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11章
秋が思い出したもの
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病院を退院した早和は、隣接する大学の銀杏並木を歩いていた。
学生の頃も、看護師になってからも、いつも通っていたはずの景色だったけれど、心が別の所にあると、こんな鮮やかな黄色が広がっていたのに、目に入らなかった。
点滴がとれ、体が軽くなり、少しだけ気持ちに余裕ができたのか、大好きな人に、この景色を届けたいと、携帯を向けてみる。
「一番いい場所を教えようか?」
早和は男性に声を掛けられた。
「ここより、いい場所ってあるの?」
「あるよ。こっち。」
男性は早和の手を掴むと、大学の階段を駆け上がった。
「ほら。」
大学の6階にある教室から窓を見ると、木のてっぺんが、一列に並んでいるのが見えた。黄色いジュータンは、風に吹かれて時々舞い上がる。
「風の行方まで、はっきり見える。」
早和は窓に顔を近づけた。
「どこの学部?」
男性が言った。
「私はここの卒業生。卒業して、もう4年になるよ。」
「そうなの?てっきり学生かと思った。」
「あなたは?」
「俺は6年の薬学部。」
「そっか。あとで少し卒業だね。」
「卒業するまで、8年もかかったよ。」
男性は笑った。
「大学は楽しかった?」
「どうだろう。今になれば、別の道もあったのかなって思えてくる。」
「そうだね。気持ちなんて、いつも変わるから。」
早和は窓に手を置いた。
「ねえ、写真とらないの?」
「とったよ、ほら。」
早和は木から落ちてきた、一枚の葉をとっていた。
「これだけ?」
「そう。」
「たくさん木も葉もあるのに、この一枚だけ、写したんだ。」
「ちょうど私の頭に、この葉が落ちてきたからね。」
「ここに連れてきたりして、迷惑だった?」
「ううん。ここの景色、絶対忘れない。大好きな人になんて言葉で伝えればいいか、ゆっくり考えながら、家に帰る。」
「変わった人だね。写メしたら、言葉なんていらないのに。」
「あなたは写真にとったの?」
「毎年ここからとってるよ。ほら。」
男性は早和に携帯を見せた。
「今年は好きな人に見せようと思って、何枚もとったんだ。だけど、どうしても本物を見せたくて、朝からあの場所で、その人が通らないか待ってたところ。」
「そっか。その人、もうすぐ通るといいね。」
大学の玄関を出て、横断歩道の前にいると、奏がやってきた。
「早和。」
「先生。」
「病棟に行ったら、もう退院したっていうから。」
「大学の銀杏並木を見てたの。親切な学生さんが、6階の教室に案内してくれて。」
「どんな景色だった?」
「風が見えた。」
「風が?」
「そう。」
奏は早和の荷物を持つと、手を繋いだ。
「恥ずかしいよ、先生。」
奏は早和を見て微笑んだ。
「今日は家においでよ。弟の命日なんだ。」
「行かないよ。」
早和は奏の手を離そうとした。
「一緒に来てくれるだけでいいよ。お線香あげたら、俺も帰るから。」
「先生はちゃんと、お話ししてきてよ。お父さんやお母さん、待ってただろうし。」
「俺は早和と話しがしたいんだよ。今日は家までちゃんと送るから、その間にたくさん話しをしようよ。」
「先生は何の話しがしたいの?」
「何の話しがいい?」
「これじゃあ、いつまで経っても始まらないね。」
2人は少し混み合った電車に乗った。
「何個目の駅?」
「4つ目だよ。」
「先生は電車で大学に通ってたの?」
「そうだよ。」
「早和は?」
「私は一人暮らし。」
「そうだったね。ひどい食生活してて、病院で怒られてたね。」
