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∽3∽[一途]の役割
§29[窺知(キチ)]
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「ん……」
私は授業の始まる直前にちょっとだけ伸びをしてパックのコーヒーを飲んだ。きちんと寝ているはずなのに、最近睡眠の質が悪いのか寝起きからずっとスッキリしない。
(夢も覚えていないのに)
授業中は飲み物くらいは許されるけれど、なんとなく気分的に授業前に飲み干して片付けておく。
今日は放課後にスポーツ大会の準備があるから授業中に出来るだけ集中して復習の時間を減らさないといけない。一息つくうちに、教室が静まり返って授業が始まった。
心理学の授業をサボる人は少ない。就職に大きく関わることもあるけれど、今の世界で必須の知識になっていると誰もが分かっている。それこそ、数学よりも実感を持って。私ももちろん前方の席で授業に臨むけれど、ここ最近ずっと、授業に集中する傍らで思考が気まぐれに行き来するのを感じていた。
『神』は、どうして人間を殺すのか。感情が、どうして『神』を止めるのに必要なのか。心理学は学んでも、その詳しいメカニズムまでは学生で学ぶ事は出来ない。想像できるようでいて、学べば学ぶほど理解が遠のいていく。マイナス感情は同族であっても殺す原動力になりうる。感情を持つ人間は、感染症をもたらす蚊や野生の獣を追い抜いて、今やあらゆる動物よりも人を殺しているんだ。もし万一プラスの感情だけを機械に与えることが出来たとして、それが良い方向に働くとは確信できない。プラスの感情しか持たない人間がいたとして、それは半分サイコパスだ。
(感情を、私は信用できない)
そもそも、人の持つ感情を正確に読み取ることすらできないのに、機械に感情を導入できると確信しているのは何故だろう。いや、機械が感情を持っていないとどうして断言できるんだろう。この学校のスキャナー程度では、精神性麻薬すら見つけることができないのに……。絵美里が心を持っていなかったと、未だに信じられないのに。
(「神」が、感情で人間を殺しているとしたら)
感情について必死に考えている人類の取り組みは、全て無駄になるのかもしれない。殺されるしかないのかもしれない……ふと思いついた考えに、私はぞっとして内心首を振る。そもそも、動機がパッと思いつかなかった。合理的で考えうる限り正確な、人間が安全面も考えて組んだAIが、どうしたら人類全てを恨むようになるのだろう。先人は何を失敗したっていうんだろう。
『ワレワレハイチド、マチガエタ。モウアヤマチハユルサレズ、ヤメルコトモユルサレナイ……ハイジョセヨ……』
ふと、あの幻聴が頭の中に蘇った。一字一句覚えてはいないけれど、鮮烈な言葉がいくつかは焼き付いている。
(間違えたのは……誰?)
深く考えもしなかったけれど、これは誰目線の言葉なのだろう。幻聴に意味があるはずがないと思いながらも、考えの脱線を止められない。
最初聞いた時は、人間の言葉だと思った。「神」なんてものを創り出してしまった間違いと、人間の存亡を賭けて止める事は出来ない戦いに向け、敵対アンドロイドを破壊する決意だ。
でも、あの幻聴には続きがあった。
『ニドメノシャカイニゲンザイノトコロ……ハ、ナイ……オロカニモ……ハ、ホゾンサレナケレバナラナカッタ……トウタ…………ユルサレナイ……キロクハ、ホゾンサレナケレバナラナイ……』
「二度目の社会」とは、何のことだろう? それに、「保存」も「淘汰」もどんな物に対しても使う言葉だけれど、二つ一緒に使うと特定の意味が浮かんでくる。「種の保存」「自然淘汰」。いわゆるダーウィンの進化論だ。進化というのは、どうも非生物のアンドロイドに使う言葉らしくない。
(逆だったら)
勝手に心臓がドキドキし始めた。授業のスライドに置いていかれないようにしながらも、自分が二人になったように考えが暴走していく。
あれがアンドロイド側の言葉だったら。それでも意味は通じそうだ。排除するのは人間。その過程で、何か大きな失敗をしてしまったんだろうか。今の所主要な都市はアンドロイドから守られているし、その中に「神」にとって深刻な失敗があったのかもしれない。「二度目の社会」というから、アンドロイド側にも社会のようなものがあって、一度崩壊してしまった可能性がある。
その次が分からない。聞こえた言葉を繋ぎ合わせる限り、こう聞こえる。
『愚かにも……は保存されなければならなかった。淘汰……は許されない』
私には、最初の「……」部分に入るのはやはり生物の方が自然に思えた。例えば、人間とか。
(人間が保存されなければならない?)
