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12章
冬の贈り物
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階段を昇る小さな足音が聞こえる。
静かに開いたドアから、早和が入ってきた。
「なんだか、気を使わせたみたいだね。」
早和は首を振った。
ベッドの下に腰を下ろすと、早和はカバンから薬を出した。
「水、持ってこようか。」
「あるよ。お母さんにもらった。」
「言いたくない事も、みんな話したんだね。」
「だって、それが私だから。」
早和はそう言って薬を飲んだ。
「すごく苦い。」
「錠剤なら、苦くないだろう。口の中に溜めてるから苦いんだよ。」
「先生は、子供達になんて言って薬を渡すの?」
「薬が飲めないなら、注射するっていうかな。」
「ひどい。それなら絶対薬を選ぶでしょう。」
「そう言うと、頑張って飲むだろう。子供は素直だからね。」
「先生。」
「何?」
「早く家を出たかった?」
「そうだね。大学も、本当は別の所へ行きたかったし。」
早和は奏の隣りに座った。
「家って、一番居心地が悪いね。」
「そうかもね。」
「先生の家にくるの、ずっと怖かった。」
奏は下を向いている早和の顔を覗いた。
「ごめんな。俺一人なら、帰りずらくって。」
「お父さんもお母さんも、昔と同じように先生を待ってたのにね。」
「早和も同じだろう。家族って、難しい場所だよ。素直になりにくい関係だし。」
「そうだね。先生と働いてたいた時、生まれたばかりの赤ちゃんが、必死でみんなを繋ぎ止めてるのを見るのが、辛かった。」
奏は早和を静かに抱きしめた。
「先生、そのうち私の事が面倒くさくなるよ。」
奏は何も言わず、早和の首に唇を押し当てた。
「忘れてくれればよかったのに。」
奏は早和をベッドへ押し倒した。
「先生。」
早和は奏を真っ直ぐに見つめた。
「ずっと好きだった。」
奏は早和の口を塞いだ。
「それは俺が先に言うよ。」
「早和、ずっと好きだった。」
早和の目が笑ったように見えた。
奏は早和の口にあてていた手を外し、静かに自分の唇を重ねた。
早和の冷たい体を、奏の温かい手が包んでいく。何度も抱きしめたはずなのに、今日初めて抱きしめたような、そんな気持ちになる。
奏が眠っている早和に毛布を掛けると、
「先生の背中、触ってもいい?」
早和が言った。
「起きてたんだ。」
「起きてたよ。」
奏は早和を胸の中に包んだ。
「いいよ。ほら。」
「そうじゃないの。むこう向いて。」
早和は奏を見上げた。
「それじゃあ、早和が見えないよ。」
「少しだけ、お願い。」
奏は早和に背中をむけた。
早和は奏の背中をそっと触ると、聞こえない左耳を奏の背中にあてて目を閉じた。
背中から、なかなか離れない早和に
「早和。もういいだろう。」
奏は言った。
「もう少し。」
「何か聞こえるの?」
「うん。」
背中に感じる早和の呼吸が、少しゆっくりになったので、奏が後ろを振り返ると、早和はそのまま眠っていた。
月曜日。
学校が始まる。
まーちゃんは、おにぎりを持っていた。
「先生、おにぎりがお腹すいてるって。」
「まーちゃん、おにぎりは牛乳飲めるかな?」
「飲めるって。」
まーちゃんが食べ終えて出ていくと、別の子が保健室に入ってきた。
「秋元先生、転んだみたいなんです。」
「じゃあ、絆創膏貼りますね。」
「ダメです。取って食べちゃいますから。」
「包帯でしたね。10回分巻く分あるかな。これ。」
「4ならわかりますよ。団子は4つだから。」
「じゃあ、4回巻きます。」
早和は男の子と一緒に4まで数えた。
「だいぶ、慣れましたね。」
「毎日、いろんな事が起こります。」
