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109 夏休みを有意義にする為には(その2)
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――ガラッ
「いや、失礼。みっともないところを見せてしまい……」
「大丈夫ですよ。俺もバイトしていた時に、似たような手合いによく出くわしましたし」
「同じく……」
洋一と共に戻ってきた裕に、睦月と拓雄は続けざまに答えた。あまり気を遣わせるのもどうかと考え、間を空けずについ、経験談を話し出してしまう。
「個人的な考えにはなりますけど……その手合いは話が通じないって、最初から割り切った方が早いですよ」
職業柄、様々な手合いと顔を合わせることの多かった睦月は、裕をはじめとした面々に、そう持論を述べた。
「精神的な問題以前に、一人で行動していた時間が長すぎる分、そういう人間は大体共感力が低いんですよ」
人間が意思疎通を量る際に、重要だと言われているものの一つが、共感力である。論理的な理解ではなく、相手がどう思っているかの感情を推し量る為の能力だ。
人間が理屈ではなく、感情を優先させてしまいやすい生き物だとしても、相手の思考を精密に忖度できるわけではない。ましてや、違う個体同士で価値観を合わせることは難しいだろう。
話し合いで物事が解決できない主な原因は、お互いの価値観がずれた状態で強引に行ってしまうからだ。
その価値観を擦り合わせる為に、相手の思考や感情を推し量る共感力が互いに必要となるのだが……哀しいことに、それは相手の気持ちを理解できなければ意味がない。だからこそ、あらゆる力で分かりやすく、物事を解決しようと企てる者が後を絶たないのだ。
「バイト先に派遣会社の社員もよく来ていましたけれど……ただ漠然と大学を卒業した人程、共感力が低い場合が多かったですね。まあ、未だに高学歴な考えが根付いてる社会なのに、多くの企業から選考の段階で弾かれてるんですから、価値観が違い過ぎるのは当たり前なんですけどね」
「本来なら、学校等の集団生活で『協調性』を身に付けながら共感力も高めていくはずが……好成績に高学歴、有名学校への入学が人生の社会的地位だと考えている人間は多く、今も増え続けている。その結果、目的が完全に逸れてしまい、共感力の低い人間があちこちに生まれてしまった」
睦月の説明に拓雄も、こればかりは仕方ないと肯定の意を示してきた。
「『力で解決しよう』とも『話し合いで解決しよう』とも、価値観を押し付け合うのなら同列で意味がない。相手の気持ちを理解しようと努力するべきだが、お互いが『努力したい』と思えるようにならない限り……気持ちの擦れ違いと争いは、今後も続いていくだろうな」
由希奈は純粋に聞いているようだが、本職だと疑いを持っている面々は睦月を含めて、拓雄の言葉の重みを実感していた。
(結局……まったく同じ人間が居ないから、こうなるんだよな)
とはいえ、互いの価値観を擦り合わせようと努力さえできれば、共感力は自然と高まってくる。要は、相手を受け入れられるかどうかだ。現に、意思疎通を量ることに失敗した者の中にも、自省して変わろうと努力する人間だっている。
けれども、かつて睦月が『背負う価値もない命』と断じた者が……努力を放棄した愚者達が居ることも、また事実だった。
「けど……結構、楽な部分も有りますよ?」
腰掛けたまま腕を組む拓雄が振り向いてきた後、睦月は改めて口を開いた。
「共感力の低い相手程、孤立主義で意思疎通を最低限で済ませる場合が多いですからね。しっかり報連相しながら働いて、かつ余計な口さえ叩いてこなければ……コミュ障気味な俺には結構、付き合いやすかったりしますから」
しかし、その余計な口が揉め事の原因だと気付ける人間はいったい、何人いるのだろうか? むしろ……そこに着目できるかが、共感力の高低を判断する材料なのかもしれない。
「前から偶に、思ってたんだけど……」
そこで、この教室で六つ目の声……成績通知表を配布した担任の紅美が、口を挟んできた。
「……この教室に担任、必要?」