「あの時の先生、すごく怖かった。食事指導した栄養士さんも、すごく怒ってた。」
「新人の時も、ひどい食生活だったよね。指導を受けた人とは思えない。」
駅を出ると、奏の家まで、歩いていった。
少し寒い風が時々吹くと、奏は早和の体に近づいた。
「先生、光くんは、ちくわばっかり食べてても、ちくわ食べれるから、いいよって、お母さんや先生達はそう言うの。バランスよくとか、栄養がどうのとか、育ち盛りの子供に伝えるのが、大人なのに。」
「好きなものが一番のご馳走だよ。早和がいる学校は、良い先生がたくさんいるんだね。」
「そうだね。」
「早和が入院した日、原田先生と少し話したんだ。」
「私、原田先生に、悪い事しちゃった。」
早和は少し下を向いた。
「俺に会いたくないから、原田先生の家に行こうとしてたんでしょう?」
「そう。」
「病院でも言う事聞かないし、こんな人とは思わなかったって、びっくりしてたよ。」
「やっぱり、そっか。」
「退院したら、また一緒に働こうって言ってたよ。看護師に戻りたいって言い出したら困るって。」
「本当に?」
「本当。」
「でも、なんとなく、会いづらいな。」
「いい人でいる必要なんかないよ。原田先生の前では、なんでも言えるだろう、気の強い早和を見せたんだから。」
「そうかな。」
「俺なんて、どんだけ早和にひどい事されてるか。いい人だなんて、思ってないよ。」
「ごめん。」
「早和、ちゃんと電話に出てよ。」
「そうだね。」
早和は携帯を出した。
「先生見て。まーちゃん、いつも保健室に色んな物を持ってくるの。」
「本当だ。子供の目線って、羨ましいな。大人が気づかない物がたくさん見える。」
「ヘビはないよ。写メとるの、忘れたから。」
「そんな余裕なんてないだろう。生きてたんだろう、そのヘビ。」
「そう。まーちゃんはしっぽを持っててね、」
「ヘビにしっぽってあるの?」
「じゃあ、後ろはなんていうの?」
「しっぽなのかなぁ。」
「そうでしょう?」
2人は顔を見合わせて笑った。
「ただいま。」
「あら、奏。今年も来ないかと思ってた。」
奏の母、依子《よりこ》が出てきた。
「お父さん、奏がきたよ。」
父の功《いさお》も玄関に出てきた。
「こんにちは。」
早和が奏の後ろから挨拶をした。
「線香あげたら、すぐに帰るから。」
奏が言った。
「ゆっくりしていってよ。久しぶりになんだし。あがって。」
依子が2人を案内した。
奏の家は、なんとなくぎこちない。
弟が突然亡くなって、両親とどう接していいか悩んだと、奏が言っていた。家族の中で、いつも気を使っている奏が、目に浮かんだ。
「奏、晩ごはん食べていかない?」
「もう、帰るよ。」
早和が奏の背中をポンと叩いた。
「何?」
奏は早和の指を指す方を見た。
「あっ、これ。母の日に奏がくれたの。煌が死んだ次の年よね。」
依子がそう言った。
「すごいトゲでしょう。こんなに人を寄せ付けないのに、話せば言葉がわかるようになるからって、奏が花屋さんから聞いてきてね。忘れた時に水をあげてたら、ずっと枯れないでここにあるの。」
「お母さん、時々、話しかけてるませんか?」
早和が言った。
「わかるかい?母さんは時々、サボテンと話してるんだ。」
功が言った。
「奏、彼女の名前くらい教えてくれてもいいだろう。せっかく来てくれたのに、お茶くらい飲んでいけよ。」
奏は早和をソファへ案内した。
「冷たいのがいい?」
依子が早和に聞いた。
「温かい方をもらおうか。」
奏が言った。
「名前は?」
依子が早和に聞く。
「秋元早和です。」
「いくつ?」
「26です。」
「奏と同じ病院にいるの?」
「いいえ、私は学校に勤めています。」
「じゃあ、先生?」
「はい。」
「奏は何も教えてくれなかったのよ。彼女がいたなんて、知らなかった。」
