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ランコは武雄の語りを聞く
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「武雄は生きている。だから、もう生まれているし、まだ死んでもいない。そこは境界ではない。違いますか?」
「うん。たしかにそうなんだけどね。ああそうだ、蘭子さんは『こぶとりじいさん』の話を知っているかい?」
ランコは頷いた。
お伽噺などこの数十年の間に一度も思い出したことはなかったけれど、たった今、記憶の海から釣り上げられた。頬に大きな瘤のある老人が、鬼の宴会に出くわし、瘤を取ってもらうという話だ。
「あの話は『宇治拾遺物語』という古典文学の中の一編がもとになっている。そこにも『右の顔に大なる瘤ある翁ありけり』とある。先ほど話したが、老人というのは死に近い。つまりこの世の端の方に存在しているんだ。それから、瘤。あれはおそらく尋常ではない大きさの瘤だ。異形と言っていいだろう。これがどういうことかわかるかい? 鬼の世界は通常は繋がることのない異界だ。だが、翁であり、さらに異形であったために、人としての境界領域に存在していたことで、異界に踏み込んでしまったんだ」
「なるほど」
完全に理解はできないが、言いたいことはわかった気がする。
「それにだ、『丹後国風土記』には『浦島太郎』と類似した話がある。それには、浦の嶋子、いわゆる浦島太郎に当たる人物のことだけど、その人のことを『為人、姿容秀美れ風流なること類なし』としている。この上なく美しく優れているということだ。人並外れてな」
「多くの人と異なることが、境界に接しているということですか? それで竜宮城へ行けたと?」
「まさしく」
「では、武雄が私のことを視れるのは……子供でも老人でもないので、なにか他人と異なる点があるのですか?」
「ああ。幼い頃に何度か死の淵に立っているね。どこが悪いというわけでもないのだが、なんというか、虚弱でね。すぐ熱を出すし、腹を下す。おかげでいまだに親の脛かじりさ」
「境界への道筋ができてしまったということでしょうか」
「その通り。蘭子さんは聡明だ」
そこで武雄はひどく咳込んだ。絶え間なく咳が出続けるため、息を吸う間もない。一瞬の隙をついて吸い上げた息はひゅうと竹笛のような音を立て、そのわずかな空気の流れがさらに咳を激しくさせた。
ランコはなすすべもなく、畳に蹲る武雄の揺れる背をただ見下ろしていた。
ようやく呼吸が落ち着いた頃には、武雄はすっかり憔悴していて、這って部屋の隅まで行くと、角の柱に背を預けた。
「横になった方がいいのではないですか? お布団を敷きましょうか?」
押入れの襖に手を伸ばすと、武雄は首を垂れたまま右手をひらひらと振った。
「いや、いい。このまま寝るよ」
「え。でも」
「こうなってしまうとね、横になる方が苦しいのだ」
ランコは押入れから掛布団だけ取り出し、武雄の膝にかけた。
「寒いでしょう。私にはよくわかりませんが」
「ああ、ありがとう。そうか、お前たちは寒さを感じないのか。なるほど話してみないとわからないものだな」
武雄はそう言ったが、ランコを視えることといい、目の前にしても驚きもしないことといい、境界についての知識といい、充分すぎるほどに二つの世界の関係を理解しているように思える。ランコが寒さを感じないことなど些細なことだ。
「蘭子さん、文机の上に書き付けがあるだろう」
掠れた声で示された紙の束を手に、ランコは武雄の傍らに膝をついた。
「これ?」
「ああ、そうだ。私の考察を記してある。もし興味があるのなら、これをご覧。すまないが、私は眠らせてもらうよ。好きなだけここで読んでいくがいい」
それだけ言うと、武雄はまるでこと切れたかのように脱力した。先ほどの咳でよほど体力を消耗したらしい。武雄のこけた頬は血の気がなく、死者であるランコよりもずっと死者みたいだった。
渡された書き付けは、右肩を紐で綴じた紙の束だ。何度も開いたり閉じたりしているようで、紙は毛羽立ち、よれている。
