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第一章 辺境伯領
エーリクと
しおりを挟むレオニダスの邸で暮らすようになって二ヶ月ほど経った。
あの日出会った天使さま、エーリクは私のことをいつも心配してくれて、いつも一生懸命色んなことを教えてくれる。可愛すぎる。抱きしめたい。
エーリクは邸のみんなの名前や文字、数字を丁寧に教えてくれる。それはエーリクの勉強にもなるから、大いに学べ、みたいな雰囲気で(多分)レオニダスは言った。執事のヨアキムさんは私にノートと鉛筆を用意してくれて、エーリクと一緒に書き取りをするのが日課になった。
「じゃあこれはなんて読む?」
「んー、……わたし、の、ほん」
「そう!」
「これ、おもしろ」
「面白い」
「おもしろい」
ふふふ、と嬉しくなって笑うと、エーリクは偉い凄いと褒めてくれる。たまに頭も撫でられてどっちが年上か分からなくなるけど、私もどさくさに紛れてふわふわの髪を撫でたりしちゃう。はあ、可愛い。
ノックがして、執事のヨアキムさんが部屋のドアを開けた。
「エーリク様、ロイトン先生がいらっしゃいました」
「やあ二人とも、おはよう」
エーリクの家庭教師、ロイトン先生が両腕に本をたくさん抱えて来た。
「おはようございます、ロイトン先生」
エーリクは立ち上がり礼儀正しく挨拶をする。可愛い。私も続けて同じように挨拶をする。
「おはよう、ございます」
「ナガセくん、今日は君にもいい本を持って来ましたよ」
ロイトン先生はエーリクの勉強を教えながら、嫌な顔せず私のことも見てくれる親切な人。オレンジ色のクルクルした髪に深い緑色の瞳の先生は、とっても愛妻家で(多分)、奥様お手製(多分)のお菓子を持って来てくれる。これがまた美味しい!
エーリクには難しそうな算数とか歴史を教えていて、文字の書き取りから始めている私にはさっぱり分からないけど、真剣な表情のエーリクを側で見られるこのひと時も、私にとって癒しの時間。はあ、抱きしめたい。
エーリクが先生に指示を受けて分厚い本を読み出した。辞書かな?
「さあ、ナガセくんはこっちを読みましょう。僕の子供たちが小さい頃使っていた本だよ」
ロイトン先生は私に何冊か絵本を渡してくれた。
わあ! 絵本! 可愛い!
絵本には人の顔が書いてあって、その下に単語が書いてある。あ、これはお父さん、てことね?
私は指差して単語を読む。
「おとうさん」
「正解。大分読めるようになって来ましたね」
偉い偉い、と、先生にも褒められる。
ありがとうございます、もっと褒めて! 褒められて伸びるタイプですから!
指で絵と文字を追いながら、エーリクの邪魔にならないようにそっと発音する。ここの言葉は音がとても綺麗。耳に心地よくて、ついつい真似してしまうから、意味も分からず声に出しているとよくレオニダスに笑われる。
うん、だって意味が分からないから。私も辞書が欲しい。
ちなみに私は、みんなに男の子だと思われたまま。女の子って単語も知らなかったし、今日借りた絵本で覚えたとして、果たしてどう伝えればいいのか。
もう、エーリクといられるならこのままでもいいかな……と思ってる。不都合はないし。
それと、レオニダスはやっぱりとても偉い人でとても忙しい人だということがなんとなく分かった。エーリクのお父さんでもないことも。
なんとなくホッとしたのは秘密。
でも気が付いた。この世界に来て、もうさすがにこの現実を受け入れて生活しているつもりだけど、生活だけじゃなくて気持ちが完全にレオニダスに依存してる。
レオニダスがいなくなるだけで不安になってた初めの頃ほどではないけど、でもまだ、毎晩帰宅してから様子を見に来てくれるレオニダスが待ち遠しい。