「母さん、早くお茶くれない?」
奏は話しを遮った。
「早和さん、ケーキ食べるかい?」
功が言った。
「はい。」
「じゃあ、コーヒーいれるから、手伝って。」
依子は早和を呼んだ。
「奏、今日は泊まっていけよ。母さん、ずっと待ってたんだから。」
「帰るよ。早和は退院したばかりなんだ。」
「どこか悪かったのか?」
「風邪をこじらせたんだよ。無理言って家についてきてもらったんだから、もう帰るよ。」
「結婚するのか?」
「まだわからないよ。挨拶したから、もういいだろう。ちゃんと筋は通したから。」
「早和さん、そこにカップがあるから。」
「これですか?」
「そう。私達は紅茶にしようか。」
「はい。」
「ケーキどれにする?」
早和はケーキの箱を覗いた。
「たくさんあるんですね。」
「奏の弟が検査に行く前の日、奏が貰い物のケーキを一人で食べちゃったのよ。弟と喧嘩になってね。あんまり、拗ねるから検査が終わったら買ってあげるって約束したんだけど、今思えば、どうして食べたいって言った時に、食べさせてあげなかったんだろうっ悔しいの。それに、奏はその日からケーキを食べなくなったし。毎年、仲直りのケーキを買って待っているのに、ぜんぜん帰って来なかった。」
「先生は、なんのケーキを食べちゃったんですか?」
「早和さん、奏の事、先生って言ってるの?」
「ずっと、先生って呼んでます。会った時から、先生だったから。」
「早和さんだって、先生でしょう?」
「そうでした。」
依子は笑った。
「奏、なんのケーキを食べたんだろうね。もう思い出せない。」
3人は静かにケーキを食べている。
奏は食べなかった。
早和の家には、お喋りな妹がいたから、食事の時は賑やかだった。話しをしようとしないのは、早和1人だった。両親のとぎくしゃくした関係は、ひとつ掛け間違ったボタンに、なかなか気がつかないだけだったのに。
今でもお互いに、気を使いながら会話をする仲だけれども、両親が自分を家族として認めていた事を知った今は、少し話してみようって気持ちになる。
誰にでも優しいはずの奏は、張り詰めた空気の中で息を吸い込めないでいるようだ。
「先生。」
「何?」
「先生の分、食べてもいい?」
早和は奏に言った。
「気持ち悪いのは治ったのかい?」
奏はいつもの優しい声で答えた。
「とっくに治ったよ。先生、私のケーキ食べたでしょう。早紀が持ってきてくれたケーキ。」
「あれは、早和がいらないって言ったんだろう。」
「あとで食べようと思ってたのに。」
「本当に、勝手だな。」
「だから、これちょうだい。」
「あげないよ。」
「だって、いつまでも食べないから。」
「早和さん、同じものもう一つあるわよ。奏も早く食べなさい。そのうち喧嘩になりそう。」
奏はケーキを食べた。
「先生のほうが大きい気がする。」
「そんな事ないよ。職人さんは、そんな適当な事しないって。」
「そうかな。」
「奏、早和さん、鍋作るから、食べていって。」
依子が言った。
「帰るよ、母さん。」
「先生、私、鍋が食べたい。病院のご飯、ぜんぜんおいしくなかったから。」
「奏。やっぱり泊まっていけよ。」
功がそう言うと、奏は早和を見た。
「先生、泊まっていこうよ。」
夕食の支度をしている台所から、早和と依子の笑い声が聞こえる。
あんなに笑う子だったかな、奏は思っていた。
「早和、着替えどうする? 」
「あるよ。早紀が持ってきてくれたものが袋にはいってる。」
「奏、聞いて。早和さんの生徒さん、お腹が痛いって頭を押さえてくるんだって。奏も小児科にいるんでしょう?子供って、宇宙人みたいだよね。」
「お母さん、先生はすごいんですよ。魔法の手を持ってますから。」
「早和さんは、その魔法にかかったの?」