大きく書かれた表題をランコは指先でなぞり、読み上げた。
「『ヒガン考』……か」
「うん。たしかにそうなんだけどね。ああそうだ、蘭子さんは『こぶとりじいさん』の話を知っているかい?」
ランコは頷いた。
お伽噺などこの数十年の間に一度も思い出したことはなかったけれど、たった今、記憶の海から釣り上げられた。頬に大きな瘤のある老人が、鬼の宴会に出くわし、瘤を取ってもらうという話だ。
「あの話は『宇治拾遺物語』という古典文学の中の一編がもとになっている。そこにも『右の顔に大なる瘤ある翁ありけり』とある。先ほど話したが、老人というのは死に近い。つまりこの世の端の方に存在しているんだ。それから、瘤。あれはおそらく尋常ではない大きさの瘤だ。異形と言っていいだろう。これがどういうことかわかるかい? 鬼の世界は通常は繋がることのない異界だ。だが、翁であり、さらに異形であったために、人としての境界領域に存在していたことで、異界に踏み込んでしまったんだ」
「なるほど」
完全に理解はできないが、言いたいことはわかった気がする。
「それにだ、『丹後国風土記』には『浦島太郎』と類似した話がある。それには、浦の嶋子、いわゆる浦島太郎に当たる人物のことだけど、その人のことを『為人、姿容秀美れ風流なること類なし』としている。この上なく美しく優れているということだ。人並外れてな」
「多くの人と異なることが、境界に接しているということですか? それで竜宮城へ行けたと?」
「まさしく」
「では、武雄が私のことを視れるのは……子供でも老人でもないので、なにか他人と異なる点があるのですか?」
「ああ。幼い頃に何度か死の淵に立っているね。どこが悪いというわけでもないのだが、なんというか、虚弱でね。すぐ熱を出すし、腹を下す。おかげでいまだに親の脛かじりさ」
「境界への道筋ができてしまったということでしょうか」
「その通り。蘭子さんは聡明だ」
そこで武雄はひどく咳込んだ。絶え間なく咳が出続けるため、息を吸う間もない。一瞬の隙をついて吸い上げた息はひゅうと竹笛のような音を立て、そのわずかな空気の流れがさらに咳を激しくさせた。
ランコはなすすべもなく、畳に蹲る武雄の揺れる背をただ見下ろしていた。
ようやく呼吸が落ち着いた頃には、武雄はすっかり憔悴していて、這って部屋の隅まで行くと、角の柱に背を預けた。
「横になった方がいいのではないですか? お布団を敷きましょうか?」
押入れの襖に手を伸ばすと、武雄は首を垂れたまま右手をひらひらと振った。
「いや、いい。このまま寝るよ」
「え。でも」
「こうなってしまうとね、横になる方が苦しいのだ」
ランコは押入れから掛布団だけ取り出し、武雄の膝にかけた。
「寒いでしょう。私にはよくわかりませんが」
「ああ、ありがとう。そうか、お前たちは寒さを感じないのか。なるほど話してみないとわからないものだな」
武雄はそう言ったが、ランコを視えることといい、目の前にしても驚きもしないことといい、境界についての知識といい、充分すぎるほどに二つの世界の関係を理解しているように思える。ランコが寒さを感じないことなど些細なことだ。
「蘭子さん、文机の上に書き付けがあるだろう」
掠れた声で示された紙の束を手に、ランコは武雄の傍らに膝をついた。
「これ?」
「ああ、そうだ。私の考察を記してある。もし興味があるのなら、これをご覧。すまないが、私は眠らせてもらうよ。好きなだけここで読んでいくがいい」
それだけ言うと、武雄はまるでこと切れたかのように脱力した。先ほどの咳でよほど体力を消耗したらしい。武雄のこけた頬は血の気がなく、死者であるランコよりもずっと死者みたいだった。
渡された書き付けは、右肩を紐で綴じた紙の束だ。何度も開いたり閉じたりしているようで、紙は毛羽立ち、よれている。
大きく書かれた表題をランコは指先でなぞり、読み上げた。
「『ヒガン考』……か」
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