焼けたモスリンビークの森から

takataka

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2日目

平和

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モスリンビークの草原に100人程度が住まう村があった。モスリンに無数にあるそんな村に、3年前誰かがやって来た。赤い獅子の紋章を掲げた兵士達のようだ。彼らは平和のためにシフォンからやって来たのだと言う。そして長年モスリンを悩ませる狼を狩るのだとか。
蒼天の元、村は歓迎の空気で覆われていた。モスリン讃美歌を歌う女子供たちや、よそものを物珍しそうに見る無垢な人々が集っていた。遠方から祝福の鐘の声も聞こえる。
総司令官エングレスと名乗る男は笑顔で近寄って来る。そして村長はエングレスと出会いの握手を交わす。その様子を遠巻きで見ていた僕や妹、仲間たち。シフォンとモスリンの友好を祝うラッパの音が鳴り響いた。
すると遠くから何かの爆発音が聞こえる。ヒューっという音が聞こえてきて、迫撃砲の雨が村に着弾した。家屋が次々と破砕する。見れば村長はエングレスに軍刀で貫かれ、後続の兵士に火炎放射器で燃やされた。そして雪崩のように駆け込んでくる兵士や装甲車。それらは機銃や火炎放射器、小銃を撃ち放し、人や家屋、草花や大樹を蹂躙していく。地獄のラッパ音が鳴り響いた。

僕は妹や仲間を連れて遠くに逃げた。そして大樹の枝に登り、遠巻きに村を眺める。その視線の先で村の人達が拘束されていた。彼らは次々と暴行を受け、燃やされていった。
やがて硝煙のにおいや熱気がここまでやって来た。迫撃砲の音が鳴り響き、装甲車が村とは違う方向へ進み始める。
僕たちは必死に逃げ出した。


◾️8番車両 自室

目を覚ます。
格子柄の天井……。窓に目をやる。外は日が昇りかけ、薄青い空の下から黄金色がほんのりと滲み始めていた。窓にはパラパラと雪が触れ、静かに溶ける。車内はガタンゴトンとこもった音だけが鳴り続けていた。

「おはようございます。お兄ちゃん。」
ユリがこちらを覗き込んでいる。

「ああおはよう、ユリ。」

「なんだか随分とうなされておりましたよ?」

「……あはは、また悪夢を見たよ。」
さっきのはモスリンに初めて赤獅子の軍隊がやって来た日の夢。黙示録の序章。

「お兄ちゃん、悪夢なんて忘れちゃいましょう!二人なら平気です。元気になーれ!」
ユリは屈託なく笑う。……小さい子に励まされてるようじゃダメだな。

「ありがとう。ユリはすっかり元気になったんだね。二日酔いはしていないのか?」

「はい!頭はもうスッキリしています。ご心配をおかけしました。」
そのままユリは顔をこちらへ近づける。

「それでそれで、お兄ちゃん!遊びませんか?列車の中は退屈なんです。」
ユリは両手でこちらの腕をつかむ。そんな様子は子供っぽくて可愛らしいのだが。

「ごめんよ、俺はこの列車でやる事があるんだよ。」

「やる事?なにそれ?私も一緒に行きたい!」

「ダメ。ユリは部屋でおとなしくしててよ。」

「ええー、そんなのつまらない。私を子供扱いしないでください。そうだ、お話ししませんか?とっておきの秘密があるんですよ。」

「秘密?」
ユリは妙に積極的にこちらの気を惹こうとしてくる。確かに遊び相手は自分しかいないのだが。……まぁ朝も早い、少しだけ付き合ってあげることにした。

「昨日の事を覚えてますか?私、警備員さんに追いかけられて1番車両の方まで逃げたんですよ。そうしたらお財布を奪ったあのこわーいおじさんがいたんです!お財布返してって言ったのに知らんぷりされました。くやしいー。昨日はそのおじさんに、乗車券に変な印があるって言われて財布ごと取られちゃったんですよ!意味がわかりません!」
ユリは拳をグーっと握りしめる。

乗車券の印に反応?まさか赤獅子の紋章に反応したと言うことか。
そして彼女は何かを思い出したかのようにハッとする。

「……そう言えばお財布に、女の子の写真が入っていました。あれがお兄ちゃんの妹さんなのでしょうか?」
ユリは首を傾げる。

「ああ、見たのか。民族衣装姿が可愛いかったろ?お祭りの時期に着るんだ。10年前くらいだったかな。妹が6歳の時に……思い出にとってもらった一枚だよ。カメラなんてモスリンじゃ珍しくて、……確か誰かに撮ってもらったんだよな。」

「そうなんですか……財布にそんな大切なものが。すみません、私のせいで……。」
そう言ってユリは頭を抱える。

「もういいってば。じゃあ今から1番車両へ行ってみないか?」
そう提案するとユリは驚く。そしてふぁっと笑顔を浮かべた。

「はい!今度こそお財布を取り返してやりましょう!」
ユリは張り切って部屋を飛び出した。

◾️8番車両 通路

朝焼けの光が窓から差し込み始める。眼下に広がる茫漠の雪原はその光芒を反射し、こちらの目を少し眩ませた。その一瞬、なにか黒いものが窓のすぐ外を素通りする。しかしそれが何かを認識する猶予は無かった。

「外は相変わらず寒そうですね。モスリンは暖かいのに。」
ユリが窓の向こうを見ている。

「そう言えばユリはシフォン育ちだよな。あそこってどんな土地なんだ?」
そう訊ねると、彼女は得意げな顔を浮かべた。

「寒い土地ですけれど、それを忘れるくらい人や建物でごった返しているんですよ。とんがり屋根の貴族の邸宅からいやーなスラム街まで色々あって、ダウンタウンは特に賑やかです。いつもそこの市場で買い物をしていました。それこそ列車から運ばれてきた各地の輸入品もあったりして、見てるだけで楽しいんです。シフォンに着いたら案内させてください!」