「先生、粘土、食べちゃったみたいで。」
お昼休み。
「秋元先生、元気になりましたか?」
凌が保健室にやってきた。
「原田先生、ご迷惑かけて、本当にごめんなさい。」
早和は頭を下げた。
「先生、病院でもっと、暴れてやれば良かったのに。」
「やだ、忘れてください。」
「同じ先生って呼ばれてるのに、医者はみんな偉そうですね。」
「そうですか。」
「澤口先生はちょっと違うかな。あの人は医者じゃないみたい。俺、タイミング悪いですよね。携帯忘れてなかったら、家にきてくれてたのに。」
「原田先生、本当にごめんなさい。」
奏に会わないように、凌を頼ろうとしていた事を、凌は奏から聞いたのだろう。
「秋元先生、昼から散歩に行きませんか?うちのクラスの子が、氷が見たいって言ってるから。」
「氷なんて、どこにありますか?」
「ありますよ。水溜りは凍ってるます。子供はちゃんと見てますよ。」
「どおりで寒いと思いました。」
「風邪引かないでくださいね。はい、ホッカイロです。」
「ありがとうございます。」
2週間後の木曜日。
梶原の外来で、順番を待っていると、優芽が通った。
「早和、これから受診?」
「そう。優芽はお昼?」
「夜勤明け。忙しくて、もうこんなに時間になっちゃった。」
「大変だね。」
「早和は、仕事楽しい?」
「楽しい。」
「澤口先生と一緒に住んでるの?」
「住んでないよ。」
「そうなんだ。最近、澤口先生は朝も早いし、寝癖ついてないから、てっきり早和が起こしてるのかと思った。」
「きっと、実家にいるんじゃない?」
「そっか。早和、私ね、彼氏ができたの。」
「本当に、おめでとう。」
「相手の人ってどんな人?」
「隣りの大学の6年生。2浪して薬学部に入って、8年も卒業するのにかかった人なの。澤口先生と同じ年だけど、まだ学生。」
「これから国家試験だね。」
「そう。」
「大学の銀杏並木の前でずっと待っててね。いい写真がとれたからっていうから見せてもらったら、葉っぱ1枚の写真よ。呆れて笑った。」
早和が診察に呼ばれた。
「優芽、今度ゆっくり話そう。」
「そうだね。」
梶原の前に行くと、
「データも落ち着いてるし、来月は薬ひとつ、減らせるかも。」
そう言われた。
「じゃあ、一番苦い薬を減らしてください。」
「秋元さん、わかってるだろう。それは減らせない薬だよ。今日は栄養指導受けていって。」
「梶原先生、私、全部わかってますよ。」
「わかってたら、この前みたいな事にならないだろう。給食があったから、あれくらいで済んだんだよ。いつも何を食べてるのか、栄養士さんにきちんと話しなさい。これ以上、澤口先生を心配させないように。」
早和は栄養指導室に入っていった。
「困った患者さんってあなた?」
「そうです。」
「秋元さん、主食があって、副食があって、副菜があるの。ご飯があって、メインがあって、小鉢がある。それに、汁物。これが理想の形じゃない。あなたは、養護教諭だって聞いたけど、子供達になんて指導をしているの?」
早和は時々聞いているフリをして、別の事を考えていた。
「昨日は何を食べたの?」
「納豆と、」
「あら、いいわね。ご飯はどれくらい?」
「炊くのを忘れました。」
「じゃあ、納豆と何を食べたの?」
「チョコレート。」
「秋元さん、目眩がするわ。梶原先生に言っておくから。来月も栄養指導入れてもらうから。」
夕方。
早和は職員玄関の前で、奏が出てくるのを待っていた。
ほんの少しの知り合いに会うと、誰を待っているのか聞かれたが、笑ってごまかしていた。
「先生。」
奏が出てきた。
「待ってるなら、連絡をくれれば良かったのに。」
「先生、ちょっと来て。」
早和は奏の手を掴んでタクシーに乗った。
「どこへ行くの?」
「内緒。」
「咲子さん、こんばんは。」
