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成敗29
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柏木優一は、困っていた。
ケーキ屋のバイトの終わりに、常連客の松本幸恵に捕まってしまった。
「一週間くらい前からトイプードルを飼い始めたんだけれども、全然懐いてくれなくって。ちょっと、様子を見に来てほしいんだけれど。……飼い方、教えてくれない?」
そう言って幸恵に見せられた動画。
「ひどい……」
部屋の中は、めちゃくちゃだ。
画面の背景に映る部屋。人間が住むには、快適そうに整えられているが、テーブルの上に置きっぱなしのヘアゴムも、観葉植物の種類も、子犬が誤飲すれば、命取りになる。
「こんなの駄目ですよ。ええっとですね……」
「だから、言われても分からないから。一回来て、全部チェックして教えて」
話を聞こうとしない幸恵。
仕方ない。この後で、モドキと本田さんを少し訪ねようと思っていたのだが、それは諦めて、幸恵の部屋に向かおう。子犬のためだ。
幸恵の部屋。まず、玄関に漂う甘い香水の匂いに驚く。
嗅覚の優れた犬には、この匂いは辛いはずだ。おおよそ犬好きの部屋とは、思えない。寒い部屋。動物を飼っているのに、エアコンも付けてあげていないんだ。
「あ、ほら、あの段ボールに入れているの」
幸恵が指さす方向には、大きめの段ボール箱、ゲージじゃないんだ。
中から、小さな子犬の鳴き声がする。
開ければ、怯え切った子犬が、ペット用シーツの上で震えている。
「ごめんな。びっくりしたよね」
声だけかけて、手を出すのは控える。触られることを怖がっているこの子に、手を出すのは、虐待だ。
モドキちゃんがいれば、この子に大丈夫だと伝えてあげられるのに。
人間の自分の言葉は、どうもうまく動物に伝わらない。
「お茶用意するね。コーヒーで良い?」
機嫌の良さそうな幸恵が、人間用にエアコンをつけて、お茶の用意を始める。
「とにかく、お腹が空いているようなので、まず、ご飯をあげたいんですけれども、お水も変えていいですか?」
「ごはん……。ソーセージとかあげてたんだけれども、それでいいよね?」
「あ、駄目です。塩分とか、多いので、人間用のでなく、ちゃんとペット用のをあげて下さい」
容器を洗って、新鮮な水に変える。
仕方ない。モドキちゃん用に飼っていた猫用チュールの方がましだろう。
自分の荷物から、チュールを取り出して、それを子犬の皿に入れてやる。子犬が、ガツガツとそれを食べ始める。痩せた子犬。幸恵は、一週間前から飼い始めたと言っていたが、ちゃんと飼わなければ、一週間でこんなになるんだ。柏木はゾッとする。
「あのですね。ネットの動画とかで良いんで、一度ちゃんと犬の飼い方の基本を……。どうしました?」
くっついてくる幸恵。コートを脱いだ下は、思った以上に露出の高い服装。
どこかを触ってしまっただけで、セクハラと言われてしまいそうで、両手を頭の横に上げて、無抵抗を意思表示してみる。
「これからも一緒に世話をお願い。私じゃわからないの」
上目遣いで柏木にそう幸恵が言う。
これは……この部屋に通えと言っているのだろうか?
自分を部屋に呼び込むために、犬を飼い始めたとか? まさか??