「どうかなぁ。私は大人ですからね。」
「奏、飲むだろう。」
功がビールを買ってきた。
「あの子は、教師って言ったっけ?」
「そう。」
「何を教えてるんだ?」
「養護教諭だよ。養護学校のね。少し前まで、同じ病院で、看護師として働いてた。」
「奏は、どんな子と結婚するのかって思っていたよ。」
「結婚はまだ考えてないよ。あんまり背負わせると、辛くなるだろう。」
「奏にも、たくさん背負わせたな。煌の分も、みんな奏に背負わせた。」
「父さんや母さんだって、あの時はそれが精一杯だったんだし。」
「医者になんてならなくても良かったんだぞ。奏は他にやりたい事があったんじゃないのか?」
「今は医者になって良かったと思ってる。先生って呼ばれるの、けっこう気に入ってるから。」
少しだけお酒を飲んだ奏は、いつもならしないおかわりをしていた。
依子が美味しいのかと聞いても返事をしない功を見て、
「お母さん、私、こっちの耳、聞こえないんです。」
早和が依子に言った。
「あら、ここの男の人達もずっと聞こえないフリ。」
早和は笑った。
「話しを聞いてくれるのは、あのサボテンだけ。」
早和と依子は、大して面白くない話しをしても、ずっと2人で笑っていた。
お風呂から上がった奏は、部屋で早和が来るのを待っていた。
寒いと思ったら、雪がチラチラと降っている。秋の初めの小粒な雪は、朝には何も残ってはいないだろう。
夜のアスファルトにキラキラと輝る小さな雫は、まるでこぼれた宝石のようだった。
早和。
初めてNICUに来た日。
なかなか赤ちゃんに近づけなくて、師長や長岡先生にずいぶんと怒られていたね。
いつの間にか、普通に笑う事も、普通に泣く事も、心の底にしまって鍵を掛けた。
大きなマスクは鎧のように、早和の感情を隠したね。
早和を見た時、この人はきっと、俺の荷物をおろしてくれるはずだと思った。俺だけじゃなくて、いろんな人の荷物もおろしてくれているんだ。
今度は早和の荷物を下ろす番。
学生の頃も、看護師になってからも、いつも通っていたはずの景色だったけれど、心が別の所にあると、こんな鮮やかな黄色が広がっていたのに、目に入らなかった。
点滴がとれ、体が軽くなり、少しだけ気持ちに余裕ができたのか、大好きな人に、この景色を届けたいと、携帯を向けてみる。
「一番いい場所を教えようか?」
早和は男性に声を掛けられた。
「ここより、いい場所ってあるの?」
「あるよ。こっち。」
男性は早和の手を掴むと、大学の階段を駆け上がった。
「ほら。」
大学の6階にある教室から窓を見ると、木のてっぺんが、一列に並んでいるのが見えた。黄色いジュータンは、風に吹かれて時々舞い上がる。
「風の行方まで、はっきり見える。」
早和は窓に顔を近づけた。
「どこの学部?」
男性が言った。
「私はここの卒業生。卒業して、もう4年になるよ。」
「そうなの?てっきり学生かと思った。」
「あなたは?」
「俺は6年の薬学部。」
「そっか。あとで少し卒業だね。」
「卒業するまで、8年もかかったよ。」
男性は笑った。
「大学は楽しかった?」
「どうだろう。今になれば、別の道もあったのかなって思えてくる。」
「そうだね。気持ちなんて、いつも変わるから。」
早和は窓に手を置いた。
「ねえ、写真とらないの?」
「とったよ、ほら。」
早和は木から落ちてきた、一枚の葉をとっていた。
「これだけ?」
「そう。」
「たくさん木も葉もあるのに、この一枚だけ、写したんだ。」
「ちょうど私の頭に、この葉が落ちてきたからね。」
「ここに連れてきたりして、迷惑だった?」
「ううん。ここの景色、絶対忘れない。大好きな人になんて言葉で伝えればいいか、ゆっくり考えながら、家に帰る。」