「早和、待ってたよ。」
「澤口先生。」
早和が奏を紹介した。
「こんばんは。叔母の咲子です。」
「咲子さん、先生の髪、切ってあげて。」
咲子は奏を鏡の前に座らせた。
「先生、早和と同じで厚い髪だね。」
「そうですか?」
「クセがついたら、なかなか治らないでしょう。」
「そうですね。」
「早和もそうよ。それに、無頓着だから、気にしないで学校へ行っちゃう。だから、クセがつかないように、カットするの。」
「わかってる人がいると、いいですね。」
「先生、渦巻きがみっつもあるのね。」
「父もそうです。」
「これなら、クセが付きやすいわね。」
「それに、寝相も悪いから。」
早和は家の方に入っていった。
咲子は厚い奏の髪に、サラサラとハサミを入れていく。
「私はね、子供がいないの。できないってわかった時、兄に早和をほしいってお願いに行ったの。いろんな方法も考えたけど、早和がどうしてもほしくてね。犬や猫じゃあるまいしって思われるかもしれないけど、子供が欲しいっていう気持ちは、理屈じゃないよの。」
「男の自分には、そういう気持ちがわからない理解できない時もあります。」
「先生は、正直ね。」
「妊娠も出産も子育ても辛い思いをするのは、女の人ですからね。男の人がちゃんも支えてくれたら、どんな時だって、2人だけでも幸せでいれると思いますけど。」
「そうね。」
「咲子さんは、早和がほしかったんですか?早和には他にも兄弟がいるし、さっきも言ってましたけど、いろんな方法があったのだろうし。」
「先生の言うように、私は早和がほしかったのよ。赤ちゃんだった早和を抱っこした時にね、早和はちょっと笑ったの。母親になれない自分が情けなくて、やけになってた頃だったし、子供が普通に産める柊子さんが羨ましくってね。このまま、早和を床に落としてやりたいと思って抱いたわ。そしたら、早和は笑ってるのよ。生まれて少ししか経たないのに、世の中の何が面白くて笑っているのかなって思った。その時、急にこの子を守りたいって思ってね。母性なんて私にはないはずなのに、母親ってこんな気持ちなんだって感じたの。兄さんは、早和を養女にくれなかったけど、早和が中学に入ってから、一緒に住むようにしてくれて、夫とよく、白黒だった日常に、色がついたみたいだねって話してた。そんな夫も、去年脳出血で亡くなって。早和は最後まで、棺から離れなかったのよ。」
「そうだったんですか。」
「先生、色がついてる時なんて、あっという間よ。それに気が付かない人のほうが、この頃多いけど。」
早和が家の方からやってきた。
「先生、ご飯食べていこうよ。咲子さん、おでん作ってくれていたよ。」
「先生、食べていってください。朝から楽しみにして作っていたのよ。」
咲子が言った。
「咲子さん、早和は偏食が多いですか?」
「そんな事ない、なんでも食べますよ。」
「そうですか?」
「早和が病気になってから、柊子さんも母さんもすごく食事に気を使ってたけど、あの子はそれを素直を受け入れられなかったのよね。先生はなんでも食べますか?」
「なんでも食べますよ。」
いつもと違う感じになった奏を見て、
「先生、すごくいい男になって、みんなびっくりするね。」
早和はそう言った。
「咲子さん、ありがとうございます。」
「どういたしまして。先生、伸びたらまたいらっしゃい。」
「咲子さん、早く食べよう。」
早和がおでんからいくつか具を取ると、叔父の仏壇へそれを持って向かった。
「先生、早和をもらってください。」
咲子が小さな声で言った。
「もちろんです。」
奏は咲子にそう言った。
「何?」
早和が席につく。
「なんでもないよ。」
奏と咲子は目を合わせて笑った。
咲子の家を後にすると、電車を乗り継いで、2人は奏の家に向かった。