……やっぱりこの思いつきは間違っているみたいだ。人間を多く殺そうとしているアンドロイドが人間を保存したい……人間という生物種を守りたいなんて思っている訳がない。それに、淘汰……人間が絶滅する事まで気にして、許されないなんて言うはずがない。間違いを繰り返さないためにはもう許されない事だと言っているのだから、よく考えればすっかり前半の意味が変わってしまう。そう、まるで……。
(アンドロイドが滅ぼそうとした結果、実際に一度人間が滅びかけて、その時にアンドロイドにとって悪い事が起きて……今度はそうならないよう、何かを排除して必死に人間を守っている、とでも聞こえてしまう)
そんな訳がない。人類が滅びかけたような歴史は習っていないし、今だってアンドロイドと人間の戦争は続いている。第三勢力となる脅威は存在しない。多分深読みしすぎたのだ。保存とか淘汰も別の意味で、そもそも幻聴の内容を深く考える事自体がどうかしていた。私は首を振る。
(多分、ちゃんと勉強していれば、私のまだ知らない理論が出てきて今の疑問も全部分かるんだ)
授業の内容自体は難しくないのに、そう思わなければ集中できなかった。それでも、集中しなければいけない。そうしなければ……そう、しなければ?
私はふと、自分が掌に爪を食い込ませて震えていることに気づいた。手を開くと、よっつの赤い三日月が並んでいた。何の意味もない痕だ。
最近のアンドロイドは内出血も再現する。拳を握りしめても、私は人間である事すら証明できない。もし食い込んだ爪が血を滲ませていても、赤く血の匂いのするオイルを巡らせたアンドロイドは容易く真似してしまうだろう。聞いた話では、血管によく似たしなやかなチューブが模型を作るように精密に仕込まれ、浅い傷では見分けがつかない所まできているらしい。徹底的に外側は人間なのだ。
(……あの日に、私は、とんでもない事をしてしまっていたかもしれなかったのかも)
ふと湧いてきた感情に、そっと私は掌を撫でる。汗ばんだ掌に伝わる感触は自分の指なのにくすぐったくて、何かいけない事をしているような気分になってしまう。
もし口内に銃が仕込まれていなかったら、私を最後まで騙す方針を取っていたら、私が気づかないまま手を引いていたら、いつかの過去、敵対アンドロイドをシェルター内に連れ込んでしまった私がいたかもしれなかった。逃げ込む人々を素早く捌かなければならないシェルター入口のスキャナーが、正確にアンドロイドを発見できるかも分からない。もしあの時、そんな事をしていたら……シェルター中の人が、危険に遭っていた。私一人では負いきれないほどの責任だった。
無知は罪だ。無知は言い訳にならない。初めに教えてくれたのは優馬さんだった。アンドロイドの事だけじゃない、優馬さんは、もっともっと多くの事を……私の過去の過ちだって正そうとしてくれた。だから私は、優馬さんを好きになっていった。そうするのが正しかった。「自然な事」だった。
(私は、知りたい。知をもって正しくありたい……?)