「変わった人だね。写メしたら、言葉なんていらないのに。」
「あなたは写真にとったの?」
「毎年ここからとってるよ。ほら。」
男性は早和に携帯を見せた。
「今年は好きな人に見せようと思って、何枚もとったんだ。だけど、どうしても本物を見せたくて、朝からあの場所で、その人が通らないか待ってたところ。」
「そっか。その人、もうすぐ通るといいね。」
大学の玄関を出て、横断歩道の前にいると、奏がやってきた。
「早和。」
「先生。」
「病棟に行ったら、もう退院したっていうから。」
「大学の銀杏並木を見てたの。親切な学生さんが、6階の教室に案内してくれて。」
「どんな景色だった?」
「風が見えた。」
「風が?」
「そう。」
奏は早和の荷物を持つと、手を繋いだ。
「恥ずかしいよ、先生。」
奏は早和を見て微笑んだ。
「今日は家においでよ。弟の命日なんだ。」
「行かないよ。」
早和は奏の手を離そうとした。
「一緒に来てくれるだけでいいよ。お線香あげたら、俺も帰るから。」
「先生はちゃんと、お話ししてきてよ。お父さんやお母さん、待ってただろうし。」
「俺は早和と話しがしたいんだよ。今日は家までちゃんと送るから、その間にたくさん話しをしようよ。」
「先生は何の話しがしたいの?」
「何の話しがいい?」
「これじゃあ、いつまで経っても始まらないね。」
2人は少し混み合った電車に乗った。
「何個目の駅?」
「4つ目だよ。」
「先生は電車で大学に通ってたの?」
「そうだよ。」
「早和は?」
「私は一人暮らし。」
「そうだったね。ひどい食生活してて、病院で怒られてたね。」
「あの時の先生、すごく怖かった。食事指導した栄養士さんも、すごく怒ってた。」
「新人の時も、ひどい食生活だったよね。指導を受けた人とは思えない。」
駅を出ると、奏の家まで、歩いていった。
少し寒い風が時々吹くと、奏は早和の体に近づいた。
「先生、光くんは、ちくわばっかり食べてても、ちくわ食べれるから、いいよって、お母さんや先生達はそう言うの。バランスよくとか、栄養がどうのとか、育ち盛りの子供に伝えるのが、大人なのに。」
「好きなものが一番のご馳走だよ。早和がいる学校は、良い先生がたくさんいるんだね。」
「そうだね。」
「早和が入院した日、原田先生と少し話したんだ。」
「私、原田先生に、悪い事しちゃった。」
早和は少し下を向いた。
「俺に会いたくないから、原田先生の家に行こうとしてたんでしょう?」
「そう。」
「病院でも言う事聞かないし、こんな人とは思わなかったって、びっくりしてたよ。」
「やっぱり、そっか。」
「退院したら、また一緒に働こうって言ってたよ。看護師に戻りたいって言い出したら困るって。」
「本当に?」
「本当。」
「でも、なんとなく、会いづらいな。」
「いい人でいる必要なんかないよ。原田先生の前では、なんでも言えるだろう、気の強い早和を見せたんだから。」
「そうかな。」
「俺なんて、どんだけ早和にひどい事されてるか。いい人だなんて、思ってないよ。」
「ごめん。」
「早和、ちゃんと電話に出てよ。」
「そうだね。」
早和は携帯を出した。
「先生見て。まーちゃん、いつも保健室に色んな物を持ってくるの。」
「本当だ。子供の目線って、羨ましいな。大人が気づかない物がたくさん見える。」
「ヘビはないよ。写メとるの、忘れたから。」
「そんな余裕なんてないだろう。生きてたんだろう、そのヘビ。」
「そう。まーちゃんはしっぽを持っててね、」
「ヘビにしっぽってあるの?」
「じゃあ、後ろはなんていうの?」
「しっぽなのかなぁ。」
「そうでしょう?」
2人は顔を見合わせて笑った。
「ただいま。」
「あら、奏。今年も来ないかと思ってた。」
奏の母、依子《よりこ》が出てきた。