「遅くなったね。明日も学校だろう。早く寝ないと。」
奏が言った。
「先生、すごく素敵になった。」
早和は奏を見上げた。
「寝坊しても、もう寝癖はつかないよ。」
そう言って髪を触った。
「外来の師長、けっこう厳しくてね。」
「先生が、ぎりぎりにくるからでしょう。それにお母さん達って、みんなキレイにしてるから、先生がだらしないと、信用しない。」
「昔、長岡先生が、まだ小児科の外来をしていた時、子供が熱を出しているのに化粧をしてやってくる母親を怒っていた事があってね。そんな暇があるんなら、子供を見なさいってきつく言っててさ。」
「長岡先生、そんな時もあったんだ。」
「早和だって、よく怒られたていただろう。なかなか赤ちゃんを触れなくてさ。」
「そうだね。触ると赤ちゃんが壊れるんじゃないかって、初めはすごく怖かった。」
「だけど、赤ちゃんは、みんな触ってほしいって待ってるだろう?大人だってそうさ。」
「ねえ、先生。」
「何?」
早和は言いづらそうに奏の手を握った。
「何?」
「あのね。」
奏は早和の背中を抱き寄せると
「一緒に暮らそうか。」
そう言って早和の背中を包んだ。
冬の始まりに運んできた風は、冷たい空気の中に、少しだけ、頬を撫でるような優しさを連れてきた。
暖かくなった部屋の中では、もう上着はいらないね。
先生。
永遠なんて、本当にあるのかわからないけど、そんな事を求めなくても、一緒にいる時間はこんなにも尊いものだね。
明日、先生が私の事を嫌いになっても、こうして同じ時間を過した事は、ずっと忘れない。
もしかしたら、思い出のゴミに捨てられるもしれないけど、今はこれ以上ないくらい、先生と離れたくないって思えてくる。
どんなふうに伝えればいい?
どんな言葉で話せばいい?
「さっきから、ずいぶん、お喋りな背中だね。」
「そうかな。」
奏は早和をきつく抱きしめた。
終。
静かに開いたドアから、早和が入ってきた。
「なんだか、気を使わせたみたいだね。」
早和は首を振った。
ベッドの下に腰を下ろすと、早和はカバンから薬を出した。
「水、持ってこようか。」
「あるよ。お母さんにもらった。」
「言いたくない事も、みんな話したんだね。」
「だって、それが私だから。」
早和はそう言って薬を飲んだ。
「すごく苦い。」
「錠剤なら、苦くないだろう。口の中に溜めてるから苦いんだよ。」
「先生は、子供達になんて言って薬を渡すの?」
「薬が飲めないなら、注射するっていうかな。」
「ひどい。それなら絶対薬を選ぶでしょう。」
「そう言うと、頑張って飲むだろう。子供は素直だからね。」
「先生。」
「何?」
「早く家を出たかった?」
「そうだね。大学も、本当は別の所へ行きたかったし。」
早和は奏の隣りに座った。
「家って、一番居心地が悪いね。」
「そうかもね。」
「先生の家にくるの、ずっと怖かった。」
奏は下を向いている早和の顔を覗いた。
「ごめんな。俺一人なら、帰りずらくって。」
「お父さんもお母さんも、昔と同じように先生を待ってたのにね。」
「早和も同じだろう。家族って、難しい場所だよ。素直になりにくい関係だし。」
「そうだね。先生と働いてたいた時、生まれたばかりの赤ちゃんが、必死でみんなを繋ぎ止めてるのを見るのが、辛かった。」
奏は早和を静かに抱きしめた。
「先生、そのうち私の事が面倒くさくなるよ。」
奏は何も言わず、早和の首に唇を押し当てた。
「忘れてくれればよかったのに。」
奏は早和をベッドへ押し倒した。
「先生。」
早和は奏を真っ直ぐに見つめた。
「ずっと好きだった。」
奏は早和の口を塞いだ。
「それは俺が先に言うよ。」
「早和、ずっと好きだった。」
早和の目が笑ったように見えた。
奏は早和の口にあてていた手を外し、静かに自分の唇を重ねた。