だったらどうしよう。断れば、犬の運命が恐ろしい。用済みで捨てられるとか、見殺しにされるとか……。断らなければ、ずっと部屋に通わなければならなくなる。
どうしよう。
柏木が迷っていると、ベランダから大きな物音がする。バンバンと窓を大きく叩く音。
「なんでしょうね。様子を見てきますね」
幸恵から逃れる言い訳を見つけて、ホッとしながらベランダに向かう。
窓を開ければ、ベランダの陰にモドキがいる。
「あれ? なんで?」
「静かに。今の儂は、通りすがりの風来坊だ。助けてやるから、窓を開けて、少し下がっていろ」
モドキに言われて、言われるがままに、窓を開けたまま後ろに下がる。
「何でもないようですよ。風かなあ?」(棒読み)
言い訳しながら、窓を全開にして後ろに下がれば、大きな烏が部屋の中に飛び込んで来る。
「きゃあああああ」
幸恵が派手な悲鳴をあげて、キッチンの陰に一人隠れる。
モドキも乱入して、部屋中を荒らしまわる。
ソファーにバリバリと爪を立てて、幸恵のバッグを襲う。
「何、この猫。それ、あたしのバッグ!」
幸恵が慌ててバッグをモドキから取り返えそうとする。
「野良猫ですかね。よくあるんですよ。勝手に入ってくることって」(大嘘)
バッグに大きな傷がついて、幸恵が焦っている。
モドキちゃん、それ、バーキン。めちゃ高いんだよ……。
傍若無人に派手に走り回るモドキは、部屋の家具を次々に狙う。
家具をモドキから守ろうと、幸恵も必死だ。
モドキが幸恵の目を反らしている内に、烏が小犬を捕まえて、天高く飛び去ってしまった。
「あ、マロンちゃん」
バッグを握りしめながら、幸恵が、小犬が連れ去れたことにようやく気づく。
「烏って獰猛ですからね。ああやって開けた窓から侵入して、生きたペットを攫って食べちゃうんです。これは、可哀想ですけれども、あの子犬は、もう連れ戻せないなあ」(棒読み・大嘘)
柏木の大嘘を信じたのか、信じていないのか。幸恵の興味と怒りは、モドキに向かう。
「このクソ猫。どうしてくれるのよ!! 鞄も家具もめちゃくちゃじゃない!」
幸恵がモドキをひっぱたく。
モドキの小さい身体は、ふっとんで壁にぶつかる。
でも、それだけで幸恵の怒りは収まらない。手に持ったスティック掃除機でモドキを殴りつけようとする。
だが、幸恵の攻撃は、モドキには届かなかった。かわりに、モドキを庇った柏木の背中を思い切り殴りつける結果となった。
「柏木さん?」
我に返った幸恵が戸惑う。
「僕は、どんな事情があろうとも、こんな風に掃除機で小さな動物を殴りつけようとする人は、大嫌いです! 帰ります!」
子犬がいないなら、この部屋に居る必要はない。
柏木は、モドキを抱き上げて、さっさと幸恵の部屋を後にした。
「柏木、しまった。一生の不覚だ」
「え、どうしたの?」
「……成敗、言いそびれた……」
はあ、と柏木の肩の上で、モドキがため息をついた。
ケーキ屋のバイトの終わりに、常連客の松本幸恵に捕まってしまった。
「一週間くらい前からトイプードルを飼い始めたんだけれども、全然懐いてくれなくって。ちょっと、様子を見に来てほしいんだけれど。……飼い方、教えてくれない?」
そう言って幸恵に見せられた動画。
「ひどい……」
部屋の中は、めちゃくちゃだ。
画面の背景に映る部屋。人間が住むには、快適そうに整えられているが、テーブルの上に置きっぱなしのヘアゴムも、観葉植物の種類も、子犬が誤飲すれば、命取りになる。
「こんなの駄目ですよ。ええっとですね……」
「だから、言われても分からないから。一回来て、全部チェックして教えて」
話を聞こうとしない幸恵。
仕方ない。この後で、モドキと本田さんを少し訪ねようと思っていたのだが、それは諦めて、幸恵の部屋に向かおう。子犬のためだ。
幸恵の部屋。まず、玄関に漂う甘い香水の匂いに驚く。
嗅覚の優れた犬には、この匂いは辛いはずだ。おおよそ犬好きの部屋とは、思えない。寒い部屋。動物を飼っているのに、エアコンも付けてあげていないんだ。
「あ、ほら、あの段ボールに入れているの」
幸恵が指さす方向には、大きめの段ボール箱、ゲージじゃないんだ。
中から、小さな子犬の鳴き声がする。
開ければ、怯え切った子犬が、ペット用シーツの上で震えている。
「ごめんな。びっくりしたよね」
声だけかけて、手を出すのは控える。触られることを怖がっているこの子に、手を出すのは、虐待だ。
モドキちゃんがいれば、この子に大丈夫だと伝えてあげられるのに。
人間の自分の言葉は、どうもうまく動物に伝わらない。
「お茶用意するね。コーヒーで良い?」
機嫌の良さそうな幸恵が、人間用にエアコンをつけて、お茶の用意を始める。
「とにかく、お腹が空いているようなので、まず、ご飯をあげたいんですけれども、お水も変えていいですか?」
「ごはん……。ソーセージとかあげてたんだけれども、それでいいよね?」
「あ、駄目です。塩分とか、多いので、人間用のでなく、ちゃんとペット用のをあげて下さい」
容器を洗って、新鮮な水に変える。
仕方ない。モドキちゃん用に飼っていた猫用チュールの方がましだろう。
自分の荷物から、チュールを取り出して、それを子犬の皿に入れてやる。子犬が、ガツガツとそれを食べ始める。痩せた子犬。幸恵は、一週間前から飼い始めたと言っていたが、ちゃんと飼わなければ、一週間でこんなになるんだ。柏木はゾッとする。
「あのですね。ネットの動画とかで良いんで、一度ちゃんと犬の飼い方の基本を……。どうしました?」
くっついてくる幸恵。コートを脱いだ下は、思った以上に露出の高い服装。
どこかを触ってしまっただけで、セクハラと言われてしまいそうで、両手を頭の横に上げて、無抵抗を意思表示してみる。
「これからも一緒に世話をお願い。私じゃわからないの」
上目遣いで柏木にそう幸恵が言う。
これは……この部屋に通えと言っているのだろうか?
