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108 夏休みを有意義にする為には(その1)
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「由希奈が裏社会の住人になる方法を聞いてきた?」
「うん。とりあえず『単位認定試験から片付けた方が良い』って、その場では断ったんだけど……」
姫香が登校日で留守とはいえ、自宅では誘惑が多いからと、適当な喫茶店で勉強している時だった。彩未から連絡を受けた睦月は、居場所を伝えて来て貰うことにした。
そして開口一番に切り出されたのは、先日の彩未と由希奈の話題である。
「さすがの由希奈ちゃんも、気付いたんじゃないかな? 睦月君の出した条件が、表向きのものだって」
由希奈とのデートの際、睦月は犯罪以前の問題として、免許の取得以外にも知識や資格を並べ立てはしたが……それは全て、社会の表側で求められる技量の話だ。実際に睦月の傍で働くとなれば、裏側の生き方を覚えていかなければならなくなる。
結果、由希奈の人生にどのような影響が及ぼされるのかは分からないが……少なくとも、前科のない人間が安易に歩んでいい道ではない。
「由希奈ちゃんから聞いたけどさ~……今からだと、色々身に付けるのはしんどいんじゃない?」
「どっちにしろ、必要なのは事実だろうが……」
アイスコーヒーを啜った後、睦月は再びシャープペンシルを握り、ノートに教科書の内容を書き写していく。かなりの手間だが、朔夜のような『超記憶力』がない以上、手も動かすことで繰り返し、脳に覚え込まさなければならない。
ただし、彩未との会話を優先させ過ぎて、覚える内容を間違えないように気を付けなければならないが。
「それに……別に間違ったことは言ってないぞ?」
睦月とて別に、自ら進んで犯罪に手を染めたいと思っているわけではない。たしかに依頼内容は違法なものが多い上に、時折麻薬組織狩りのような犯罪者を敵に回す行為を平然とやってのけるものの……理由もなく、一般人を傷付けることだけは絶対にしなかった。
そもそもの話……動機がなければ、犯罪行為そのものに手を染める必要は全くないのだ。
「結局のところ……社会で生きていくなら綺麗事を守る方が、一番合理的だったりするだろ? 無暗に法を犯したところで、何のメリットもないしな」
「それは分かるけどさ~……本当にちゃんと、考えた方が良いよ?」
それが由希奈のことなのか、それとも……睦月の会社の、表向きの利益を知った上での発言なのかは分からない。けれども、今できることは彩未の言う通り、単位認定試験を片付けていくことしかないのだ。
「まあ、何にしても……試験終わってから、ちゃんと考えるよ。わざわざありがとうな」
「どういたしまして~……それより睦月君、」
一度言葉を切り、アイスミルクティーのグラスから伸びるストローから、彩未は一口分啜った。その後、睦月が広げている勉強道具が気になったのか、指を差しながら問い掛けてきた。
「……科目が古文と歴史関係しかないけど、他は大丈夫なの?」
「その辺は心配ないよ……今のところ」
空いた手で額を押さえながら、睦月は呻くようにして答えた。
「科目によっては、だけどな……中学卒業の時点で高卒レベルの勉強、とっくに終わってるんだよ」
実際、中学レベルの学力でも、合格できる大学や専門学校は存在する。学校側の事情もあるだろうが、少なくとも学校歴に拘りさえしなければ、大卒等の最終学歴を得ること自体、(費用面以外では)そこまで難しくない。
だから睦月も、すでに高い学力を保有していたので、進学にあまり魅力を感じていなかった。だから、地元を出ざるを得なくなりようやく、重い腰を上げたに過ぎない。
その結果、今頃になって……ようやく足りない分を勉強し始めることになったのだ。
「実際、語学や理数系に関しては仕事でもよく使うから、普段が勉強みたいなものなん、だけ、ど……」
「……あまり仕事で使わない暗記科目は全滅、ってわけね」
実のところ、こればかりは睦月だけが原因ではなかった。
『使う機会が少なければ、覚える必要はない』