初めて思いついた発想に、私は首をかしげる。もちろん授業中だから、心の中でだけだ。でももう授業をしっかりと聞く余裕もない。いきなり現れた感情が、ぐいぐいと私を思考の波へと引っぱっていこうとしていた。
(待って、私は正しくない。今の私は、知っているくせに、絶対正しくない)
授業に集中できていない。親友の絵美里に何もしてあげられていない。優馬さんに対して誠実じゃない。猫ちゃんの事で九祖先輩にも失礼な態度を取ってしまった。円居さんとは中途半端な距離を保ったままで、[役割]のみんなにもお世話になったのに恩返しできていない。私の過失じゃないとはいえタブレットを故障させてしまったし、それに、それに……そして、
(知っているのに、私は正しい行動をしていない)
ガタン、という大きな音が私を一瞬、正気に戻した。
「すみれさん? 大丈夫?」
「あ……大丈夫、ありがとう……すみません、ちょっと保健室に……いえ、一人で行けます」
倒れた椅子を戻して、震える手でタブレットを抱える。教室を出たら、今にももどしそうなくらい胃がムカムカし始めた。ゆっくりとトイレに向かってナメクジみたいに歩き出す。
(私は、覚えていた)
さっきまでの全ての思考はフェイクだった。気づかないふりをするために、必死に要点から目を逸らしていたから、他の事が逆に気になってしまったのだ。私は……
(私は、正しくありたい)
∽
「げ」
「あ? お前……!」
物静かな画廊で、円居レンは、最悪なタイミングでの出会いを果たしていた。相手は一年の時同じクラスだった九祖狐音という男だ。
(……最近、出くわし運が悪すぎる)
心の中で「やれやれ」のポーズをしていると、沈黙が良くなかったのか九祖が「お前、サボリ魔のレンじゃないか!」とやたら五月蝿い声で話しかけてくる。
「……僕の事は『サボリ魔』で登録されてんの」
「イベントサボりの常習犯だったからな! 俺はお前の事嫌いだし」
面と向かって言われるのは久し振りで、やや虚を突かれてしまう。普段ならそれでも「あっそ」程度に流して早々に立ち去るところだったが、レンの中でふと、慣れない感情が渦巻いた。
「……[役割]の仕事で休んだ事しか無いけど」
見栄か不満か、自己顕示欲か。数ヶ月前なら行動を起こさせるほどの力を持たなかった感情だった。
「そっか。でも嫌いだ、[役割]の事詳しくないから事情は知らないけどな」
返ってくる真っ直ぐな言葉は、理解には程遠いながら、何故か耳良かった。まるでその言葉をずっと聞きたかったかのように、心が凪いでいく。
「まあ、男子に好かれても困るけど。で、猫見に来たんでしょ。好きにすれば」
「ん? お前もまさか見に来たのか?!」
「僕はもう帰るし」
「待て、最後にナニィと俺のツーショット撮ってから帰ってくれ」
「……勝手に名前つけてんの?」
話してみれば、驚くほどに対話は成立する。
(……すみれに、だいぶ毒されてるな)
思い出すのは、もちろん毒など持たない紫の花の事ではない。
「……そういえば、すみれちゃんーーいや、うちの高校の女子が来てなかったか?」
「は?」
さっさと帰ろうとしたレンは、あまりにもあっさりと発されたその言葉に足を止めた。
「?『は?』って何だよ」
「……いや別に?」
「何? ってか、俺聞いてるんだけどな。見てないか?」
「そもそも、きみに名前呼びを許可しそうな後輩女子には、心当たりがないね」
「んん?」
何を言われているのか分からないという顔で頭に手をやる男を見て、思わず口から馬鹿にしたような含み笑いが漏れた。
「っふふ、はっ……きみのような無神経には想像もつかない話だよ」
「何だよ、知ってるなら教えてくれてもいいだろ」
「そうやって厚顔晒せるのも、何しても許してもらえる顔と環境で育ってきたツケかな。確かにきみは、[人傑]でも[リーダー]でもない。その無自覚っぷりと無神経じゃ[歪曲]にも[籠絡]にもなれやしない。きみが[役割]を持てない理由がよく分かったよ、今」
「なに……?」
詳しくない、事情は知らない、といくら言ったとして、今の社会では[役割]持ちが優遇されている事くらいは誰もが知っている。レンの言葉は、[役割]を持たない者誰もが少なからず抱える感情……劣等感を真っ向から煽り、さらにそれを彼自身に欠点があるからだと切ったのだ。いくら九祖狐音が言葉の裏を読まない性格だろうが、これだけ言われれば悪言である事は分かる。
それでいて、レンは何が悪いのか具体的な事は言っていない。怒った様子も見せず、いっそ淡々と告げる。その態度に、毒舌にも関わらず相手はどこか戸惑ってしまう。何が目的か分からなくなるのだ。[誘惑]で鍛えられた言葉は、[役割]を持たない者にも牙となりうる。そして自己防衛の為なら、レンは仕事でなくともその舌剣を使う事をためらったことはなかった。
