメを一杯をくれませんか?どうもさっきの女の子に財布を盗まれたらしいので。」

「左様ですか。それは大変ですね……では一杯サービスさせていただきますよ。」
そう言ってバーテンダーは酒を作り始めた。シェイカーに何種類かの液体を入れ、それを小気味よくシャカシャカと振る。

そんなバーテンダーの風貌を見るに年齢は40を超えていそうだ。中年太りした見た目だが、ギャルソンエプロン姿がよく似合っていて、年齢に見合った余裕を感じさせる佇まいをしている。

辺りは落ち着いてきたのか、ラウンジから女の気持ちよく歌う声が聞こえてきた。その声のする方に目をやると、肩から肌の見えた服を着た女が気持ち良さそうに歌っていた。歌には詳しく無いが、それは何かの讃美歌のように聞こえる。

「……綺麗な歌声ですね。まるで劇場のようです。」
自身の空想上に存在する劇場というものをイメージしながら、アレクに話しかけた。

「ははぁ、ルキはジョーゼットに乗ったことがないんだな。このラウンジは、ヒマな乗客達の遊興の場だよ。昼は子供連れの親子が、夜は大人達がたむろしてるんだ。……んで俺もそのヒマな客の一人なんだけどな。」
そう言ってアレクは笑う。よく見ればその顔は少し赤らんでいた。既に酒に酔っているのだろうか。

「ヒマとは言いますが、見たところアレクさんはお仕事でジョーゼットに乗車されているんでしょうか?」

「ん……ああ。そうかな。こう見えても訪問販売をやっているんだ。何か売ってやろうか?」

「へぇ、何を売っているんでしょうか?」
そういうとアレクは派手な上着の裾を持ち、それをおっ広げる。そこには色々な種類のナイフや拳銃が張り付いていた。……その異様さに面食らい、身体をたじろかせる。するとアレクは笑い出した。

「ははは。全部イラストだよ。俺は武器商人をやってるんだ。これはカタログってやつ?」
アレクはそう言って笑い出す。よく見れば確かにそのナイフや銃は平面的だった。

「いや……やめてくださいよ。怖い人ですねぇ。もしかして武器を列車に持ち込んでるんじゃないでしょうね?」

「いやいや、そんなわけないよ。俺はあくまでカタログを持ち歩いている営業だよ。ここ最近のトレンドを知ってるか?火炎放射器が飛ぶように売れてるんだ。」

「はぁ……そうなんですか。誰が買ってるんですか?そんなもの。」

「さぁなー。大抵身分を隠してるよ。それよりさ、ここ最近、他国の侵略がよく話題に上がるだろ?いつの間にか東方の人間が住み着いてたりしてさ。貴族達もそれに頭を悩ませてるんだ。だからお抱えの軍隊に武器を喧伝してるってわけ。」

随分と乱暴な方法で営業する彼に辟易としながら、なんとなく目の前にいるバーテンダーを一瞥する。すると彼は丁度酒を作り終えたのか、グラスをこちらの前に置いた。

「お待たせしました。どうぞ、ルキ様。」
そのグラスを手に取り、目の前に掲げる。その中に入った酒は青紫色をしていた。

「綺麗な色ですね。これは何というお酒でしょうか?」

「ああ、これはモスリンブルーと言います。とても人気なんですよ。」
そう言ってバーテンダーはにこりと笑う。その名前に少し引っかかるものがあった。

「モスリン、ブルー?どこかで聞いたことがある単語ですね。モスリンは分かりますが……ブルーは何でしたっけ?」

「ルキ様、ブルーというのはモスリンで数年前に蔓延した流行り病の名前ですよ。何でも血が青紫色に変色してしまう病なのだとか。」
バーテンダーはニコニコしながら言う。

「ええと、つまりこれはその血の色を模していると言うことでしょうか……?そんなもの飲みたくないんですが……。」

「それは残念です……。味は普通ですよ?怖いもの見たさで注文するお客様もいらっしゃいます。」

そう言えばあの財布を盗んで逃げた女の子が、ブルーについて似たような話をしていた気がする。モスリンで多くの人が死んだ元凶と噂されている、身に覚えのない虚構の病。
金持ちどもの遊興というのはこういう犠牲者の気持ちを考えない、趣味の悪い遊びの事を指すのだろうか。とてもじゃないが飲む気にはなれなかった。


