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85 ミゲル
しおりを挟む戦場の鬼神がぴくりと眉を持ち上げたと同時に、辺りを支配していた殺気が消え去った。
きめ細やかな白い頬をぽっと赤らめるフラヴィオが、夫に熱い視線を送っていたからだ。
(兄様のあんな顔……初めて見た……)
フラヴィオの照れた顔を見たことはあったが、ミゲルが見て来た顔とは全く違う。
いつもミゲルやマルティンが、フラヴィオに向けていた視線と同じように、翡翠色の瞳は熱を孕んでいた――。
「閣下の怒りを収めた……」
角刈り頭の男が、愕然とした様子で呟く。
その声を皮切りに、どっと場が盛り上がった。
「閣下の暴走を止めたお方を、初めて見たっ!」
「閣下の心を射止めただけでも凄いことなのに、とんでもないお方だ……」
「さすがフラヴィオ様だっ! 閣下の伴侶に相応しいっ!」
「あの殺気をものともしないとはっ! 俺たちでも動けなかったのに……」
「ああ。剣を握ったことがないと聞いていたけど、きっと内に秘めた力を発揮したに違いないっ!」
「ディーオ王国の最強の男は、フラヴィオ様なんじゃないか?」
興奮を抑えきれない様子の公爵家の人々が、皆一様にフラヴィオに尊敬の眼差しを向ける。
ただ、褒め称えられている張本人だけは、皆の声が聞こえていない。
照れたように目を瞬かせるフラヴィオは、公爵閣下の凶悪な顔をじっと見つめ続けていた。
ふたりが熱い視線を絡ませていたが、鋭い瞳は槍を持った白髪の男に向けられる。
「私が声をかけるまで、誰も部屋に通すな」
「……かしこまり――」
言いたいことだけ言って、家令の返事も聞かずに大股で歩いていく公爵閣下。
あっという間に小さくなっていく背を、ミゲルは呆然と眺めることしかできなかった――。
「タイミングが悪かったですね?」
アキレスが、悠然とミゲルに歩み寄る。
拘束が解かれたミゲルは未だに足に力が入らず、その場で崩れ落ちた。
なんと情けない、と頭上から聞こえて来たが、最愛の兄を目の前で奪われてしまったこともあり、ミゲルは立ち上がることができなかった。
「ですが、あなたには感謝しているのです。暫くは部屋を用意して差し上げます」
やけに優しい声で告げたアキレスに、手を差し伸べられる。
警戒するミゲルだったが、行くあてはないのだ。
渋々アキレスの手を取ったミゲルが、なんとか立ち上ろうとすると、ぐっと引き寄せられる。
「あなたの性根が腐っていたおかげで、ふたりは結ばれることとなったのです。きっかけを与えてくださり、感謝しております。お兄様の恋のキューピッドです」
満面の笑みのアキレスが手を叩く。
すると、その場で騒いでいた者たちも、拍手を始めた。
遠くにいる者はなにがなんだかわかっていない様子だが、お祝いムードだと笑顔で手を叩いている。
「~~~~ッ!!!!」
馬鹿にされていると思ったミゲルは、羞恥で顔を真っ赤に染めた。
「出て行きたければ、ご自由に」
「…………いえ、お願い、します」
歯を食いしばるミゲルは、悪魔のような男に向かって頭を下げる。
「ふふっ、賢明な判断です。あなたのご両親が買い物をした分が、未納となっておりましたので、レオーネ邸は差し押さえました」
「っ……」
「レオーネ子爵の行方がわからないため、結納金の一部はあなたにお渡ししておきますね?」
僅かな金銭を受け取ったミゲルは、絶望で目の前が真っ暗になる。
ミゲルが手にした金は、愛するフラヴィオを売った金だ。
それも大金を用意されていたはずが、貴族として生活するには一年ともたない金額だった。
(学園は、退学しなければならないかもしれない。……でも、僕だって毒親の被害者なんだっ!)
少しでも多く金を引き出そうと考えるミゲルは、涙を見せて同情を誘う。
「こ、これでは、学園を卒業できない……。もし退学となれば、僕は周りにどんな目で見られることになるか……。何かある度に、学園を卒業していないから、と責められることになります」
行きたくもない学園だったが、ミゲルは卒業するつもりでいたのだ。
フラヴィオが嫁いだ今、学園を卒業後はミゲルが当主になる。
気の抜けない社交界という戦場に立つ予定のミゲルは、退学だけは避けたかった。
(学園を卒業出来ないだなんて、一生の恥だ)
ミゲルの思惑などお見通しだとばかりに、青い瞳がすっと細くなる。
「フラヴィオ様の前でも、同じことが言えますか?」
「っ!!」
ミゲルは言葉に詰まった。
自分のことばかり考えていたミゲルだが、フラヴィオは学園に通っていないことを思い出したのだ。
(傷付いた兄様を、僕が癒してあげたらいいと思っていたけど……。僕は、なんてことを……)
ようやく己の過ちに気付いたミゲルは、罪の意識に苛まれる。
「それから。閣下も学園は卒業しておりません。それでも国のために身を粉にして働き、今では英雄とまで呼ばれているのです。あなたもそれくらいの根性を見せるべきでは?」
ぐうの音も出ないミゲルは、今度こそ黙るしかなかった。
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