早和の冷たい体を、奏の温かい手が包んでいく。何度も抱きしめたはずなのに、今日初めて抱きしめたような、そんな気持ちになる。
奏が眠っている早和に毛布を掛けると、
「先生の背中、触ってもいい?」
早和が言った。
「起きてたんだ。」
「起きてたよ。」
奏は早和を胸の中に包んだ。
「いいよ。ほら。」
「そうじゃないの。むこう向いて。」
早和は奏を見上げた。
「それじゃあ、早和が見えないよ。」
「少しだけ、お願い。」
奏は早和に背中をむけた。
早和は奏の背中をそっと触ると、聞こえない左耳を奏の背中にあてて目を閉じた。
背中から、なかなか離れない早和に
「早和。もういいだろう。」
奏は言った。
「もう少し。」
「何か聞こえるの?」
「うん。」
背中に感じる早和の呼吸が、少しゆっくりになったので、奏が後ろを振り返ると、早和はそのまま眠っていた。
月曜日。
学校が始まる。
まーちゃんは、おにぎりを持っていた。
「先生、おにぎりがお腹すいてるって。」
「まーちゃん、おにぎりは牛乳飲めるかな?」
「飲めるって。」
まーちゃんが食べ終えて出ていくと、別の子が保健室に入ってきた。
「秋元先生、転んだみたいなんです。」
「じゃあ、絆創膏貼りますね。」
「ダメです。取って食べちゃいますから。」
「包帯でしたね。10回分巻く分あるかな。これ。」
「4ならわかりますよ。団子は4つだから。」
「じゃあ、4回巻きます。」
早和は男の子と一緒に4まで数えた。
「だいぶ、慣れましたね。」
「毎日、いろんな事が起こります。」
「先生、粘土、食べちゃったみたいで。」
お昼休み。
「秋元先生、元気になりましたか?」
凌が保健室にやってきた。
「原田先生、ご迷惑かけて、本当にごめんなさい。」
早和は頭を下げた。
「先生、病院でもっと、暴れてやれば良かったのに。」
「やだ、忘れてください。」
「同じ先生って呼ばれてるのに、医者はみんな偉そうですね。」
「そうですか。」
「澤口先生はちょっと違うかな。あの人は医者じゃないみたい。俺、タイミング悪いですよね。携帯忘れてなかったら、家にきてくれてたのに。」
「原田先生、本当にごめんなさい。」
奏に会わないように、凌を頼ろうとしていた事を、凌は奏から聞いたのだろう。
「秋元先生、昼から散歩に行きませんか?うちのクラスの子が、氷が見たいって言ってるから。」
「氷なんて、どこにありますか?」
「ありますよ。水溜りは凍ってるます。子供はちゃんと見てますよ。」
「どおりで寒いと思いました。」
「風邪引かないでくださいね。はい、ホッカイロです。」
「ありがとうございます。」
2週間後の木曜日。
梶原の外来で、順番を待っていると、優芽が通った。
「早和、これから受診?」
「そう。優芽はお昼?」
「夜勤明け。忙しくて、もうこんなに時間になっちゃった。」
「大変だね。」
「早和は、仕事楽しい?」
「楽しい。」
「澤口先生と一緒に住んでるの?」
「住んでないよ。」
「そうなんだ。最近、澤口先生は朝も早いし、寝癖ついてないから、てっきり早和が起こしてるのかと思った。」
「きっと、実家にいるんじゃない?」
「そっか。早和、私ね、彼氏ができたの。」
「本当に、おめでとう。」
「相手の人ってどんな人?」
「隣りの大学の6年生。2浪して薬学部に入って、8年も卒業するのにかかった人なの。澤口先生と同じ年だけど、まだ学生。」
「これから国家試験だね。」
「そう。」
「大学の銀杏並木の前でずっと待っててね。いい写真がとれたからっていうから見せてもらったら、葉っぱ1枚の写真よ。呆れて笑った。」
早和が診察に呼ばれた。
「優芽、今度ゆっくり話そう。」
「そうだね。」
梶原の前に行くと、
「データも落ち着いてるし、来月は薬ひとつ、減らせるかも。」