『いや職務放棄っ!』
たしかに、生徒間で問題を解決してしまっているが……その揉め事が拗れた時に必要なのが、教師という仲裁役である。その部分は忘れないでいただきたい。
「見守ることも立派な仕事だから、な?」
「はい…………」
生徒に担任が諭されるという……ある意味情けない光景もまた、この教室での一幕だと皆が考える中、終業式は終了した。
下校後、担任の紅美を含めた成人クラスの面々は、二手に分かれた。
一組は紅美の退勤を待ってから、裕のストレス発散も兼ねて痛飲に。もう一組である由希奈は睦月に連れられて、階下の喫茶店へと足を運んでいた。
「彩未から聞いたんだが……裏社会の住人になって、どうする気だ?」
「あれから、色々と考えました……」
最初はただ、免許を取得すればいいと考えていた。
『それで最低限だぞ?』
そう言われたことを後々になって思い出し、何が必要なのかを自分なりに考えてみた結果……真っ先に思い浮かんだのは、睦月の為に運んだ銃器類の入った鞄だった。
「私には……身を守る術が、ありません」
もし、揉め事に巻き込まれた際、自分は自分の身を守れるのだろうか?
睦月も姫香も、場合によっては助けてくれるかもしれないが……自分から危険に飛び込むのであれば、甘えていられない。だから由希奈は、裏社会の住人になる方法を彩未に相談した。
結果的には先送りとなり……今日、睦月に呼び出されてしまったわけだが。
「だから……裏社会の住人になる方法を、彩未に聞いたのか」
「はい、甘えたく……縋りたく、ありませんから」
由希奈には厳しいかもしれないし、単なる我儘なのかもしれない。
それでも、由希奈にとっては必要なことだからこそ……最初は同じ素人だった彩未に相談したのだ。
「だから夏休みの内に、身に付けたいんです。免許と一緒に……その、方法を」
「…………」
睦月は一度、アイスコーヒーを口に流し込んでから……少しだけ、目を閉じてしまった。
(さて……どう答えたものか)
再び瞼を開いた時、視界が横に長く感じた。しかしすぐ、単に目を細めているだけだと、睦月は気付いた。
「まず確認なんだが……由希奈はまず、何がしたい?」
「え、あの……だから、睦月さん達と一緒に、」
「何の仕事をしたいか? そう聞いているんだ」
少し、厳しい物言いになってしまっている自覚はある。
それでも、由希奈が抱えている漠然とした悩みは、睦月にも経験のあることだ。だからこそ、はっきりさせておく必要があった。
「前に、話したことがあったよな? 勝手に仕事を請けて、親父と揉めた時の話を」
「は、はい……」
「……今の由希奈は多分、その時の俺に近い悩みを抱えている」
自分の身を守る。その考え自体は正しい。社会の表裏を問わず、必要となってくる。
……問題なのは、その方法だ。
「『前提条件と優先順位――依頼を達成する為の絶対条件を忘れるな』と言われるまで、俺はやり方にも拘ってしまっていたが……由希奈の場合は、やり方自体が分からないと思っている。ここまでは、合っているか?」
「…………はい」
だから由希奈は、裏社会の住人になる方法という、どう解答すればいいのかが分かり辛い質問しか、できずにいる。少なくとも睦月は、そう考えていた。
「いい機会だから……夏休みの内に一度、なりたい職業について考えた方がいいんじゃないか?」
「え、それって……」
「……別に、由希奈の考えを拒絶しようとか、そういうものじゃない」
怯えている由希奈に対して首を振るものの、睦月にとっては本当に一度、全てを忘れた状態で考えるべきだと思っている。
将来……後悔しない為にも。
「こいつは俺の持論だが……どんな職業にも貴賤は有る。何の罪もない人間を犠牲にしているかどうか、だ」
法を犯す、だけでは物足りない。たとえ抜け道を掻い潜ってでも、望むのであれば自ら進んで卑しく、誰かの人生を貪ろうとする。自覚があろうとなかろうと、それが卑賎な者の真理だ。
その一点こそが、職業の貴賤を決める基準だと、睦月は考えていた。
「働き方次第で、その気になれば誰でも法を犯せるんだ。相手の尊厳を踏み躙った時点で、どんな真っ当な職業だろうと……そこらの破落戸と同じになってしまう」