そう考えた地元の人間達は、必要最低限にしか暗記系の科目を教えてこなかった。積み上げられた歴史を知るからこそ、正しい知識を得られるので多少残されてはいたものの、授業以上のことは完全に個人任せだった。
そして睦月もまた、必要最低限にしか勉強してこなかった手合いである。辛うじて、映画等の娯楽関係で、興味を持ったことについて調べたのが精々だ。
「というか……睦月君の地元の人って、歴史に興味ある人居たの?」
「俺の知る限り……まともに興味持ってるのは、姉貴だけだったな」
博士課程の大学院生であり、『ブギーマン』以上の情報技術を有するだろう理系の朔夜だが、彼女の専攻は……何故か、考古学だったりする。
そして夏休み前日の、終業式兼単位認定試験結果発表日の久遠学院高等学校第十二分校にて。
「あ、赤点回避……」
若干情けなく崩れ落ちながらも、机に倒れ込む睦月の手には、『全科目合格』の記載がある成績通知表が握られていた。
「睦月さん、そんなに危なかったんですか?」
不思議そうに話し掛けてくる由希奈に、睦月は手に持っていた成績通知表を見せながら答えた。
「得意、不得意に差が有り過ぎるんだよ。特に古文や歴史系は、普段使わないし……」
「まあたしかに、使わなければ…………えっ!?」
驚く由希奈の声に周囲の面々も集まり、全員が睦月の成績通知表へと視線を落としていく。
「睦月さん、英語の成績……学校一位じゃないですか!」
本来であれば、たとえ通信制高校であろうとも、学校全体を通して一位、しかも満点の成績を叩き出したのだから、十分周囲に自慢できるだろう。しかし、赤点を回避した安堵感が勝っている為か、睦月は気力なさげに手を振って否定した。
「元々、英語はできるんだよ。仕事柄、英文での契約書も自力で読まなきゃならないし……」
「というか……落差が激し過ぎないか?」
由希奈の肩越しに覗いていた洋一が、そう言うのも無理はない。
現に、睦月の成績は満点の英語以外だと、上位の高得点か、赤点ギリギリの最低点で占められている。満点科目も取れている中で、総合成績が中の上なのが惜しいことこの上ない。
ついでに言えば、赤点手前の科目しか見ていない睦月と、高得点に注目している周囲とでも、気持ちに差ができてしまっていたが、当の本人は気にしていなかった。
「いくら普段使わないからって、別に勉強ができないわけじゃないんだろう? 赤点回避できただけで、そこまで気ぃ抜くか?」
「……正確には、『努力が続かない』んですよ」
ここへきて、ようやく身体を起こした睦月は、軽く首を鳴らしてから洋一達の方を向いた。
「やる気の問題というか、明確な目標がないとどうにも努力が続かないんですよ。おまけに多少頭が回るもんだから、それにかまけてサボり癖がついてしまってて……」
「ああ……よく聞く話だね」
似たようなケースを見たことがあるのか、睦月の話を聞いた裕は、同意を示してくる。
「前の職場にも居たよ。勉強以外に目を向けなさ過ぎて、実際に仕事をする際には周囲と上手く意思疎通が取れなくなってる人。基本的な報連相から始めてくれればいいのに、なまじ『自分は何でもできる』と考えがちな分、変に空回りして揉め事ばっかり起こして……主体性のないことした言えない癖に人の学歴聞いて見下してくるしっ!」
「……旦那も苦労してきたんだな」
珍しく苛立っている裕を洋一が宥めながら、睦月達から離していく。後の面倒は気の良い彼に任せることにして、今度は拓雄が口を開いてきた。
「たしかに、成績自体合格できればいいとは思うけど……この差はちょっと酷いと思うよ?」
「どうも昔から、暗記科目が苦手で……」
結局のところ、睦月の努力が続かない原因の大半は、『暗記科目への苦手意識』が占めていた。実際、英語に関しても、中学時代の授業ではあまり身に付いてはいない。
『映画の内容を英語で暗記しとけ。会話だけでも十分勉強になるから』
そう秀吉から助言を受け、好きな海外映画の台詞を覚えていく内に、強引に身に付けられた程だ。中国語やロシア語、果ては韓国語もそうして覚えてきた。
ただ……表音文字に関してだけは、未だにチンプンカンプンだが。
「ただの単語として、暗記しようとしてるからだと思うけどな……」
「どういうことですか?」
受け取った成績通知表を流し見た拓雄は、注目する睦月と質問してきた由希奈に、簡単に説明した。