そう言われた。
「じゃあ、一番苦い薬を減らしてください。」
「秋元さん、わかってるだろう。それは減らせない薬だよ。今日は栄養指導受けていって。」
「梶原先生、私、全部わかってますよ。」
「わかってたら、この前みたいな事にならないだろう。給食があったから、あれくらいで済んだんだよ。いつも何を食べてるのか、栄養士さんにきちんと話しなさい。これ以上、澤口先生を心配させないように。」
早和は栄養指導室に入っていった。
「困った患者さんってあなた?」
「そうです。」
「秋元さん、主食があって、副食があって、副菜があるの。ご飯があって、メインがあって、小鉢がある。それに、汁物。これが理想の形じゃない。あなたは、養護教諭だって聞いたけど、子供達になんて指導をしているの?」
早和は時々聞いているフリをして、別の事を考えていた。
「昨日は何を食べたの?」
「納豆と、」
「あら、いいわね。ご飯はどれくらい?」
「炊くのを忘れました。」
「じゃあ、納豆と何を食べたの?」
「チョコレート。」
「秋元さん、目眩がするわ。梶原先生に言っておくから。来月も栄養指導入れてもらうから。」
夕方。
早和は職員玄関の前で、奏が出てくるのを待っていた。
ほんの少しの知り合いに会うと、誰を待っているのか聞かれたが、笑ってごまかしていた。
「先生。」
奏が出てきた。
「待ってるなら、連絡をくれれば良かったのに。」
「先生、ちょっと来て。」
早和は奏の手を掴んでタクシーに乗った。
「どこへ行くの?」
「内緒。」
「咲子さん、こんばんは。」
「早和、待ってたよ。」
「澤口先生。」
早和が奏を紹介した。
「こんばんは。叔母の咲子です。」
「咲子さん、先生の髪、切ってあげて。」
咲子は奏を鏡の前に座らせた。
「先生、早和と同じで厚い髪だね。」
「そうですか?」
「クセがついたら、なかなか治らないでしょう。」
「そうですね。」
「早和もそうよ。それに、無頓着だから、気にしないで学校へ行っちゃう。だから、クセがつかないように、カットするの。」
「わかってる人がいると、いいですね。」
「先生、渦巻きがみっつもあるのね。」
「父もそうです。」
「これなら、クセが付きやすいわね。」
「それに、寝相も悪いから。」
早和は家の方に入っていった。
咲子は厚い奏の髪に、サラサラとハサミを入れていく。
「私はね、子供がいないの。できないってわかった時、兄に早和をほしいってお願いに行ったの。いろんな方法も考えたけど、早和がどうしてもほしくてね。犬や猫じゃあるまいしって思われるかもしれないけど、子供が欲しいっていう気持ちは、理屈じゃないよの。」
「男の自分には、そういう気持ちがわからない理解できない時もあります。」
「先生は、正直ね。」
「妊娠も出産も子育ても辛い思いをするのは、女の人ですからね。男の人がちゃんも支えてくれたら、どんな時だって、2人だけでも幸せでいれると思いますけど。」
「そうね。」
「咲子さんは、早和がほしかったんですか?早和には他にも兄弟がいるし、さっきも言ってましたけど、いろんな方法があったのだろうし。」
「先生の言うように、私は早和がほしかったのよ。赤ちゃんだった早和を抱っこした時にね、早和はちょっと笑ったの。母親になれない自分が情けなくて、やけになってた頃だったし、子供が普通に産める柊子さんが羨ましくってね。このまま、早和を床に落としてやりたいと思って抱いたわ。そしたら、早和は笑ってるのよ。生まれて少ししか経たないのに、世の中の何が面白くて笑っているのかなって思った。その時、急にこの子を守りたいって思ってね。母性なんて私にはないはずなのに、母親ってこんな気持ちなんだって感じたの。兄さんは、早和を養女にくれなかったけど、早和が中学に入ってから、一緒に住むようにしてくれて、夫とよく、白黒だった日常に、色がついたみたいだねって話してた。そんな夫も、去年脳出血で亡くなって。早和は最後まで、棺から離れなかったのよ。」