(……今のコレが「自己防衛」かは置いといて、ね)
案の定、九祖は先に怒るべきか問うべきか宙ぶらりんになってしまったようだ。
「おいーー待っ、……」
「何?」
「……クソッ!」
反論一つ許さずに、レンは今度こそ画廊を去った。
∽
私は授業の始まる直前にちょっとだけ伸びをしてパックのコーヒーを飲んだ。きちんと寝ているはずなのに、最近睡眠の質が悪いのか寝起きからずっとスッキリしない。
(夢も覚えていないのに)
授業中は飲み物くらいは許されるけれど、なんとなく気分的に授業前に飲み干して片付けておく。
今日は放課後にスポーツ大会の準備があるから授業中に出来るだけ集中して復習の時間を減らさないといけない。一息つくうちに、教室が静まり返って授業が始まった。
心理学の授業をサボる人は少ない。就職に大きく関わることもあるけれど、今の世界で必須の知識になっていると誰もが分かっている。それこそ、数学よりも実感を持って。私ももちろん前方の席で授業に臨むけれど、ここ最近ずっと、授業に集中する傍らで思考が気まぐれに行き来するのを感じていた。
『神』は、どうして人間を殺すのか。感情が、どうして『神』を止めるのに必要なのか。心理学は学んでも、その詳しいメカニズムまでは学生で学ぶ事は出来ない。想像できるようでいて、学べば学ぶほど理解が遠のいていく。マイナス感情は同族であっても殺す原動力になりうる。感情を持つ人間は、感染症をもたらす蚊や野生の獣を追い抜いて、今やあらゆる動物よりも人を殺しているんだ。もし万一プラスの感情だけを機械に与えることが出来たとして、それが良い方向に働くとは確信できない。プラスの感情しか持たない人間がいたとして、それは半分サイコパスだ。
(感情を、私は信用できない)
そもそも、人の持つ感情を正確に読み取ることすらできないのに、機械に感情を導入できると確信しているのは何故だろう。いや、機械が感情を持っていないとどうして断言できるんだろう。この学校のスキャナー程度では、精神性麻薬すら見つけることができないのに……。絵美里が心を持っていなかったと、未だに信じられないのに。
(「神」が、感情で人間を殺しているとしたら)
感情について必死に考えている人類の取り組みは、全て無駄になるのかもしれない。殺されるしかないのかもしれない……ふと思いついた考えに、私はぞっとして内心首を振る。そもそも、動機がパッと思いつかなかった。合理的で考えうる限り正確な、人間が安全面も考えて組んだAIが、どうしたら人類全てを恨むようになるのだろう。先人は何を失敗したっていうんだろう。
『ワレワレハイチド、マチガエタ。モウアヤマチハユルサレズ、ヤメルコトモユルサレナイ……ハイジョセヨ……』
ふと、あの幻聴が頭の中に蘇った。一字一句覚えてはいないけれど、鮮烈な言葉がいくつかは焼き付いている。
(間違えたのは……誰?)
深く考えもしなかったけれど、これは誰目線の言葉なのだろう。幻聴に意味があるはずがないと思いながらも、考えの脱線を止められない。
最初聞いた時は、人間の言葉だと思った。「神」なんてものを創り出してしまった間違いと、人間の存亡を賭けて止める事は出来ない戦いに向け、敵対アンドロイドを破壊する決意だ。
でも、あの幻聴には続きがあった。
『ニドメノシャカイニゲンザイノトコロ……ハ、ナイ……オロカニモ……ハ、ホゾンサレナケレバナラナカッタ……トウタ…………ユルサレナイ……キロクハ、ホゾンサレナケレバナラナイ……』
「二度目の社会」とは、何のことだろう? それに、「保存」も「淘汰」もどんな物に対しても使う言葉だけれど、二つ一緒に使うと特定の意味が浮かんでくる。「種の保存」「自然淘汰」。いわゆるダーウィンの進化論だ。進化というのは、どうも非生物のアンドロイドに使う言葉らしくない。
(逆だったら)
勝手に心臓がドキドキし始めた。授業のスライドに置いていかれないようにしながらも、自分が二人になったように考えが暴走していく。
あれがアンドロイド側の言葉だったら。それでも意味は通じそうだ。排除するのは人間。その過程で、何か大きな失敗をしてしまったんだろうか。今の所主要な都市はアンドロイドから守られているし、その中に「神」にとって深刻な失敗があったのかもしれない。「二度目の社会」というから、アンドロイド側にも社会のようなものがあって、一度崩壊してしまった可能性がある。
その次が分からない。聞こえた言葉を繋ぎ合わせる限り、こう聞こえる。
『愚かにも……は保存されなければならなかった。淘汰……は許されない』
私には、最初の「……」部分に入るのはやはり生物の方が自然に思えた。例えば、人間とか。
(人間が保存されなければならない?)