薬も量を間違えれば、毒へと変わる。目的の為に手段を選ばないダークヒーローが持て囃されるのは、犠牲になるのが悪人だからに過ぎない。もし被害者が善人、ないしは無関係な一般人だとすれば……ただの悪役へと成り下がる。
その成れの果てが……本当の意味での、裏社会の住人なのだろう。
「実際、彩未もただの大学生だったけど……専攻している情報科学を武器にして、今の立場を得た。大事なのは、自分が何をしたいか? それだけなんだよ」
そういえば、と前置きした上で、睦月は由希奈に問い掛けた。
「高校を卒業した後は、どうするつもりだったんだ?」
「……いいえ」
首を横に振り、由希奈は静かに答えて来た。
「ただ漠然と、大学に進むつもりでした」
それを恥ずかしいとでも思っているのか、由希奈は徐々に顔を伏せようとしている。だから睦月は、意識的に口調を元に戻そうと一息吐いてから、ゆっくりと話し掛けた。
「別に、気にする必要もないだろう。やりたいことが見つかっていない人間にとっては、それを探す為に進学することもある。それが普通だ」
睦月自身もまた、『家業を継ぐ』程度の理由をきっかけにして『運び屋』の道を選び、現在に至っている。結局のところ、最後に自分が納得して進められれば、それでいいのだ。
「だからまず、進路から考えてみたらどうだ? 自分に何ができるのか、自分が何をしたいのか……それを知ってからでも、生き方を決めるのは遅くない」
結果、由希奈が睦月の元を選ばない可能性もある。しかし、それでも良かった。
「……分かりました」
大事なのは……由希奈自身の、気持ちなのだから。
高校と大学では、長期休暇の時期がずれている。地域や同列の学校でも統一されているわけではないのだから、教育機関が違えば夏休みの開始日も必然的に変わってくる。
そして当然……試験の時期も、ずれてしまうことになるのだ。
「姫香ちゃん、ここの訳教えて、」
「『ただデータ化することだけを考えればいいわけじゃない。組織に有益なデジタル手段を構築することが重要である』ことにいいかげん気付け、この間抜け」
「……最後は絶対要らないでしょう? 特に『間抜け』の部分」
彩未とて全部ではないものの、大まかな日本語訳は感覚で理解していた。その上で、自分より格上の語学力を持つ姫香に確認として聞いているのだが……終始この有様である。
「そもそも英語なんて、大まかに合っていれば普通に通じるのよ。教科書通りの訳しかできない教員にでも当たらない限り、今の彩未なら問題ないんじゃない?」
「日常会話での試験はともかく……専門的な論文だと、そうもいかないんだよね~」
愚痴だと分かりつつも、向かいに腰掛けて『スッポン』用の餌を作っている姫香に対して、彩未はそう返した。
「日本人だって、日本語の論文でもけっこう誤用してるじゃん。英語圏の人間も同じように、英語の論文で普通に誤用してるし。それが学生ならなおさら……むしろ、英語圏以外の人の英論文の方が、綺麗に訳しやすいよ?」
「……綺麗に翻訳サイトで変換しやすい、じゃなくて?」
「正しいかどうかの判断位はできますぅ~!」
開き直った彩未に対して、姫香は興味を無くしたかのように餌作りを終わらせ、道具を片付け始めていた。
「えっと次は、…………ん?」
ふと、姫香の声が途絶えていることに気付いた。今は黙って勉強していたので、またスマホでも覗き込んでいるのかと思っていたのだが……彼女は彩未の目の前で黙って立ち上がると、そのまま玄関の方へと歩いて行った。
「ああ……帰って来たんだ」
自身にはその経験がないので、緘黙症の詳細については分からないものの……姫香が話せなくなる条件は知っている。その状況を見て、彩未は家主が帰ってきたことに、ようやく気付いた。
(にしても……)
――ガチャ
「ただいま。あ~……疲れた」
帰宅した睦月に対して、手話で『お帰りなさい』と伝える姫香の後ろ姿を見つめていた彩未は、次第にその視線を、彼女のVネックワンピースのスカートの端にまで降ろした。
(姫香ちゃんに尻尾があったら……スカートが捲れる程、激しく揺れてないかな?)
