鬼百合懺悔

文月 沙織

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夏の曲

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 その声音にはいらだちと諦めがこもっており、わたくしはなんとも寂しい気持ちになったものでございます。それからしばらくして、旦那様はこのお屋敷へは帰ってこられないようになられました。
「……で、ねぇ、お清、聞いているの?」
「あ、はい、なんでございましょう?」
「おまえ、最近おかしいよ、大丈夫かい?」
「まぁ、申し訳ございません。ついついよけいなことを考えこんでおりまして」
「まだ、けるには早いだろう」
 坊ちゃまは甲高い声でお笑いになりまして、話をつづけられました。
「だから、あの男、須藤、やっぱりおかしいよ。なんだか、今朝も離れの方をうかがっていたし、美紀にやたらと話しかけて取り入ろうとしているし。あいつ、けっこう男前だから、美紀みたいに馬鹿な女だったらすぐ騙されてしまうよ」
「まあまあ」
 わたくしは、わざと笑って見せました。実をいいますと、わたくしもそれを心配していたのでございます。
「ねぇ、もしかして、あいつスパイじゃないかい?」
「まるで小説か漫画みたいなことをおっしゃいますねぇ」
 わたくしは散らかっている雑誌を片付けながらまた笑ってみせました。
「あいつ、きっとスパイなんだよ。この家の秘密を探りに来たんだよ」
 長い睫毛のしたの榛色はしばみの瞳を輝かせ、坊ちゃまはしごく真面目におっしゃいます。
「誰がそんなことさせるんですか? あの須藤さんは、一応、お父様の、旦那様の許可を得てこのお屋敷に来ているんですよ」
 それが一番気になっていることでございます。どうして、旦那様は、あんな見るからに普通でない、どこかヤクザめいた男を、このお屋敷に上げたのでございましょう。
「だからさ、叔父さんたちのうちの誰かが親父をそそのかして、あいつを送り込んできたんだよ」
「坊ちゃま、探偵小説の読み過ぎでございますよ」
 とは言いつつも、言われてみればそうかもしれません。
 財や名のあるお家というのには、いろいろ事情がございまして、旦那様の弟さんでいらっしゃるご親戚の方々は、道子みちこ奥様とあまり仲が良くないのでございます。
 ありていに言ってしまいますと、すこぶる仲が悪いのでございます。それというのも、やはり奥様がお家柄を鼻にかけて、と申してはたいへん失礼でございすが、もと士族という出自をたいそう誇りに思われ、戦後の闇市で財を成した旦那様や、そのご親族の方々を見下しているようなところがありありとございまして、わたくしから見ましても、あれではご親戚一同から嫌われてもしかたないと思うことがしばしございました。
 また、ひとり娘でいらっしゃる安樹お嬢様はご病弱、息子の竜樹坊ちゃまは、見た目がひ弱に見えるせいか、どうも戦後成金で、そのお仕事にも多少荒っぽいことがつきまとう旦那様の事業を引き継ぐには向いてないのではないか、という思惑がからんでおりまして、率直に申し上げますと、旦那様の御親族は、松林家の事業や財産を狙っているのでございます。とくに旦那様のすぐ下の弟である方は、ご自分の息子を松林家、および松林興業の跡継ぎにと望んでおられ、その坊ちゃまのお従兄にあたられるご自分の長男を、旦那様の下で働かせているようでございます。わたくしとしましては、なんとも気が気ではございません。
 くわえて奥様のご実家は、由緒はあるとは申しましても、すっかり昔の御威勢はなくされ、今や奥様の援助、つまり松林家からの援助で細々と生き永らえているような状況でございます。ですから、竜樹坊ちゃまたちのお立場はかなり危ないものなのでございます。誰も味方となって後見してくださる方がいないのでございますから。
 しかも、旦那様はこの家へはお帰りにならず、別宅をかまえて、そこに……お妾をおかれて、入り浸りに。
 考えただけでもわたくしは暗澹たる気持ちになってまいります。
 あながち須藤が親戚のおくりこんだ親戚の手下だとしても否定できません。
 わたくしはよっぽど思い詰めた顔をしていたのでございましょう。
「大丈夫だよ、お清」
「え?」
 竜樹坊ちゃまが、外国の美人女優にも似た美しい顔で笑われました。どこか痛々しい雰囲気すら感じさせます。
「僕は大丈夫だから」
「坊ちゃま……」
 ああ……。坊ちゃまはわたくしの心配ごとをすべてお見通しなのでございます。
「どうとでもなるよ。親父が家に帰ってこなくたって、叔父たちが何をたくらんでいようが……。いっそ、会社なんて安治やすじにやってしまえばいいんだよ」
 安治というのは、例の従兄に当たられる方のことでございます。
「どのみち、僕に土建屋や建設業なんて無理なんだから。お前だってそう思うだろう?」
「坊ちゃま、経営者というのは、下の者に指示を出しておけばいいのでございますよ」
 わたくしは仕事のことなど何も解らぬくせにそんなことを言っておりましたが、坊ちゃまは首を振るばかりでございます。
「どのみち、興味がわかないんだ。いっそ、親父の言うように歌舞伎役者の家にでも生まれた方がまだマシだったかとも思うよ」
 一気に十歳も歳をとられたようなお顔で竜樹坊ちゃまが無理な笑顔をつくられました。わたくしは涙ぐみそうになったのを知られたくなくて、雑誌を本棚にもどしながら、そっと銀鼠ぎんねず色の袖で目元をぬぐいました。