ユリの話を聞いていると、向こうから女が歩いて来た。
その銀の髪を三つ編みにして、水色の制服と帽子の客室乗務員。カチューシャだ。彼女はこちらに気付くとペコリとお辞儀をする。

「おはようございます!」
ユリが元気よく挨拶をする。それを見てカチューシャはしゃがみ込み、ユリと目線を合わせる。

「あらユリちゃん、おはよう。随分と元気になったのね。」

「はい、お陰様で元気いっぱいです。昨日はありがとうございました、おばさま!」
ユリはまた胸を張る。

「おば……。私の事はお姉ちゃんと呼んでね?ユリちゃん、大事な事だから絶対に間違えないでね。」
そう言って彼女は笑顔を浮かべる。目は笑っていないが。

「分かりました、お姉ちゃん!……今日はお兄ちゃんと一緒に探検をするんです。」

「探検?……お兄ちゃんと一緒に?」
カチューシャの頭にハテナが浮かぶ。そしておもむろに立ち上がってこちらを見てきた。

「ああええと、列車を見て回りたいとユリが言うもので……。」
適当に誤魔化す。

「なるほど。まぁ貴重な経験でしょうし、ご自由に。ジョーゼットにはレストランもございますので、お昼時は楽しめるでしょう。あとラウンジにはデッキがありますので、外の景色が一望出来ますよ。」
カチューシャは笑顔を浮かべる。

「ありがとうございます。」

「あと……ユリちゃんも元気になったようですし、彼女の処遇について後で伺います。昼頃にお声がけさせていただきますね。」
カチューシャはこちらに耳打ちしてきた。
それに頷いて返答をすると、今度はため息をつく。

「ところで……。」
彼女は耳元で続ける。その低いトーンに少し緊張した。

「……あたしってフケてる?……おばさまって……。」
彼女は真剣な顔をしてこちらを見ている。なんだかバカらしくなった。

「あー、確かに少しフケてますねぇ。髪色がおばあちゃんみたいで……あはは、冗談ですよ。あれ……なんでそんな怖い顔で見るんですか?やめて下さいよ。あはは……。ぐへぇっ。」


◾️7番車両 通路

「大丈夫ですか?お兄ちゃん?」

「まさかグーで殴られるなんてな。しかしあの女、野蛮人だな。」

「多分お兄ちゃんのせい……。」
ユリはジトっとした目で言った。


◾️2番車両 通路

車両扉の脇に男がもたれかかって、居眠りをしていた。
あの扉を抜ければ1番車両へ到着する。寝ている男を横目に通り過ぎようと試みる。
しかしその男はガバッと反応して、とっさにこちらの肩を掴んだ。

「お、おい!1番車両は立ち入り禁止だ。」
その訛り声に紺色の制服、東方風の顔立ちに細い目に付いた鋭い傷跡。昨日の警備員のようだ。

「立ち入り禁止?なぜですか?僕はこの先にいる人に用事があるんですよ。財布を盗んだ輩がいるので。」
そう言うと彼はため息をつく。

「だろうな。ただこの先は貸切車両だ。……今回は珍しくこのジョーゼットのオーナー様がいる。昨日はこの娘が勝手に入ったから向こうさんも困惑していた。……恥をかかせないでくれ。」

「じゃあそのオーナー様とやらに取り次いでもらえませんか?」

「勘弁してくれ。……護衛が目を光らせていて物々しい雰囲気だ。あまり刺激するな。」
そう言って彼は頭を掻く。

「取り付く島もないって事ですか。はぁ、不条理を認めるんですね……分かりました。」
吐き捨てるように言う。

ちらっと窓から1番車両を見ると、デッキに屈強そうな男がぼんやりと見えた。顔は分かりづらいが、護衛のように見える。彼は柵にもたれかかってタバコを吸っていた。

またの機会を探る事にして、一旦踵を返した。

◾️4番車両 デッキ

ラウンジの外側には、他より少し広めのデッキがある。小さな屋外となっているこのスペースは開放的で、生の景色が一望できた。
遠方には雪冠の山々が連なっている。

ユリは柵の支柱に手を掴み、景色を眺め始めた。

「ううん……1番車両は通せんぼされてましたね。」

「仕方ない、また取り返す方法を考えよう。」
ユリの頭にそっと手を乗せた。

ふいに香水の花の匂いが漂ってくる。

「おっはよー、ルキくんにユリちゃんー。」
突如上から腑抜けた声がした。
見上げるとそこに女が、車両の屋根から脚をだらんと垂らして座っている。
猫目の青い瞳に編み込んだ髪、それに肩の出た衣装。彼女はニコリと笑った。

「アンかよ。何で屋根にいるんだ?」

「そこにハシゴがあったから登ってみたのー。ここ、デッキより良い眺めよー?」
そう言って彼女はデッキの壁にあるハシゴを指差す。

「へぇ……ユリ、登ってみないか?……良いことを思いついた。」
そう言うとユリは一瞬ポカンとするが、意図を察したのか彼女はうつむいて笑い出す。

「くひひ、そういう事ですか。分かりました、上から屋根伝いに1番車両へ渡っちゃいましょう!」
悪辣な笑顔だ。根はいたずらっ子なのだろう。

早速ハシゴを一段一段と登り、車両の屋根へと上がった。先程より良い眺めだ。

脇を見下ろすと、アンが脚をぷらぷらさせながらこちらを上目遣いにこちらを見ていた。
吹き荒ぶ風が体を身震いさせる。

「寒……アンはそんな格好で大丈夫なのか?」
彼女は肩を出した衣装のくせにやけに平気そうな顔をして座っている。

「へっちゃらよー。寒さには強いのー。それにね……。」
アンは間をためる。何か秘訣があるのか?