「彩未も来てたのか……彩未? どうかしたのか?」
「ん? ……ああ、ごめんごめん。お邪魔してま~す」
中に入って来た睦月に挨拶してから、ちょっと気になることができた彩未は、指を動かして耳を近づけるように指示した。
「どうした?」
「あのさ、睦月君……」
訝しげな眼で見てくる姫香には聞こえないよう気を付けながら、彩未は睦月に問い掛けた。
「姫香ちゃんってさ…………犬と猫、どっちだと思う?」
「……お前何言ってんだ?」
一瞬、何を言われたのかが分からなかった為か、睦月は本気で首を傾げていた。
後程、彩未の質問の意図を把握した睦月は、姫香についてこう答えた。
「どちらかといえば、ギリギリ犬だけど……(赤)色のイメージが強すぎて、他の動物の方が似合いそうな気がする」
「あ~……たしかに」
姫香に対する陰口になりかねないで、二人の話はこの辺で。
「いや、失礼。みっともないところを見せてしまい……」
「大丈夫ですよ。俺もバイトしていた時に、似たような手合いによく出くわしましたし」
「同じく……」
洋一と共に戻ってきた裕に、睦月と拓雄は続けざまに答えた。あまり気を遣わせるのもどうかと考え、間を空けずについ、経験談を話し出してしまう。
「個人的な考えにはなりますけど……その手合いは話が通じないって、最初から割り切った方が早いですよ」
職業柄、様々な手合いと顔を合わせることの多かった睦月は、裕をはじめとした面々に、そう持論を述べた。
「精神的な問題以前に、一人で行動していた時間が長すぎる分、そういう人間は大体共感力が低いんですよ」
人間が意思疎通を量る際に、重要だと言われているものの一つが、共感力である。論理的な理解ではなく、相手がどう思っているかの感情を推し量る為の能力だ。
人間が理屈ではなく、感情を優先させてしまいやすい生き物だとしても、相手の思考を精密に忖度できるわけではない。ましてや、違う個体同士で価値観を合わせることは難しいだろう。
話し合いで物事が解決できない主な原因は、お互いの価値観がずれた状態で強引に行ってしまうからだ。
その価値観を擦り合わせる為に、相手の思考や感情を推し量る共感力が互いに必要となるのだが……哀しいことに、それは相手の気持ちを理解できなければ意味がない。だからこそ、あらゆる力で分かりやすく、物事を解決しようと企てる者が後を絶たないのだ。
「バイト先に派遣会社の社員もよく来ていましたけれど……ただ漠然と大学を卒業した人程、共感力が低い場合が多かったですね。まあ、未だに高学歴な考えが根付いてる社会なのに、多くの企業から選考の段階で弾かれてるんですから、価値観が違い過ぎるのは当たり前なんですけどね」
「本来なら、学校等の集団生活で『協調性』を身に付けながら共感力も高めていくはずが……好成績に高学歴、有名学校への入学が人生の社会的地位だと考えている人間は多く、今も増え続けている。その結果、目的が完全に逸れてしまい、共感力の低い人間があちこちに生まれてしまった」
