鬼百合懺悔

文月 沙織

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深夜のお仕置き

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 その日の午後、坊ちゃまのお部屋へ麦茶とカステラを持って行きますと、坊ちゃまは畳のうえに寝転がって天井の木目を睨んでおられました。お顔はいっそう白く見え、髪とおなじく榛色の瞳は、そこに見えないなにかを見ているようでございます。
「坊ちゃま、今日は坊ちゃまのお好きなカステラでございますよ」
「ん……」
「あの、坊ちゃま……」
「なんだい?」
 坊ちゃまは起きあがると気だるげに胡坐をかき、暑そうに、いくつかボタンをはずしてある紺のシャツをひっぱって胸元をひろげるようになされました。夏でもそれほど日に焼けることのない白い肌がかすかに見えて、わたくしは我知らず赤面しそうになってしまいました。つい、「坊ちゃま、はしたのうございますよ」と口にしそうになり、あわてて唇をひきしめました。いくらなんでも男の子に言うべき言葉ではございません。わたくしは少しおかしくなっているのかもしれません。
「あの、わたくし、明日にでも、旦那様にお会いしてこようかと思っております」
「親父に? なぜだい?」
「あの、ご相談に」
 奥様のことで……と言葉はつづけられませんでした。
「……ほっとけばいい」
 秀麗な横顔が冷たくそう言い放つのを、わたくしは複雑な気持ちで聞いておりました。
「親父だって、妾とよろしくやっているんだから。知っているだろう?」
「……」
 父親の浮気も、母親の乱心も、坊ちゃまは当然気づいており、ただ傍観するしかないことも理解しているのでございます。
 それでも、父親はともく、母親がべつの男と、それも家のなかで使用人とおかしな関係になっているのを目の当たりにした十五の少年の心持ちとはどういうものかと、わたくしは推察して、あまりにも忍びない気持ちになりました。それはどれほどの打撃であり、苦痛であるか。まして坊ちゃまのように繊細で、一風変わっているような方には。
 坊ちゃまには幼いころから特に仲の良いお友達というのがございません。けっして嫌われているわけではないのでございますが、どこか他の子どもたちと馴染まないところがあったのでございます。
 泥んこになって子ども同士遊ぶより、お屋敷のなかでお姉さまと静かにご本を読まれる方を好まれる御気性でございました。十代の男の子が、夏の盛りに日焼けしないこと自体、この時代には珍しいことでございます。その雪白せっぱくの肌は、いかに坊ちゃまが浮世から離れているかの証しでございました。そして外国の血が混じっているのではないかと噂されるような榛色の髪や瞳。正直、すこしも旦那様に似ておられません。
 安樹様は、面影が奥様によく似ていらっしゃるのでございますが、坊ちゃまにかぎっては、そう母親似とも言えません。悔しいことですが、旦那様の親戚のなかには「あれは、母親が浮気してべつの男の種をもらったのではないか」などと言語道断な噂をながす輩もいるぐらいでございます。
「ねぇ、お清、もう母様のことはほうっておけよ」
「え?」
「あれは、あれでいいんじゃないか? 女子おなごに生まれたならばと、義理も操もうちすてて……だよ」
 歌うようにそう口ずさむ坊ちゃまのお顔は、十五にして人生を悟ってしまった者の、いえ、諦めてしまった者の顔でございました。
「なんですの、それ?」
「知らないかい? 滝川たきがわの台詞だよ。歌舞伎の」
 そういえば、そんなお芝居を見たことがございました。
「御殿女中の滝川は、ならず者に犯されて、性格が変わってしまい、お熊と名前をかえて遊女になるんだよ」
 おそらく処女で、許婚いいなずけもいたというのに、自分をむりやり手籠めにした男に惚れてしまい、その男にひきずられるようにして、いえ、自分の方からその男にくっつくようにして、遊女に転落してしまった滝川に、坊ちゃまは、淪落りんらくしていく奥様をかさねていらっしゃるのかもしれません。
 わたしくしは、そっと室を去りました。旦那様に会いに行くのは、もう少し考えてからにすることにしました。
 ですが、その日の夜には、そのことを深く後悔することになったのでございます。

 夜半、眠れぬわたくしは、庭に出て半月をながめておりました。
 夏の夜は静かで、どこかで蛙の鳴き声もしております。しばらくぼんやりと庭をさまよって、蚊に喰われたのを機にそろそろ戻ろうかとしましたとき、またも悪魔を見てしまったのでございます。
 庭の、例の関守石を置いてあったあたりで、うごめく人影が月にあぶりだされておりました。
 最初は、奥様と須藤だと思って、いそいで草履の先を変えようとしたのですが、じきにそれが違うことに気づきました。いえ、もつれあう影のうち大きいほうはまぎれもなく須藤でした。ですが、もう一方は……。
 そんな……まさか……?
 夜目にも浴衣の赤い金魚模様が目に映ります。見た記憶があります。まちがいなく安樹お嬢様のお召しものでございます。
 月光に浮かぶのは……長い黒髪をふり乱した……お嬢様? 
 わたくしは悲鳴をあげそうになっておりました。必死にこらえて、とにかく、止めようと人影に近づきました。
 犬黄楊の木のあたりまできて、すぐそこにいる二人のあいだに割りこもうとした瞬間、聞き慣れた声がわたくしの鼓膜を打ちました。