「一昔前の、東大合格を目指す漫画でもあった話なんだけどね……歴史は、人が作るんだよ」
少し話が長引きそうだと思ってか、拓雄は近くの席に腰掛けてくる。同じく、睦月の隣にある椅子に由希奈が座ったのを見てから、話を続けてきた。
「歴史を覚える時に、表面の出来事のみを記憶するか、話の中身を理解した上で覚えるかでは、大きく差が出るんだよ。たとえば……荻野君って、たしか映画が趣味だったよね?」
「あ、はい。そうですけど……」
一番分かりやすいと思ったのだろう、拓雄は映画をたとえ話に挙げてきた。
「雑談とかでおすすめされた映画のタイトルと、実際に観た映画の内容……どっちが一番覚えてる?」
「あ~……映画の内容、ですかね?」
「つまり……雑談の内容よりも、鑑賞したという実体験の方が覚えやすい、ってことだよ」
人が物事を長期的に記憶する仕組みの中に、意味記憶とエピソード記憶がある。拓雄のたとえ話で言うならば、雑談の内容が前者で、映画鑑賞が後者に該当する。
意味記憶は一つの単語としてしか記憶しない分、他の記憶とは連動しないので忘れやすいが……エピソード記憶は経験として覚えている為、『あの映画は面白かった』、『あの場面が印象に残った』と補強され、忘れにくくなっている。
「教科書の内容も、ただ出来事を羅列しているだけだから覚えにくい上に、興味を持てないんだよ。だから、同じ年代を題材にした歴史漫画とかを片手に内容を深掘りした方が、かえって覚えやすくなる。指南書や専門書籍の類が漫画化することが多くなったのも、『興味を持たれやすく、内容を理解して貰いやすい』って考えたからだと思うし」
「と、いうことは……頭ごなしに歴史を並べ立てられても、かえって逆効果ってことじゃないんですか?」
「それを工夫するのが教師や塾講師……教える側の仕事だよ」
話を聞いて漏れ出たであろう由希奈の疑問に、拓雄はそう答えてきた。
「実際、雑談を交えながら授業しているのも、それが理由じゃないかな?」
この学校のオンライン授業では、担当が全国各地に散っている。その分関わりが少なくなるからと、雑談を交えながら話す教師は多くいるが、中にはそういう理由の為に、面白くしようとしている人が居てもおかしくはない。現に、覚えるべき箇所は必ず板書して、記帳を促しているのだ。それ以外の方法で補足し、記憶に定着させることは手法として、間違ってはいないだろう。
「まあ、どんな手法であれ……勉強しといて損はないから、もう少し暗記科目頑張るように」
「はい…………」
正論過ぎて言い返せず、反発心の一つも生まれないまま、素直に頷く睦月。そこでふと、由希奈は拓雄に聞いてきた。
「脊戸さんも、漫画を使って勉強されてるんですか?」
「というよりも……漫画がきっかけで色々と勉強してる、ってところだな」
人が何かを調べるきっかけは、自分が『何故』と感じたことに対して、深く知りたいと思うことが大半だろう。
「実際、さっき話した漫画の作者も、他に金融関係の作品も出しててね。それを皮切りに勉強していたんだけど……金融商品に関しては、結構驚かされたな」
『……驚かされた?』
「勉強してて思ったんだけど……」
声を揃え、同時に首を傾げる二人に、拓雄は持論を述べた。
「正直……株や投資信託とかの金融商品は『買う・買わない』の前に、勉強が必要だって思ったんだよ。現に、投資詐欺の大半は、金融知識があれば絶対に引っ掛からない内容なものばっかりだし」
多少齧った程度の知識でも、投資詐欺を回避することに使える。そこに金融商品の購入の有無は関係ない。拓雄は最後に、そう締め括った。
「まあ、生半可な知識しかない人間を狙った詐欺とかもあるからちゃんと勉強して、自己判断と個人の裁量でやった方が、比較的安全な時もあるんだよな……」
「……それ、もう詰んでませんか?」
素人から玄人に変わるのは、個人差もあるがかなり難しい。最近ではようやく、義務教育に金融関係も加えようとする動きはあるものの……果たして、それまでの間に何人が投資詐欺の被害者になるのか。
思わず睦月がツッコむものの、結局のところ……人間は自己防衛の為に、学び続けなければならない。でなけれは、待っているのは破滅だ。
「社会に出る、って……大変なんですね」