睦月の説明に拓雄も、こればかりは仕方ないと肯定の意を示してきた。
「『力で解決しよう』とも『話し合いで解決しよう』とも、価値観を押し付け合うのなら同列で意味がない。相手の気持ちを理解しようと努力するべきだが、お互いが『努力したい』と思えるようにならない限り……気持ちの擦れ違いと争いは、今後も続いていくだろうな」
由希奈は純粋に聞いているようだが、本職だと疑いを持っている面々は睦月を含めて、拓雄の言葉の重みを実感していた。
(結局……まったく同じ人間が居ないから、こうなるんだよな)
とはいえ、互いの価値観を擦り合わせようと努力さえできれば、共感力は自然と高まってくる。要は、相手を受け入れられるかどうかだ。現に、意思疎通を量ることに失敗した者の中にも、自省して変わろうと努力する人間だっている。
けれども、かつて睦月が『背負う価値もない命』と断じた者が……努力を放棄した愚者達が居ることも、また事実だった。
「けど……結構、楽な部分も有りますよ?」
腰掛けたまま腕を組む拓雄が振り向いてきた後、睦月は改めて口を開いた。
「共感力の低い相手程、孤立主義で意思疎通を最低限で済ませる場合が多いですからね。しっかり報連相しながら働いて、かつ余計な口さえ叩いてこなければ……コミュ障気味な俺には結構、付き合いやすかったりしますから」
しかし、その余計な口が揉め事の原因だと気付ける人間はいったい、何人いるのだろうか? むしろ……そこに着目できるかが、共感力の高低を判断する材料なのかもしれない。
「前から偶に、思ってたんだけど……」
そこで、この教室で六つ目の声……成績通知表を配布した担任の紅美が、口を挟んできた。
「……この教室に担任、必要?」
『いや職務放棄っ!』
たしかに、生徒間で問題を解決してしまっているが……その揉め事が拗れた時に必要なのが、教師という仲裁役である。その部分は忘れないでいただきたい。
「見守ることも立派な仕事だから、な?」
「はい…………」
生徒に担任が諭されるという……ある意味情けない光景もまた、この教室での一幕だと皆が考える中、終業式は終了した。
下校後、担任の紅美を含めた成人クラスの面々は、二手に分かれた。
一組は紅美の退勤を待ってから、裕のストレス発散も兼ねて痛飲に。もう一組である由希奈は睦月に連れられて、階下の喫茶店へと足を運んでいた。
「彩未から聞いたんだが……裏社会の住人になって、どうする気だ?」
「あれから、色々と考えました……」
最初はただ、免許を取得すればいいと考えていた。
『それで最低限だぞ?』
そう言われたことを後々になって思い出し、何が必要なのかを自分なりに考えてみた結果……真っ先に思い浮かんだのは、睦月の為に運んだ銃器類の入った鞄だった。
「私には……身を守る術が、ありません」
もし、揉め事に巻き込まれた際、自分は自分の身を守れるのだろうか?