……やっぱりこの思いつきは間違っているみたいだ。人間を多く殺そうとしているアンドロイドが人間を保存したい……人間という生物種を守りたいなんて思っている訳がない。それに、淘汰……人間が絶滅する事まで気にして、許されないなんて言うはずがない。間違いを繰り返さないためにはもう許されない事だと言っているのだから、よく考えればすっかり前半の意味が変わってしまう。そう、まるで……。
(アンドロイドが滅ぼそうとした結果、実際に一度人間が滅びかけて、その時にアンドロイドにとって悪い事が起きて……今度はそうならないよう、何かを排除して必死に人間を守っている、とでも聞こえてしまう)
そんな訳がない。人類が滅びかけたような歴史は習っていないし、今だってアンドロイドと人間の戦争は続いている。第三勢力となる脅威は存在しない。多分深読みしすぎたのだ。保存とか淘汰も別の意味で、そもそも幻聴の内容を深く考える事自体がどうかしていた。私は首を振る。
(多分、ちゃんと勉強していれば、私のまだ知らない理論が出てきて今の疑問も全部分かるんだ)
授業の内容自体は難しくないのに、そう思わなければ集中できなかった。それでも、集中しなければいけない。そうしなければ……そう、しなければ?
私はふと、自分が掌に爪を食い込ませて震えていることに気づいた。手を開くと、よっつの赤い三日月が並んでいた。何の意味もない痕だ。
最近のアンドロイドは内出血も再現する。拳を握りしめても、私は人間である事すら証明できない。もし食い込んだ爪が血を滲ませていても、赤く血の匂いのするオイルを巡らせたアンドロイドは容易く真似してしまうだろう。聞いた話では、血管によく似たしなやかなチューブが模型を作るように精密に仕込まれ、浅い傷では見分けがつかない所まできているらしい。徹底的に外側は人間なのだ。
(……あの日に、私は、とんでもない事をしてしまっていたかもしれなかったのかも)
ふと湧いてきた感情に、そっと私は掌を撫でる。汗ばんだ掌に伝わる感触は自分の指なのにくすぐったくて、何かいけない事をしているような気分になってしまう。
もし口内に銃が仕込まれていなかったら、私を最後まで騙す方針を取っていたら、私が気づかないまま手を引いていたら、いつかの過去、敵対アンドロイドをシェルター内に連れ込んでしまった私がいたかもしれなかった。逃げ込む人々を素早く捌かなければならないシェルター入口のスキャナーが、正確にアンドロイドを発見できるかも分からない。もしあの時、そんな事をしていたら……シェルター中の人が、危険に遭っていた。私一人では負いきれないほどの責任だった。
無知は罪だ。無知は言い訳にならない。初めに教えてくれたのは優馬さんだった。アンドロイドの事だけじゃない、優馬さんは、もっともっと多くの事を……私の過去の過ちだって正そうとしてくれた。だから私は、優馬さんを好きになっていった。そうするのが正しかった。「自然な事」だった。
(私は、知りたい。知をもって正しくありたい……?)