「お父さん、奏がきたよ。」
父の功《いさお》も玄関に出てきた。
「こんにちは。」
早和が奏の後ろから挨拶をした。
「線香あげたら、すぐに帰るから。」
奏が言った。
「ゆっくりしていってよ。久しぶりになんだし。あがって。」
依子が2人を案内した。
奏の家は、なんとなくぎこちない。
弟が突然亡くなって、両親とどう接していいか悩んだと、奏が言っていた。家族の中で、いつも気を使っている奏が、目に浮かんだ。
「奏、晩ごはん食べていかない?」
「もう、帰るよ。」
早和が奏の背中をポンと叩いた。
「何?」
奏は早和の指を指す方を見た。
「あっ、これ。母の日に奏がくれたの。煌が死んだ次の年よね。」
依子がそう言った。
「すごいトゲでしょう。こんなに人を寄せ付けないのに、話せば言葉がわかるようになるからって、奏が花屋さんから聞いてきてね。忘れた時に水をあげてたら、ずっと枯れないでここにあるの。」
「お母さん、時々、話しかけてるませんか?」
早和が言った。
「わかるかい?母さんは時々、サボテンと話してるんだ。」
功が言った。
「奏、彼女の名前くらい教えてくれてもいいだろう。せっかく来てくれたのに、お茶くらい飲んでいけよ。」
奏は早和をソファへ案内した。
「冷たいのがいい?」
依子が早和に聞いた。
「温かい方をもらおうか。」
奏が言った。
「名前は?」
依子が早和に聞く。
「秋元早和です。」
「いくつ?」
「26です。」
「奏と同じ病院にいるの?」
「いいえ、私は学校に勤めています。」
「じゃあ、先生?」
「はい。」
「奏は何も教えてくれなかったのよ。彼女がいたなんて、知らなかった。」
「母さん、早くお茶くれない?」
奏は話しを遮った。
「早和さん、ケーキ食べるかい?」
功が言った。
「はい。」
「じゃあ、コーヒーいれるから、手伝って。」
依子は早和を呼んだ。
「奏、今日は泊まっていけよ。母さん、ずっと待ってたんだから。」
「帰るよ。早和は退院したばかりなんだ。」
「どこか悪かったのか?」
「風邪をこじらせたんだよ。無理言って家についてきてもらったんだから、もう帰るよ。」
「結婚するのか?」
「まだわからないよ。挨拶したから、もういいだろう。ちゃんと筋は通したから。」
「早和さん、そこにカップがあるから。」
「これですか?」
「そう。私達は紅茶にしようか。」
「はい。」
「ケーキどれにする?」
早和はケーキの箱を覗いた。
「たくさんあるんですね。」
「奏の弟が検査に行く前の日、奏が貰い物のケーキを一人で食べちゃったのよ。弟と喧嘩になってね。あんまり、拗ねるから検査が終わったら買ってあげるって約束したんだけど、今思えば、どうして食べたいって言った時に、食べさせてあげなかったんだろうっ悔しいの。それに、奏はその日からケーキを食べなくなったし。毎年、仲直りのケーキを買って待っているのに、ぜんぜん帰って来なかった。」
「先生は、なんのケーキを食べちゃったんですか?」
「早和さん、奏の事、先生って言ってるの?」
「ずっと、先生って呼んでます。会った時から、先生だったから。」
「早和さんだって、先生でしょう?」
「そうでした。」
依子は笑った。
「奏、なんのケーキを食べたんだろうね。もう思い出せない。」
3人は静かにケーキを食べている。
奏は食べなかった。
早和の家には、お喋りな妹がいたから、食事の時は賑やかだった。話しをしようとしないのは、早和1人だった。両親のとぎくしゃくした関係は、ひとつ掛け間違ったボタンに、なかなか気がつかないだけだったのに。
今でもお互いに、気を使いながら会話をする仲だけれども、両親が自分を家族として認めていた事を知った今は、少し話してみようって気持ちになる。