「オシャレのためなら何だって耐えられるのよ!」
そう言って彼女は拳を握り込む。……やはりあほなのだろう。

一面に広がる冷えた景色、眼下にはジョーゼットの車列が連なっていた。各車両同士の間隔は狭く、これなら飛び移って行けそうだ。
脚に力を込め、勢いをつけて隣の3番車両へと飛び移る。接地した足元からガタンっと音が鳴った。その音に少し驚くが、とにかくいけた。この調子で渡り継いでいけば1番車両まで到達できそうだ。
振り返ると、ユリもこちらに続いて飛び移ってくる。

「ちょっとぉー!二人ともどこいくのー!?」
4番車両の屋根に取り残されたアンは、立ち上がってこちらを見ている。
そして彼女もまたぎこちなくこちら側へ飛び移ろうと地を蹴った。

「ぎょええええーー!!」
しかしアンはうまく飛び移れずに、屋根の端に腕だけが乗る。下半身はぶら下がっていた。

「だ、大丈夫かよ……?」
そう言ってこちらはアンの腕を掴んで身体を引っ張り上げた。

「えへ……ありがとうルキくんー。なんだかカッコいいねー。」
アンはゆっくりと立ち上がり、衣服を手でパタパタとはたき、よれた服を整える。

「それで、二人ともどこに行くのさー。」

「1番車両に行くんです。……でもこっそり上から行こうかと。こっそりですよ?」
ユリが悪そうな顔をしながら答えた。

「なぁにそれー?面白そう!私も行くー!」
アンはニコッと笑う。しかしついて来られても困る。

「別にいいかな……。危なっかしいし。」

「なにー!?置いてくつもりなら周りに言いふらしちゃうぞー!列車の屋根に不審者がいるーって!」

「お前もだろ……分かったよ。」

三人で列車の屋根を渡り歩く。しかし時折列車の揺れや、吹き荒ぶ風圧でバランスを崩しそうになり、その度に姿勢を低くしてトカゲのように這った。
日はいつの間にか少しずつ昇り、暁は既に変遷を遂げていた。雲間から顔を覗かせた太陽は明るく煌々とし、月は徐々に薄く空色に溶けていく。そして自身から落ちる影はより黒々しく染まっていった。


◾️2番車両 屋根

屋根の端まで着いた。
そこから1番車両のデッキを見下ろす。屈強そうな男が変わらずタバコを吸いながら、外の景色を退屈そうに眺めていた。見た感じ40代で、そのいかめしい顔に寄ったシワが威圧感を覚えさせる。
三人ともじっと上から様子を眺める。

(たいくつぅー。)
アンが小声で言う。するとユリが彼女にしーっと注意する。精神年齢はユリの方が上のようだ。
そんな時、突如列車が大きく揺れた。

「きゃっ!」
ユリとアンの驚く声が漏れる。
するとそれが聞こえてか、デッキにいる男はビクッと反応した。

「誰かいるのか!?」
男は威圧するような声をあげ、周囲をブンブンと見渡す。するとアンは慌てた様子で何か取り繕おうとする。

「メ、メェーー!」
そして意味不明な言葉を発した。何がしたいのか分からない。

「……なんだ山羊か。たくっ。」
しかし男は何かに納得して、また柵にもたれかかる。そして何事もなかったかのようにまたタバコを吸い始めた。

(あの人はあほなんですかね……。)
ユリは男の方を見ながら、呆れたように続ける。

(山羊はンメェ~~ですよ。こんなのに騙されるだなんて……。)
どうやらこの空間にまともな人間はいないようだ。

気を取り直して再度男の様子を覗く。
なにやら財布を取り出していた。そこから乗車券のようなものを抜き、それをポケットに忍び込ませているようだ。
次に写真を一枚抜いて、興味なさそうに見始めた。そこにはあの民族衣装姿の幼い妹が映っている。どうやらこちらの財布で間違いない。
そして男はその写真を財布にしまう。そのまま……財布を列車の外へ放り捨てた。

「ああっ!」
こちらは思わず声をあげ、とっさに屋根から飛び降りて1番車両のデッキに着地する。そしてすぐさま男に迫った。

「うお、なんだテメェ。山羊の次は人間かよ。」
目の前の大男はとっさにその強面で威圧してきた。
すると同様に飛び降りてきたユリがその男に迫った。

「何で……何でよぉ、お財布返してよぉ!!馬鹿馬鹿馬鹿!!」
彼女は涙声でその男に怒った。

「ああもうちょろちょろと……。」
急な事に男は少し戸惑っている。

「あー、女の子泣かせたー!わー、かわいそー!」
アンは屋根の上からまた脚をだらんと垂らし、その男を茶化す。その両方に挟まれて男はうんざりとしながらこちらを見た。

「おいお前、この娘は連れか?さっさと連れ帰ってくれ!そもそもここはお前らが入ってきて良い場所じゃねぇんだぞ!」

当然こちらも憤っている。彼の顔面を思い切り殴りつけた。すると男は反動で柵の方へと打ち付けられる。その隙に男のポケットを弄り、乗車券を取り返した。

「あれは俺の財布だ。ただそれよりも、この乗車券に刻まれた赤獅子の紋章。これに反応したそうだな?……何でだ?」

「なんなんだテメェらさっきから!」
男が反抗しようとしたのでとっさに両手で首を絞める。途中暴れ、何度か顔面を殴打されるが、ただただ首を絞める力を込めた。
やがて彼は苦しみのあまり、こちらの肩をパンパンとはたいてギブアップする。
力を少し緩めた。