会えないと不安だ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、レオニダスはウルを私に託してくれた。邸の中を移動するのも、部屋で寝るのも、ウルがずっとそばにいる。眠る時に感じるウルの重みと暖かさが、私を不安から解放してくれる。
まだ怖くて、一人では眠れないから。
何故か最初からウルに懐かれていた私は嬉しくて、何度もお礼を伝えた。ありがとうは、エーリクが教えてくれたから完璧。レオニダスは目元に笑い皺を寄せて、頭を撫でてくれた。
「ナガセ、今日は厨房へ行こう」
エーリクはロイトン先生が帰った後、私の手を取って邸の厨房へ連れて行ってくれた。
厨房だからウルは居間でお留守番。分かってるところが本当にお利口さん。
こうやっていつも、邸の色んなところへ連れて行ってくれてそこにあるものの単語を教えてくれる。単語を教えてくれるのはとってもありがたい。
前は洗濯室に連れて行ってくれた。そこで働く女性たちとたくさん話して、仲良くなれたと思う。半分以上何言ってるか分からなかったけど、最後にキャンディをくれたから嫌われてはいないと思う。
厨房に来るのは今日で二回目。
以前は仕込みの最中で忙しかったらしく、なんとなく殺伐とした雰囲気であまり話せなかった。エーリクも厨房の人に何か謝ってすぐに退室した。ごめんねエーリク。謝らせちゃって。
「こんにちは、ナサニエル」
エーリクが厨房に入って料理長らしき男性に挨拶をした。白い料理人の仕事着を着ていて、頭には白い帽子をかぶってる。
「エーリク坊ちゃん」
ナサニエルさんは、大きな鍋の火を小さくしてこちらにやって来た。大きな身体をしたナサニエルさんは、仕事着の上からでも凄い筋肉なのが分かる。うん、料理人にその筋肉いりますかね?
「坊ちゃんはやめてって言ってるのに」
「ははっ、俺にとってはいつまでも坊ちゃんですよ」
なんだか拗ねたようにエーリクが頬を膨らませてる。つついていい?
「ナガセ、今日はここで色んな単語を覚えよう。ちゃんと時間を約束して来たから、今日は大丈夫だよ」
「仕込みまで今ちょうど時間がありますからね、何でも聞いてください!」
ドンと胸を叩いたナサニエルさんの仕事着を捲った腕は凄い太い。何したらそんなになるのかな。
「よろしく、おねがいします」
ペコリと頭を下げると、ナサニエルさんはご機嫌で調理器具を並べ出した。鍋やフライパン、お玉にトング。色んな大きさのお皿もグラスも、ニコニコとエーリクは教えてくれる。私はそれを繰り返し発音して書き取りながら、だんだん楽しくなって気が付いたら鼻歌を歌っていた。
「ナガセ、歌好き?」
「うた」
「うん、今の」
そう言ってエーリクが私の鼻歌を真似する。
「うた!」
嬉しくなって今度はちゃんと歌うと、エーリクは目を丸くしてパチパチと拍手してくれた。
「凄い! 素敵な声だね、ナガセ!」
「知らない歌だが、いい声だな」
ナサニエルさんも嬉しそうな顔をしてる。なんだか分からないけど、褒められているみたい。
「歌、だよ、今の」
「うた」
「好き?」
「うた、すき」
うんうん、きっと好きってことよね?
「歌が好きなやつに悪い奴はいないんだ!」
「ナサニエル、そんなの聞いたことないよ!」
がはは、と豪快に笑うと大きな声でナサニエルさんは歌い出した。
凄い声量!
伸びやかなナサニエルさんの声は音域はそんなになくても、生活に根付いた歌を情感豊かに歌い上げる。
オペラ歌手のような声が、私の感情を揺さぶった。
そうだ、私には音楽が足りなかったんだ。あんなに毎日触っていたピアノに、もうずっと触れていない。
触りたい、音楽に溺れたい。
楽しそうに手拍子をするエーリクの横で、無意識に私は鍵盤を弾くように指を動かしていた。
頭に浮かぶピアノ。弾きたいな。
ナサニエルさんが歌い終わって、エーリクはパチパチと拍手をして私を振り返って聞いた。
「もしかしてナガセはピアノが弾ける?」
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