ふいに、隣の席に女の子が座った。
……さっきまで逃げ回っていた緑色の服を着た女の子だ。
その後ろには紺色の制服を着た大柄な警備員が立っている。

「ようやく捕まえてきた。……拙者はさっきの、客室乗務員を呼んでくる。この子はもう大人しくなったが、逃すなよ?」
警備員の男は東方の訛りでそう告げた後、とぼとぼとラウンジを後にした。

確かに彼の言葉通り観念したのか、女の子はスツール席の上でじっとしていた。アレクやバーテンダーも彼女を興味深そうに見ている。とにかく彼女からは財布を返してもらわないといけない。

「元気なお嬢ちゃんだね。脚が速くてびっくりしたよ。良かったらお名前を教えてくれないかな?」
優しく問いかける。それはこちらが怒っていないという事を示していた。その空気を察したのか、この子はこちらをゆっくりと見て、重々しく口を開く。

「ユリ……です。ごめんなさい。」

「ユリか、可愛らしい名前だね。ユリは俺のお財布を持ってるんだよね?素直に返してくれたらお兄ちゃんは許しちゃうよ。」
その言葉にユリはまたうつむく。

「お財布、……怖いおじさんに盗られちゃったんです。だから返せません……。ごめんなさい。」

盗られた?ユリは嘘をついて誤魔化そうとしているのだろうか。……ただ言われてみれば、この子は通路で泣きじゃくっていた。本当の事なのかもしれない。
また泣きそうな顔をするユリの頭をそっと撫で、こちらに抱き寄せた。

「分かった。ユリも怖かったんだな。じゃあ今度お兄ちゃんと一緒にその怖いおじさんを探して取り返そうよ?」
そう言うとユリは安心したのかこちらにひしっと抱きついてきた。
……なんとか打ち解けられたのかもしれない。まさか乗車券がないとは思わなかったが、このひたむきな態度を見ると叱責する気持ちも湧かなかった。


――どこからか花の甘い匂いがしてくる。

「やっほー、マスター!それにアレクくーん!」

どこか腑抜けたような声をした女が、元気よく挨拶をしてきた。そしてちらっとこちらを見る。
その肩から肌の見えた服、さっきまで歌っていた女のようだ。
バーテンダーに酒を注文しながら、ユリの隣に座った。
今バーカウンターには、左からアレク、自分、ユリ、そしてその女がいる状態だ。

「ねぇアレクくーん、この人達はー?」
女はアレクにこちらの事を尋ねる、

「ああ、彼はルキ。それにこの子はユリちゃん。さっきの騒動見てただろ?」

「見てたよー。追いかけっこしてた。でも見た感じ二人は仲直りしたのかなぁ。ケンカするほど仲がいいっていうものねー。」
そう言って女はニコッと笑いかける。

この女は同い年くらいだろうか。編み込んだ肩までかかる髪に、猫目の青い瞳で可愛らしい風貌をしている。香水の甘い匂いを漂わせ、肩が出たワンピースを纏って、妙に腑抜けた喋り方をしているが、その透き通った高い声は意外に聞き心地が良かった。

アレクはこちらをチラッと見て、そのまま彼女に視線を移す。

「それで、このあほそうな女がアンだ。」

「ちょっとぉアレクくん!あほって言った方があほなんだよぉ!?」
アンという女は、アレクの雑な紹介に怒り出す。
そのあほそうなやり取りを聞いて、急にユリはフフッと吹き出した。

「あーんユリちゃん笑ったわねー!私はあほじゃないんだからぁー!」

「あははは、ご、ごめんなさい。でもあほって……そんなこと言っちゃダメなんですよぉ、あはは。」
ユリはいかにも子供らしい笑い方をしている。その様子に少しだけホッとした。アンは苦笑いをしている。

「……さ、さっきのお歌、すごく素敵でした。アンさんは歌姫なんですか?」
ユリがアンに話しかける。

「あは、私のことはアンでいいよ!お酒飲みながら歌ってたらマスターが気に入ってくれたのー。」
アンがそういうと、バーテンダーは笑顔を向けてきた。

「アンはきっと将来有名な歌姫になられると思いますよ。それくらい美しい歌声をされております。ジョーゼットの専属歌手になってみてはいかがでしょうか?」

「あははー、マスターってばぁー!ほんとーに有名になれるかなぁー?……いやあ、歌って良いよねー。いい歌は国境や人種を越えるのよ!それに空間を一心に支配するの!将来世界中を虜にするような歌姫になりたいなぁー。」