この教室で唯一就労経験のない由希奈の言葉に、睦月と拓雄は大きく溜息を吐きながら、並んで頷くのであった。
それは深く、とても…………深く。
「うん。とりあえず『単位認定試験から片付けた方が良い』って、その場では断ったんだけど……」
姫香が登校日で留守とはいえ、自宅では誘惑が多いからと、適当な喫茶店で勉強している時だった。彩未から連絡を受けた睦月は、居場所を伝えて来て貰うことにした。
そして開口一番に切り出されたのは、先日の彩未と由希奈の話題である。
「さすがの由希奈ちゃんも、気付いたんじゃないかな? 睦月君の出した条件が、表向きのものだって」
由希奈とのデートの際、睦月は犯罪以前の問題として、免許の取得以外にも知識や資格を並べ立てはしたが……それは全て、社会の表側で求められる技量の話だ。実際に睦月の傍で働くとなれば、裏側の生き方を覚えていかなければならなくなる。
結果、由希奈の人生にどのような影響が及ぼされるのかは分からないが……少なくとも、前科のない人間が安易に歩んでいい道ではない。
「由希奈ちゃんから聞いたけどさ~……今からだと、色々身に付けるのはしんどいんじゃない?」
「どっちにしろ、必要なのは事実だろうが……」
アイスコーヒーを啜った後、睦月は再びシャープペンシルを握り、ノートに教科書の内容を書き写していく。かなりの手間だが、朔夜のような『超記憶力』がない以上、手も動かすことで繰り返し、脳に覚え込まさなければならない。
ただし、彩未との会話を優先させ過ぎて、覚える内容を間違えないように気を付けなければならないが。
「それに……別に間違ったことは言ってないぞ?」
睦月とて別に、自ら進んで犯罪に手を染めたいと思っているわけではない。たしかに依頼内容は違法なものが多い上に、時折麻薬組織狩りのような犯罪者を敵に回す行為を平然とやってのけるものの……理由もなく、一般人を傷付けることだけは絶対にしなかった。
そもそもの話……動機がなければ、犯罪行為そのものに手を染める必要は全くないのだ。
「結局のところ……社会で生きていくなら綺麗事を守る方が、一番合理的だったりするだろ? 無暗に法を犯したところで、何のメリットもないしな」
「それは分かるけどさ~……本当にちゃんと、考えた方が良いよ?」
それが由希奈のことなのか、それとも……睦月の会社の、表向きの利益を知った上での発言なのかは分からない。けれども、今できることは彩未の言う通り、単位認定試験を片付けていくことしかないのだ。
「まあ、何にしても……試験終わってから、ちゃんと考えるよ。わざわざありがとうな」
「どういたしまして~……それより睦月君、」
一度言葉を切り、アイスミルクティーのグラスから伸びるストローから、彩未は一口分啜った。その後、睦月が広げている勉強道具が気になったのか、指を差しながら問い掛けてきた。
「……科目が古文と歴史関係しかないけど、他は大丈夫なの?」
「その辺は心配ないよ……今のところ」
空いた手で額を押さえながら、睦月は呻くようにして答えた。
「科目によっては、だけどな……中学卒業の時点で高卒レベルの勉強、とっくに終わってるんだよ」
実際、中学レベルの学力でも、合格できる大学や専門学校は存在する。学校側の事情もあるだろうが、少なくとも学校歴に拘りさえしなければ、大卒等の最終学歴を得ること自体、(費用面以外では)そこまで難しくない。
だから睦月も、すでに高い学力を保有していたので、進学にあまり魅力を感じていなかった。だから、地元を出ざるを得なくなりようやく、重い腰を上げたに過ぎない。
その結果、今頃になって……ようやく足りない分を勉強し始めることになったのだ。
「実際、語学や理数系に関しては仕事でもよく使うから、普段が勉強みたいなものなん、だけ、ど……」
「……あまり仕事で使わない暗記科目は全滅、ってわけね」
実のところ、こればかりは睦月だけが原因ではなかった。
『使う機会が少なければ、覚える必要はない』
そう考えた地元の人間達は、必要最低限にしか暗記系の科目を教えてこなかった。積み上げられた歴史を知るからこそ、正しい知識を得られるので多少残されてはいたものの、授業以上のことは完全に個人任せだった。
そして睦月もまた、必要最低限にしか勉強してこなかった手合いである。辛うじて、映画等の娯楽関係で、興味を持ったことについて調べたのが精々だ。