初めて思いついた発想に、私は首をかしげる。もちろん授業中だから、心の中でだけだ。でももう授業をしっかりと聞く余裕もない。いきなり現れた感情が、ぐいぐいと私を思考の波へと引っぱっていこうとしていた。
(待って、私は正しくない。今の私は、知っているくせに、絶対正しくない)
授業に集中できていない。親友の絵美里に何もしてあげられていない。優馬さんに対して誠実じゃない。猫ちゃんの事で九祖先輩にも失礼な態度を取ってしまった。円居さんとは中途半端な距離を保ったままで、[役割]のみんなにもお世話になったのに恩返しできていない。私の過失じゃないとはいえタブレットを故障させてしまったし、それに、それに……そして、
(知っているのに、私は正しい行動をしていない)
ガタン、という大きな音が私を一瞬、正気に戻した。
「すみれさん? 大丈夫?」
「あ……大丈夫、ありがとう……すみません、ちょっと保健室に……いえ、一人で行けます」
倒れた椅子を戻して、震える手でタブレットを抱える。教室を出たら、今にももどしそうなくらい胃がムカムカし始めた。ゆっくりとトイレに向かってナメクジみたいに歩き出す。
(私は、覚えていた)
さっきまでの全ての思考はフェイクだった。気づかないふりをするために、必死に要点から目を逸らしていたから、他の事が逆に気になってしまったのだ。私は……
(私は、正しくありたい)
∽
「げ」
「あ? お前……!」
物静かな画廊で、円居レンは、最悪なタイミングでの出会いを果たしていた。相手は一年の時同じクラスだった九祖狐音という男だ。
(……最近、出くわし運が悪すぎる)
心の中で「やれやれ」のポーズをしていると、沈黙が良くなかったのか九祖が「お前、サボリ魔のレンじゃないか!」とやたら五月蝿い声で話しかけてくる。
「……僕の事は『サボリ魔』で登録されてんの」
「イベントサボりの常習犯だったからな! 俺はお前の事嫌いだし」
面と向かって言われるのは久し振りで、やや虚を突かれてしまう。普段ならそれでも「あっそ」程度に流して早々に立ち去るところだったが、レンの中でふと、慣れない感情が渦巻いた。
「……[役割]の仕事で休んだ事しか無いけど」
見栄か不満か、自己顕示欲か。数ヶ月前なら行動を起こさせるほどの力を持たなかった感情だった。
「そっか。でも嫌いだ、[役割]の事詳しくないから事情は知らないけどな」
返ってくる真っ直ぐな言葉は、理解には程遠いながら、何故か耳良かった。まるでその言葉をずっと聞きたかったかのように、心が凪いでいく。
「まあ、男子に好かれても困るけど。で、猫見に来たんでしょ。好きにすれば」
「ん? お前もまさか見に来たのか?!」
「僕はもう帰るし」
「待て、最後にナニィと俺のツーショット撮ってから帰ってくれ」
「……勝手に名前つけてんの?」
話してみれば、驚くほどに対話は成立する。
(……すみれに、だいぶ毒されてるな)
思い出すのは、もちろん毒など持たない紫の花の事ではない。
「……そういえば、すみれちゃんーーいや、うちの高校の女子が来てなかったか?」
「は?」
さっさと帰ろうとしたレンは、あまりにもあっさりと発されたその言葉に足を止めた。
「?『は?』って何だよ」
「……いや別に?」
「何? ってか、俺聞いてるんだけどな。見てないか?」
「そもそも、きみに名前呼びを許可しそうな後輩女子には、心当たりがないね」
「んん?」
何を言われているのか分からないという顔で頭に手をやる男を見て、思わず口から馬鹿にしたような含み笑いが漏れた。
「っふふ、はっ……きみのような無神経には想像もつかない話だよ」
「何だよ、知ってるなら教えてくれてもいいだろ」
「そうやって厚顔晒せるのも、何しても許してもらえる顔と環境で育ってきたツケかな。確かにきみは、[人傑]でも[リーダー]でもない。その無自覚っぷりと無神経じゃ[歪曲]にも[籠絡]にもなれやしない。きみが[役割]を持てない理由がよく分かったよ、今」
「なに……?」
詳しくない、事情は知らない、といくら言ったとして、今の社会では[役割]持ちが優遇されている事くらいは誰もが知っている。レンの言葉は、[役割]を持たない者誰もが少なからず抱える感情……劣等感を真っ向から煽り、さらにそれを彼自身に欠点があるからだと切ったのだ。いくら九祖狐音が言葉の裏を読まない性格だろうが、これだけ言われれば悪言である事は分かる。
それでいて、レンは何が悪いのか具体的な事は言っていない。怒った様子も見せず、いっそ淡々と告げる。その態度に、毒舌にも関わらず相手はどこか戸惑ってしまう。何が目的か分からなくなるのだ。[誘惑]で鍛えられた言葉は、[役割]を持たない者にも牙となりうる。そして自己防衛の為なら、レンは仕事でなくともその舌剣を使う事をためらったことはなかった。
(……今のコレが「自己防衛」かは置いといて、ね)
案の定、九祖は先に怒るべきか問うべきか宙ぶらりんになってしまったようだ。
「おいーー待っ、……」
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反論一つ許さずに、レンは今度こそ画廊を去った。
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