「どうせ金が欲しいだけだろ。」
アレクが腐す。

「違いますぅー!でもいつかカッコいい貴族様に見初められてぇ、有名になれないかなぁ。それで宮殿の庭で愛を誓い合って結婚してぇー。ラブラブうふうふー。」

「……なっ、あほだろ?」
アレクはこちらに耳打ちする。それに頷いて答えた。
しかしユリの方を見ると、彼女はアンの言葉に黒い瞳を耀かせていた。……乙女の夢なのだろうか。

「アン様、お待たせしました。あなたの歌声が世界に届く事を祈って……どうぞ。」
バーテンダーはアンにお酒の入ったグラスを手渡す。
彼女は嬉しそうにそれを受け取り、その真紅色の酒を眺めた。

「可愛らしい色ー!ねぇ、これってなんて言うお酒なのー?」

「これはスペシャルリッチと言います。飲めばお金持ちになれますよ?」
バーテンダーの言葉にアンがずっこける。

「へ、変な名前ぇ、絶対今考えたでしょお!もうちょっと高尚な名前にしなさいよぉ!金のためじゃないって言ってんでしょうがぁ!」

アンが怒るとまたユリが笑い出す。どうもアンの腑抜けた声で怒る様子が彼女のツボを刺激するようだ。
アンはやれやれといった様子でユリの方を見る。

「ねぇ、ユリちゃんの事を教えてよー?お父さんやお母さんはどこにいるのかなー?」
アンの言葉にユリは言い吃る。

「ええと……両親は……ええと……モスリンに……います。私、モスリンの生まれなので……。」

「ええー!?ユリちゃん、一人でジョーゼットに乗ってるのー?」
アンが驚いた顔をしながら言うと、ユリは慌てふためく。
そしてあーだこーだと言い繕おうとするが、それは言葉にならなかった。

「……なぁアン、ユリちゃんに歌を聞かせてやれよ。この子気に入ってたぞ?」
アレクがそれとなく、ユリへ助け舟を出す。

「えっああー……。いいよー。じゃあユリちゃん、私がお酒飲み終わったら一緒に歌おうねー。」
アンはそう言ってユリの頭を撫でる。そしておもむろに顔を近づけた。

「ユリちゃん、かわいらしいー。それに不思議とお肌からほのかに良い匂いがするのねぇ。」
そう言ったあと、彼女はゆっくりとこちらに向き直る。

「ねぇルキくん、乾杯しよー?」
そう言ってアンはグラスを傾けてくる。こちらも一応それに応え、グラスを差し出す。赤と青の酒が入った互いのグラスが重なり合い、乾いた音が響いた。そしてアンはグラスを口に運び、その赤い酒を飲んだ。

「ああー……おいしぃー!」
アンは恍惚な表情で目をとろけさせる。

「……それ、飲まないんですか?綺麗で美味しそう……。」
ユリはこちらが手に持っているモスリンブルーを興味深そうに見ている。

「ああ、今は飲む気分じゃなくて……。ユリは大人になってからだよ。」

飲む気分じゃないと言いつつも、せっかく奢ってもらった酒を飲まずにいるのも悪い気がした。病気になった人間の血の色を模したと言うこの青紫色の酒をテーブルに置き、それをまじまじと見つめる。
そんな折、人の気配がした。

「お客様、お待たせ致しました。」
背後から聞き覚えのある女の声がした。振り向くと……銀の三つ編み髪に水色の制服。さっきの客室乗務員だ。彼女はラウンジの外へ誘導しているようだ。

「ああ……ユリ、行くよ?」
そう言ってユリの方を見る。

「あーっ!ユリちゃーん!それ飲んじゃダメだよー!」
アンの言葉の通り、ユリはモスリンブルーの入ったグラスを両手に持ち、それを一気に全部飲んでいた。

「あ……甘くて美味しいです。うぇ、でもちょっと苦い……。」

「お、おいユリ!お酒だぞ!何してるんだ!」
ユリは顔が紅潮し始めていた。小さい女の子がお酒を一気飲みしたから、あるいは相当に酒が弱いのか急反応で酔いが回っているように見えた。
ユリの目がぼぉっとし始めていた。乗務員の女がそれを見てユリを抱える。