睦月も姫香も、場合によっては助けてくれるかもしれないが……自分から危険に飛び込むのであれば、甘えていられない。だから由希奈は、裏社会の住人になる方法を彩未に相談した。
結果的には先送りとなり……今日、睦月に呼び出されてしまったわけだが。
「だから……裏社会の住人になる方法を、彩未に聞いたのか」
「はい、甘えたく……縋りたく、ありませんから」
由希奈には厳しいかもしれないし、単なる我儘なのかもしれない。
それでも、由希奈にとっては必要なことだからこそ……最初は同じ素人だった彩未に相談したのだ。
「だから夏休みの内に、身に付けたいんです。免許と一緒に……その、方法を」
「…………」
睦月は一度、アイスコーヒーを口に流し込んでから……少しだけ、目を閉じてしまった。
(さて……どう答えたものか)
再び瞼を開いた時、視界が横に長く感じた。しかしすぐ、単に目を細めているだけだと、睦月は気付いた。
「まず確認なんだが……由希奈はまず、何がしたい?」
「え、あの……だから、睦月さん達と一緒に、」
「何の仕事をしたいか? そう聞いているんだ」
少し、厳しい物言いになってしまっている自覚はある。
それでも、由希奈が抱えている漠然とした悩みは、睦月にも経験のあることだ。だからこそ、はっきりさせておく必要があった。
「前に、話したことがあったよな? 勝手に仕事を請けて、親父と揉めた時の話を」
「は、はい……」
「……今の由希奈は多分、その時の俺に近い悩みを抱えている」
自分の身を守る。その考え自体は正しい。社会の表裏を問わず、必要となってくる。
……問題なのは、その方法だ。
「『前提条件と優先順位――依頼を達成する為の絶対条件を忘れるな』と言われるまで、俺はやり方にも拘ってしまっていたが……由希奈の場合は、やり方自体が分からないと思っている。ここまでは、合っているか?」
「…………はい」
だから由希奈は、裏社会の住人になる方法という、どう解答すればいいのかが分かり辛い質問しか、できずにいる。少なくとも睦月は、そう考えていた。
「いい機会だから……夏休みの内に一度、なりたい職業について考えた方がいいんじゃないか?」
「え、それって……」
「……別に、由希奈の考えを拒絶しようとか、そういうものじゃない」
怯えている由希奈に対して首を振るものの、睦月にとっては本当に一度、全てを忘れた状態で考えるべきだと思っている。
将来……後悔しない為にも。
「こいつは俺の持論だが……どんな職業にも貴賤は有る。何の罪もない人間を犠牲にしているかどうか、だ」
法を犯す、だけでは物足りない。たとえ抜け道を掻い潜ってでも、望むのであれば自ら進んで卑しく、誰かの人生を貪ろうとする。自覚があろうとなかろうと、それが卑賎な者の真理だ。
その一点こそが、職業の貴賤を決める基準だと、睦月は考えていた。
「働き方次第で、その気になれば誰でも法を犯せるんだ。相手の尊厳を踏み躙った時点で、どんな真っ当な職業だろうと……そこらの破落戸と同じになってしまう」
薬も量を間違えれば、毒へと変わる。目的の為に手段を選ばないダークヒーローが持て囃されるのは、犠牲になるのが悪人だからに過ぎない。もし被害者が善人、ないしは無関係な一般人だとすれば……ただの悪役へと成り下がる。
その成れの果てが……本当の意味での、裏社会の住人なのだろう。
「実際、彩未もただの大学生だったけど……専攻している情報科学を武器にして、今の立場を得た。大事なのは、自分が何をしたいか? それだけなんだよ」
そういえば、と前置きした上で、睦月は由希奈に問い掛けた。
「高校を卒業した後は、どうするつもりだったんだ?」
「……いいえ」
首を横に振り、由希奈は静かに答えて来た。
「ただ漠然と、大学に進むつもりでした」
それを恥ずかしいとでも思っているのか、由希奈は徐々に顔を伏せようとしている。だから睦月は、意識的に口調を元に戻そうと一息吐いてから、ゆっくりと話し掛けた。
「別に、気にする必要もないだろう。やりたいことが見つかっていない人間にとっては、それを探す為に進学することもある。それが普通だ」
睦月自身もまた、『家業を継ぐ』程度の理由をきっかけにして『運び屋』の道を選び、現在に至っている。結局のところ、最後に自分が納得して進められれば、それでいいのだ。
「だからまず、進路から考えてみたらどうだ? 自分に何ができるのか、自分が何をしたいのか……それを知ってからでも、生き方を決めるのは遅くない」