自分を部屋に呼び込むために、犬を飼い始めたとか? まさか??
だったらどうしよう。断れば、犬の運命が恐ろしい。用済みで捨てられるとか、見殺しにされるとか……。断らなければ、ずっと部屋に通わなければならなくなる。
どうしよう。
柏木が迷っていると、ベランダから大きな物音がする。バンバンと窓を大きく叩く音。
「なんでしょうね。様子を見てきますね」
幸恵から逃れる言い訳を見つけて、ホッとしながらベランダに向かう。
窓を開ければ、ベランダの陰にモドキがいる。
「あれ? なんで?」
「静かに。今の儂は、通りすがりの風来坊だ。助けてやるから、窓を開けて、少し下がっていろ」
モドキに言われて、言われるがままに、窓を開けたまま後ろに下がる。
「何でもないようですよ。風かなあ?」(棒読み)
言い訳しながら、窓を全開にして後ろに下がれば、大きな烏が部屋の中に飛び込んで来る。
「きゃあああああ」
幸恵が派手な悲鳴をあげて、キッチンの陰に一人隠れる。
モドキも乱入して、部屋中を荒らしまわる。
ソファーにバリバリと爪を立てて、幸恵のバッグを襲う。
「何、この猫。それ、あたしのバッグ!」
幸恵が慌ててバッグをモドキから取り返えそうとする。
「野良猫ですかね。よくあるんですよ。勝手に入ってくることって」(大嘘)
バッグに大きな傷がついて、幸恵が焦っている。
モドキちゃん、それ、バーキン。めちゃ高いんだよ……。
傍若無人に派手に走り回るモドキは、部屋の家具を次々に狙う。
家具をモドキから守ろうと、幸恵も必死だ。
モドキが幸恵の目を反らしている内に、烏が小犬を捕まえて、天高く飛び去ってしまった。
「あ、マロンちゃん」
バッグを握りしめながら、幸恵が、小犬が連れ去れたことにようやく気づく。
「烏って獰猛ですからね。ああやって開けた窓から侵入して、生きたペットを攫って食べちゃうんです。これは、可哀想ですけれども、あの子犬は、もう連れ戻せないなあ」(棒読み・大嘘)
柏木の大嘘を信じたのか、信じていないのか。幸恵の興味と怒りは、モドキに向かう。
「このクソ猫。どうしてくれるのよ!! 鞄も家具もめちゃくちゃじゃない!」
幸恵がモドキをひっぱたく。
モドキの小さい身体は、ふっとんで壁にぶつかる。
でも、それだけで幸恵の怒りは収まらない。手に持ったスティック掃除機でモドキを殴りつけようとする。
だが、幸恵の攻撃は、モドキには届かなかった。かわりに、モドキを庇った柏木の背中を思い切り殴りつける結果となった。
「柏木さん?」
我に返った幸恵が戸惑う。
「僕は、どんな事情があろうとも、こんな風に掃除機で小さな動物を殴りつけようとする人は、大嫌いです! 帰ります!」
子犬がいないなら、この部屋に居る必要はない。
柏木は、モドキを抱き上げて、さっさと幸恵の部屋を後にした。
「柏木、しまった。一生の不覚だ」
「え、どうしたの?」
「……成敗、言いそびれた……」
はあ、と柏木の肩の上で、モドキがため息をついた。
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