「というか……睦月君の地元の人って、歴史に興味ある人居たの?」
「俺の知る限り……まともに興味持ってるのは、姉貴だけだったな」
博士課程の大学院生であり、『ブギーマン』以上の情報技術を有するだろう理系の朔夜だが、彼女の専攻は……何故か、考古学だったりする。
そして夏休み前日の、終業式兼単位認定試験結果発表日の久遠学院高等学校第十二分校にて。
「あ、赤点回避……」
若干情けなく崩れ落ちながらも、机に倒れ込む睦月の手には、『全科目合格』の記載がある成績通知表が握られていた。
「睦月さん、そんなに危なかったんですか?」
不思議そうに話し掛けてくる由希奈に、睦月は手に持っていた成績通知表を見せながら答えた。
「得意、不得意に差が有り過ぎるんだよ。特に古文や歴史系は、普段使わないし……」
「まあたしかに、使わなければ…………えっ!?」
驚く由希奈の声に周囲の面々も集まり、全員が睦月の成績通知表へと視線を落としていく。
「睦月さん、英語の成績……学校一位じゃないですか!」
本来であれば、たとえ通信制高校であろうとも、学校全体を通して一位、しかも満点の成績を叩き出したのだから、十分周囲に自慢できるだろう。しかし、赤点を回避した安堵感が勝っている為か、睦月は気力なさげに手を振って否定した。
「元々、英語はできるんだよ。仕事柄、英文での契約書も自力で読まなきゃならないし……」
「というか……落差が激し過ぎないか?」
由希奈の肩越しに覗いていた洋一が、そう言うのも無理はない。
現に、睦月の成績は満点の英語以外だと、上位の高得点か、赤点ギリギリの最低点で占められている。満点科目も取れている中で、総合成績が中の上なのが惜しいことこの上ない。
ついでに言えば、赤点手前の科目しか見ていない睦月と、高得点に注目している周囲とでも、気持ちに差ができてしまっていたが、当の本人は気にしていなかった。
「いくら普段使わないからって、別に勉強ができないわけじゃないんだろう? 赤点回避できただけで、そこまで気ぃ抜くか?」
「……正確には、『努力が続かない』んですよ」
ここへきて、ようやく身体を起こした睦月は、軽く首を鳴らしてから洋一達の方を向いた。
「やる気の問題というか、明確な目標がないとどうにも努力が続かないんですよ。おまけに多少頭が回るもんだから、それにかまけてサボり癖がついてしまってて……」
「ああ……よく聞く話だね」
似たようなケースを見たことがあるのか、睦月の話を聞いた裕は、同意を示してくる。
「前の職場にも居たよ。勉強以外に目を向けなさ過ぎて、実際に仕事をする際には周囲と上手く意思疎通が取れなくなってる人。基本的な報連相から始めてくれればいいのに、なまじ『自分は何でもできる』と考えがちな分、変に空回りして揉め事ばっかり起こして……主体性のないことした言えない癖に人の学歴聞いて見下してくるしっ!」
「……旦那も苦労してきたんだな」
珍しく苛立っている裕を洋一が宥めながら、睦月達から離していく。後の面倒は気の良い彼に任せることにして、今度は拓雄が口を開いてきた。
「たしかに、成績自体合格できればいいとは思うけど……この差はちょっと酷いと思うよ?」
「どうも昔から、暗記科目が苦手で……」
結局のところ、睦月の努力が続かない原因の大半は、『暗記科目への苦手意識』が占めていた。実際、英語に関しても、中学時代の授業ではあまり身に付いてはいない。
『映画の内容を英語で暗記しとけ。会話だけでも十分勉強になるから』
そう秀吉から助言を受け、好きな海外映画の台詞を覚えていく内に、強引に身に付けられた程だ。中国語やロシア語、果ては韓国語もそうして覚えてきた。
ただ……表音文字に関してだけは、未だにチンプンカンプンだが。
「ただの単語として、暗記しようとしてるからだと思うけどな……」
「どういうことですか?」
受け取った成績通知表を流し見た拓雄は、注目する睦月と質問してきた由希奈に、簡単に説明した。
「一昔前の、東大合格を目指す漫画でもあった話なんだけどね……歴史は、人が作るんだよ」
少し話が長引きそうだと思ってか、拓雄は近くの席に腰掛けてくる。同じく、睦月の隣にある椅子に由希奈が座ったのを見てから、話を続けてきた。