誰にでも優しいはずの奏は、張り詰めた空気の中で息を吸い込めないでいるようだ。
「先生。」
「何?」
「先生の分、食べてもいい?」
早和は奏に言った。
「気持ち悪いのは治ったのかい?」
奏はいつもの優しい声で答えた。
「とっくに治ったよ。先生、私のケーキ食べたでしょう。早紀が持ってきてくれたケーキ。」
「あれは、早和がいらないって言ったんだろう。」
「あとで食べようと思ってたのに。」
「本当に、勝手だな。」
「だから、これちょうだい。」
「あげないよ。」
「だって、いつまでも食べないから。」
「早和さん、同じものもう一つあるわよ。奏も早く食べなさい。そのうち喧嘩になりそう。」
奏はケーキを食べた。
「先生のほうが大きい気がする。」
「そんな事ないよ。職人さんは、そんな適当な事しないって。」
「そうかな。」
「奏、早和さん、鍋作るから、食べていって。」
依子が言った。
「帰るよ、母さん。」
「先生、私、鍋が食べたい。病院のご飯、ぜんぜんおいしくなかったから。」
「奏。やっぱり泊まっていけよ。」
功がそう言うと、奏は早和を見た。
「先生、泊まっていこうよ。」
夕食の支度をしている台所から、早和と依子の笑い声が聞こえる。
あんなに笑う子だったかな、奏は思っていた。
「早和、着替えどうする? 」
「あるよ。早紀が持ってきてくれたものが袋にはいってる。」
「奏、聞いて。早和さんの生徒さん、お腹が痛いって頭を押さえてくるんだって。奏も小児科にいるんでしょう?子供って、宇宙人みたいだよね。」
「お母さん、先生はすごいんですよ。魔法の手を持ってますから。」
「早和さんは、その魔法にかかったの?」
「どうかなぁ。私は大人ですからね。」
「奏、飲むだろう。」
功がビールを買ってきた。
「あの子は、教師って言ったっけ?」
「そう。」
「何を教えてるんだ?」
「養護教諭だよ。養護学校のね。少し前まで、同じ病院で、看護師として働いてた。」
「奏は、どんな子と結婚するのかって思っていたよ。」
「結婚はまだ考えてないよ。あんまり背負わせると、辛くなるだろう。」
「奏にも、たくさん背負わせたな。煌の分も、みんな奏に背負わせた。」
「父さんや母さんだって、あの時はそれが精一杯だったんだし。」
「医者になんてならなくても良かったんだぞ。奏は他にやりたい事があったんじゃないのか?」
「今は医者になって良かったと思ってる。先生って呼ばれるの、けっこう気に入ってるから。」
少しだけお酒を飲んだ奏は、いつもならしないおかわりをしていた。
依子が美味しいのかと聞いても返事をしない功を見て、
「お母さん、私、こっちの耳、聞こえないんです。」
早和が依子に言った。
「あら、ここの男の人達もずっと聞こえないフリ。」
早和は笑った。
「話しを聞いてくれるのは、あのサボテンだけ。」
早和と依子は、大して面白くない話しをしても、ずっと2人で笑っていた。
お風呂から上がった奏は、部屋で早和が来るのを待っていた。
寒いと思ったら、雪がチラチラと降っている。秋の初めの小粒な雪は、朝には何も残ってはいないだろう。
夜のアスファルトにキラキラと輝る小さな雫は、まるでこぼれた宝石のようだった。
早和。
初めてNICUに来た日。
なかなか赤ちゃんに近づけなくて、師長や長岡先生にずいぶんと怒られていたね。
いつの間にか、普通に笑う事も、普通に泣く事も、心の底にしまって鍵を掛けた。
大きなマスクは鎧のように、早和の感情を隠したね。
早和を見た時、この人はきっと、俺の荷物をおろしてくれるはずだと思った。俺だけじゃなくて、いろんな人の荷物もおろしてくれているんだ。
今度は早和の荷物を下ろす番。
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