 悪魔がいよいよその本性を見せはじめたのは、それから三日後の夜のことでございました。
 用を足そうと、夜の廊下を歩いておりましたわたくしは、廊下にべつの足音が響いているのに気づきました。
 夜目ですが、見えたのは男の背中でございました。青色めいた浴衣の背中は、まぎれもなく須藤でございます。
 最初は彼も厠へ向かうものと思って、なんとなくばつが悪く足を止めておりますと、驚いたことに別方向へ行くではありませんか。まさか、と思いつつも早鐘のように鳴る心臓をひっしにおさえて跡をつけました。
 信じたくない気持ちでいっぱいでございましたが、須藤は迷うことなく奥の室、奥様のお休みになられている寝所へ向かいます。
 まさか、まさか……。
 ひたひたと、深夜の屋敷にひびく足音は、まぎれもなく松林家崩壊の序曲だったのでございます。
 わたくしは、その夜、見てはいけないものを見てしまいました。

 その年はあとになって思えば異常な年でございました。
 戦争も遠くなり、豊かさを楽しみだす人も増え、若い世代の人は新たな時代の、以前とはまったくちがった青春を謳歌し、世のなかの価値観がどんどん変わっていった時代でございました。
 あの、国をあげての大難をのりこえてようやくつかみはじめた栄華に人々は酔い始めていました。それでもやはり貧困に苦しむ人もおおく、犯罪事件も増え、なによりこの年を後に異常なものとして振り返るようにさせたのは、どういうわけか若い子たちの自殺が多かったことでございます。
 そんな年に、松林家の事件は起こったのでございます。

「最近、須藤さん、奥さんの部屋によく行ってますよね」
 美紀がしもぶくれの頬をいっそうふくらませて、そんなことを言うのにわたくしは厳しい目を向けました。
「奥さん、じゃなく、奥様とお呼びしなさい」
「はあい。……でも、いいんですか、こんなの?」
 庭を掃きながら美紀が不満たらたら言うのに答えず、わたくしは熱心に廊下を雑巾でみがくのに専念しました。黒檀はみがけばみがくほど美しく映え、さしこむ夏日に床も柱も梁も、黒曜石のようにしっとりと輝いています。わたくしは一瞬、自分の仕事ぶりに満足しました。
……けれどさすがにいつまでも知らぬふりはできません。 
 本当に、そろそろなんとかしなければならないのでございます。
 そう思っていると、廊下のおくから奥様の、いつになくにぎやかな笑い声が響いてまいりました。そして、お琴の音色も。
 それはかすかに聞き覚えのなる『夏の曲』でございます。まさにこの季節にふさわしい曲でございますが、室のなかにあの男がいるのかと思うと、とてものんきに聞いておられません。
 本当でしたら今日は安樹お嬢様にお琴を教えられる日でございましたのに、奥様はそれもほったらかしにされ、須藤を座敷に入れてふたりでなにやら楽し気に過ごしているのでございますから、わたくしはいてもたってもらいられぬ気分でございました。
 竜樹坊ちゃまのお部屋はすぐ近くなのでございますから、気づかぬわけもなく、ここ数日、ご自分のお母様の変貌ぶりを坊ちゃまがどんな想いで見ていらっしゃることか。察するにあまりある想いでございます。
 それにしても……ここ数日、お嬢様のことも、坊ちゃまのこともほったらかしで須藤と仲良くしていらっしゃる奥様を見ていると、わたくしはなにやら空恐ろしい気持ちになってまいりました。
 元士族の家の出をあれほど誇りとされ、規律ただしい生活を好まれていらした奥様が、夫の留守に男の使用人を部屋にいれて歓談なさっていらっしゃるなど……。こんなこと、いくら世の中が、時代が変わったからといって、いいのでございましょうか。
 ほほほほ……。
 薄暗い廊下に、また奥様の笑い声が響いてまいり、わたくしは顔をうつむけ、さらに廊下をみがくことに専念しました。
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