「と、とにかくお部屋まで運びます。お客様も付いてきて下さい。」
焦った様子の彼女はこちらに呼びかける。

「乗務員さん、手伝いましょうか?」
そこにアレクが気を遣ってくる。

「いえ、こちらで対応させていただきます。お気遣いありがとうございます。」
そういって乗務員はユリを抱えたままラウンジの外へと小走りで向かった。
こちらも彼女についていく。


◾️5番車両 通路

「ぜぇ……はぁ……。」
銀の髪の乗務員は辛そうに女の子を抱えている。このままじゃ彼女はユリを落としてしまいそうだ。

「良かったら僕がユリを抱えますよ?」
そう言うと女はそっぽを向く。

「結構です。」

「?……なんで怒ってるんですか。」

こちらはユリを手で支える。すると彼女も限界だったのか、しぶしぶとユリをこちらに預けてきた。

「……小さい子供の前でお酒を飲むなんて……非常識です。ここはジョーゼットですよ?周りの目も考えてください。それに一気飲みだなんて、……死んでしまったらどうするんですか。」
女はじろっとこちらを見てくる。その薄赤い瞳が少し怖い。

「……あなたが話しかけてきたから気を取られたんですよ。それにラウンジにいろって言ったのはあなたでしょう。」
こちらもボソッと言い返す。

「はぁ……?私の所為って言いたいんですか!?」
今度はこちらをキッと睨みつけてきた。

「あなたに怒られる筋合いは無いって言いたいんですよ。」
こちらも気圧されないように睨み返す。
するとユリは腕の中でもぞもぞと動く。

「け、けんかはやめてくらはい……おにいちゃん、おねぇちゃん……。わたしのせいれふ……。」
そのユリの呂律の回っていない言葉を聞いて、二人ともドキッとして……冷静になった。ケンカしている場合じゃない。

「あ、あのー。」
今度は横から声がした。二人ともその方を見る。……そこにはアンが立っていた。

「あははー……良かったらこれ、お水どうぞー。この子に飲ませてあげてくださいー。楽になるんじゃないかなーと。」
アンはこちらの言い争いを見てか、ソワソワと少し気を遣って喋っている。少し恥ずかしい気持ちになった。

「あ、ありがとうございます……。」
乗務員の女も頬を指で掻きながら、その水の入ったコップを受け取る。

「じゃ、じゃあーケンカなんてしないでー、ユリちゃんの様子を見てあげてくださいねー。ではではー。」
そう言ってアンはそそくさとラウンジの方へ踵を返していった。

少ししんと静まる。

「……とにかく、一旦部屋まで運びましょう。」
こちらの提案に彼女も頷いて、801号室へと向かった。

◾️8番車両 自室

ユリをベッドに寝かせる。……彼女は意識が無くなっているように見えた。
乗務員の女はユリに水を少しだけ飲ませる。するとユリはむせ返った。

「……寝かしておくだけで大丈夫なんですかね?水も無理に飲ませるわけには行かないでしょうし……。」
乗務員の女に問いかける。

「私にも何が適切かは分かりません……。そうだ、ジョーゼットのお医者さんを呼んできますね。少々お待ちください。」
そう言って乗務員の女は部屋を出ていった。

時計を見ると夜の11時を過ぎていた。はぁっとため息を吐く。子守りをするためにジョーゼットに乗っているわけではない。なのにこの子の所為で今日は引っ掻き回された。結局乗車券は無いし……。
ユリの寝顔をそっと覗き見る。
……妙に懐かしい気持ちになった。この子はどこか死んだ妹に見た目が似ていた。それよりは幾分か幼く、喋り方も違うが、さながら過去に彷徨ったかのようだった。
ユリの頭に手を添える。
自身の抱えてきた闇に少しだけ光が灯されたような気持ちになった。少しの間だけそれに浸る……。


