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62 降籏軍曹の片想い

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 家に戻った伊吹は、メイドの芳江に常備薬を貰った。
「大丈夫ですか? お嬢様」
 芳江は不安そうな表情をする。
「薬を飲めば大丈夫さ」
「もう今日になっておりますが、今日も早いのですよね?」
「明日は大学に行かなくても大丈夫だから、休むだけ休むよ。士官学校があるからな」
 伊吹は水を飲んだ。
「せっかくお薬を飲んだのだし、休んだらよろしいのに......」
「ありがとう、大丈夫だよ」
 伊吹は微笑んで、部屋に入った。 


ーーー士官学校にて。


(校庭、10周だったか......) 
 ふと、降籏軍曹が伊吹を睨み付けている。
(相変わらず、物騒な奴だな)

「医務室へ行って休んだらどうっすか?」
「うーん」
「顔色も悪いです」
「そうか......」
 ごく稀に優しさが垣間見れる時があると、ドキリとしてしまう伊吹だ。 
(恋というものが分かるとこんな様か)
 伊吹は苦笑したが、想いは裕太郎の方が強い。
「途中で倒れても困ります」 
「学校まで来れたんだ。そんな平気だよ、ありがとう」
 伊吹は微笑んだ。
「そうですか?」
 ほんと強情なんだから、と、思う降籏軍曹。

 剣銃を担ぐとふらつく。
「大丈夫ですか?」
 と、降籏軍曹が近づく。

「藤宮!! しっかりしろ!」
 怒号が飛ぶのは、春日井大尉だ。大前大尉があんな事になってしまったので、春日井大尉はかなりカリカリしていた。
「そのくらいでふらついていたら、戦場ではすぐにやられてしまうぞ!」
(その通りだな......)
 伊吹はグッと歯を食い縛り、立ち上がった。
 ピリピリーッ、と、笛の音が鳴る。剣銃を担いでの過酷な校庭10周。
 
 5週目辺りで伊吹は倒れてしまう。
 周囲の兵隊は上官に怒られてしまうので、見てみぬ振りをする。
「藤宮ーーー!!!」 
 上官は叫び、水道へ向かい、やかんに水を入れて持ってきた。
 それを見ていた降籏軍曹は、伊吹の方へ駆け寄る。
 伊吹は春日井大尉の行動に恐れ、立ち上がろうとしたが、春日井大尉は、ヤカンに入った水をぶちまけた。

(......ん?)

 春日井大尉の怒号。
「きっさまぁ!! 何をするか!!」
 頭からびしょ濡れの降籏軍曹を見た伊吹は、驚いた。
「熱を出しながらも走ってたんですよ」
「上官に口答えするか!!!」

 もし大前大尉がいたらこんな酷くはなかっただろう。
(よっぽど守られていたのだな.....)
 伊吹はふらふらと立ち上がって、
「申し訳ございません! 部下がこのような態度は、わたしの教育不足です」
「少尉殿......」
「言葉を慎め」
「ですが......」
「熱を出すのも、たるんでいるからだっ」
「はい」
「うつつを抜かしている時ではないだろう!」
 裕太郎のことだな、とは思う。
「それは関係ねぇだろ!! あんただって結婚してんだ!! いつ駆り出されるか分からねぇのに、それくらい許されんだろうがっ!!」
 カッとなる降籏軍曹。いかにも掴み掛かりそうな勢い。伊吹は慌てる。
「降籏軍曹、やめろ!!」
 叫んだと共に、目眩がして意識が飛んだ。
 身体がふわりと浮かんだような気がしたが、そこで闇が訪れてしまう。


 降籏軍曹は伊吹をおぶって、伊吹を医務室まで運んだ。
 今日の当直は遠野軍医だ。
 驚いた遠野軍医は、
「どうしたんだ、お嬢様は?」
 と、聞いてくる。
「熱を出しても、訓練に出ていたもんで、ぶっ倒れたんです」
 遠野軍医はそれを聞いて、ふぅ、と、溜め息を付く。
「無茶を知らないお嬢様だ」
「ほんとうに」
 降籏軍曹は苦笑し、丸椅子に腰掛ける。
 遠野軍医はひとまず氷のうと氷枕を用意してから、
「前崎執事に電話をしてくるから、見ていてくれるかね」
 と、言ってから、部屋を出た。
 伊吹の呼吸が荒い。 

「まったく........」
  伊吹の苦しそうな姿を見て、悪態を吐くが、心配になる降籏軍曹だ。
 いてもたってもいられず、降籏軍曹は伊吹の顔に近づくと、

「裕太郎」

 と、うなされながらも呟く伊吹で、
 胸が抉られた。 

(こんな近くにいても、眼中にはないってやつか。いつもあんな色男のことばかり......)
 八つ当たりをしたかったが、堪えた。
(好きな女に振り向いて貰えないからって、そんな事をしちゃいけねぇよな。男らしくねぇ) 
 降籏軍曹は苦笑いをした。
(俺らしく出来る事って、なんだろうな)
 降籏軍曹はそう思い、肩を震わせた。

 30分後、前崎執事がやってくる。

「車まで運びましょうか?」
 と、降籏軍曹。
「担架で担ぎますので、手伝って下さいますか?」
 と、前崎執事。
「俺一人で出来ますよ?」
 前崎執事は何かを悟り、遠野軍医を見てみると、遠野軍医は目で合図をした。
 無表情に暫く考えてから、
「それではお願いします」
 と、頭を下げた。

 遠野軍医は、あちゃーと、頭を抱える。そして、耳元で、
(叶わぬ恋に手助けしてどうする?)
 と、呟く。
(そっちでしたか......!)
 恋に疎い前崎執事だった。
    
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