「歴史を覚える時に、表面の出来事のみを記憶するか、話の中身を理解した上で覚えるかでは、大きく差が出るんだよ。たとえば……荻野君って、たしか映画が趣味だったよね?」
「あ、はい。そうですけど……」
一番分かりやすいと思ったのだろう、拓雄は映画をたとえ話に挙げてきた。
「雑談とかでおすすめされた映画のタイトルと、実際に観た映画の内容……どっちが一番覚えてる?」
「あ~……映画の内容、ですかね?」
「つまり……雑談の内容よりも、鑑賞したという実体験の方が覚えやすい、ってことだよ」
人が物事を長期的に記憶する仕組みの中に、意味記憶とエピソード記憶がある。拓雄のたとえ話で言うならば、雑談の内容が前者で、映画鑑賞が後者に該当する。
意味記憶は一つの単語としてしか記憶しない分、他の記憶とは連動しないので忘れやすいが……エピソード記憶は経験として覚えている為、『あの映画は面白かった』、『あの場面が印象に残った』と補強され、忘れにくくなっている。
「教科書の内容も、ただ出来事を羅列しているだけだから覚えにくい上に、興味を持てないんだよ。だから、同じ年代を題材にした歴史漫画とかを片手に内容を深掘りした方が、かえって覚えやすくなる。指南書や専門書籍の類が漫画化することが多くなったのも、『興味を持たれやすく、内容を理解して貰いやすい』って考えたからだと思うし」
「と、いうことは……頭ごなしに歴史を並べ立てられても、かえって逆効果ってことじゃないんですか?」
「それを工夫するのが教師や塾講師……教える側の仕事だよ」
話を聞いて漏れ出たであろう由希奈の疑問に、拓雄はそう答えてきた。
「実際、雑談を交えながら授業しているのも、それが理由じゃないかな?」
この学校のオンライン授業では、担当が全国各地に散っている。その分関わりが少なくなるからと、雑談を交えながら話す教師は多くいるが、中にはそういう理由の為に、面白くしようとしている人が居てもおかしくはない。現に、覚えるべき箇所は必ず板書して、記帳を促しているのだ。それ以外の方法で補足し、記憶に定着させることは手法として、間違ってはいないだろう。
「まあ、どんな手法であれ……勉強しといて損はないから、もう少し暗記科目頑張るように」
「はい…………」
正論過ぎて言い返せず、反発心の一つも生まれないまま、素直に頷く睦月。そこでふと、由希奈は拓雄に聞いてきた。
「脊戸さんも、漫画を使って勉強されてるんですか?」
「というよりも……漫画がきっかけで色々と勉強してる、ってところだな」
人が何かを調べるきっかけは、自分が『何故』と感じたことに対して、深く知りたいと思うことが大半だろう。
「実際、さっき話した漫画の作者も、他に金融関係の作品も出しててね。それを皮切りに勉強していたんだけど……金融商品に関しては、結構驚かされたな」
『……驚かされた?』
「勉強してて思ったんだけど……」
声を揃え、同時に首を傾げる二人に、拓雄は持論を述べた。
「正直……株や投資信託とかの金融商品は『買う・買わない』の前に、勉強が必要だって思ったんだよ。現に、投資詐欺の大半は、金融知識があれば絶対に引っ掛からない内容なものばっかりだし」
多少齧った程度の知識でも、投資詐欺を回避することに使える。そこに金融商品の購入の有無は関係ない。拓雄は最後に、そう締め括った。
「まあ、生半可な知識しかない人間を狙った詐欺とかもあるからちゃんと勉強して、自己判断と個人の裁量でやった方が、比較的安全な時もあるんだよな……」
「……それ、もう詰んでませんか?」
素人から玄人に変わるのは、個人差もあるがかなり難しい。最近ではようやく、義務教育に金融関係も加えようとする動きはあるものの……果たして、それまでの間に何人が投資詐欺の被害者になるのか。
思わず睦月がツッコむものの、結局のところ……人間は自己防衛の為に、学び続けなければならない。でなけれは、待っているのは破滅だ。
「社会に出る、って……大変なんですね」
この教室で唯一就労経験のない由希奈の言葉に、睦月と拓雄は大きく溜息を吐きながら、並んで頷くのであった。
それは深く、とても…………深く。
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