少しすると部屋の扉がノックされ、すぐにそれは開いた。
外から二人の女が入ってくる。一人はさっきの銀髪の乗務員、もう一人は小柄な女だった。その青と白の制服と帽子、彼女は救命医のようだ。肩にかからない程度の黒髪に、左目の下にある泣きぼくろが憂さを感じさせる。年齢は少し年下のように見えた。24、5位だろうか。

「この子がそうなの?急性アルコール中毒って聞いたけど、まずお水は飲ませた?」
救命医の女がベッドに寝かされているユリを見ながら、乗務員に訊ねる。

「ええ……この子よ。水はちょっとだけ飲んだけど、たくさんは飲めなそうだった。……ねぇ、どうすればいいか分かる?」

「ううん、ちょっと見てみるわね。」
そういって小柄な女は、ユリの口を指で開けて、そこへ顔を近づけた。……どうやら呼気を確認しているようだ。

「ああ……結構ガッツリ飲んじゃったのね。でもまぁ、そこまで心配するほどじゃなさそう。少なくとも子供の致死量ともかけ離れてるわ。……まぁでも二日酔いは確実かな。」
そう言って彼女は鼻で笑う。
するとユリは突然口から、さっき飲んだ酒を吐き戻した。それが思い切り彼女の顔にかかる。

「イ、イエヴァ……だ、大丈夫?」
乗務員の女は救命医の事を、イエヴァと漏らして固まっている。

「青紫色の液体……。まるであの病気みたいね。」
イエヴァと呼ばれた救命医は、自身の手についた液体を見て苦笑いしている。

「い、いえ……それはただのお酒です。」
こちらからイエヴァに説明をする。しかし彼女はこちらの事など歯牙にかけない様子で、佇んでいた。

「タオル取ってくるわ。待ってて……。」
乗務員はイエヴァにそう告げる。しかしイエヴァは彼女へ手を掲げて制止した。そしておもむろにポケットからハンカチを取り出し、ユリと、自身の顔を拭う。
そして彼女は指をユリの瞼に添え、そっと開いた、瞳孔でも確認しているのだろうか?
そのままそれを終えると、深くため息をついた。

「まぁとにかく、そこまで心配しなくても寝かしておけば大丈夫よ。もし今みたいに何か吐いたら、窒息する可能性もあるから出来れば横向きにさせておいて。多分何回か起きると思うけど、その時に水を飲ませてあげてね。脱水症状になるかも知れないから、多めに飲ますのよ。万一症状が悪化したら点滴を打つから医務室まで運んできて。あと明日は多分ずっと二日酔いになるから、頭痛が酷かったら痛み止めをあげる。……分かった?」

「う、うん……。全部は理解できてないかも知れないけど、大事にはならなそうなのは分かった。ありがとう。」
乗務員は困惑しつつも、頷く。

「じゃあもう行くわ……。おやすみ。」
そう言ってイエヴァは眠そうに部屋を出ていった。


場がしんと静まり返る。もう夜も遅い、ただ鉄道の進む音だけが淡々と響く。乗務員の女はベッドの前に立ち、ユリの様子を眺めていた。

「……さっきの人、随分と気難しそうな方ですね。僕の事は無視されちゃいました。」
イエヴァという救命医についてそれとなく触れる。

「ああ……あの子はそういう人なんです。人見知りなだけですから、お気になさらず。」
そう言って乗務員はユリの姿勢をそっと横向きに変える。
そしてその寝顔を見て、彼女は微笑んだ。

「ほんと、世話の焼ける子ね……ふふ。もうくたくたよ。」
女はふと時計を見る。

「ああ……もうこんな時間。……はぁっ、私もそろそろ業務終了していいでしょうか?」

「えぇ、それを僕に聞きますか……?勝手にしてくださいよ。」

そう答えると、女は帽子を取って銀の三つ編み髪を解く。その長い髪がふわっと広がり、照明の光と反射して煌めいた。

「ところであんたは、この子から乗車券を返してもらったの?ユリちゃんだっけ。随分と懐いてたように見えたけど。」
女は急に態度が変わった。

「いや……ユリはユリでその財布を盗まれたらしくて。怖いおじさんに盗られたって……。通路で泣いてたのは多分そのせいかも。だからもう返ってこないかもなぁ。」

「はぁ?なにそれ……。何というか、あんたってつくづく不運ねぇ。」

「確かに。財布は盗まれるわ、警備員に間違えて捕まえられるわ……ユリはお酒を飲んじゃって、てんやわんやになるわで、大変な一日だったよ。……他にやりたいこともあるってのに。」
そういうと女は笑う。