「ハァ……ハァ……お前やるじゃねえか。」

「いいからさっきの質問に答えてくれないか?大事な事なんだ。」
また手に力を込めようとすると、男は両手をあげた。

「はぁ……落ち着けよ、全く。その乗車券が大事……ねぇ。要するにお前はモスリンの人間なのか?」
この強面の男は何か知っているようだ。

――その時、横からドアの開く音がした。

「何事だ?」
そう姿を見せたのは背が高い、身なりの良い金髪の男だった。年齢は30くらいで、整った顔立ち、このジョーゼットにおいても目立つくらいの赤い派手なタキシードを羽織っていた。
彼はぞろぞろと護衛を引き連れて出てくる。
すると強面の男はビシッと敬礼した。

反対側からも扉の開く音がして、誰かやってくる。先ほどの東方訛りの警備員だった。

「警備員よ、彼を通したのか?」
その身なりの良い男は警備員の方を見る。その様子は物静かでしなやかだが、威圧感が見え隠れしている。

「はい。すみません。彼はどうやら、1番車両の人間に財布を盗まれたと主張しておりましたので。つい通してしまいました。」
警備員はこちらを庇うかのように弁明した。

「……確か昨日、そこの娘もそんな事をわめいていたな。聞こえてきたよ。」
彼はユリの方を見る。そんな彼女は眉をひそめ、口を開けて困惑していた。

「殊にヤーコフ、そなたが盗んだのか?」
そして彼はキッと睨みつけた。その鋭い瞳にそのヤーコフと呼ばれた男は全身が強張ってしまう。

「そ、その通りでございます。……し、しかし先程彼に返却いたしました。」
強面の彼が怯え切っている。この非情な空気に自分も呑まれそうになっていた。徐々に胸が早鐘を打ち始めるのを感じる……。

「……護衛の男が粗相をしたようだ。彼には後で強く言っておく。……驚かせてすまないな。余はソル・ジョーゼット。この列車のオーナーだ。」
ソルと名乗る彼はふいに表情を柔らかくしてこちらに握手を求めてきた。

「僕は……ルキです。」
こちらも握手を握り返す。

「ルキ。勇気ある行動は讃えるが、今後は慎んでいただけると有難い。とにかく用件が済んだのならばお引き取り願おう。」
ソルがそう言うと、警備員の男は2番車両の扉を開けてこちらを誘導する。その案内に従って中へと戻った。

◾️2番車両 通路

閉塞的な空間に入り、さっきまで響いていた風や列車の音が篭った音に変化する。とにかく、先程の縛り付けられるような空気からようやく解放された。

閑散とした車内、ふと顔を上げると、一人の女がタバコを吸いながら立っていた。昨日の青と白の服を着た小柄な救命医。確か名はイエヴァ。彼女はこちらを見るなりフッと笑った。

「件の彼が帰ってきましたね。」
イエヴァという女は吸っていたタバコを口から離し、警備員の男の方を見る。

「全く世話が焼ける……。」
男はため息をつく。すると彼女はまた静かに笑う。

「まぁいいじゃないですか、二人とも無事のようですし。ああでもあなた、顔から鼻血が出てますよ?」
彼女はこちらを見て言う。ふと顔に手をあてがうと、確かに指に赤い血がついた。

「ふふ、医務室へどうぞ。」
女はタバコを捨て、近くの部屋へと歩く。そして扉を開けてこちらを迎え入れた。
ユリを警備員に預けて部屋へと入る。


◾️2番車両 医務室



中は清潔な香りが漂っていた。ベッドや医薬品の入った棚があり、それらが整然と並んでいてる。彼女は洗面台で手を洗い、うがいをした後、テーブルの椅子に腰掛ける。そしてどうぞと向かいの椅子に座るように促してくる。その案内に従い、こちらも着席した。

「さっきはデッキで随分と派手に取っ組み合いをされておりましたね。」
女はまたフッと笑う。その左目の下にある泣きぼくろからはどこか憂さを感じさせた。

「すみません。あの男が僕の所持品を盗んだので取り返そうとしたんです。」

「はぁ、血気盛んなのは結構ですが、ジョーゼットでこんな鼻血出すようなお客様なんておりませんよ?」

「確かにそうなんでしょうが、お陰様で乗車券だけは取り返せたんですよ。この鼻血は勲章です。」
そう言うと彼女は苦笑いした。

「ひとまずお顔を触りますので、痛かったら言ってください。」
彼女はガーゼを取り出し、近くのアルコールの入った容器をとってそれに塗布した。そしてそれをこちらの鼻の付近にあてがう。

「……今夜は吹雪らしいですね。」
彼女は雑談がてら話しかけてくる。

「吹雪?……まだ冬に差し掛かる前ですが、随分と早いんですね。」

彼女はガーゼをポンポンとした後、赤く染まったそれをトレーの上に捨てた。

「あなたはここの人間ではないのですね。シフォンは高地です。切り立った山脈も多く、天気も荒れやすいのですよ。」
今度は手をこちらの顔にあてがい、指で鼻周りをそっと触り始める。……むずがゆかった。