「そうだったんですか。」
「先生、色がついてる時なんて、あっという間よ。それに気が付かない人のほうが、この頃多いけど。」
早和が家の方からやってきた。
「先生、ご飯食べていこうよ。咲子さん、おでん作ってくれていたよ。」
「先生、食べていってください。朝から楽しみにして作っていたのよ。」
咲子が言った。
「咲子さん、早和は偏食が多いですか?」
「そんな事ない、なんでも食べますよ。」
「そうですか?」
「早和が病気になってから、柊子さんも母さんもすごく食事に気を使ってたけど、あの子はそれを素直を受け入れられなかったのよね。先生はなんでも食べますか?」
「なんでも食べますよ。」
いつもと違う感じになった奏を見て、
「先生、すごくいい男になって、みんなびっくりするね。」
早和はそう言った。
「咲子さん、ありがとうございます。」
「どういたしまして。先生、伸びたらまたいらっしゃい。」
「咲子さん、早く食べよう。」
早和がおでんからいくつか具を取ると、叔父の仏壇へそれを持って向かった。
「先生、早和をもらってください。」
咲子が小さな声で言った。
「もちろんです。」
奏は咲子にそう言った。
「何?」
早和が席につく。
「なんでもないよ。」
奏と咲子は目を合わせて笑った。
咲子の家を後にすると、電車を乗り継いで、2人は奏の家に向かった。
「遅くなったね。明日も学校だろう。早く寝ないと。」
奏が言った。
「先生、すごく素敵になった。」
早和は奏を見上げた。
「寝坊しても、もう寝癖はつかないよ。」
そう言って髪を触った。
「外来の師長、けっこう厳しくてね。」
「先生が、ぎりぎりにくるからでしょう。それにお母さん達って、みんなキレイにしてるから、先生がだらしないと、信用しない。」
「昔、長岡先生が、まだ小児科の外来をしていた時、子供が熱を出しているのに化粧をしてやってくる母親を怒っていた事があってね。そんな暇があるんなら、子供を見なさいってきつく言っててさ。」
「長岡先生、そんな時もあったんだ。」
「早和だって、よく怒られたていただろう。なかなか赤ちゃんを触れなくてさ。」
「そうだね。触ると赤ちゃんが壊れるんじゃないかって、初めはすごく怖かった。」
「だけど、赤ちゃんは、みんな触ってほしいって待ってるだろう?大人だってそうさ。」
「ねえ、先生。」
「何?」
早和は言いづらそうに奏の手を握った。
「何?」
「あのね。」
奏は早和の背中を抱き寄せると
「一緒に暮らそうか。」
そう言って早和の背中を包んだ。
冬の始まりに運んできた風は、冷たい空気の中に、少しだけ、頬を撫でるような優しさを連れてきた。
暖かくなった部屋の中では、もう上着はいらないね。
先生。
永遠なんて、本当にあるのかわからないけど、そんな事を求めなくても、一緒にいる時間はこんなにも尊いものだね。
明日、先生が私の事を嫌いになっても、こうして同じ時間を過した事は、ずっと忘れない。
もしかしたら、思い出のゴミに捨てられるもしれないけど、今はこれ以上ないくらい、先生と離れたくないって思えてくる。
どんなふうに伝えればいい?
どんな言葉で話せばいい?
「さっきから、ずいぶん、お喋りな背中だね。」
「そうかな。」
奏は早和をきつく抱きしめた。
終。
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それは甘いキスの誘惑…。
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