「ふふ、全部ユリちゃんの所為じゃないそれ。まぁユリちゃんも大概だけど、あんたも結構怪しいけどね?悪い人じゃなさそうだけど。……それに乗車券は望み薄ね。まぁもし見つかったら私に見せて。それまでは好きにしていいわ。」

「あ、ありがとう。でも怪しいって……やっぱりそうかな?」

「あなたはとても個性的よ。良かったら名前教えてよ。」

「俺はルキ。そっちは……カチューシャっていうんだっけ?」
そう言うと彼女は目をぱちくりとさせる。

「ああ、知ってたのね。まぁいいわ、あなたは……ルキって言うのね。」
そう言うと彼女は立ち上がる。

「明日早いし、もう戻るわ。……じゃあおやすみ、ルキ。ユリちゃんの面倒見てあげてね?元気になったらまたこの子の処遇を考えるわ。」
カチューシャはそう言ってこちらに会釈をしてから、部屋を出ていった。


時計を見れば12時になろうとしていた。
そろそろ消灯して寝ようとした矢先、ユリのうめき声が聞こえてくる。

「あ……頭が痛いです。」
ユリは身体を起こして頭を抑えていた。

「ああユリ、おはよう。お水飲める?楽になるよ。」
そう言ってテーブルの上に置いたコップをユリに手渡す。
促されるままにユリはその水を飲み始めた。

「うぇ……このお水、苦いです。それになんかイガイガします……。」
その言葉に、さっきユリが酒を吐き戻した事を思い出す。

「ああ、口にお酒が残ってるんじゃないかな。できれば全部飲んで。」
そうユリに言うと、彼女はしぶしぶと水を全て飲み干した。

「にっがぁい…………。で、でも、少し頭痛がおさまったような気がします。……たぶん。」

「まぁ、そのうち治るよ。もう寝よう。」
そう言って部屋を消灯する。そしてユリの隣に寝そべった。
するとユリはこちらを抱き枕のようにして縋り付いてくる。

「さっき……怖い夢を見てしまいました。」
暗闇の中、ユリはボソッと言う。そして彼女はそのまま続ける。

「教会の地下に閉じ込められて、恐ろしい怪物に追いかけられたんです……。やっとのことで逃げ出したら、外は焼け野原になっていました。家族の元に帰ると、実家は焼け落ちていて……中にたくさんの骨がありました。それからはどうしようもなく歩きまわって……。……その間教会からずっと鐘の声が鳴り響いていました。その音がもう頭から離れません……。」
ユリは震えていた。

「……ユリはモスリンの人間だっけ?……実は俺もなんだよ。焼け野原……すごく耳馴染みのある事を言ってるけど、その話ってどこまでが夢なのかな?」

「……全部本当の事です。それが悪夢となってなんどもなんども出てきます。……もうシフォンのお家にかえりたい。私、貴族の家で小間使いをしているんです。数週間前に、いつもやさしくしてくださる奥様が、久しぶりにモスリンへと帰らせてくれたんです。でもいつの間にか意識が無くなってて、気がついたら地下にいたんです。そこで何日も過ごしました。……そして騒動があった隙に逃げ出しました。怪物騒ぎだとか……外に出たらあんな焼け野原になっているし……。結局家族には会えませんでした。たぶん二度と会えないんです。」

「そっか…………実は俺もモスリンで一年前に妹を亡くしたんだ。俺も寝るたびに、その時の悪夢を見てしまう……。」
そう言ってユリを抱きしめる。するとユリの身体の震えが徐々におさまっていった。そしてもぞもぞと動く。多分目の前にユリの顔がある。

「……私も家族がみんな死んじゃいました。ルキさんの事、お兄ちゃんって呼んでもいいですか?」

「え?……ああ、いいよ。」
二人、静かに笑った。

思い返せば、こんなふかふかなベッドに横たわりながら休むのは初めての経験だ。シフォンへと向かうジョーゼットの客車の中は、あたかもゆりかごのように二人へ心地良い揺れを与える。昔、妹と一緒に寝ていた過去の残影のように、おだやかに二人の思考は溶けていった。

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