車内には風を裂くような音がこもって聞こえ始める。少しずつ天気が荒れ始めているのだろうか。

「顔に痛みはございませんか?」
 
「大丈夫です。この程度の痛み、慣れっこなので。」
そう言うとイエヴァはまた苦笑いする。

「まぁ元気なのは結構ですが。少しばかり自重してくださいまし。……実はあなた方の事でお客様から少し苦情も来ておりますゆえ。」

「そ、そうなんですか……。すみません。」

「……さて、あなたのお顔ですが、単なる打撲ですね、特に骨折等もしておりません。もう鼻血も止まっておりますので、ほっといたら治りますよ。念のためお薬出しておきます。」
そう言って彼女は棚を漁り始める。

「ああ、ありがとうございます。イエヴァさん。」
彼女の名前を呼ぶと、急に女はビクッと身体を震わせた。
そしておもむろにこちらを見る。

「……どこで私の名前を?」

「ああ、ええと……確かカチューシャという客室乗務員から。なんとなく、お二人は仲が良さそうですよね。」
そう言うと彼女はため息を吐く。

「そうですか。すみませんが、個人的な事はあまり答えたくありません。……それにしてもあなた方は奇妙ですね。はぁ、このジョーゼットで何か起ころうとしているのでしょうか。」
彼女は棚を漁りながらぼそりと言う。

「ああそうだ。診療記録を取りますのでお名前と生年月日、お部屋番号を教えていただけますか?」

「……801のルキです。生年月日は、1885年11月16日です。」

「ありがとうございます。ルキさんですね。……それに今日で丁度26歳ですか。おめでとうございます。ではこれ、プレゼントです。食後にどうぞ。」
そう言って女は棚から薬を取り出し、それを手渡してくる。

……どうも自分達は列車で悪目立ちしているようだ。

「それでは、お大事になさって下さい。」
彼女の言葉を背にとぼとぼと部屋を出た。


◾️2番車両 通路

通路に戻ると、何やらドタバタとした音がする。

「コジロウ~コジロウ~コジロ~ウ~!」
……謎の呪文が聞こえてきた。

その声の方を見やると、警備員の男がユリを肩車したまま憔悴した表情でフラフラとしていた。

「やっと帰ってきたか……!」
彼はこちらを見て助けを求めるような表情を浮かべる。

「おいおい何やってるんだ、ユリ。」

「お兄ちゃん!今はコジロウさんと遊んでいるんです!」
ユリは楽しげに答える。コジロウとはこの警備員の名前か。彼女は早速人を困らしているようだ。
ユリはその脚を彼の肩から外し、勢いよく飛び降りた。

「お疲れ様です。コジロウさん。」
名前を呼ぶと彼は咳払いをした。

「……しかし子供の相手は、苦手だ。」
彼は頭を掻く。

「子供が苦手?良い歳して独り身なんでしょうか?」
彼は30代後半のように見えるが。

「……一人旅が好きなんでな。妻子がいたら淋しい思いをさせる。……じゃなくて、ルキだったか、お前はどうやって1番車両へ行ったんだ?ずっと拙者はここにいたんだが。」

「私たち、デッキのハシゴを登って上から行ったんですよ!」
ユリが余計な事を言う。するとコジロウはため息をついた。

「全く、オーナーがいる時に限って……。」
そう言って彼は頭を掻く。するとユリは急にうつむいた。

「あの人……嫌い……。」
そして不機嫌そうな表情を浮かべる。

「?……まぁとにかく、用事がないならもう帰れ。」
彼の言葉を背に、2番車両を去った。


◾️4番車両 ラウンジ

――慈しみ深き 謳われし者よ 豊穣の緑を はぐくみし者よ
いま風は吹き 鳥は鳴き 草原は茂り 狼は駆り 鐘が呼ぶ
祝福を与えたまえ とこしえに変わらぬ 愛をもって――

ラウンジを通り過ぎようとすると、綺麗な歌声が聞こえてきた。見ればアンが歌っているようだ。いつの間に戻ってきたんだ。

「ねぇお兄ちゃん、あっちへ行ってもいいですか?」
ユリはアンの方を見ている。歌が好きなんだろう。頷いてあげると、彼女は嬉々としてそこへ向かった。

「よう、ルキ!」
どこからか声がする。その声の主は……茶髪に派手なスーツ、アレクだった。彼はスツール席から手を上げてこちらを呼び掛けている。
それに答え、彼の隣のスツール席へと座った。

「こんにちは、アレクさん。ここは相変わらず陽気な雰囲気ですね。」

ラウンジ内は酒も出していないようで、バーテンダーの姿もない。周りには子供連れの家族がわちゃわちゃと遊んでいるようだ。

「そうだな。しっかし、アンから聞いたぞ?今朝列車の屋根に上がって遊んでたとか。随分と楽しそうな事やってるな。」
アレクはそう言ってニヤニヤ笑う。

「ははは……筒抜けなんですね。」

「まぁ残念なことに、アンの口はスカスカに軽いわな。しかしユリちゃんは元気そうで良かった。これでも昨日は心配したんだぞ?」

「確かに思ったより回復は早かったですね。あの子、結構いたずら好きみたいですよ。さっきも警備員の方を困らせていました。」

「ははは、そうなのか。まぁ元気な子の方が見てて気持ちもいいよ。……それにしても、ユリちゃんは妙に懐いてるようだけど、シフォンへ着いた後はどうするんだい?」
アレクは急にそんな事を言う。