結果、由希奈が睦月の元を選ばない可能性もある。しかし、それでも良かった。
「……分かりました」
大事なのは……由希奈自身の、気持ちなのだから。
高校と大学では、長期休暇の時期がずれている。地域や同列の学校でも統一されているわけではないのだから、教育機関が違えば夏休みの開始日も必然的に変わってくる。
そして当然……試験の時期も、ずれてしまうことになるのだ。
「姫香ちゃん、ここの訳教えて、」
「『ただデータ化することだけを考えればいいわけじゃない。組織に有益なデジタル手段を構築することが重要である』ことにいいかげん気付け、この間抜け」
「……最後は絶対要らないでしょう? 特に『間抜け』の部分」
彩未とて全部ではないものの、大まかな日本語訳は感覚で理解していた。その上で、自分より格上の語学力を持つ姫香に確認として聞いているのだが……終始この有様である。
「そもそも英語なんて、大まかに合っていれば普通に通じるのよ。教科書通りの訳しかできない教員にでも当たらない限り、今の彩未なら問題ないんじゃない?」
「日常会話での試験はともかく……専門的な論文だと、そうもいかないんだよね~」
愚痴だと分かりつつも、向かいに腰掛けて『スッポン』用の餌を作っている姫香に対して、彩未はそう返した。
「日本人だって、日本語の論文でもけっこう誤用してるじゃん。英語圏の人間も同じように、英語の論文で普通に誤用してるし。それが学生ならなおさら……むしろ、英語圏以外の人の英論文の方が、綺麗に訳しやすいよ?」
「……綺麗に翻訳サイトで変換しやすい、じゃなくて?」
「正しいかどうかの判断位はできますぅ~!」
開き直った彩未に対して、姫香は興味を無くしたかのように餌作りを終わらせ、道具を片付け始めていた。
「えっと次は、…………ん?」
ふと、姫香の声が途絶えていることに気付いた。今は黙って勉強していたので、またスマホでも覗き込んでいるのかと思っていたのだが……彼女は彩未の目の前で黙って立ち上がると、そのまま玄関の方へと歩いて行った。
「ああ……帰って来たんだ」
自身にはその経験がないので、緘黙症の詳細については分からないものの……姫香が話せなくなる条件は知っている。その状況を見て、彩未は家主が帰ってきたことに、ようやく気付いた。
(にしても……)
――ガチャ
「ただいま。あ~……疲れた」
帰宅した睦月に対して、手話で『お帰りなさい』と伝える姫香の後ろ姿を見つめていた彩未は、次第にその視線を、彼女のVネックワンピースのスカートの端にまで降ろした。
(姫香ちゃんに尻尾があったら……スカートが捲れる程、激しく揺れてないかな?)
「彩未も来てたのか……彩未? どうかしたのか?」
「ん? ……ああ、ごめんごめん。お邪魔してま~す」
中に入って来た睦月に挨拶してから、ちょっと気になることができた彩未は、指を動かして耳を近づけるように指示した。
「どうした?」
「あのさ、睦月君……」
訝しげな眼で見てくる姫香には聞こえないよう気を付けながら、彩未は睦月に問い掛けた。
「姫香ちゃんってさ…………犬と猫、どっちだと思う?」
「……お前何言ってんだ?」
一瞬、何を言われたのかが分からなかった為か、睦月は本気で首を傾げていた。
後程、彩未の質問の意図を把握した睦月は、姫香についてこう答えた。
「どちらかといえば、ギリギリ犬だけど……(赤)色のイメージが強すぎて、他の動物の方が似合いそうな気がする」
「あ~……たしかに」
姫香に対する陰口になりかねないで、二人の話はこの辺で。
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極楽堂鉱石薬店の女主の妹 極楽院由乃(ごくらくいんよしの)は、生家の近くの線路の廃線に伴い学校の近くで姉が営んでいる店に越してくる。
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ある日、由乃は女学校で亡き兄弟に瓜二つの上級生、嘉月柘榴(かげつざくろ)に出会う。
誰に対しても心を閉ざし、人目につかないところで真珠煙管を吸い、陰で男と通じていて不良女学生と名高い彼女に、由乃は心惹かれてしまう。
だが、彼女には不穏な噂がいくつも付き纏っていた。
※作中の鉱石薬は独自設定です。実際の鉱石にそのような薬効はありません。
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