「はなせよ! はなせったら!」
「どこへ行くんですか、坊ちゃん?」
「部屋にもどるんだよ、はなせったら!」
「こんな格好で、うろついていたんですから、事情を聞かせてもらいましょうかね?」
 なんということでございましょう。
 安樹お嬢様に見えたのは、竜樹坊ちゃまだったのでございます。わたくしは思わず庭木の影に隠れてしまいました。
「お姉さんの浴衣を着て、かつらまでつけて。いい趣味があるんですね、良家の坊ちゃまが」
 須藤は笑いながら坊ちゃまの腕をねじりあげております。
「はなせったら」
「お母様が見たら、さぞびっくりすることでしょうね? お姉さんの浴衣を着ていること、お姉さんは知っているんですか?」
 須藤は楽しくてならない、というふうに笑いながら、そう、まさしく悪魔のごとき笑みを浮かべて、月下に竜樹坊ちゃまを嬲っております。止めに行かねば、とは思うものの、ここでわたくしが出ていけば、かえって坊ちゃまに恥をかかせると思うと足がすくんでしまいました。
「そうだ、今からお母さんのところへ行きましょう。叱ってもらわないと」
「や、やめてくれ! お願いだから、やめて。少しふざけただけなんだ」
 坊ちゃまは泣きそうなお声をあげていらっしゃいます。わたくしまで泣きたくなりました。
「旦那様はずっとお帰りにならず、奥様と病気がちなお姉さんだけ。お清さんは甘やかすばかりで、坊ちゃんはちょっとばかり我が儘で甘えん坊になってしまっていますね。ここは、この須藤が旦那様に代わって、坊ちゃんをきびしく躾けなおしてあげましょう」
「な、なにをする!」
「悪いことをした子には、お仕置きしませんとね」
 信じられないことに、須藤は、あろうことが坊ちゃまの肩をおさえこんで、庭石のうえに膝をつかせる形に強いると、浴衣の裾をまくりあげたのでございます。
「ああ!」
 わたくしは息が止まりそうになりました。
 鈍色にびいろに光る月のもと、坊ちゃまの卵のように白いお尻があらわにされてしまったのでございます。
 これで、わたくしは今夜はぜったいに坊ちゃまのまえに出れなくなりました。
 こんな格好をわたくしに見られたことを知ると、自尊心のたかい坊ちゃまがどれほど傷つくか……。とにかく、わたくしは歯を食いしばって、身をひそめていることしかできませんでした。
「畜生! 畜生! はなせ、馬鹿野郎! あっ……」
 じたばたと動く坊ちゃまの両手をひとまとめにして片手でおさえこむと、須藤は、むきだしになった坊ちゃまの白いお尻を、もう片方の右手で撫であげたのでございます。
「さ、さわるな!」
 暗くとも、坊ちゃまが耳まで赤くなっていることは想像できます。お声は涙声になってしまわれて、お気の毒に、生まれて初めて受ける恥辱に、死ぬほどの屈辱感を感じていることでございましょう。
「坊ちゃん、本当に色が白いですね。それに、なんともいい肌触りだ……。女みたいだな。いや、女でもこれほど触りごこちの良い肌はそうありませんよ」
 自身も膝をついて、須藤が検分するように顔を坊ちゃまの腰に近づけております。
「はなせよ、気色悪い!」
「ははは、これは元気がいい」
「うわっ!」
 ぴしゃり! と、夜のしじまに肉を打つ音が響きわたりました。
「な、な、何をするんだ!」
「だから、お仕置きですよ。私は奥様やお清さんみたいに甘やかしませんからね。あんまり甘やかしてばかりだと、坊ちゃんが悪い子になってしまいますからね。そら!」
 ぴしゃり! 
「ああ!」
 また、ぴしゃり!  
「や、やめろよぉ……。ああ、よせ、よせ! こ、こんなことして、ただですむと思うな! 僕はこの家の跡取り息子だぞ」
「その跡取り息子が、どうして夜中にお姉さんの浴衣を着て、鬘までつけて歩きまわっているんですかね?」
「だ、だから、ちょっとふざけただけだ!」
「いけませんよ。おいたは。これは、躾けですよ。ほら」
「ひぃっ!」
「そら、もう一発!」
「ああ……! よせ、やめろぉ」
 ぴしゃり!
 坊ちゃまの抗いの声もむなしく、若い肉を打つ音はしばらくつづき、わたくしは自分の浴衣の胸のまえで両手をにぎり合わせ、破裂しそうなほどに早く打つ心臓をおさえ、ただひたすら時間が過ぎることを祈っておりました。

 やがて、どれだけ時間がたったかのか、肉を打つ音が止んだのは、奇妙なうめき声がきっかでございました。
「ああっ……!」

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