その答えには少し悩んだ。ユリとは仲良くはなったものの、所詮他人だ。

「ううん、あの子の家まで送り届けるくらいでしょうか。」

「へぇ、ルキには恋人なり奥さんなりがいたりするのか?」
アレクはまたニヤニヤしながら聞いてくる。

「いませんよ。なぜそんな事を聞くんですか?」

「そういう人がいたらユリちゃんを引き取るのも大変だろうなーと思っただけだ。」

「いやいや、なぜ引き取る方向で進んでるんですか。あの子とは知り合ってまだ一日しか経っていませんよ?」

「まあなぁ。でもあの子ってモスリンの子なんだろ?……本当は両親に捨てられたんじゃないのかと思ってる。きっと辛い目にあったはずだよ。まだ小さい子だし、ちょっとは幸せな人生を歩ませてあげるのも大人の努めじゃないかな。」
アレクは少ししんみりと言う。しかし彼は何を知ったかのような口をきいているのだろうか。

「アレクさんはモスリンで何があったのか知っているんですか?」

「なんだ、昨日ここのマスターからモスリンブルー貰ったろ?あのブルーとかいう流行り病でモスリンは滅んだんじゃないのか。一部界隈ではそんな噂で持ちきりだぞ?」

「はぁ!?あんなものデタラメです!あ、あなたは……何も知らないんだ。」
ついカッとなって語気が強くなってまう。喋ってる途中でそれに気付いたものの、もう誤魔化しきれなかった。アレクはこちらの様子に少し面食らっているようだ。
少し気まずい空気が流れる……。

そんな折、花の匂いが漂い始める。

「やっほー!お二人さん!」
アンが能天気に話しかけてくる。しかし今しがた流れていたこの嫌な空気を破壊してくれるのはむしろ助かった。
彼女の隣にはユリがいて、楽しげに笑顔を浮かべている。

「よう。二人とも楽しそうに歌ってたな。」

「アンと一緒にモスリンのお歌を歌ってたんですよ!」
ユリの言葉にハテナが浮かんだ。

「モスリンの歌?」
こちらの疑問にアンが反応する。

「さっきのはー、モスリン讃美歌第3番よ!」

「へ、へぇ……。アンって随分とマニアックな歌知ってるんだなぁ。」
そう言ってこちらは頭を掻く。……思い出した。それはかつて豊穣の神と謳われし者へ、祈りを捧げるために歌っていたものだ。

「モスリンに顕在する、かの一柱は寒い土地柄であるはずのモスリンに緑をもたらし、暖かく生命を育んだそうだぞ。狼を使徒として操っているという話もあるけど、実際のところは人害をもたらす存在として解釈が別れるらしい。」
ふいにアレクは得意げに語った。

「へー、アレクくん。詳しいんだー!何で何でー?」
アンは不思議そうに訊ねる。

「そうだなぁ、そろそろお昼時だしレストランで続きを話さないか?腹も減ったろ。」
アレクが話を逸らした。一体何をもったいぶっているのだろうか。

彼の提案に乗ってラウンジを出た。


◾️13番車両 レストラン

ガヤガヤと人混みの声が聞こえてくる。車内は縞黒檀の壁で覆われ、真ん中の通路に沿って両端にテーブル席のブースが連なっている。天井には派手なシャンデリアがあり、落ち着いた上品な雰囲気を醸し出している。そこの空いているテーブル席に4人腰掛けた。隣にはユリ、そして目の前にはアレク、彼の隣にアンが座っている。
奥に厨房が備え付けられる車内は料理の良い匂いがそこかしこに漂っていて、心地よく鼻をくすぐった。

「せっかくだし奢るよ。」
アレクは気前よく言って、メニューを広げる。
メニューはシンプルに文字だけが羅列されていて、どうやらさまざまな地域の料理があるらしい。

「ユリはお子様ランチかな。」
こちらの言葉にユリは頬を膨らます。

「お兄ちゃん、私を子供扱いしないで下さい。私はジョーゼットステーキにします。ゲッ……ぷ。」
唐突にユリはえづく。

「あは、ユリちゃん本当にお腹空いてるのー?全部食べられるかなー?」

「いえ……なんか溜飲が。」

「大丈夫か?残したらアンが食ってやれよ。」

「えー、お肉好きじゃ無いのよねぇー。私は飲み物だけでいいかなー。赤葡萄のジュースにするー。」

「了解、じゃあ俺はボルシチにしようかな。シフォンでよく食ってたんだ。ルキは?」
アレクがこちらにメニューを聞いてくる。

「ラムシチューにします。」
モスリンでよく食べていた子羊肉のシチュー。ナツメグで羊肉の臭みを消し、他に数種類のハーブを一緒に煮込んでいた。これが同じ味付けかは分からないが。

ちょうど店員がやって来たので、アレクは全員分のオーダーをした。


「そういえば今夜は吹雪くらしいな。気温も氷点下10度を下回るとか。」
ふいにアレクが言う。

「へぇー、この辺は吹雪がくるのが早いのねぇー。そう言えばさっきお空を見てたけど、多分今夜は雷もゴロゴローって鳴りそうよー。ユリちゃん雷は平気ー?」
アンはユリに話しかける。

「へ、へっちゃらです。……うぇ。」
どこか自信なさげだ。

「アンはこの辺の土地の人間じゃないのか?だいたいこの時期から吹雪が始まるんだぞ。11月はよく風が荒れる月なんだ。」
アレクが言う。

「ふうん、だってここの土地、初めてきたしー。」
アンの言葉に、アレクはほくそ笑む。

「……予想だけど、アンはモスリンの人間じゃないのか?あの讃美歌、詳しすぎるし。」
アレクの言葉にアンは目をぱちくりとさせた。

「ええー、すごーい!当たりよ!……うふふー。実は実はぁー、この香水もモスリンのベルガモットを使ってるのぉー。」
アンはニコッと笑い、肩までかかる髪を手でなびかせる。花のみずみずしい香りがふわりと漂った。

するとアレクはおもむろに、胸の内ポケットから何か取り出して、そっとテーブルの上に置いた。

「……ところでルキは、これの意味がわかるか?」
アレクの差し出したものは、ジョーゼットの乗車券だった。702と書かれており、その脇には象徴的な物が刻まれていた。

「……赤獅子の紋章。」
それが指し示す意味はよく分かる。

「アレクさん、実はあなたもモスリンの人間なのですか?……神の啓示、その使命を帯びた人間。」
アレクはゆっくりと頷く。

こちらも乗車券をテーブルに出した。

「ルキ、やっぱりお前の乗車券にもこの紋章があったのか。……アンは?」
アレクがそう促すと、彼女も乗車券をポンと置いた。904の乗車券……。同様に赤獅子の紋章が刻まれていた。

「えへー、みんなお揃いだねー。」
こんな奇妙な事があるのだろうか……。

そんなタイミングで店員が料理を運び込んできた。
テーブルの上には色取り取りの美味しそうな食べ物や飲み物が並ぶ。ユリはじっとステーキを眺め、アンは早速ジュースに差されたストローをつまんで、それを味わい始める。

「……つまり、ここにいる四人全員……焼けたモスリンビークの森からやって来たって事だ。」
アレクは伏し目がちに言う。ユリも招待されたわけではないが、境遇は同じか。

「……この乗車券を持っていると言うことは、みんな目的は同じなんですよね。アレクさんはこれからどうするか把握してるんでしょうか?」
そう訊ねると、彼は口元に手を添えた。

「……今日の深夜、人が少なくなった時にラウンジで詳しい話をする手筈になってる。」

「もったいぶるのねぇー。ここで言っちゃえば良いのにー。」

「いや……実は俺もあんまり分かってないんだ。今日の深夜にラウンジで計画の首謀者が現れるらしいんだけど。」
アレクは釈然としない表情を浮かべる。

「なぁにそれー。良いように使われるだけなんじゃないの私達ー。」
アンもつまらなさそうに頬杖をつき、残りのジュースをちろちろと飲み干す。

ふいにユリがずっと黙り込んでいる事に気づく。確かに興味のなさそうな話をしてはいるが、それにしてもどこか様子が変だった。

「大丈夫かユリ?ステーキまだ一口しか食ってないじゃないか?」

「……ぅっ……ぅっ。」
するとユリがまたえずき始める。

「どうしたのー?もしかしてユリちゃん、もしかしてお腹いっぱい――」
アンがニコッと笑ったその時、突然液体が飛び散るような音がテーブルから散乱し、アンのその笑顔に青紫色の液体がかかった。

「……えっ?」
アンが声を漏らす。

「あ……ゔぁ…………ゔぁっ……ぁぁぁ……ごぼっ……」
ユリは天を仰ぐ。そして目を丸々と剥き、溺れるような声をあげてありったけの液体を前方に吐き出し続けた。一瞬口を閉じて止めようとするも、溢れ出るそれは一瞬で口内を決壊させ、また滝のように吐き出す。
……やがて全身の液体が抜けたのかと思うほどにそれを撒き散らし終えた時、彼女はプツンと気を失った。顔をテーブルに突っ伏して、更に液体を飛び散らす。続けて食器がテーブルの上から落ち、割れる音が車内に響く。
周りは意識のないユリに注目が集まり、徐々に騒めき始めた。
こちらがユリの様子を伺ったところで、彼女は何も反応しない。

そそくさと店員が近寄ってくる。そしてユリの様子を確認するや否や、乗務員を呼ぶと言ってその場を走り去った。
ユリの真正面にいたアンは顔や服に派手に液体がかかっていて、それはアレクにも飛び火していた。二人はユリや自身の様子を見ながら固まっている。

「ユリちゃん……どうしたんだ急に?食中毒ってことなのか?」
アレクがぼそりとつぶやく。……しかしそうは思えなかった。

「うえー、どうしたらいいのこれー。」
アンは自身についた液体を見て混乱しているようだ。こちらもユリに対して何をしてやれば良いのか分からず、ただ様子を見ることしかできない。
……周りの乗客の声が聞こえてくる。またあの女の子だ とヒソヒソ嘲る声だ。

少しすると乗務員達がぞろぞろとやって来た。
その中には救命医のイエヴァ、警備員のコジロウが混じっている。
その集団から、イエヴァが割って入って来た。

「何があったか教えていただけますか?」

「ええと、一緒にご飯を食べていたら突然えずきだして、この液体を吐き出したんです。」

「突然?……他に思い当たることは?」

「いえ……特には。」

「分かりました。少し見てみます。」

そう言ってイエヴァはユリの身体に触れる。そして軽く声をかけている。

「……意識は無し。かなり発熱していて、それにこの液体の血生臭さ……まさか……血?……青紫色だけど……。それに微かに混じるこのにおい……。」
イエヴァはなにやらぶつぶつと言い始めた。

「うわ……なにあれ。」
乗客の会話の声がどこからか聞こえて来る。

「あれが、血なのか?だとしたらもう死んだんじゃ……それに青い血なんて見た事がないが。」

「あ、あれは絶対ブルーって流行り病だ!お、俺は詳しいんだ。あの娘昨日からずっと様子がおかしかったぞ。あれはブルーの初期症状だ。それにモスリンだとかなんとか言ってたらしいぞ!間違いない!」

「ブルー?なんだそれは。ブルーベリージュースでも吐いたのではないのか?」

イエヴァは聞こえてくる乗客の声を聞いてうんざりしたような表情を浮かべる。

「ブルーに感染した人間はもう助からない。死体を火葬して病原菌を焼き尽くさないと周囲に感染するんだぞ!あの娘を列車から下ろしてさっさと燃やしてしまえ!」
その誰かの言葉を聞いてまた場が騒めき出す。飛び交う言葉の中にはモスリンの人間は燃やしてしまえと言う意見すら含まれていた。
その事にイエヴァは急に顔を真っ赤にした。

「あなた方はモスリンの人々に対してそのような事しか考えていないのですか!?燃やしてしまえですって!?……短絡的な!まだそのブルーという病と決まったわけではありませんし、それ以前に命を敬おうという気持ちも、助けようという気持ちも微塵も無いのですか!?」
彼女が激昂すると、急に周囲は静まり返った。
そしてイエヴァはコジロウにそっと声をかける。

「……コジロウさん、騒ぎが大きくなる前にこの子を医務室まで運びましょう。」

「……分かった。」
コジロウはそう言ってユリの身体を持ち上げる。

「ルキさん、彼女は一旦医務室まで移送します。そこで少し様子を見てみますね。」

「……分かりました。ユリをなんとかよろしくお願いします。」
そう言うと、二人はユリを連れてそそくさとレストランを出て行った。

「お、お客様……大丈夫ですか?」
周りにいた乗務員達はこちらを気遣ってくる。衣服の汚れたアンやアレクは、彼らに連れられてレストランを去っていった。

一人ぽつんと取り残される。そっと聞き耳を立ててみると、客同士の会話が聞こえて来た。ユリの症状、青紫色の血生臭い液体を吐き出したという話を延々としている。

「やっぱりあの娘の様子、ブルーっていう流行り病にかかっているんじゃないの?……もしかしてこの列車の人間全員感染して死ぬんじゃ……。」
そんな馬鹿な話があるか。

「お客様。……ルキ様。」
誰かが話しかけてくる。その方を見やると、銀髪を三つ編みにした客室乗務員が両手を前手に組んで立っていた。

「カチューシャ……さん?」

「少々お話したい事がございますので、ついて来ていただけますか?」
そう言って彼女はレストランの出口の方を見る。

「分かりました。」


◾️8番車両 自室

案内された場所は自分の部屋だった。
見慣れた落ち着いた空間だが、自身の心は未だ胸騒ぎが治らない。ゆっくりとベッドに座る。するとカチューシャは向かいの座席にドンっと座った。
そして彼女は身体を前傾させ、その薄赤い瞳でこちらをキッと睨みつけてくる。

「あんたどんだけ騒ぎを起こしたら気が済むのよ!今朝は屋根に上がって1番車両へ行ったそうね。それで今度はなに?また昨日みたいにあの子に変な物を食べさせたんじゃないの!?」
カチューシャは激昂してこちらに迫る。

「ユリはジョーゼットステーキを食ってただけだよ。……ああなった原因は俺もよく分からない。……カチューシャはブルーって病を聞いた事があるのか?」

「ブルー、ね。モスリンで蔓延したって流行り病でしょ?血で感染するとか聞いたけど……周りの乗客もそれを疑ってる。」

もし仮にそうだとしたら、ユリの血を浴びたあの二人は……。

「……それよりルキ、お願いだからもう何もしないで。あの子はイエヴァが面倒見てくれる。あなたはもう部屋でじっとしてて。これ以上何かされたら迷惑なのよ。」

「いや……そう言うわけにはいかない。」

「なんでよ!これ以上騒ぎを起こさないで。それに明後日の早朝にはシフォンに着くわ。乗車券の事を気にしてるならもう見せなくて良いから。ちゃんとシフォン駅の改札を出るまで送ってあげる。」

「それなら心配しないでいいよ。……ほら。」
そう言って乗車券を見せる。彼女は意外そうな顔をしながらもそれを受け取った。

「……ふうん、取り返せたの。良かったわね。」
カチューシャはそのまま乗車券を返してくる。

「……それにしても、あんたって不思議ね。……本当にルキって名前なの?実は偽名だったりしない?」
伏し目がちにこちらを見る。

「……何を訳の分からないことを言ってるんだよ。」

「忘れて。……とにかく余計なことはせずに、シフォンに着くまでこの部屋でじっとしていてよ。今は何も出来ることはないでしょう?ユリちゃんの様子はまた教えてあげるから。」

まるで子供をなだめるかのようなことを言って彼女は立ち上がる。

「……あと、あんたも着替えた方が良いわよ。」
そう言い残して部屋を出て行った。

部屋がしんと静まり返る。
洗面台に向かい、自身の様子を確認する。いつも通りの覇気のない黒い瞳。しかし彼女の言う通り顔や衣服が所々青紫色に染まっていた。
個室用のシャワールームへと向かう。中は狭いが落ち着くにはちょうどいい。蛇口をひねり、冷たいシャワーを浴びて平静さを取り戻そうとする。
しかし動揺は隠せなかった。あのユリの症状が何であろうと……何を吐いていたかもまだ分からないが、もはや生命の存続が危ぶまれる程の液体を吐き出していた。

シャワールームを出て、カバンから取り出した着替えを羽織る。
カチューシャの言う通り、今は何が出来ると言うわけでもない。そっとベッドに倒れ込む。
ユリも心配だが、今日の深夜ラウンジで何か話があるのだと言う。それだけは忘れないようにしなければ。

風が窓を強く叩きつける音がした。――じきに吹雪が雷鳴を連れてやってくるというのか。
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